ヨクに溺れる

新月ポルカ

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交差

第二十五話 変換された欲の行方は

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「なんなんだ、あの男神は! 不敬にも程があるだろう。真理の神たる俺に向かって……あのような、あのような淫らな誹謗中傷を……ッ!」

 医務室の重い扉が閉まった途端、ルクシスの怒声が静謐な室内に弾けた。端正な顔は屈辱で赤く染まり、結い上げたプラチナブロンドの髪さえも怒りの余波で震えている。対するヨクは、嵐が過ぎ去るのを待つ柳のように、困ったような、けれどどこかへらへらとした笑みを浮かべて後頭部を掻いた。

「ごめんごめん。ノゾミはさ、時々神格が不安定になっちゃう時があるんだよ。丁度そのタイミングだったのかも。キミに当たるつもりはなかったと思うんだけど……オレからも謝るから、ね?」

「神格すら御しきれんとは、出来損ないにも程がある。そのような不安定な存在を、神聖な審判部に連れてくること自体、貴様の判断ミスだ」

 ぶつぶつと毒を吐き続けるルクシスに対し、ヨクは少しだけ目を細めて、親友を庇うように言葉を継いだ。

「そんなこと言わないであげてよ。ノゾミは大変なんだ。他神の『望み』を、本人の意志に関係なく流し込まれ続けるから。……もしかしたら、この近辺に彼が嫌がるような望みを抱いてる神がいたのかもしれないし」

「……チッ。だからといって私情を公務に持ち込むなど、論理に反する。これだから感情領域の神というやつは……」

 不機嫌を隠そうともしないルクシスをどうにか宥めすかし、二人は診察用のベッドへと向かった。そこには、二柱の神々の争う声に怯え、針のむしろに座らされたような顔をした証拠の神が縮こまっている。
 ヨクはその不安を瞬時に読み取り、蕩けるような甘い微笑みで青年の心を解きほぐしていった。

「おはよう。外が騒がしくて怖かったね。でも大丈夫、もう終わりだよ」

 ヨクの指先が青年のこめかみを軽く撫でると、そこに澱んでいた過剰なまでに安心を求める欲求や集団貢献欲求が、さらさらと砂のように崩れて霧散していく。
 代わりに、食欲や自己成長欲求といった生への前向きな欲に変換し、用意していた色鮮やかなお弁当を渡して、今日の治療は幕を閉じた。


「……さて」

 青年が落ち着きを取り戻したのを見届け、ヨクは医務室を出ようとしたが、扉に手をかける寸前で足を止め、背後のルクシスへと振り返った。

「……ねえ、ルクシス。ちょっといい?」

「なんだ。まだ何か用か」

「君の中にさ、さっきの言い合いのせいで溜まった『攻撃欲求』が、今にも溢れそうになってるよ」

 その言葉を聞いた瞬間、ルクシスの背筋に戦慄が走った。
 欲が溢れている。それは、あの忌まわしくも甘美な「荒療治」の合図ではないのか。ルクシスは反射的に一歩後退り、自身の胸元を隠すように腕を組んだ。

「だ、断じてそのような……っ! 俺の中に攻撃欲求など存在せぬ! 貴様のその、オレンジ色の節穴で勝手な幻視をするな!」

「見えてるんだから、誤魔化さないの。ほら、ちょっとじっとしてて」

 ヨクが白い手を伸ばすと、ルクシスは悲鳴に近い声を上げた。

「触るな! 寄るなと言っているだろう!」

「しー。……あんまり大きな声を出すと、部下に聞こえちゃうよ? すぐに終わるからさ」

 耳元で囁かれた密やかな声に、ルクシスは喉を鳴らした。拒絶の言葉とは裏腹に、その奥底では、激しく打ち鳴らされる鼓動と、得体の知れない期待が芽吹いていた。

 ルクシスは観念したように、ぎゅっと両目を瞑った。羞恥に耐え、これから始まるであろう淫らな接触を受け入れるための、無防備な体勢。

 しかしその期待に反して、ヨクの温かな掌は優しく、羽毛でなぞるように、ルクシスの首筋の後ろを滑っただけだった。

「……っ、あ……?」

 その瞬間、ルクシスの脳内を支配していたどろどろとした苛立ちは、霧のように霧散していった。代わりに、胃の腑が不自然なほどに、きゅう、と鳴る。

「はい、これでおしまい。本当にごめんね」

 へらへらと笑いながらも、少しだけ申し訳なさを覗かせるヨクの表情。
 攻撃欲求をそっくりそのまま食欲へと変換されたルクシスは、先ほどまでの激昂が嘘のように溜飲が下がっていくのを感じた。ヨク自身の落ち度ではないにせよ、これほど素直に謝られれば、それ以上の追求は審判の徒として不当に思えてくる。

「……ふん。分かればいいのだ。あの男の無礼は万死に値するが……貴様の謝罪に免じて、今は不問にしてやろう」

「よかった。……で、お腹空いたでしょ? さっき攻撃欲求を食欲にすり替えちゃったから。お弁当、たくさん作って来たんだ。お昼、一緒に食べようよ」

「……貴様がどうしてもと言うなら、付き合ってやってもいい。俺の寛大さに感謝しろ」

 いつもなら「貴様の施しなど受けん」と即座に跳ね除けるはずの誘い。しかし、今のルクシスは、ヨクによって思考の天秤を捻じ曲げられていた。
 ヨク自身も、自分が他者の意志を無意識に捻じ曲げてしまった自覚がなく、「嵐は去った」と小さく安堵の溜息を漏らす。

 問題は、この扉の向こうだ。

 あの独占欲の強い幼馴染に、どう言い訳をしようか。
 意を決して、ヨクが重厚な扉を開けた。

「ノゾミ、お待た……」

 言葉は、喉の奥で氷結した。
 扉の先に立っていたリューエの瞳は、底知れぬ深淵のように暗く、そこには明白な『殺意』が渦巻いていた。
 殺気を感知できるルクシスが、本能的な恐怖に顔を引き攣らせて一歩後退る。
 それが分からないヨクですら、経験したことのないリューエの怒りに、反射的に扉を閉めようとした。

 ガッ、と。
 隙間に、細く白い指が割り込む。

「……なんで閉めるの?」

 感情を一切削ぎ落とした、平坦で、冷え切ったリューエの声。
 その指は、扉を押し開けるためではなく、逃げ場を塞ぐための鎖のように、不気味に静止していた。

「ヨク。……僕を置いて、中で何をしていたの?」

 リューエの背後にある廊下の空気が、じっとりと重く、酸欠を起こしそうなほどに濃密な嫉妬で塗りつぶされていく。

「さっきさぁ、一瞬だけ。そこの『むっつり』から、ものすごく淫らなことをされたいっていう望みが流れ込んできたんだけど」

 リューエの視線が、ヨクの背後に隠れるルクシスを射抜く。

「……なんでそんなこと望んだの? そして、なんでそれが一瞬で消えたの?」

 ぎい、と音を立てながら扉が開き、リューエが一歩、踏み出す。

「……まさか、中で『抱いた』の? ヨク」

 地を這うような低い声が、静かな廊下にじっとりと染み渡った。


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