お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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プレリュード《序幕》

第二話 完璧主義者

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 朝の陽は、南の大窓から斜めに差し込んでいた。
 東棟第二回廊。館の中でもひときわ風通しがよく、壁面の窓数も多いこの一帯は、従者たちの日課とされる清掃の中でも、とりわけゼルヴァンがこだわる区画であった。

 光が入る、ということは、塵も、曇りも、露骨に浮かび上がるということだ。
 白磁の壁、琥珀を埋め込んだ額縁、透けるように清められたレースのカーテン。
 そして、今──ゼルヴァンの指先が触れているのは、高窓の最上段。
 鹿革を巻いた磨き棒の先が、滑らかに弧を描いている。

 ガラスの面に、薄く、吹き返しのような輪郭が現れては消えていく。
 磨きのあと。
 それを許すことは、ゼルヴァンにとって自らの存在を汚すことに等しかった。

 静かに息を吸い込む。わずかに揺れた睫毛の影すら、曇りの一部として排除されてゆくような気配があった。

 そんな沈黙を破ったのは、唐突に打ち込まれた革靴の音だった。

「──は?」

 その声音は、呆れとも驚きともつかぬ響きで回廊に滲んだ。
 振り返ることなくゼルヴァンは察する。
 彼にこんな声色を向ける男は、世界にただひとりしかいない。

「お前まだそこ磨いてんのか?俺が庭行く前も、そこにいなかった?」

 声の主、ダリオンが近づいてくる。
 靴音は乱暴で、雑巾は手からぶら下げたまま。袖をまくり上げたままの腕には、乾いた泥が少しだけ残っている。

「いましたよ。今は仕上げの最中でございます。……昨晩は風が強かったので、念入りに磨いていただけのこと」

 ゼルヴァンの声音は、相変わらず淡く、丁寧で、どこか皮肉の縁だけを甘く撫でる。

「それで終わんの?」

「終わりますよ。あとここだけですので。予定より四分ほど……」

 不意に言葉が切られた。
 ゼルヴァンの視線がぴたりと止まり、壁の先を見据える。

 回廊に掛けられた古い時計。真鍮の細工が施された円形の盤。
 その針に、彼の双眸が静かに揺れた。

「……あの時計、ずれてますね。朝はずれてなかったはずですが」

「なんでわかんの」

「体感ですが──……ほら。やはりずれていた」

 ゼルヴァンは言いながら、上着の内ポケットに指を滑らせる。
 現れたのは、銀の懐中時計。蓋を開ければ、深海のような静けさをたたえる文字盤が姿を見せる。
 カチ、カチ、と静かに刻む音。秒針は、壁の時計と、わずか一分──しかし、正確にずれていた。

「ほーん。……お前の懐中時計がずれてる可能性はねーの?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべたダリオンの言葉に、ゼルヴァンは何も返さない。
 代わりに、もう一方の手をコートの裏へ。

 次の瞬間、からん、と微かな鎖の連なりと共に、銀と金属の複雑な音が広がった。

「──うわっ……」

 ダリオンの声が洩れる。
 彼の掌には、連なるチェーンの先に、十個近い懐中時計の群れ。
 銀、金、黒鉄、象牙の象嵌。時代も、意匠もすべて異なるが、そのすべてが、同じ時刻を指していた。

「全部、同じ時刻を示しております。私の時計にズレはございません。
 毎時間、教会の鐘の音に合わせておりますので」

 ゼルヴァンは、すべての時計を順に指先で撫でながら言った。
 まるで時間というものをこの手に飼い慣らしているかのような所作だった。

「キショ……」

 吐き捨てるように言いながらも、ダリオンの声にはどこか感嘆めいた色が滲む。

「褒め言葉ですね。……あなたと話していたら、業務に一分の遅れが出てしまいました。
 ……及第点ですが、今日はここまでにしましょう」

 布を丁寧にたたみ、窓辺に戻しながらそう告げるゼルヴァン。
 ダリオンは呆れたように顔を近づけ、磨き上げられたガラスを覗き込む。

 そこには、己の顔が──驚くほど鮮明に、くっきりと、まるで鏡のように映り込んでいた。

「もう磨けるところないだろ、これ」

「あります。代わりにやっておいて──……いや、あなたにお願いしたら指紋をつけるのがオチですね。やっぱりいいです」

「付けねーよ!いや、磨きたくもねーけどな!」

 やや口を尖らせたダリオンに、ゼルヴァンは懐中時計を懐へ戻しながら、視線だけを再び壁時計に戻す。

「……壁時計のずれを直す業務も発生しましたので、今日のお昼は巻きですね」

「あー……焼くだけでいいなら、昼食作るけど?」

 ゼルヴァンはわずかに顔を横に向けた。
 その横顔は整いすぎていて、ふと息を呑むほどに静かだった。

「なんでも構いません。お願いします。……では、失礼」

 くるり、と踵を返す。
 その歩幅はまっすぐで無駄がなく、まるで目に見えぬ定規で引かれた線をなぞるようだった。

 回廊の奥へと消えてゆく背を、ダリオンはぼんやりと見送る。

 光が差す。
 彼の瞳の中にも、磨かれた窓の中にも、ゼルヴァンの後ろ姿が長く映り込んでいた。

「……なんであんな時間に正確なくせに、朝は守れねーんだよ……」

 誰にともなく漏らした呟き。
 応える者はいない。
 ただ静かに、ガラスの中の自分が、不思議そうに眉をひそめていた。
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