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交差
第二十三話 越権行為
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夕闇が神域を濃密な紫に染め上げ、静寂がすべてを包み込む刻。リューエの神殿に灯る淡い光だけが、卓を囲む二人の影を長く、そして親密に床へ描いていた。
食卓に並ぶのは、ヨクの手による、素材の瑞々しさを活かした繊細な皿の数々。湯気と共に立ち上る香りは、リューエにとって何よりも心を安らげる至福の香気であったはずだった。
「……は? 通い詰めることになったって、何……?」
リューエの手にしていた銀のフォークが、陶器の皿に触れて硬質な音を立てる。その音は、彼の穏やかな仮面に生じた亀裂のようでもあった。
ヨクはといえば、自身の作った料理を無邪気に頬張りながら、夕焼け色の瞳を細めている。
「あはは、そんなに驚かなくても。昨日話したでしょ? ルクシスに頼まれた審判部のあの子の件。
結構深刻でさぁ、数日は通って欲を整えてあげないと、またすぐ眠れなくなっちゃいそうなんだ」
ヨクは、自分の髪と同じ紅い果実を口に放り込み、無邪気に笑う。その無防備な赤が、リューエには自分以外の誰かに向けられる誘惑の兆しに見えて、胸の奥が焼けるように疼いた。
ルクシスだけではない。先日、ヨクの不在に付け込んで神殿の前を彷徨いていた野蛮な運命の神、アナンカリオ。そして、理屈を並べてヨクを観察しようとする執念深いマキナ。
あの図々しい連中が、あろうことかヨクの手料理という、世界で自分だけが独占すべき至宝を口にしたという。
リューエの胸中では、不快感という名の蔦が、心臓を締め上げるように伸び広がっていた。
死滅すればいいのに、と。
ヨクの肌の熱や、指先の甘やかさ、そして彼が作り出す官能的な味覚の悦びに、気づいてしまうような不届きな連中など、この神域から一人残らず消え去ればいい。
「……ヨク。他人のケアなら、感情領域には他にも適任者がいるだろう。何も、君がそこまで身を削る必要はない。……僕が、代わろうか?」
リューエは、溢れそうになる殺意を慈愛の仮面で押し殺し、しっとりと濡れたような声で提案した。
「僕の力なら、一日でその者の望みを『快復』へと引き寄せて終わらせられる。君が何日も通うのは、心身共に障るだろう?」
一刻も早く、あの場所からヨクを引き剥がしたい。他の神々が、ヨクという「欲」の奔流にこれ以上呑み込まれる前に。
だが、ヨクは小首を傾げ、オレンジ色の瞳を優しく細めた。
「ううん、リューエは神力を使うと体調を崩しやすいんだから、無理しちゃダメだよ。それに、結構楽しいんだ。普段接点のない神たちの欲を見るのは新鮮だし、みんな意外と可愛くてさ」
「──"楽しい"?」
その無邪気な一言が、リューエの心臓を冷たく、そして激しく握りつぶした。
他の神々がヨクに絡め取られるのは、いつものことだ。ヨクが誰かを抱き、その欲を散らすのも、仕事の一部だと割り切ろうと努めてきた。
自分だけがヨクの真名を知り、こうして二人きりの食卓を囲める「特別」がある限り、冷静でいられるはずだった。
だが、ヨク自身が、自分以外の存在に心を躍らせ、その時間を「楽しい」と慈しむことだけは、許しがたい越権行為だ。
リューエは苛立ちを押し殺すように、自身の衣の袖を強く握りしめた。これ以上、あの連中にヨクの「欲」を分け与えるわけにはいかない。
特に、弁当だ。これ以上、あの野蛮な運命の神や、理屈屋の記憶の神に、ヨクの「愛」の欠片を分け与えさせてなるものか。
ヨクの手を、冷たい指先でそっと包み込む。
それは祈りにも似た、あるいは獲物を決して逃さない捕食者のような、静かで湿り気を帯びた執着の熱だった。
「……朝早くからたくさんのお弁当を作るなんて、君の負担が大きすぎる。仕事上必要な分だけならまだしも、他の奴らにまで振る舞う必要はないよ。欲を植え付けすぎて彼らの仕事に障ったら、それこそ君の責任になりかねないし……」
リューエは、必死に論理を組み立て、遠回しに、けれど執拗に、他の神々への「給餌」をやめさせようと言葉を尽くす。
「いっそ、僕がお弁当を作ろうか? そうすれば、君はもっとゆっくり休めるだろう?」
せめて、ヨクの胃袋だけでも、その生活の断片だけでも、自分だけが支配していたい。
その提案に、ヨクは「良いね」と、春の陽光のような無垢な笑顔で頷いた。
リューエが、ようやく一息つこうとした、その刹那。
「じゃあ、オレとリューエの二人分のお弁当を持って行って、みんなに感情領域の素晴らしさを宣伝してこようかな!」
「――ッ、そうじゃなくって……!」
思わず声を荒げたリューエの激情に、ヨクが丸い瞳をして動きを止める。
リューエは、自身の内側から溢れ出そうになる黒い感情を、必死の思いで飲み下した。
叫びたかった。
誰にも触らせたくない、誰の視界にも入れたくないと。
けれど、それを口にすれば、この危うい均衡は崩れ、ヨクという光は、その自由な翼でどこかへ飛び去ってしまうかもしれない。
言葉を詰まらせ、喉を震わせるリューエを、ヨクがじっと覗き込む。
「……あ。もしかして。リューエも、みんなとご飯食べたかった? のけ者にしてるみたいで、寂しかったかな」
「……」
「そうだよね、ごめん。オレだけ楽しんでるみたいで悪かったよ。……一緒に行く? リューエも」
リューエは、胃の腑が裏返るような不快感を飲み込んだ。
誰があんな、馬鹿で喧しい連中に混ざりたいものか。あんな、ヨクの価値も知らない野蛮な神々と食卓を囲むなど、神格の汚辱でしかない。
すべてが本能的に拒絶を叫んでいたが、それ以上に、ヨクの隣に並ぶ誰かの存在を想像することが、リューエには耐え難かった。
「……そうだね。君がそんなに楽しそうに話すから、僕も少しだけ、興味が湧いてしまったよ。皆で盛り上がるなんて、ずるいじゃないか」
優しく、歌うような声音。
リューエは、歪な愛着を塗り固めたような、美しい微笑みを浮かべた。
その眼底には、決してヨクには見せない、冷酷な決意が沈んでいる。
自分の領域を侵す不届きな連中に、直接、格の違いを叩き込んでやるのだと。
ヨクが、誰のもので、誰だけがヨクの「本質」を知っているのか。あの薄汚い連中にわからせてやる。
「決まりだね。明日の朝、迎えに行くよ、リューエ」
「ああ。楽しみにしているよ、ヨク」
重なり合う二人の視線の先で、燭台の火が一度、大きく爆ぜた。
湿り気を帯びた執着の影が、白磁の床の上で、互いを飲み込むように深く混ざり合っていった。
食卓に並ぶのは、ヨクの手による、素材の瑞々しさを活かした繊細な皿の数々。湯気と共に立ち上る香りは、リューエにとって何よりも心を安らげる至福の香気であったはずだった。
「……は? 通い詰めることになったって、何……?」
リューエの手にしていた銀のフォークが、陶器の皿に触れて硬質な音を立てる。その音は、彼の穏やかな仮面に生じた亀裂のようでもあった。
ヨクはといえば、自身の作った料理を無邪気に頬張りながら、夕焼け色の瞳を細めている。
「あはは、そんなに驚かなくても。昨日話したでしょ? ルクシスに頼まれた審判部のあの子の件。
結構深刻でさぁ、数日は通って欲を整えてあげないと、またすぐ眠れなくなっちゃいそうなんだ」
ヨクは、自分の髪と同じ紅い果実を口に放り込み、無邪気に笑う。その無防備な赤が、リューエには自分以外の誰かに向けられる誘惑の兆しに見えて、胸の奥が焼けるように疼いた。
ルクシスだけではない。先日、ヨクの不在に付け込んで神殿の前を彷徨いていた野蛮な運命の神、アナンカリオ。そして、理屈を並べてヨクを観察しようとする執念深いマキナ。
あの図々しい連中が、あろうことかヨクの手料理という、世界で自分だけが独占すべき至宝を口にしたという。
リューエの胸中では、不快感という名の蔦が、心臓を締め上げるように伸び広がっていた。
死滅すればいいのに、と。
ヨクの肌の熱や、指先の甘やかさ、そして彼が作り出す官能的な味覚の悦びに、気づいてしまうような不届きな連中など、この神域から一人残らず消え去ればいい。
「……ヨク。他人のケアなら、感情領域には他にも適任者がいるだろう。何も、君がそこまで身を削る必要はない。……僕が、代わろうか?」
リューエは、溢れそうになる殺意を慈愛の仮面で押し殺し、しっとりと濡れたような声で提案した。
「僕の力なら、一日でその者の望みを『快復』へと引き寄せて終わらせられる。君が何日も通うのは、心身共に障るだろう?」
一刻も早く、あの場所からヨクを引き剥がしたい。他の神々が、ヨクという「欲」の奔流にこれ以上呑み込まれる前に。
だが、ヨクは小首を傾げ、オレンジ色の瞳を優しく細めた。
「ううん、リューエは神力を使うと体調を崩しやすいんだから、無理しちゃダメだよ。それに、結構楽しいんだ。普段接点のない神たちの欲を見るのは新鮮だし、みんな意外と可愛くてさ」
「──"楽しい"?」
その無邪気な一言が、リューエの心臓を冷たく、そして激しく握りつぶした。
他の神々がヨクに絡め取られるのは、いつものことだ。ヨクが誰かを抱き、その欲を散らすのも、仕事の一部だと割り切ろうと努めてきた。
自分だけがヨクの真名を知り、こうして二人きりの食卓を囲める「特別」がある限り、冷静でいられるはずだった。
だが、ヨク自身が、自分以外の存在に心を躍らせ、その時間を「楽しい」と慈しむことだけは、許しがたい越権行為だ。
リューエは苛立ちを押し殺すように、自身の衣の袖を強く握りしめた。これ以上、あの連中にヨクの「欲」を分け与えるわけにはいかない。
特に、弁当だ。これ以上、あの野蛮な運命の神や、理屈屋の記憶の神に、ヨクの「愛」の欠片を分け与えさせてなるものか。
ヨクの手を、冷たい指先でそっと包み込む。
それは祈りにも似た、あるいは獲物を決して逃さない捕食者のような、静かで湿り気を帯びた執着の熱だった。
「……朝早くからたくさんのお弁当を作るなんて、君の負担が大きすぎる。仕事上必要な分だけならまだしも、他の奴らにまで振る舞う必要はないよ。欲を植え付けすぎて彼らの仕事に障ったら、それこそ君の責任になりかねないし……」
リューエは、必死に論理を組み立て、遠回しに、けれど執拗に、他の神々への「給餌」をやめさせようと言葉を尽くす。
「いっそ、僕がお弁当を作ろうか? そうすれば、君はもっとゆっくり休めるだろう?」
せめて、ヨクの胃袋だけでも、その生活の断片だけでも、自分だけが支配していたい。
その提案に、ヨクは「良いね」と、春の陽光のような無垢な笑顔で頷いた。
リューエが、ようやく一息つこうとした、その刹那。
「じゃあ、オレとリューエの二人分のお弁当を持って行って、みんなに感情領域の素晴らしさを宣伝してこようかな!」
「――ッ、そうじゃなくって……!」
思わず声を荒げたリューエの激情に、ヨクが丸い瞳をして動きを止める。
リューエは、自身の内側から溢れ出そうになる黒い感情を、必死の思いで飲み下した。
叫びたかった。
誰にも触らせたくない、誰の視界にも入れたくないと。
けれど、それを口にすれば、この危うい均衡は崩れ、ヨクという光は、その自由な翼でどこかへ飛び去ってしまうかもしれない。
言葉を詰まらせ、喉を震わせるリューエを、ヨクがじっと覗き込む。
「……あ。もしかして。リューエも、みんなとご飯食べたかった? のけ者にしてるみたいで、寂しかったかな」
「……」
「そうだよね、ごめん。オレだけ楽しんでるみたいで悪かったよ。……一緒に行く? リューエも」
リューエは、胃の腑が裏返るような不快感を飲み込んだ。
誰があんな、馬鹿で喧しい連中に混ざりたいものか。あんな、ヨクの価値も知らない野蛮な神々と食卓を囲むなど、神格の汚辱でしかない。
すべてが本能的に拒絶を叫んでいたが、それ以上に、ヨクの隣に並ぶ誰かの存在を想像することが、リューエには耐え難かった。
「……そうだね。君がそんなに楽しそうに話すから、僕も少しだけ、興味が湧いてしまったよ。皆で盛り上がるなんて、ずるいじゃないか」
優しく、歌うような声音。
リューエは、歪な愛着を塗り固めたような、美しい微笑みを浮かべた。
その眼底には、決してヨクには見せない、冷酷な決意が沈んでいる。
自分の領域を侵す不届きな連中に、直接、格の違いを叩き込んでやるのだと。
ヨクが、誰のもので、誰だけがヨクの「本質」を知っているのか。あの薄汚い連中にわからせてやる。
「決まりだね。明日の朝、迎えに行くよ、リューエ」
「ああ。楽しみにしているよ、ヨク」
重なり合う二人の視線の先で、燭台の火が一度、大きく爆ぜた。
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