ヨクに溺れる

新月ポルカ

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出会い

第一話 欲の訪れ

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 天界の朝は、いつだって静謐だった。
 高く張った空は、どこまでも淡く、青に触れる前に光がそれを薄めてしまう。
 金の帳がゆるやかに風に揺れ、光は羽のように静かに舞い下り、石畳を照らしている。

 そんな天界の最も光の当たる場所を、軽い足音が撫でていく。
 踏み出すたびに舞う光の粒を気にも留めずに歩くその男神は、暁光の如く移り変わる朱と桃花色の編まれた髪を軽やかに風に流し、光を受けた橙色の瞳を静かに細める。

「…随分とまあ、溜め込んでるのがいるなぁ」

 長い指を口元に当て楽しげに口端を吊り上げると、その"欲"に足を向けた。軽やかな足取りは、これから起こる波乱など微塵も予感させない。むしろ、ピクニックにでも出かけるような気軽さで、彼は現場へと滑り込んだ。

 そこで繰り広げられていたのは、静謐とは対極の光景だった。

 白と金の衣を纏った長身の神が、別の神を道端で詰問していた。
 プラチナブロンドの長髪が、感情の揺らぎなど一切許さぬように頭上で一筋に束ねられている。
 その瞳は氷のように澄んだ水色で、怒りによる光が鋭く跳ねている。
 その足元には、下級の神が一人、蒼白な顔で震え上がっていた。

「嘘をつくなと言っている! 真理の神の前で、嘘が通用すると思うな!」

 声の響きは、天界の空気すら震わせるほど厳然。
 それは職務の範疇を超え、一種の狂気的な執着すら帯びていた。完璧な秩序、一点の曇りもない真実。それを求める渇望が、彼の理性を焼き切らんばかりに膨れ上がっている。

「随分と熱心だねぇ」

 凍てつく断罪の場に、場違いなほど間の抜けた声が落ちた。
 断罪者の肩が微かに跳ねる。彼がゆっくりと振り返ると、そこには薄布を纏い、無防備に肌を晒した男がヘラヘラと笑って立っていた。

「……誰だ、貴様は」

 断罪者の眉間に深い皺が刻まれる。職務を、それも神聖なる審判を妨害された不快感が、波となって押し寄せる。

「職務の最中だとわからないのか? 無用の者は退け。自分が誰に口を利いているのかわかっているのか」

「そうだね、先に自己紹介をしよっか。 オレはね、ヨクって呼ばれてる。欲の神だよ」

 ワンテンポ遅れた返答。そして名乗るは欲の神──つまりは感情領域の神。審判領域である断罪者にとっては苦手意識の強い領域であり、眉間の皺が一際濃くなる。

「俺はルクシスだ。真理の神。わかったら今すぐここから立ち去れ!」

 追い払うためにわざと強くした語気もどこ吹く風。
 ヨクは一歩、また一歩と、ルクシスの警戒心をあざ笑うように距離を詰める。

「ルクシスさ…キミ、今、すごいことになってるんだけど、自覚ある?」

「なんの話だ!戯言なら後にしろ!」

「秩序欲と支配欲。 正常値を大幅に超えて感情が飲み込まれてる。 キミは今、理性的じゃない自覚はある?」

 ヨクのオレンジ色の瞳が、ルクシスの内側を、その魂の形をねっとりと嘗め回す。

「無礼なッ!」

 ルクシスは反射的に声を張り上げた。

「俺が欲になど溺れるものか! 俺は真理を追求し、偽りを正しているだけだ! この者が嘘をつき、秩序を乱すから……それを正すのが俺の使命であり、正義だ! それを欲などと……愚弄する気か!」

「あはは、自分すら騙すその理屈武装、さすが真理の神様だ」

 ヨクはケラケラと笑う。その笑い声が、ルクシスの神経を逆撫でする。

「貴様……! そのふざけた口、二度と利けぬようにしてやる。ここへ直れ。貴様も同罪として裁いてやる……!」

「そっか。 じゃあオレもお仕事しないとね」

 ルクシスが神力を練り上げて作り出した権杖は、その手に収まる前に、ヨクに手指を絡めとられて白磁の床に落ちる。

 ただ軽く握られただけ。それなのに、ルクシスの背筋を、かつてない悪寒が駆け抜けた。いや、悪寒ではない。それはもっと熱く、痺れるような電流。
 音もなく、ルクシスの世界が反転した。
 張り詰めていた鋼鉄のような使命感が、泥のように溶け出す。

 相手を屈服させたいという攻撃的な衝動が、形を変え、色を変え、どろりとした粘着質な熱へと変質していく。
 自分という神格の軸となる「正しさ」が消え失せ、代わりに猛烈な「渇き」が喉を焼く。

「なっ……!?」

 ルクシスは愕然と目を見開いた。
 何だ、これは。
 力が抜ける。膝の力が抜ける。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰したかのように熱い。

 目の前にいる、このふざけた男。
 つい先ほどまで軽蔑の対象でしかなかったはずのこの男が、どうしようもなく魅力的に見える。

 その肌に触れたい。その匂いをもっと近くで嗅ぎたい。この男に全てを奪われたい。
「真理」などどうでもいい。ただ、この衝動をどうにかしたい。

「は、ぁ……貴様、なにを……ッ」

 ルクシスはよろめき、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
 だが、理性で押し留めようとすればするほど、その反動は大きな波となってルクシスを襲う。
 ヨクは、困惑と熱に潤んだルクシスの瞳を満足げに見下ろした。

「ほら、やっぱり。……随分と溜まってたみたいだねえ」

 ヨクの手が、ルクシスの頬を優しく撫でる。
 その指先の冷たさが、火照った肌にはあまりに心地よく、同時に劇薬のように神経を冒していく。

「嘘つきは嫌いなんだろ? ……なら、身体の声には正直にならなきゃ」

 甘く、優しく。
 逃げ場のない毒が、高潔な神を侵食し始めた。
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