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第一部 再会
19、夜を知らない
しおりを挟む睡蓮公との関係がこうも綺麗に頭から抜け落ちていただなんて。
そう思うのと同時に、睡蓮公の恋人であった月下美人公のことを思い出した。
「気に障られたら申し訳ないのですが、睡蓮公。お尋ねしてもよろしいですか」
「言ってごらん」
耳元まで迫っていたはずの声は、もう遠ざかっている。
「近頃月下美人公とはお話をしていらっしゃらないのですか」
私が睡蓮公と関係を持った時に、果たして二人は付き合っていたのだろうか。そうであるなら問題になる。などという考えが頭をかすめたために、つい月下美人のことを聞きたくなってしまった。
口に出しながらこれはやっぱり不味かったかなと思わないでもなかったが、引っこめることもできない。
けれどあの二人は本当に仲が良いように見えて、お似合いだったのを思い出す。だから、どうして、という疑問が心の奥にあった。
「話していないよ。これからも、話すことはないだろう」
月下美人公も王の代理候補に選ばれていて、と言おうとしたリーリヤだったが、開きかけた口を閉じた。彼はもう知っているのだろう。
それにしても、王の代理候補に睡蓮公の名前は出ていないのが不思議であった。有力者の名前は次々に石版に連ねられているというのに。
「仲違いをされたのですか?」
「仲違いと言えばそうなのかもしれないな。私は彼のやることや考えが、理解できないし支持もできなかった」
そうして二人は別れて、何もかもどうでもよくなった睡蓮公は捨てられるものはなるたけ捨てて、ここへこもったのだろうか。
それについてリーリヤはあれこれ文句を言うつもりはなかったが、ただ、寂しくなった。
「リーリヤ。月下美人という花を君は知っているね。あれは夜に咲くんだ。そして睡蓮という花は昼間に咲いて、夜になると閉じて眠る。我々の見ている世界は違った。すれ違う運命だったのかもしれない」
月光を浴びる月下美人と、陽光を浴びる睡蓮。同じ花でも生態は異なっている。
今や睡蓮は、岸から離れてただ一輪、ぽつりと池の真ん中で咲く花となってしまった。
それが悪いとは言わない。リーリヤが一方的に寂しさを感じるだけなのだ。
――戻ってきてください、睡蓮公。
無垢で愚かなふりをして、彼にそう訴えることはできるけれど。
睡蓮公が世界を拒む理由が悲しみからくるものならば、これ以上彼の心を乱したくはない。
「何か言いたそうな顔をしているよ、リーリヤ」
指摘されたリーリヤは笑ってかぶりを振った。
「私は庭師。庭師は花が美しく咲いているだけで嬉しいものです。あなたがこの広い敷地のどこかで咲いているとわかっているだけで、私には十分なのですよ」
この人がいてくれたら、もっと花の貴人達はまとまっていただろう。睡蓮公が引きこもっているのは痛手であった。
誰も彼もが自由に暮らす権利がある。たった一つ、危難の時に睡蓮公が同胞を救うため手を貸してくれることを約束してくれるなら、後はもう何も求めるつもりはなかった。
暗闇の中、息づかいもはっきりとした気配も感じないが、睡蓮公は確かに佇んでいるらしい。リーリヤごときには彼の居場所は感知できないのだが。
長らく黙りこんだ末、睡蓮公は声を発した。
「君は人間の王子とつるんでいるそうだが」
ここまでその話が伝わっているとしたら、もう知らない者は宮殿の敷地内にはいないのだろう。
「ええ。親切なお方で、私の身を守ると申し出てくれまして」
「早々に手を切った方が身のためだ。人間などろくな生き物ではない。強引で支配欲が強いのだよ、彼らは。関わっていると酷い目に遭う」
はあ、まあ、とリーリヤは適当に返事をしておいた。睡蓮公は人間嫌いだからそう言うだろう。ここでごちゃごちゃジェード様は優しいお人ですよ、などと言い出すと話が無駄にこじれる。
それでは、と暇乞いを告げることにした。
こうして睡蓮公アイルと言葉を交わせたのは素直に嬉しいし、積もる話もあるのだから本当はまだここにいたい。
けれど外でジェードを待たせていた。しびれを切らしてやって来られると修羅場になりそうである。
結局、睡蓮公の姿をこの目で見ることは最後まで叶わなかったが、会話ができただけでも上々だろう。
最後にもう一つの用事、とある書類がほしいのだと睡蓮公に話すと、上からひらひらとそれが落ちてきたので受け取った。
暗い室内を歩いて行き、リーリヤは扉の方へと向かう。
「お健やかにあなたが暮らせるよう、いつも祈っております。睡蓮公アイル。私のために時間を割いていただき、ありがとうございました」
一礼をして、リーリヤは外に足を踏み出す。
一人になった睡蓮公アイルは、睡蓮が白く浮かび上がる池を闇の中から眺めていた。
白百合公は変わらない。いつだってあの調子である。おそらく、もはや持病と言っても過言ではないお人好しっぷりで今も身を削り続けているに違いない。
彼がもし散ったなら、離宮で預かってもいいだろう。そして闇の中に蕾を横たえ、当分咲かないようにしておけばいい。
散ったままでいた方が、リーリヤのためだ。
たとえば自分であれば、リーリヤを剣で貫き、散らせることなど容易であった。武人としての才能は一切ない花であり、身内に対してあまり猜疑心も抱かない男なので簡単に呼び出して襲える。
それを実行した時のリーリヤの顔が目に浮かぶ。刺された彼はちょっと驚いた顔をして、それから苦笑してアイルに手を差しのべるのだ。
すみません、とすら言うかもしれない。お人好しだから、そんな選択をさせて苦しめたことを何故か向こうが詫びるのである。
彼は――白百合公は、巻きこまれる前に散った方がいいのだ。
そう思いつつ、アイルは闇から出ようとしない。
誰かのために何かする気力が残されていない。何を計画しても戯れに考えるだけで終わるのだ。
風もないのにどこかから、白く光る花弁がやってきて、宙をひらひらと舞っている。
「ルナ」
アイルはかつての恋人であった、月下美人公の名を口にした。
「君は、白百合公リーリヤを利用するつもりなのか? あのお人好しにつけこむ気なのか。彼は良い駒になるだろう。けれど――」
花弁はアイルのすぐそばまでやって来た。アイルが手を差し出すと、触れる前に幻のようにかき消える。
「いいや、私は駄目だ。ルナ、君を許さない。誰にも協力しないと決めたのだよ。私の生涯は終わった。今ここにいるのは、睡蓮公アイルの亡骸だ」
離宮の主が黙ると、室内は静寂に包まれる。音を立てるものは何もない。
池の睡蓮は静謐な池に浮かび、白々としてただ義務的に陽の光を浴びている。
「睡蓮は月を、夜を知らない」
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