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第二部 優しくない強引なキス

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「今、何してる?」

「ちょうどお風呂出たとこ」とスマホの向こうの声に答えると、小さく笑うのが聞こえた。

「じゃあ裸?」

「もう、やらしい想像しないでよー。用事ないなら切るからね」

 少し拗ねて言うと、「待って待って」と直己なおきが笑いながら続けた。

「実はさ、この前お袋んとこに杏を連れてってから、また会いたいって言うんだよ。だからまた近いうちにどうかなって。杏、ようやく仕事慣れてきたとこで疲れてるし、って言ったんだけど、変なプレッシャーかけられてさ……」

 ほとほと弱り切ったような声に、唇の端に苦笑が浮かんだ。

 なんとか交わそうとしてきたのだろう。
 それでもどうにもならない時にしか直己は相談してこない。

「大丈夫。それだけ、私のこと気に入ってくれたってことでしょ?」

「そう言ってもらえると助かる。でもわざわざこっち来るとなると週末つぶすことになるから、体きつければ言えよ?」

 この前初めて会った直己のお母さんの顔を思い出す。
 さばさばしていて、少し世話好きなタイプに見えた。今はもう退いているけれど、教師を20年以上やってきた人だった。
 直己のお父さんも教育関係の仕事に就いていて、直己が素直に教職を目指したのもその両親の影響が大きかったのだとわかるような2人だった。

「ありがとう。でも平気。それに教師してた時の話、すごくおもしろかったし、ためになったから」

「あ、それ本人に言ってあげて。すっごい喜ぶから」

 電話をしながらソファに座って、冷蔵庫の缶チューハイを開けた。

「ん? なんかいい音した」

「うん、チューハイ飲んでる」

「おー、けっこう余裕出てきたんじゃん。せっかく安藤先生のいる高校で働けるのに全然できてないーって泣きそうになってたの誰だっけ?」

「泣きそうになってない」

「えー。この前までご飯食べるにしても、授業のことが頭から離れないって言ってたのに?」

 少しからかうような口調に、「もうっ、いいでしょ。誰かさんのアドバイスのおかげなんだから」と冗談で返した。

「あれ、オレか?」

「はいはい。といっても、直己のアドバイスはお母さん仕込みだから、直己のおかげっていうより、直己先生を産んでくれたお母さんのおかげかな?」

「ええーそこはオレのおかげにしといて。杏せんせー」

 杏先生。
 響きが嬉しくて、ついほおが緩んだ。

 ようやく今年から、臨時採用だけれど都内の高校で晴れて先生として仕事をすることになった。
 大学生の時に教育実習での単位をとれずに、教員免許をとるまでに人より時間がかかった。
 それでも派遣社員をしながら、なんとか3年越しに先生になるための免許をとり教員試験を受けた。合格できなかったけれど、臨時採用枠でとってもらえたのは、本当に運がよかったのだと思う。

 しかも公立の高校としてはかなり自由な校風を確立させたことで、教育界では知られる安藤先生が校長だった。

「にやけてるのが見える」

「ふふ、だって、先生って呼ばれると、やっぱり嬉しい」

「だよなー。杏はまだこれからだもんな。オレなんて3年も経つと、生徒に間中先生とか呼ばれても、はいはいって感じだもん。つうか、間中先生とすら最近呼ばれない」

「間中っち?」

「そう。なんでみんな、オレを先生呼びしてくんないのかな」

 不満げな直己を慰めながら、しばらくたわいもなく話を続けた。

 間中直己とは、大学4年の教育実習先の高校で同じ実習生として出会った。
 実習が終わっても連絡を時々とりあい、大学を卒業する頃にはつきあうようになっていた。

 気づけば、もう3年。
 私が教員の仕事に就けたタイミングで、互いにこの先、をなんとなく意識しはじめた気がする。
 とはいっても、直己は卒業と同時に私が教育実習をした山梨の高校で先生となり、私は東京の高校で働いている。

 大学の時も違う大学だったから遠距離恋愛だったけれど、もし本当に結婚するとしたら私はどうするのだろう。

 教員はその県で採用されるものだから、他県で教職に就くとしたら、改めてその自治体の試験を受けなくてはならない。
 直己は、自分が東京の採用試験を受け直してもいいと言ってくれる。
 でもきっと、本当は生まれ育ち、今勤務する山梨にいたいはずだ。
 決して口にはしないけれど。

 教育実習のあの日々から4年。
 それだけの月日が流れたというのに、あの高校がある街で私が先生をするには、まだ、少し、辛い。
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