ヨクに溺れる

新月ポルカ

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番外編

《ルクシス》猫のしっぽは真理をうつす -後編-

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 生命領域から審判領域へと帰還するには、通常であれば時間領域を経由せねばならない。だが、今のルクシスにとって、不可抗力的に既知となったアナンカリオのいる可能性のある領域をこの姿で通り抜けるなど、自ら処刑台に登るようなものだった。

「感情領域の方が近いし、オレの神殿で良い?」

 その言葉に、思考の余地は残されていなかった。フードを目深に被り、法衣の下でのたうつ尾を必死に抑え込みながら、ルクシスは屈辱に震えてヨクの後に従う。

 感情領域に足を踏み入れると、身の毛がよだつような規律のなさと、甘やかな空気が肌に纏わりつく。ヨクは慣れた足取りで、見事な家庭菜園が広がる一角の神殿へとルクシスを促した。

「……何故、寄り道などする。俺は一刻も早く……」

「まあまあ。ほら、あそこにいるのが例の料理の神だよ」

 ヨクが指差した先には、ルクシスと同じように頭頂部から柔らかな耳を覗かせた神が、所在なげに菜園の手入れをしていた。ヨクは快活に声をかけ、ルクシスから聞いた治し方を伝えると、別れ際に「あ、もし魚が余ってたら少し分けてくれない?」と軽やかに付け加えた。

 数匹の立派な煮干しを譲り受けたヨクの背を、ルクシスは怪訝な面持ちで見つめる。

「……なぜ、魚など」

「だって、お腹が空いたら猫らしく魚を食べて、そのまま満足して眠っちゃえば、スマートに治るでしょ? 」

 フードの奥で、ルクシスは言葉を詰まらせた。この脳内が桃色の男が、多少なりとも自分の尊厳を慮ったというのか。微かな、本当に微かな認識の修正を余儀なくされ、ルクシスはそれ以上文句を言うのをやめた。

 ヨクの神殿はいつ来ても、淫靡で、それでいてひどく寛容な空気が満ちている。案内された大きな天蓋付きの寝台に腰を下ろすと、先ほど分けてもらった煮干しを差し出される。

 カリ…と、噛み締めるたびに広がる塩気と滋味が、奇妙なほどに本能を震わせる。
 無言で煮干しを齧り続けていたルクシスの隣に、突如としてヨクが音もなく腰掛けた。

「さて、と」

 すっと伸ばされた細い指先。ルクシスは反射的に、弾かれたように首を反らしてそれを避けた。

「ちょっと、避けるなって。可愛がりたいんだからさ」

「ふざけるな、これを食えば治るかもしれないと貴様が……っ、おい!」

 逃げようとするルクシスの体躯を、ヨクは逃がさぬよう力強く抱き寄せた。正面から受け止めたヨクの胸板は、薄布越しでも分かるほどに熱い。

「やめろッ! 離せ、このバカ……ッ!」

 腕を突っぱねて抗議するが、抱き寄せられた衝撃で尻尾はピンと直立し、毛先までが喜びに震えている。
ヨクはそんなルクシスの様子を「かわいい、本当にかわいいね」と熱烈な吐息とともに称賛し、大きな手で白金色の耳をワシワシと、力任せに、だがこの上なく愛おしそうに撫で回した。

「おい……っ、貴様、何かがおかしいぞ……!」

 ルクシスは、ヨクの瞳に宿る異様な熱に気づき、戦慄した。普段の飄々とした彼ではない。まるで、猫という至高の存在を前に、理性を溶解させた信者のような──。

「ルクシス、耳、動いてるよ。ふわふわだね……。尻尾も、こんなに熱い」

 指摘しても無駄だった。ヨクはデレデレと、骨抜きになったような顔で、ルクシスの耳と尻尾を堪能し尽くしている。猫の魅力に抗えない神力に当てられているのだろうが、その過剰なまでの「かわいがり」は、ルクシスの理性を容易く削り取っていった。

「っ……、ぁ……」

 執拗な愛撫に、身体が、熱い。
 純然たる健全なかわいがりのはずなのに、触れられるたびに皮膚が粟立ち、下腹部が重たく疼き始める。猫の身体が勝手に屈し、ヨクの体温に溶けていく。

「にゃ……あ、んっ……」

 押し倒された衝撃と共に、零れたのはあまりに無防備な鳴き声だった。ビクビクと痙攣するように震え、自ら尻尾をヨクの腰に巻き付ける。

「あはは、鳴いた。可愛いねぇ……」

 鼻の頭に、ちゅっと軽い口づけを落とされる。だが、それでは足りない。乾いた喉が、潤いを求めて暴走する。ルクシスは自らヨクの唇を探り、猫特有のざらついた舌で、その唇を執拗に舐め上げた。

「あ、痛い……っ、痛いよルクシス」

 ヨクは痛がりながらも、その顔には恍惚とした笑みが張り付いている。背中に爪を立て、夢中で唇を舐め上げ、喉をごろごろと鳴らしながら、ルクシスは欲の深淵へと転げ落ちていった。

 ──その時だった。
 憑き物が落ちたように、視界が鮮明な色彩を取り戻す。

 ……俺は、何を?

 客観的な視座が、突如として脳内に戻ってきた。己の舌がヨクの唇に触れ、己の爪が彼の背を汚している。その醜態を理解した瞬間、ルクシスは弾かれたようにヨクを突き飛ばし、ベッドの端へと飛び退いた。

「……あ」

 ヨクが小さく声を漏らす。その瞳からは、先ほどまでの異常な熱が引き、いつもの飄々とした光が戻っていた。

「……治ったね。猫、いなくなっちゃった」

 ヨクの視線の先。ルクシスの頭上にも、腰の後ろにも、あの忌々しい獣の徴は消えていた。
 それと同時に、ルクシスは壁に掛かった時計へと視線を走らせる。

「…………ッ!!」

 官公庁まで、全速力で走って十分。朝礼の準備に五分。始業の時間まで、残り時間は絶望的に少なかった。
 乱れた法衣、淫らにほつれた一つ結びの髪、そして身体の芯に燻る、処理しきれない熱い疼き。
 それを強引に無視し、ルクシスは立ち上がった。

「……っ、もう行く! 今日のことは、全て、一片残らず忘れろ! 良いな!」

 以前にも聞いたような台詞を喚き散らしながら、ルクシスは光の如き早さで神殿を飛び出していった。
 静まり返った神殿。ヨクは自分の背中に残る、微かな爪痕の痛みを感じながら、赤く染まった耳を隠しもせず走り去る真理の神の背中を、唇に残るざらついた余韻を指でなぞりながら、いつまでも楽しげに見送っていた。

「……忘れろ、なんて。……無理に決まってるだろ、あんなに可愛かったんだから」

 誰もいなくなった神殿に、欲の神の独り言が、甘く溶けて消えた。

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