ヨクに溺れる

新月ポルカ

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交差

第二十二話 食堂で朝食を

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 官公庁の食堂は、まるで祈りを捧げる神殿の如き静寂に包まれていた。磨き抜かれた石造りの床は、窓から差し込む冬の朝日のような、冷たく透明な光を反射している。

「おはようございます。本日も健やかな魂のために、最適な栄養をご用意しております」

 生命領域から派遣された栄養の神による爽やかな挨拶の声にヨクは手を上げて軽く応えたが、掲げられた献立表を一目見て、思わず溜息を零した。

 そこに並ぶのは、食欲という名の原初的な愉悦を徹底的に削ぎ落とし、ただ純粋な効率と維持のみを追求した、いわば「欲の墓場」のような品々である。

「……うわぁ。本当に無欲なメニューだね。これ、欲の神であるオレへの挑戦状かな?」

 ヨクが冗談めかして肩を竦める一方で、背後の三柱に迷いはなかった。

「ふん、無知な。食事とは生命を維持するための神聖な儀式であり、効率だ。欲を噛み締めるための時間ではない」

 迷いなく、最も正しい栄養比率を誇る定食を指差すルクシス。その潔癖なまでの選択に、アナンカリオもまた、面倒くさそうに同調した。

「俺もそれでいいわ。どうせここじゃ何食ったって味一緒だしな」

「俺は、こちらの完全栄養セットを」

 ヨクは肩をすくめ、自分用のお弁当を抱えながら、食後の口直しにでもと、ささやかなデザートだけを注文した。



 一番奥まった、静かな窓際の席。
 ルクシスは、まるで結界でも張るかのようにその席を陣取ったが、その努力も虚しく、ヨク、アナンカリオ、マキナが吸い寄せられるようにそのテーブルを囲む。

「……貴様ら、なぜ当然のようにここに座る。席は他にも余っているだろう!」

「いいじゃん、賑やかな方。ほらルクシス、早く食べないと冷めちゃうよ」

「そうだぜ。さっさと食って、次こそ俺と勝負しろ」

 二人に左右から圧をかけられ、ルクシスは椅子を引くタイミングを完全に失った。結局、窓側にルクシスとアナンカリオ、その向かいにヨクとマキナが座るという、奇妙に歪な四角形が形成される。

 ふと隣を見たヨクは、マキナのトレイを見て絶句した。
 そこに乗っているのは、数粒の不透明なタブレットと、乾燥した粘土の塊のようなスティックバーが二本だけ。あまりにも侘しく、官能の一片すら感じられないその光景は、欲の神にとって一つの怪奇現象に等しかった。

「……待って、マキナ。本気? それだけで、お腹空かないの?」

「空腹感という信号は、脳が必要なエネルギーの欠乏を検知した際に発するアラートに過ぎません。これらを摂取すれば数値上は充足されます。……何か、おかしな点でも?」

「記憶の神の言う通りだ。食事に時間をかけるのは、愚鈍な連中のすること」

 ルクシスの言葉に、アナンカリオも「まぁ、面倒がなくていいわな」と頷く。
 官公庁の中枢を担う、審判、時間、記憶。三領域の神々が口を揃えて「食の無意味さ」を説く光景に、ヨクは深い絶望と、どこか憐れみさえ感じていた。彼らの住まう世界は、あまりに乾燥している。

「ここに食堂がある理由がわかった気がするよ……キミたち、ここがなかったらその辺の草とか食べ始めそうだね」

 そう呆れながらヨクはお弁当の蓋を開け、丁寧に焼き上げた黄金色のオムレツを一口サイズに切り分けた。バターの芳醇な香りと、刻み込まれたバジルの爽やかな薫香が、無味乾燥な食堂の空気を一瞬で塗り替えていく。

「はい、マキナ。あーん」

 ヨクは自身の白い指を添え、フォークをマキナの唇の直前まで運んだ。

「……っ!? な、何を……貴方、正気ですか!?」

「不埒な! 公衆の面前でなんという卑猥な真似を……! 羞恥を知れ!」

 マキナが金縁の眼鏡を揺らして仰け反り、ルクシスがテーブルを叩く。アナンカリオだけが「おっ、餌付けか? 傑作だな!」と身を乗り出して面白がっていた。

「いいから。記憶の神様なら、この味も記録しておかなきゃ。……ほら、逃げないで」

 ヨクの夕焼け色の瞳が、獲物の喉元を見定めるように細められる。
 鼻腔から脳へ直接叩き込まれるバジルの青い香りと、熱を帯びたバターの重厚な情報量。マキナの演算機能は、その「過剰な快楽」をエラーと断じながらも、記憶の神としての根源的な渇望——未だ識らぬ未知の感覚を記録したいという熱に、内側から焼き切られていく。

 そんなマキナの葛藤を溶かすかのように、ヨクは添えていた手の指を一本、つぷりとマキナの唇を割り開くように優しく捩じ込む。そこから糸が解けたかのようにマキナの唇が開けられ、冷たいスプーンが音もなく差し入れられた。

 柔らかなオムレツが、舌の上で解ける。
 溢れ出す濃厚なバターのコクと、卵の優しい甘み。
 それはマキナが普段摂取している「栄養」とは対極にある、過剰で、贅沢で、暴力的なまでの美味だった。

「…………っ」

 マキナの頬に、白磁のような肌を透かして微かな朱が差した。常に凍てついていた金色の瞳が、熱を持ったように潤み、弛む。

「……罪深い味がします。……論理的ではありません。このような……脳を麻痺させるような情報の奔流は……」

「あはは、美味しいでしょ? 欲に素直になるのは、悪いことじゃないんだよ」

「おい、マキナ。どんな味がすんだよ。俺にも寄越せ!」

 アナンカリオが子供のように腕を伸ばすが、それより早くルクシスが卓を叩いた。

「意地汚いぞ、運命の神! 上位神としての矜持はないのか! ……貴様もだ、ピンク頭! その毒々しい餌を、これ以上この神聖な場で広げるな!」

「ルクシスも、本当は食べたいんじゃないの? 欲を抑え込みすぎると身体に毒だよ」

 ヨクがお弁当を差し出すと、ルクシスは顔を真っ赤にしながら、烈火のごとき勢いでそれを拒絶した。

「そんなわけあるか!俺は、俺は絶対に……そんな誘惑には屈せん! 貴様と一緒に食事をしたこと自体、我が神格の汚点だ!」

 しかし、彼の罵倒とは裏腹に、食堂に漂う豊かな香りは、拒むほどに鮮明に、その胃の腑を責め立てていくのだった。

 賑やかな喧騒と、微かな背徳の味。
 彼らを取り囲む空気は、ヨクの持ち込んだ『欲』によって、いつの間にかじっとりと重く、そして甘やかに変化していた。
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