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プレリュード《序幕》
第一話 月長石の館
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白磁を思わせる石造りに、朝靄が淡く絡みつく。
そこは、かつて王家に宝飾を献じた血筋が治める館。
没落の気配すら、上品な緊張と美の結晶に変えてしまう、異様なまでに整えられた空間。
この館には名がある。
『月長石の館』。
夜の光を宿したように、白く、静かに、気高く──
そんな気配にふさわしくない声が、館の西棟、従者部屋奥の洗面所から響いたのは、朝の鐘が六つ目を打つ頃だった。
「お前、いい加減退けよ!」
黒髪の従者、ダリオン。
怒声と共に扉を乱暴に押し開けると、洗面台の前には、整えられた姿勢のまま静かに眉を寄せる、銀白の男がいた。
ゼルヴァン。
濡らすことを許されぬ白手袋の先で、櫛を丁寧に操る。
ひと刷けごとに光が揺れ、指の軌跡が淡く霧を裂いてゆく。
その動きは、舞踏の一節のように正確で、どこか神聖ですらあった。
「毎朝毎朝時間かけ過ぎなんだよ!」
「煩いですね……あと少しで退きますから、待ってください」
ゼルヴァンの声は、氷面をなぞるように静かだった。
彼の瞳には、鏡越しに己の姿しか映っていない。
「お前の“あと少し”は信用ならねぇんだよ!ゼル!」
「……はぁ。私ほど、時間に正確な従者もいないと思いますが?ダリオン」
わずかに眉を吊り上げるゼルヴァンの声は、冷静にして淀みがない。
ただ、その底に揺れるのは、静かな意地と、宿命のような律儀さだ。
「……じゃあ、あと10分したら退けよ?!絶対だからな!」
歯ブラシと髭剃りを片手に、ダリオンは肩を怒らせて退室した。
ゼルヴァンは鏡の奥で再び前髪を整えながら、静かにひと息をつく。
「これが終わったら退きますよ」
水面に落ちる滴の音だけが、彼の代弁のように響いた。
──そして、15分後。
「どこが時間に正確なんだよ!」
今度は扉を蹴破らんばかりの勢いで、ダリオンが舞い戻る。
蒸気の残る空間には、依然としてゼルヴァンが立ち尽くし、睫毛の先に櫛をあてていた。
「終わったら退くと言ったでしょう」
鏡越しに放たれる声音は、冷ややかにさえ聞こえる。
ダリオンは呆れ果てたように頭を掻き、洗面台に片手をついた。
「大体、さっきからずっと同じところ弄ってんじゃねーか!」
「はぁ…、これだから美意識の低い人間は…」
ゼルヴァンの口元がわずかに歪む。
彼は整髪用の櫛を洗い、指先の水滴を丁寧に振り払った。
白手袋の上に細かな光が散り、朝の光がそこに一瞬留まる。
「見てください、これ」
ゼルヴァンは目元を指差した。
「どれ」
ダリオンが少し身を屈め、顔を近づける。湯気の間にふたりの影が重なり、水音とともに微妙な距離感が生まれた。
「これです、まつ毛。寝癖がついてとれないんです」
ゼルヴァンは指を瞼に添え、ふわりと眼差しを持ち上げた。
青い瞳の際に、ほとんど誰も気づかぬような寝癖の反りが一本。
「しょうもねぇ……誰も気にしねーよ…」
ダリオンが嘆息する。
けれどゼルヴァンは頑として譲らない。
「こんな姿でお客様の前に出た日には、お嬢様の顔に泥を塗ることになります」
低く静かなその声は、どこか祈るようでもあった。
「その来客対応、俺もあるわけだけど?俺の身だしなみはどうでも良いのか?」
「どうせ貴方はいつも寝癖もセットも変わらないような頭でしょう?」
「違ぇよ!整えてるわ!」
「猫の毛繕いの方が幾分マシでございますね」
「はぁ~~!?!?」
刹那、館全体に鐘の音が鳴り響く。七つ目の鐘。
その清らかな音色が空気を打ち、ふたりの肩が同時に跳ねた。
「──あぁもういい!退け!」
「ちょ、やめてください!水が跳ねてます!!」
「退かないのが悪いんだろうが!」
「猫の毛繕い以下の整容に、場所を譲る理由が見当たりません!」
「テメェ~~はよぉ~~!!年下のくせに調子乗るな!」
「四ヶ月しか変わらないでしょう!」
言い争いは頂点に達し、次第に蒸気の中に溶けていく──
ところ変わって東棟中央、館の大階段。
白亜の石が美しく磨かれ、朝陽を反射するその空間に、ふたりの男が静かに並び立っていた。
燕尾服は完璧に整えられ、身嗜みも隙なく仕上げられている。
先ほどまでの騒がしさは跡形もなく、二人の姿には従者としての品位と緊張だけがあった。
やがて、階上からかすかな足音が響く。
トン、トン、と軽やかに降りてくる影。
陽を透かす金の巻き髪が、朝の静けさのなかでふわりと揺れる。
「ふぁ……」
ひとつ、小さなあくび。口元に手を添える所作は、夢の余韻を含みながらも、どこまでも優雅だった。
「おはよう、ゼル。ダリオン」
その声音は穏やかにして柔らかく、ふたりを真っ直ぐに見つめながら、空気に温度を灯す。
「今日もいい朝ね……」
その一言に、静止していた世界が解けていく。
ゼルヴァンは深く頭を垂れ、胸元に片手を添える。
「おはようございます、お嬢様」
ダリオンは軽く片眉をあげ、口元に笑みを浮かべたまま、片手を挙げて応じた。
「おはよう、お嬢」
口論の余韻など微塵も見せずに、ふたりはその朝を捧げるように、静かに立っていた。
──月長石の館は、本日も平和である。
そこは、かつて王家に宝飾を献じた血筋が治める館。
没落の気配すら、上品な緊張と美の結晶に変えてしまう、異様なまでに整えられた空間。
この館には名がある。
『月長石の館』。
夜の光を宿したように、白く、静かに、気高く──
そんな気配にふさわしくない声が、館の西棟、従者部屋奥の洗面所から響いたのは、朝の鐘が六つ目を打つ頃だった。
「お前、いい加減退けよ!」
黒髪の従者、ダリオン。
怒声と共に扉を乱暴に押し開けると、洗面台の前には、整えられた姿勢のまま静かに眉を寄せる、銀白の男がいた。
ゼルヴァン。
濡らすことを許されぬ白手袋の先で、櫛を丁寧に操る。
ひと刷けごとに光が揺れ、指の軌跡が淡く霧を裂いてゆく。
その動きは、舞踏の一節のように正確で、どこか神聖ですらあった。
「毎朝毎朝時間かけ過ぎなんだよ!」
「煩いですね……あと少しで退きますから、待ってください」
ゼルヴァンの声は、氷面をなぞるように静かだった。
彼の瞳には、鏡越しに己の姿しか映っていない。
「お前の“あと少し”は信用ならねぇんだよ!ゼル!」
「……はぁ。私ほど、時間に正確な従者もいないと思いますが?ダリオン」
わずかに眉を吊り上げるゼルヴァンの声は、冷静にして淀みがない。
ただ、その底に揺れるのは、静かな意地と、宿命のような律儀さだ。
「……じゃあ、あと10分したら退けよ?!絶対だからな!」
歯ブラシと髭剃りを片手に、ダリオンは肩を怒らせて退室した。
ゼルヴァンは鏡の奥で再び前髪を整えながら、静かにひと息をつく。
「これが終わったら退きますよ」
水面に落ちる滴の音だけが、彼の代弁のように響いた。
──そして、15分後。
「どこが時間に正確なんだよ!」
今度は扉を蹴破らんばかりの勢いで、ダリオンが舞い戻る。
蒸気の残る空間には、依然としてゼルヴァンが立ち尽くし、睫毛の先に櫛をあてていた。
「終わったら退くと言ったでしょう」
鏡越しに放たれる声音は、冷ややかにさえ聞こえる。
ダリオンは呆れ果てたように頭を掻き、洗面台に片手をついた。
「大体、さっきからずっと同じところ弄ってんじゃねーか!」
「はぁ…、これだから美意識の低い人間は…」
ゼルヴァンの口元がわずかに歪む。
彼は整髪用の櫛を洗い、指先の水滴を丁寧に振り払った。
白手袋の上に細かな光が散り、朝の光がそこに一瞬留まる。
「見てください、これ」
ゼルヴァンは目元を指差した。
「どれ」
ダリオンが少し身を屈め、顔を近づける。湯気の間にふたりの影が重なり、水音とともに微妙な距離感が生まれた。
「これです、まつ毛。寝癖がついてとれないんです」
ゼルヴァンは指を瞼に添え、ふわりと眼差しを持ち上げた。
青い瞳の際に、ほとんど誰も気づかぬような寝癖の反りが一本。
「しょうもねぇ……誰も気にしねーよ…」
ダリオンが嘆息する。
けれどゼルヴァンは頑として譲らない。
「こんな姿でお客様の前に出た日には、お嬢様の顔に泥を塗ることになります」
低く静かなその声は、どこか祈るようでもあった。
「その来客対応、俺もあるわけだけど?俺の身だしなみはどうでも良いのか?」
「どうせ貴方はいつも寝癖もセットも変わらないような頭でしょう?」
「違ぇよ!整えてるわ!」
「猫の毛繕いの方が幾分マシでございますね」
「はぁ~~!?!?」
刹那、館全体に鐘の音が鳴り響く。七つ目の鐘。
その清らかな音色が空気を打ち、ふたりの肩が同時に跳ねた。
「──あぁもういい!退け!」
「ちょ、やめてください!水が跳ねてます!!」
「退かないのが悪いんだろうが!」
「猫の毛繕い以下の整容に、場所を譲る理由が見当たりません!」
「テメェ~~はよぉ~~!!年下のくせに調子乗るな!」
「四ヶ月しか変わらないでしょう!」
言い争いは頂点に達し、次第に蒸気の中に溶けていく──
ところ変わって東棟中央、館の大階段。
白亜の石が美しく磨かれ、朝陽を反射するその空間に、ふたりの男が静かに並び立っていた。
燕尾服は完璧に整えられ、身嗜みも隙なく仕上げられている。
先ほどまでの騒がしさは跡形もなく、二人の姿には従者としての品位と緊張だけがあった。
やがて、階上からかすかな足音が響く。
トン、トン、と軽やかに降りてくる影。
陽を透かす金の巻き髪が、朝の静けさのなかでふわりと揺れる。
「ふぁ……」
ひとつ、小さなあくび。口元に手を添える所作は、夢の余韻を含みながらも、どこまでも優雅だった。
「おはよう、ゼル。ダリオン」
その声音は穏やかにして柔らかく、ふたりを真っ直ぐに見つめながら、空気に温度を灯す。
「今日もいい朝ね……」
その一言に、静止していた世界が解けていく。
ゼルヴァンは深く頭を垂れ、胸元に片手を添える。
「おはようございます、お嬢様」
ダリオンは軽く片眉をあげ、口元に笑みを浮かべたまま、片手を挙げて応じた。
「おはよう、お嬢」
口論の余韻など微塵も見せずに、ふたりはその朝を捧げるように、静かに立っていた。
──月長石の館は、本日も平和である。
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