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1巻
1-2
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「君は、これをどこで手に入れた?」
「僕の母国月鈴国で、紹介状として頂きました」
「紹介状? 宛名と差出人がどういう人物かは、知っているのか?」
「差出人の名は、口にするのが憚られる御方です。お相手の方は、まったく存じません」
「そうか」
峰風が真っ先に確認をしたのは、この書簡の持ち主が間違いなくこの少年かどうかだった。
「実は、昨日と今朝も宮殿まで行ったのですが、門番に門前払いをされてしまいました」
それはそうだろうなと、峰風は思う。この人物への面会など、宮廷に出仕する官吏でも簡単ではない。
峰風の記憶が確かなら、差出人である花押の人物はやんごとない身分の御方。上質の紙に書かれていること、少年の言葉からも、それは間違いないようだった。
しかし、見るからに平民である少年が持っていることに多少の疑問が残る。
この書簡が本物だと、ここで断定することはできなかった。
「事情は理解した。であれば、俺が取り次ごう。今から宮殿へ行くぞ」
峰風は、宛名の人物に判断を仰ぐことを決めた。
「えっ、今からですか!?」
「何か、不都合なことでもあるのか?」
「ここまで同行させてもらった商会のご主人へ、挨拶をしたいです。荷物もありますし」
「では、俺も一緒に行こう」
宛名の人物へ取り次ぐ前に、峰風は念には念を入れて子墨の身元を確認することにした。
出向いた店は規模が大きく、月鈴国の宮廷出入りの大店とのこと。
峰風は店の主人へ自身の身元を明かし、自分が責任を持って子墨を預かると約束をする。
こうして、子墨こと凛月は宮殿へ向かうことになったのだった。
◇◇◇
峰風と同じ馬車に乗せてもらった凛月は、窓から都の景色を眺めていた。
月鈴国に居たときは自由に外出ができなかったこともあり、異国の都の風景や様式の異なる建物などが物珍しく興味をひかれる。
市場でも、目に付いた美味しそうな食べ物をついつい買い食いしてしまったほどだ。
「先ほどから熱心に外を見ているが、あちらの都とそう大差はないだろう?」
「いいえ。こちらの都のほうが、賑わっていると思います」
これは、お世辞ではなく凛月の本心だ。
月鈴国の都より明らかに街中に人が多く、とても活気がある。
機会があれば、都内の名所なども見て回りたい。
「そ、そうか」
向かい側に座る峰風は、少し誇らしげに微笑んだ。それに、ちょっと嬉しそうにも見える。
凛月よりも年上の峰風は、キリっとした精悍な顔つきをした大人の男性だ。
それなのに、静かに喜んでいる様が可愛らしいなと思ったことは凛月だけの秘密。
大市場の会場から宮殿までは、馬車での移動ならあっという間だった。
凛月が二日連続で門前払いをくらった門も、峰風が帯に付けた佩玉(帯飾り)を門番に見せるだけであっさりと通行の許可が下りる。
商会の店主からは、峰風は高位の官吏だと聞いた。
市場で大勢の衛兵を指揮していたのだから、凛月はそこで気付くべきだった。
何も考えず気安くものを尋ねてしまい、結果こうして面倒をかけている。
しかし、平民の凛月に対し峰風が気分を害している様子はない。
(お育ちの良い、良家のご子息様なのかな?)
自分が本当は女であることを峰風へ打ち明けるかどうか迷っているうちに、宮殿に着いてしまった。
「行くぞ」と促されるまま馬車を降り、峰風の後ろをついて行く。
周りは官服を着た文官や武官、官女ばかりで、平民服の凛月はかなり目立っている。
頭一つ背の高い峰風の陰に隠れるようにして、凛月は歩いていった。
「こちらで、少し待っていてくれ」
大きな建物の応接室に凛月を案内した峰風は、書簡を手にすぐ部屋を出て行く。
入り口の扉の前には、厳めしい顔をした武官が立った。
室内には艶やかな色彩を放つ壺が置かれ、趣のある掛け軸がかけられている。見るからに価値がありそうな物だ。
異国の文化に触れることができる貴重な機会。凛月としては、待っている間にぜひとも間近で鑑賞したい。
しかし、武官の鋭い視線を全身に感じ席を立つことができない。
結局、凛月はおとなしく椅子に座ったままじっとしていた。
一時ほど待たされたところで部屋に入って来たのは、官服を着た中年の男性。後ろには峰風もいる。
男性は凛月を見て笑みを浮かべると、峰風と武官に下がるように命じた。
「よろしいのですか? 護衛官だけは残されたほうが……」
「問題はない。彼と少々込み入った話をするから、この部屋には誰も近づけぬように」
「かしこまりました」
凛月をちらりと見やってから部屋を出て行こうとする峰風へ、慌てて声をかける。
「峰風様、この度は大変お世話になり、ありがとうございました」
立ち上がり、深々と頭を下げ礼を述べる。
もし今日彼と出会っていなければ、凛月はこれからも毎日宮殿へ出かけては門前払いをくらっていただろう。
「俺も君に世話になったから、お互い様だ」
峰風たちが部屋を出て行くと、男性は「大変お待たせいたしました」と詫びたあと、懐から書簡を取り出した。
「さて、まずは大事な確認を。そのような恰好をされていますが、あなたは女子で間違いないですか?」
「はい。自衛のために男装をしておりますが、私は女です。峰風様には『子墨』と名乗りましたが、本当の名は『凛月』と申します」
峰風に名を聞かれ、とっさに出てきたのが商会の主人の子息の名だ。
子墨は『泰然自若な男の子』という意味があると、先ほど聞いた。
たしかに、旅立つ際に挨拶をした子息は、凛月とは違いその名の通り落ち着いた人物だった。
それなのに、自分に似合いの名だと言われ、本人に申し訳なさを感じてしまった。
「私は胡劉帆といいまして、この国では宰相を務めております」
「さ、宰相様……」
紹介してもらった人物が、まさかこんな大物だったとは。
どうりで、門番に取り次いでもらえないはずだ。
凛月の背中に、ひやりと見えない汗が流れた。
「彼の御方と私は、親戚関係にあるのです」
「そうでしたか」
「書簡によれば、この国で職を探されているとか。職種や条件など何かご希望があれば、教えていただきたい。あの方も、『ぜひ、よしなに』と仰っていますので」
皇太后は、そこまで書いてくれていたようだ。
心の中で感謝をしつつ、凛月は自分の希望を述べる。
「できましたら、植物に関係した仕事に就きたいです。作物の栽培とか、庭園の管理などです。あと、住み込みで働けるところであれば有り難いです」
凛月は八歳のときに孤児院から宮廷に引き取られたため、世間一般的な暮らしの経験がない。
自身の身の回りのことや家事などはできるが、生活をしていく上での手続きなどの一般常識が抜けている。
ここは他国なので、生活に慣れるまでは住み込みで働かせてもらいたい。
「そういえば、豊穣の巫女様はあらゆる植物を掌る豊穣神様の化身と言われておりますな。ですから、植物に関係した仕事を希望されるのですね」
「いえ、特にそういうわけでは。それに、私は巫女ではなくただの巫女見習いです。見目も、他の巫女見習いとは異なっておりますし」
「それでも、豊穣神様から加護を受けられたことに違いはございません」
宰相は、凛月の左手に視線を向ける。
「噂には聞いておりましたが、本当に『麦の穂』のような形をしているのですな」
「宰相様は、『証』をご存知でしたか」
「はい。部屋に入ってすぐに、左手を確認させていただきました」
(なるほど)
だから、書簡も凛月も偽物だと疑われず、話がすんなりと通ったのだと納得。
「ご希望を伺った上で、ぜひこちらからお願いしたい職がございます」
「それは、どのようなものでしょうか?」
「凛月様は、『後宮妃』と『宦官』になるおつもりはありませんか?」
「……はい?」
宰相の口から飛び出したのは、びっくり仰天の提案だった。
面会から数日後、凛月は妃嬪の一人『欣怡妃』として後宮にひっそりと入内した。
顔を見られぬように頭から薄い布をすっぽりと被り、人目につく前にそそくさと宮に入る。
宰相の提案は、こうだった。
「私共は、凛月様の巫女としての力を求めております。この国は、まだまだ食料事情が安定しているとは言えません。ですので、あなたには月鈴国におられたときのように、豊穣神様へ祈りを捧げていただきたいのです」
「祈りを捧げる、ですか」
食料事情の安定は、国の安定にも繋がる。宰相が最優先に考えるのは、至極当然のことだった。
月鈴国では、これまで深刻な飢饉に陥ったことは一度もない。「やはり、豊穣神様のご加護があるからなのでしょう」と宰相は言う。
「妃嬪としてお願いしたい職務はそれだけですので、それ以外の時間は、凛月様のご希望通り後宮の庭園の管理の仕事をしていただけるよう手配いたします。ですが、庭園に関することは、掃除以外は女官ではなく宦官の担当でして」
庭木の剪定や草むしりなどはできても、伐採や穴を掘ったり土砂の運搬をしたりする力仕事は女では難しい。
そのため、最初から宦官の担当と決められている。
妃嬪の欣怡ではなく宦官の子墨として尚寝局に所属し、庭園管理の職務に従事するのはどうか? とのこと。
凛月の希望も踏まえての提案であることは理解できた。
しかし、宦官はともかく、なぜ巫女や女官ではなく後宮妃の必要があるのだろうか。
「女官では『祭祀』を行えないことが理由の一つ。それと、正式に巫女様としてお迎えした場合は、いずれ地方へも出向いていただくことになります」
月鈴国では巫女見習いが大勢居たため皆で交代して地方巡回を行っていたが、ここでは凛月一人しかいない。
つまり、他の仕事をする時間がなくなるということ。
「妃嬪であれば、特別な事情でもない限りそう簡単に後宮の外へは出られません。それに、凛月様専用の宮をご用意できます」
妃嬪と宦官に入れ替わるときに、相部屋では非常に都合が悪い。
持ち物や衣裳も、二種類必要だ。
「凛月様には、妃嬪の一人として『祭祀』の一部の職務をお願いしたいのです。具体的には、月に一度、五穀豊穣を祈念した奉納舞を舞っていただくことですね」
宰相によると、妃嬪たちにはその位によって果たすべき職務が定められているとのこと。
凛月に求められているのは巫女としての仕事だけなので、真っ先に言われたことは「皇帝陛下のお通りはありませんので、ご安心ください」だった。
どうやら、宰相は凛月と面会をする前に、皇帝へ話を通していたようだ。
他国の人間を後宮に入れるのだから、当たり前と言えば当たり前のことだが。
「ただ、もし凛月様が陛下の寵愛を求められるのであれば、正式に遇することも可能でございます」
「いえいえ、そんな滅相もございません! 平民の私ごときが、畏れ多いです」
「そんな、ご謙遜を。あなたほどの器量でしたら、まったく問題はございません。後ろ盾もしっかりしておりますし……」
お世辞だと思っていたが、宰相の目は意外と本気だった。
凛月はついと視線をそらし、ホホホと笑ってごまかした。
宰相から提示されたのは、正四品の『美人』という位。元孤児には高すぎる身分に、くらくらと眩暈がした。
もっと低い身分を! と言ってみたが、祭礼に携われるのは『美人』までであるとのこと。
正五品以下だと個々の宮を賜れないとのことで、凛月はやむなく了承するしかない。
「宮には、口が堅く信用のおける者を配置いたします。宦官としての仕事のほうも、ご心配には及びません。尚寝局の尚寝(長官)には、上手く便宜を図らせますゆえ」
「よろしくお願いいたします」
(宰相様の権力って、すごい!)
凛月は、今さらながら思ってしまった。
何から何まで至れり尽くせりで、正直怖いくらいだ。
こうして、凛月の『欣怡妃』としての生活が始まった。
欣怡は、ある属国の王の遠戚の娘で、皇帝へ献上されたことになっている。
もちろん、実在しない人物だ。
それなのに、こんな簡単に後宮に入内できるのが凛月は不思議だったが、自分の娘や親戚の女性を献上するのはよくある話とのこと。
現在、後宮には百名ほどの妃嬪がおり、皇帝の寵愛を巡り日々しのぎを削っている。
すべての妃嬪に皇帝のお通りがあるわけではなく、入内後一年経っても夜伽のない者は実家に帰される。もしくは臣下へ下賜されるのが慣例だ。
そのため、常に妃嬪の入れ替わりが行われている。
「そんな方々の争いも憂いも、『欣怡妃』には関係のない話ですから平和そのものですね~」
朝餉のあと、出かけるまでの空いた時間に奉納舞の稽古をしている凛月へ気安く言葉をかけたのは、欣怡妃付きの侍女となった瑾萱だ。
歳は十八歳で、胡家(宰相の家)に長年仕える使用人の娘である。
本来、妃嬪と侍女は主従関係となるが、同い年ということもあり凛月は友人のように接してほしいとお願いをした。
瑾萱は、宰相からの信頼が厚い。
だからこそ、今回凛月の侍女に抜擢されたのだが、当の本人は「旦那様(宰相)から、事情持ちの妃嬪様の面倒ばかりを押し付けられてきた」と愚痴っている。
「他の妃嬪様たちから目を付けられないように、目立たないように、入内してから宮の外には一歩も出ていないからね」
欣怡妃は『異国での生活に馴染めず、精神的に不安定な状態にある』ことになっている。
体調不良を理由にお茶会などの誘いもすべて断っているため、表向きは真正の引きこもりだ。
事前の取り決め通り皇帝のお通りはないため、「陛下に見向きもされない、可哀想な妃嬪」とか「一年を待たずに、実家へ帰される出戻り妃嬪」などと噂されているらしい。
もちろん、凛月が噂を気にすることは一切ないが。
「凛月様は宦官ではなく官女として働けば、いずれ良い出会いがあるかもしれないのに、本当にもったいないです!」
瑾萱の夢は、高位の官吏を射止め妻の座に納まること。しかし、現実はなかなかに厳しいようだ。
「私は、出会いよりも植物と触れ合っているほうが楽しいけど」
「でも、わざわざ泥だらけになる仕事を選ばれなくても……」
「瑾萱、おまえのくだらない考えを凛月様へ押し付けるな」
会話に割り込んできたのは、宦官の浩然。二十四歳。
彼もまた宰相からの信頼が厚い人物で、欣怡妃付きの護衛官となっている。
「くだらなくない! 女としての幸せを望んで何が悪いのよ‼」
「宮中にいる女は、そんな考えの者ばかりだな。高位の官吏の前で、色目を使ったり」
「私は、そんなことはしていません‼」
「どうだか……」
二人の言い合いが今日も始まった。もはや、この宮の日常風景となりつつある。
しかし、本当に仲が悪いわけではないから、凛月はいつも微笑ましく眺めてしまう。
浩然も事情持ち妃嬪担当のようで、二人は戦友みたいな関係なのだろう。
凛月の宮に仕える使用人は、この二人だけ。情報の漏洩を防ぐための少数精鋭とも言える。
「子墨様、そろそろお時間ですので参りましょう」
「はい」
「いってらっしゃいませ!」
瑾萱の元気な見送りを受け、凛月は浩然と一緒に宮を後にした。
今日から、『妃嬪の欣怡(十八歳)』ではなく『少年宦官の子墨(十六歳)』としての新たな仕事が始まる。
「ごめんね」
凛月こと子墨は、謝りながらぶちぶちと雑草を抜いていた。
澄みきった空の下、久しぶりの屋外での作業はとても気持ちが良い。
作業着を着て日除けに竹笠を被っているため、周りから女と見破られることはまずない。
念のため、左手の甲には土を付けて証が見えないよう細工もしてある。
子墨が尚寝局から命じられた仕事は、草むしりだった。
他の宦官と比べると小柄な子墨に重労働はさせず、女でもこなせる軽作業を割り振ってくれた。
皆の足手まといにならないように、与えられた職務を全うしようと張り切って草むしりを続ける。
「子墨、立ち上がって笠を取り、頭を下げろ」
同僚の声に顔を上げる。
見ると、官吏らしき男性が宦官を連れてこちらにやって来るところだった。
通常、後宮内は皇帝以外の男性は立ち入ることはできない。見つかれば即死罪だ。
そのため、女官や宦官がすべての仕事を担っている。
しかし、彼らでは対処できない場合のみ、特別な許可を得た官吏がお目付け役の宦官を伴って後宮に来ることがたまにある。
立ち入りを許可されるのは高位の官吏に限られるため、後宮の女官たちはここぞとばかりに(遠巻きに)姿を見に行くと瑾萱が言っていた。
並んで官吏を出迎える同僚たちの隣に、子墨も並ぶ。
「作業中にすまないが、今から至急やってもらいたいことがある」
官吏は、皆の纏め役である宦官へ指示を出している。
聞き覚えのある声がしたので子墨が少し頭を上げちらりと顔を見たら、峰風だった。
目が合い、慌てて頭を下げる。
「子墨、君はこんなところで何をしている?」
見つかってしまったので、子墨は顔を上げた。
「今日から、こちらでお世話になることになりました」
「たしかに、庭園の管理は君の能力に見合った仕事だとは思うが……」
なぜか、峰風の気遣うような視線を感じる。
(もしかして、峰風様は私がこの仕事をするために宦官になったと思っている?)
そうであれば、とんでもない誤解だ。
「あの……僕は(手術を)受けてはいませんよ」
誤解を解くべくコソッと告げると、やや間があった。峰風は気まずそうにゴホン!と咳をする。
どうやら、当たりだったらしい。
「そ、そうか。なるほど。だから、あの方の紹介……」
今度は、何かをぶつぶつと呟いている。
「ご寵愛の宦官だったのか」と聞こえ、峰風が今度は盛大な勘違いをしていると気付いたが、もう訂正はしない。
冷静沈着なようで思い込みの激しい峰風の意外な一面を知り、子墨はついフフッと笑った。
子墨たちに与えられた至急の仕事とは、庭園に植えられた薔薇に害虫が付いていないかの確認だった。
国内で虫害が多数報告されており、全滅したところもあったとのこと。
「一本、一本、丁寧に確認をするように。葉が食害されていないか、枝や茎に裂けたような筋がないか、よく見てくれ」
峰風の的確な指示のもと、宦官たちが広い薔薇園に散らばっていく。
そんな中、子墨はその場に留まり、精神を集中させ感覚を研ぎ澄ます。
──彼らの思いを感じ取るために。
凛月が、師にも周囲にも隠してきたもう一つの秘密。
それが、『植物の状態・心(感情)を感じ取る能力』だった。
「虫を一匹逃しただけで、壊滅的な被害を受けるからな。見つけた者は、すぐに報告をするように」
薔薇園を見回りながら次々と指示を出している峰風の前に、子墨が進み出る。
「峰風様、あちらの薔薇が軒並み被害を受けています。確認をお願いします」
子墨が峰風を案内した一角は、一見すると何も被害を受けていないように見える。
しかし、子墨は自信を持って断言した。
「すべて、害虫にやられています」
「どれも、異常はないように見えるが?」
「根元を見てください。木くずが落ちていますよね? 幹に開いた小さな穴の先に害虫がいる証拠です」
説明するよりも、実際に見てもらったほうが話が早い。
子墨は地面に落ちていた細くて長い枝を幹の穴に差し込み、そして引き抜く。
枝の先には、幼虫が刺さっていた。
「ご覧の通りです。他の宦官にもお知らせください」
「まさか、幹の中に幼虫がいるとは……」
峰風は皆へ周知したあと、持参している鞄から見慣れない筒型の道具を取り出す。
慣れた手つきで中に薬剤を注入すると、口の細い先端を幹の穴に押し込んだ。
「それは、なんですか?」
「『噴霧器』といって、異国から渡来した道具だ。これで薬剤を注入する」
(フンムキ?)
手早く次々と穴に差し込んで、峰風は作業をしていく。その間にも、続々と報告が届く。
結果、庭園の薔薇の約半分が被害を受けていた。
しかし、発見が早かったこともあり、大事には至らずに済んだ。
「皆の協力に感謝する。では、通常作業に戻ってくれ」
峰風はこの後も一人で作業を続けるようだ。宦官たちがぞろぞろと薔薇園を出ていく。
作業中の峰風の邪魔をしないよう、子墨も同僚の後に続いて持ち場に戻ろうとした。
「子墨、君には俺の作業を手伝ってもらいたい。ここに残ってくれ」
「あっ、えっと……」
纏め役の宦官へ視線を送ると大きく頷いている。これは、峰風の指示に従えということなのだろう。
「俺が害虫の駆除をしていくから、君は見落としがないか今一度確認を頼む」
「かしこまりました」
子墨は、一区画ごとに慎重に見回っていく。
先ほどまではあちらこちらで感じた植物の悲鳴も、今は何も聞こえない。
もう大丈夫。子墨は安堵した。
子墨が戻ると、ちょうど峰風も作業を終えたところだった。
「峰風様、漏れはありませんでした」
「そうか。経過観察は必要だが、ひとまずは安心だな」
道具を片付けると、峰風は手拭いで額の汗をぬぐう。
子墨と違いきっちりとした官服を着て髪も綺麗に纏めている峰風は、日除けの竹笠を被れない。
表情には出ていないが、かなり暑かったのだろう。腰に下げた瓢箪から、何度も水分を補給している。
子墨も、持参した瓢箪で水を飲んだ。
「実は、折り入って話がある」
一息ついたところで、峰風が子墨を見据える。子墨からは、頭一つ高い峰風を見上げる形となった。
やはり、背が高い。
日の光の下で改めて峰風の顔を見ると、髪や瞳が同じ黒色でもやや茶色がかっているのがわかる。
女ばかりの環境でずっと暮らしてきた凛月は、こんな風に同年代の異性から優しいまなざしを向けられた経験など一度もない。
特に、峰風は見目の良い男性だ。普通の女性ならば、頬を染め瞳を潤ませたことだろう。
(瑾萱だったら、今ごろ「キャー!」と声を上げただろうな……)
想像しただけで、ムクムクと笑いがこみ上げてきた。つい、吹き出しそうになる。
「子墨は、俺の下で働く気はないか?」
「えっ?」
にやけそうになった顔が、一瞬で真顔に戻る。
峰風の顔を、まじまじと見つめ返してしまった。
「子墨に、俺の助手を務めてもらいたい」
尚寝局の下っ端から高官の助手とは、かなりの出世である。
しかし、一つ疑問があった。
「少々お尋ねしてもいいですか?」
「不明な点があれば、何でも聞いてくれ」
「峰風様は、具体的にどのようなお仕事をされている方なのでしょうか?」
初対面のときは衛兵たちを指揮していたのに、今日は一人で薬剤散布をしている。
峰風が何をしている人なのか、さっぱりわからない。
「すまない、説明がまだだったな。俺は、『樹医』という職に就いている。簡単に言えば、樹木相手の医者だな」
「僕の母国月鈴国で、紹介状として頂きました」
「紹介状? 宛名と差出人がどういう人物かは、知っているのか?」
「差出人の名は、口にするのが憚られる御方です。お相手の方は、まったく存じません」
「そうか」
峰風が真っ先に確認をしたのは、この書簡の持ち主が間違いなくこの少年かどうかだった。
「実は、昨日と今朝も宮殿まで行ったのですが、門番に門前払いをされてしまいました」
それはそうだろうなと、峰風は思う。この人物への面会など、宮廷に出仕する官吏でも簡単ではない。
峰風の記憶が確かなら、差出人である花押の人物はやんごとない身分の御方。上質の紙に書かれていること、少年の言葉からも、それは間違いないようだった。
しかし、見るからに平民である少年が持っていることに多少の疑問が残る。
この書簡が本物だと、ここで断定することはできなかった。
「事情は理解した。であれば、俺が取り次ごう。今から宮殿へ行くぞ」
峰風は、宛名の人物に判断を仰ぐことを決めた。
「えっ、今からですか!?」
「何か、不都合なことでもあるのか?」
「ここまで同行させてもらった商会のご主人へ、挨拶をしたいです。荷物もありますし」
「では、俺も一緒に行こう」
宛名の人物へ取り次ぐ前に、峰風は念には念を入れて子墨の身元を確認することにした。
出向いた店は規模が大きく、月鈴国の宮廷出入りの大店とのこと。
峰風は店の主人へ自身の身元を明かし、自分が責任を持って子墨を預かると約束をする。
こうして、子墨こと凛月は宮殿へ向かうことになったのだった。
◇◇◇
峰風と同じ馬車に乗せてもらった凛月は、窓から都の景色を眺めていた。
月鈴国に居たときは自由に外出ができなかったこともあり、異国の都の風景や様式の異なる建物などが物珍しく興味をひかれる。
市場でも、目に付いた美味しそうな食べ物をついつい買い食いしてしまったほどだ。
「先ほどから熱心に外を見ているが、あちらの都とそう大差はないだろう?」
「いいえ。こちらの都のほうが、賑わっていると思います」
これは、お世辞ではなく凛月の本心だ。
月鈴国の都より明らかに街中に人が多く、とても活気がある。
機会があれば、都内の名所なども見て回りたい。
「そ、そうか」
向かい側に座る峰風は、少し誇らしげに微笑んだ。それに、ちょっと嬉しそうにも見える。
凛月よりも年上の峰風は、キリっとした精悍な顔つきをした大人の男性だ。
それなのに、静かに喜んでいる様が可愛らしいなと思ったことは凛月だけの秘密。
大市場の会場から宮殿までは、馬車での移動ならあっという間だった。
凛月が二日連続で門前払いをくらった門も、峰風が帯に付けた佩玉(帯飾り)を門番に見せるだけであっさりと通行の許可が下りる。
商会の店主からは、峰風は高位の官吏だと聞いた。
市場で大勢の衛兵を指揮していたのだから、凛月はそこで気付くべきだった。
何も考えず気安くものを尋ねてしまい、結果こうして面倒をかけている。
しかし、平民の凛月に対し峰風が気分を害している様子はない。
(お育ちの良い、良家のご子息様なのかな?)
自分が本当は女であることを峰風へ打ち明けるかどうか迷っているうちに、宮殿に着いてしまった。
「行くぞ」と促されるまま馬車を降り、峰風の後ろをついて行く。
周りは官服を着た文官や武官、官女ばかりで、平民服の凛月はかなり目立っている。
頭一つ背の高い峰風の陰に隠れるようにして、凛月は歩いていった。
「こちらで、少し待っていてくれ」
大きな建物の応接室に凛月を案内した峰風は、書簡を手にすぐ部屋を出て行く。
入り口の扉の前には、厳めしい顔をした武官が立った。
室内には艶やかな色彩を放つ壺が置かれ、趣のある掛け軸がかけられている。見るからに価値がありそうな物だ。
異国の文化に触れることができる貴重な機会。凛月としては、待っている間にぜひとも間近で鑑賞したい。
しかし、武官の鋭い視線を全身に感じ席を立つことができない。
結局、凛月はおとなしく椅子に座ったままじっとしていた。
一時ほど待たされたところで部屋に入って来たのは、官服を着た中年の男性。後ろには峰風もいる。
男性は凛月を見て笑みを浮かべると、峰風と武官に下がるように命じた。
「よろしいのですか? 護衛官だけは残されたほうが……」
「問題はない。彼と少々込み入った話をするから、この部屋には誰も近づけぬように」
「かしこまりました」
凛月をちらりと見やってから部屋を出て行こうとする峰風へ、慌てて声をかける。
「峰風様、この度は大変お世話になり、ありがとうございました」
立ち上がり、深々と頭を下げ礼を述べる。
もし今日彼と出会っていなければ、凛月はこれからも毎日宮殿へ出かけては門前払いをくらっていただろう。
「俺も君に世話になったから、お互い様だ」
峰風たちが部屋を出て行くと、男性は「大変お待たせいたしました」と詫びたあと、懐から書簡を取り出した。
「さて、まずは大事な確認を。そのような恰好をされていますが、あなたは女子で間違いないですか?」
「はい。自衛のために男装をしておりますが、私は女です。峰風様には『子墨』と名乗りましたが、本当の名は『凛月』と申します」
峰風に名を聞かれ、とっさに出てきたのが商会の主人の子息の名だ。
子墨は『泰然自若な男の子』という意味があると、先ほど聞いた。
たしかに、旅立つ際に挨拶をした子息は、凛月とは違いその名の通り落ち着いた人物だった。
それなのに、自分に似合いの名だと言われ、本人に申し訳なさを感じてしまった。
「私は胡劉帆といいまして、この国では宰相を務めております」
「さ、宰相様……」
紹介してもらった人物が、まさかこんな大物だったとは。
どうりで、門番に取り次いでもらえないはずだ。
凛月の背中に、ひやりと見えない汗が流れた。
「彼の御方と私は、親戚関係にあるのです」
「そうでしたか」
「書簡によれば、この国で職を探されているとか。職種や条件など何かご希望があれば、教えていただきたい。あの方も、『ぜひ、よしなに』と仰っていますので」
皇太后は、そこまで書いてくれていたようだ。
心の中で感謝をしつつ、凛月は自分の希望を述べる。
「できましたら、植物に関係した仕事に就きたいです。作物の栽培とか、庭園の管理などです。あと、住み込みで働けるところであれば有り難いです」
凛月は八歳のときに孤児院から宮廷に引き取られたため、世間一般的な暮らしの経験がない。
自身の身の回りのことや家事などはできるが、生活をしていく上での手続きなどの一般常識が抜けている。
ここは他国なので、生活に慣れるまでは住み込みで働かせてもらいたい。
「そういえば、豊穣の巫女様はあらゆる植物を掌る豊穣神様の化身と言われておりますな。ですから、植物に関係した仕事を希望されるのですね」
「いえ、特にそういうわけでは。それに、私は巫女ではなくただの巫女見習いです。見目も、他の巫女見習いとは異なっておりますし」
「それでも、豊穣神様から加護を受けられたことに違いはございません」
宰相は、凛月の左手に視線を向ける。
「噂には聞いておりましたが、本当に『麦の穂』のような形をしているのですな」
「宰相様は、『証』をご存知でしたか」
「はい。部屋に入ってすぐに、左手を確認させていただきました」
(なるほど)
だから、書簡も凛月も偽物だと疑われず、話がすんなりと通ったのだと納得。
「ご希望を伺った上で、ぜひこちらからお願いしたい職がございます」
「それは、どのようなものでしょうか?」
「凛月様は、『後宮妃』と『宦官』になるおつもりはありませんか?」
「……はい?」
宰相の口から飛び出したのは、びっくり仰天の提案だった。
面会から数日後、凛月は妃嬪の一人『欣怡妃』として後宮にひっそりと入内した。
顔を見られぬように頭から薄い布をすっぽりと被り、人目につく前にそそくさと宮に入る。
宰相の提案は、こうだった。
「私共は、凛月様の巫女としての力を求めております。この国は、まだまだ食料事情が安定しているとは言えません。ですので、あなたには月鈴国におられたときのように、豊穣神様へ祈りを捧げていただきたいのです」
「祈りを捧げる、ですか」
食料事情の安定は、国の安定にも繋がる。宰相が最優先に考えるのは、至極当然のことだった。
月鈴国では、これまで深刻な飢饉に陥ったことは一度もない。「やはり、豊穣神様のご加護があるからなのでしょう」と宰相は言う。
「妃嬪としてお願いしたい職務はそれだけですので、それ以外の時間は、凛月様のご希望通り後宮の庭園の管理の仕事をしていただけるよう手配いたします。ですが、庭園に関することは、掃除以外は女官ではなく宦官の担当でして」
庭木の剪定や草むしりなどはできても、伐採や穴を掘ったり土砂の運搬をしたりする力仕事は女では難しい。
そのため、最初から宦官の担当と決められている。
妃嬪の欣怡ではなく宦官の子墨として尚寝局に所属し、庭園管理の職務に従事するのはどうか? とのこと。
凛月の希望も踏まえての提案であることは理解できた。
しかし、宦官はともかく、なぜ巫女や女官ではなく後宮妃の必要があるのだろうか。
「女官では『祭祀』を行えないことが理由の一つ。それと、正式に巫女様としてお迎えした場合は、いずれ地方へも出向いていただくことになります」
月鈴国では巫女見習いが大勢居たため皆で交代して地方巡回を行っていたが、ここでは凛月一人しかいない。
つまり、他の仕事をする時間がなくなるということ。
「妃嬪であれば、特別な事情でもない限りそう簡単に後宮の外へは出られません。それに、凛月様専用の宮をご用意できます」
妃嬪と宦官に入れ替わるときに、相部屋では非常に都合が悪い。
持ち物や衣裳も、二種類必要だ。
「凛月様には、妃嬪の一人として『祭祀』の一部の職務をお願いしたいのです。具体的には、月に一度、五穀豊穣を祈念した奉納舞を舞っていただくことですね」
宰相によると、妃嬪たちにはその位によって果たすべき職務が定められているとのこと。
凛月に求められているのは巫女としての仕事だけなので、真っ先に言われたことは「皇帝陛下のお通りはありませんので、ご安心ください」だった。
どうやら、宰相は凛月と面会をする前に、皇帝へ話を通していたようだ。
他国の人間を後宮に入れるのだから、当たり前と言えば当たり前のことだが。
「ただ、もし凛月様が陛下の寵愛を求められるのであれば、正式に遇することも可能でございます」
「いえいえ、そんな滅相もございません! 平民の私ごときが、畏れ多いです」
「そんな、ご謙遜を。あなたほどの器量でしたら、まったく問題はございません。後ろ盾もしっかりしておりますし……」
お世辞だと思っていたが、宰相の目は意外と本気だった。
凛月はついと視線をそらし、ホホホと笑ってごまかした。
宰相から提示されたのは、正四品の『美人』という位。元孤児には高すぎる身分に、くらくらと眩暈がした。
もっと低い身分を! と言ってみたが、祭礼に携われるのは『美人』までであるとのこと。
正五品以下だと個々の宮を賜れないとのことで、凛月はやむなく了承するしかない。
「宮には、口が堅く信用のおける者を配置いたします。宦官としての仕事のほうも、ご心配には及びません。尚寝局の尚寝(長官)には、上手く便宜を図らせますゆえ」
「よろしくお願いいたします」
(宰相様の権力って、すごい!)
凛月は、今さらながら思ってしまった。
何から何まで至れり尽くせりで、正直怖いくらいだ。
こうして、凛月の『欣怡妃』としての生活が始まった。
欣怡は、ある属国の王の遠戚の娘で、皇帝へ献上されたことになっている。
もちろん、実在しない人物だ。
それなのに、こんな簡単に後宮に入内できるのが凛月は不思議だったが、自分の娘や親戚の女性を献上するのはよくある話とのこと。
現在、後宮には百名ほどの妃嬪がおり、皇帝の寵愛を巡り日々しのぎを削っている。
すべての妃嬪に皇帝のお通りがあるわけではなく、入内後一年経っても夜伽のない者は実家に帰される。もしくは臣下へ下賜されるのが慣例だ。
そのため、常に妃嬪の入れ替わりが行われている。
「そんな方々の争いも憂いも、『欣怡妃』には関係のない話ですから平和そのものですね~」
朝餉のあと、出かけるまでの空いた時間に奉納舞の稽古をしている凛月へ気安く言葉をかけたのは、欣怡妃付きの侍女となった瑾萱だ。
歳は十八歳で、胡家(宰相の家)に長年仕える使用人の娘である。
本来、妃嬪と侍女は主従関係となるが、同い年ということもあり凛月は友人のように接してほしいとお願いをした。
瑾萱は、宰相からの信頼が厚い。
だからこそ、今回凛月の侍女に抜擢されたのだが、当の本人は「旦那様(宰相)から、事情持ちの妃嬪様の面倒ばかりを押し付けられてきた」と愚痴っている。
「他の妃嬪様たちから目を付けられないように、目立たないように、入内してから宮の外には一歩も出ていないからね」
欣怡妃は『異国での生活に馴染めず、精神的に不安定な状態にある』ことになっている。
体調不良を理由にお茶会などの誘いもすべて断っているため、表向きは真正の引きこもりだ。
事前の取り決め通り皇帝のお通りはないため、「陛下に見向きもされない、可哀想な妃嬪」とか「一年を待たずに、実家へ帰される出戻り妃嬪」などと噂されているらしい。
もちろん、凛月が噂を気にすることは一切ないが。
「凛月様は宦官ではなく官女として働けば、いずれ良い出会いがあるかもしれないのに、本当にもったいないです!」
瑾萱の夢は、高位の官吏を射止め妻の座に納まること。しかし、現実はなかなかに厳しいようだ。
「私は、出会いよりも植物と触れ合っているほうが楽しいけど」
「でも、わざわざ泥だらけになる仕事を選ばれなくても……」
「瑾萱、おまえのくだらない考えを凛月様へ押し付けるな」
会話に割り込んできたのは、宦官の浩然。二十四歳。
彼もまた宰相からの信頼が厚い人物で、欣怡妃付きの護衛官となっている。
「くだらなくない! 女としての幸せを望んで何が悪いのよ‼」
「宮中にいる女は、そんな考えの者ばかりだな。高位の官吏の前で、色目を使ったり」
「私は、そんなことはしていません‼」
「どうだか……」
二人の言い合いが今日も始まった。もはや、この宮の日常風景となりつつある。
しかし、本当に仲が悪いわけではないから、凛月はいつも微笑ましく眺めてしまう。
浩然も事情持ち妃嬪担当のようで、二人は戦友みたいな関係なのだろう。
凛月の宮に仕える使用人は、この二人だけ。情報の漏洩を防ぐための少数精鋭とも言える。
「子墨様、そろそろお時間ですので参りましょう」
「はい」
「いってらっしゃいませ!」
瑾萱の元気な見送りを受け、凛月は浩然と一緒に宮を後にした。
今日から、『妃嬪の欣怡(十八歳)』ではなく『少年宦官の子墨(十六歳)』としての新たな仕事が始まる。
「ごめんね」
凛月こと子墨は、謝りながらぶちぶちと雑草を抜いていた。
澄みきった空の下、久しぶりの屋外での作業はとても気持ちが良い。
作業着を着て日除けに竹笠を被っているため、周りから女と見破られることはまずない。
念のため、左手の甲には土を付けて証が見えないよう細工もしてある。
子墨が尚寝局から命じられた仕事は、草むしりだった。
他の宦官と比べると小柄な子墨に重労働はさせず、女でもこなせる軽作業を割り振ってくれた。
皆の足手まといにならないように、与えられた職務を全うしようと張り切って草むしりを続ける。
「子墨、立ち上がって笠を取り、頭を下げろ」
同僚の声に顔を上げる。
見ると、官吏らしき男性が宦官を連れてこちらにやって来るところだった。
通常、後宮内は皇帝以外の男性は立ち入ることはできない。見つかれば即死罪だ。
そのため、女官や宦官がすべての仕事を担っている。
しかし、彼らでは対処できない場合のみ、特別な許可を得た官吏がお目付け役の宦官を伴って後宮に来ることがたまにある。
立ち入りを許可されるのは高位の官吏に限られるため、後宮の女官たちはここぞとばかりに(遠巻きに)姿を見に行くと瑾萱が言っていた。
並んで官吏を出迎える同僚たちの隣に、子墨も並ぶ。
「作業中にすまないが、今から至急やってもらいたいことがある」
官吏は、皆の纏め役である宦官へ指示を出している。
聞き覚えのある声がしたので子墨が少し頭を上げちらりと顔を見たら、峰風だった。
目が合い、慌てて頭を下げる。
「子墨、君はこんなところで何をしている?」
見つかってしまったので、子墨は顔を上げた。
「今日から、こちらでお世話になることになりました」
「たしかに、庭園の管理は君の能力に見合った仕事だとは思うが……」
なぜか、峰風の気遣うような視線を感じる。
(もしかして、峰風様は私がこの仕事をするために宦官になったと思っている?)
そうであれば、とんでもない誤解だ。
「あの……僕は(手術を)受けてはいませんよ」
誤解を解くべくコソッと告げると、やや間があった。峰風は気まずそうにゴホン!と咳をする。
どうやら、当たりだったらしい。
「そ、そうか。なるほど。だから、あの方の紹介……」
今度は、何かをぶつぶつと呟いている。
「ご寵愛の宦官だったのか」と聞こえ、峰風が今度は盛大な勘違いをしていると気付いたが、もう訂正はしない。
冷静沈着なようで思い込みの激しい峰風の意外な一面を知り、子墨はついフフッと笑った。
子墨たちに与えられた至急の仕事とは、庭園に植えられた薔薇に害虫が付いていないかの確認だった。
国内で虫害が多数報告されており、全滅したところもあったとのこと。
「一本、一本、丁寧に確認をするように。葉が食害されていないか、枝や茎に裂けたような筋がないか、よく見てくれ」
峰風の的確な指示のもと、宦官たちが広い薔薇園に散らばっていく。
そんな中、子墨はその場に留まり、精神を集中させ感覚を研ぎ澄ます。
──彼らの思いを感じ取るために。
凛月が、師にも周囲にも隠してきたもう一つの秘密。
それが、『植物の状態・心(感情)を感じ取る能力』だった。
「虫を一匹逃しただけで、壊滅的な被害を受けるからな。見つけた者は、すぐに報告をするように」
薔薇園を見回りながら次々と指示を出している峰風の前に、子墨が進み出る。
「峰風様、あちらの薔薇が軒並み被害を受けています。確認をお願いします」
子墨が峰風を案内した一角は、一見すると何も被害を受けていないように見える。
しかし、子墨は自信を持って断言した。
「すべて、害虫にやられています」
「どれも、異常はないように見えるが?」
「根元を見てください。木くずが落ちていますよね? 幹に開いた小さな穴の先に害虫がいる証拠です」
説明するよりも、実際に見てもらったほうが話が早い。
子墨は地面に落ちていた細くて長い枝を幹の穴に差し込み、そして引き抜く。
枝の先には、幼虫が刺さっていた。
「ご覧の通りです。他の宦官にもお知らせください」
「まさか、幹の中に幼虫がいるとは……」
峰風は皆へ周知したあと、持参している鞄から見慣れない筒型の道具を取り出す。
慣れた手つきで中に薬剤を注入すると、口の細い先端を幹の穴に押し込んだ。
「それは、なんですか?」
「『噴霧器』といって、異国から渡来した道具だ。これで薬剤を注入する」
(フンムキ?)
手早く次々と穴に差し込んで、峰風は作業をしていく。その間にも、続々と報告が届く。
結果、庭園の薔薇の約半分が被害を受けていた。
しかし、発見が早かったこともあり、大事には至らずに済んだ。
「皆の協力に感謝する。では、通常作業に戻ってくれ」
峰風はこの後も一人で作業を続けるようだ。宦官たちがぞろぞろと薔薇園を出ていく。
作業中の峰風の邪魔をしないよう、子墨も同僚の後に続いて持ち場に戻ろうとした。
「子墨、君には俺の作業を手伝ってもらいたい。ここに残ってくれ」
「あっ、えっと……」
纏め役の宦官へ視線を送ると大きく頷いている。これは、峰風の指示に従えということなのだろう。
「俺が害虫の駆除をしていくから、君は見落としがないか今一度確認を頼む」
「かしこまりました」
子墨は、一区画ごとに慎重に見回っていく。
先ほどまではあちらこちらで感じた植物の悲鳴も、今は何も聞こえない。
もう大丈夫。子墨は安堵した。
子墨が戻ると、ちょうど峰風も作業を終えたところだった。
「峰風様、漏れはありませんでした」
「そうか。経過観察は必要だが、ひとまずは安心だな」
道具を片付けると、峰風は手拭いで額の汗をぬぐう。
子墨と違いきっちりとした官服を着て髪も綺麗に纏めている峰風は、日除けの竹笠を被れない。
表情には出ていないが、かなり暑かったのだろう。腰に下げた瓢箪から、何度も水分を補給している。
子墨も、持参した瓢箪で水を飲んだ。
「実は、折り入って話がある」
一息ついたところで、峰風が子墨を見据える。子墨からは、頭一つ高い峰風を見上げる形となった。
やはり、背が高い。
日の光の下で改めて峰風の顔を見ると、髪や瞳が同じ黒色でもやや茶色がかっているのがわかる。
女ばかりの環境でずっと暮らしてきた凛月は、こんな風に同年代の異性から優しいまなざしを向けられた経験など一度もない。
特に、峰風は見目の良い男性だ。普通の女性ならば、頬を染め瞳を潤ませたことだろう。
(瑾萱だったら、今ごろ「キャー!」と声を上げただろうな……)
想像しただけで、ムクムクと笑いがこみ上げてきた。つい、吹き出しそうになる。
「子墨は、俺の下で働く気はないか?」
「えっ?」
にやけそうになった顔が、一瞬で真顔に戻る。
峰風の顔を、まじまじと見つめ返してしまった。
「子墨に、俺の助手を務めてもらいたい」
尚寝局の下っ端から高官の助手とは、かなりの出世である。
しかし、一つ疑問があった。
「少々お尋ねしてもいいですか?」
「不明な点があれば、何でも聞いてくれ」
「峰風様は、具体的にどのようなお仕事をされている方なのでしょうか?」
初対面のときは衛兵たちを指揮していたのに、今日は一人で薬剤散布をしている。
峰風が何をしている人なのか、さっぱりわからない。
「すまない、説明がまだだったな。俺は、『樹医』という職に就いている。簡単に言えば、樹木相手の医者だな」
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