お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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プレリュード《序幕》

第三話 猫化の獣

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 昼食前のひととき。
 陽はまだ天頂へと至らず、白亜の館をなぞる光は、かすかに冷たさを帯びた透明な金糸のように、石肌を柔らかく滑ってゆく。
 窓硝子に射し込む陽光は、仄かに青みを残した静寂を透かしながら、床に繊細な影の刺繍を落としていた。

 蔵書室の一角。
 館の西側に位置するこの部屋には、大きな窓とその下に重厚な木のテーブル、そして肘掛つきの読書椅子が置かれている。
 この館の中でも、ひときわ時間の流れがゆっくりと感じられる場所だ。

 今日は虫干しの日だった。
 積もりに積もった蔵書を、日に晒して湿気を逃がす。
 ダリオンは、肩にタオルを掛けたまま、背の高い本を両手で抱えて、窓辺のテーブルに立てては並べていた。
 鼻歌まじり。
 その調子は軽快で、労働とは思えないほどだった。

 無造作に並べられた背表紙たちは、日光の当たり具合もまばらで、見ようによっては混沌とした景観をなしている。
 ゼルヴァンが見れば眉ひとつ吊り上げそうな、乱雑さだった。

 だが、その時──

 石敷きの床に、控えめに響く音があった。
 遠くから近づいてくる、滑らかで迷いのない革靴の音。
 足音の質だけで、誰かがわかる。

「……ゼル?」

 呼ばれる前に、ダリオンはもう振り返っていた。
 口調には、いつものように皮肉を添えながらも、どこか気配を探るような音が混じっていた。

 本棚の影から、静かに現れたのは、言葉通り──ゼルヴァンだった。
 手には何も持たず、燕尾の裾も塵ひとつ許さぬ整いよう。
 しかし目元の表情には、ごくかすかに気後れにも似た曇りが宿っていた。

「ダリオン」

「なんだよ、サボってないぞ。ちゃんと虫干ししてるからな、ほら」

 と、口では言いながらも、ダリオンは並べられた本たちを一瞥するゼルヴァンの顔色を、半ば冗談まじりに窺っていた。
 日の当たる箇所にばらつきがあり、角度も不揃い──
 いつものゼルヴァンであれば、小言のひとつやふたつ飛んできてもおかしくはない仕上がりだった。

 しかし、ゼルヴァンはその並びに一度だけ目を通しただけで、すぐに視線を戻した。

「……ダリオン、お願いがあるのですが」

「……お?」

 思いがけぬ言葉に、ダリオンの眉が少しだけ上がる。
 ゼルヴァンから“お願い”という形で頼られることは、あまりにも稀だ。
 それだけに、嬉しさを隠そうとしても、その端々にどうしてもにじみ出てしまう。
 表情を崩すまいとする無駄な努力が、唇の端に滲んだ。





 ──ところ変わって中庭

 空は青く澄み渡り、季節の風は穏やかだった。
 だが、視線を上に向けたその先には、思わずため息が出るような光景があった。

 月長石の館で最も古く、最も高い木。
 陽を浴びて静かに揺れるその梢に、柔らかく光る布がひらめいていた。
 薄紫のリボン。
 オーガンジーの素材が風に踊り、枝に巻きついたまま空を撫でていた。

「お嬢様のリボンが、干している最中に飛ばされて……あそこに引っかかってしまったのです」

 ゼルが顔を上げながら静かに告げる。
 その声音には、深い自責と諦念が滲んでいた。

「おお……また随分と高いとこまで」

 二人とも高身長ではあるが、それでも首を傾けなければ見えない高さ。
 それがどれほどの風だったかは、想像に難くない。

「……取れますか?」

 問う声は、低く抑えられていた。
 自分で登るつもりはない──というより、“登れない”という前提がにじんでいた。

「俺を誰だと思ってんだ」

 そう言って笑ったダリオンは、テイルコートをばさりと脱ぎ、ゼルの胸元へ放り投げるように押しつける。
 くるりと肩を回し、軽く助走をつけると、まるで身体が風を知っているかのように木へと跳びついてするすると登っていく。

 手足の動きは迷いなく、猫科の獣のようにしなやかで、軽やかだった。

 高く、軽く、鋭く。

 やがて指先がリボンに触れ、くるりと巻き付いたそれを丁寧に解く。
 そして、下を見下ろして──

「ほれ」

 指に引っ掛けたリボンを、得意げに掲げる。
 ゼルはそれを、まっすぐに見上げたまま、ぽつりと呟いた。

「まるで野良猫ですね」

「おい、聞こえてんぞ」

 声を返しながら、ダリオンはふわりと枝から跳ねるようにして飛び降りた。
 一回転。空気を巻き込むような旋回。
 まるで剣舞の一幕のように身体を翻し、砂埃すら立てぬ柔らかさで着地する。

「ほらよ」

 紫のリボンが、無事にゼルの手元へ戻された。

「ありがとうございます。私ではどうにもならなかったものですから」

「お前も運動神経良いんだから、やろうと思えば登れるだろ?汚れたくないから押し付けてるんじゃねーの?」

 にやにやと笑いながら言うダリオンに、ゼルは無言のまま、手元のリボンを丁寧に──それはまるで宝石でも包むかのように──小さく折りたたみ、上着のポケットに収めた。

 それから、静かに手袋を外し、テイルコートを脱ぎ、それらをたたんでダリオンに手渡す。

 そして、そのまま木に向き直ったゼルは、最も低い枝に手をかけ、慎重に、足の置き場を探しながら、少しずつ身体を持ち上げる。

 だが──
 動きは鈍く、ぎこちなかった。

 腕の力だけで身体を引き上げるが、長い足は引っかかり所を探して空を彷徨う。
 つま先が浮き、足がばたつく。
 剣舞のときには見せぬ、不器用で、どこか必死な気配が滲む。

「……ふぅ。……やはり、私には向いてません」

 枝に半身を乗せながら、ゼルは静かに息を吐いた。

「そうだな。想像以上に向いてなかった。もう少し柔軟したら?」

「……そうですね。検討します」

「やらない時の返答だな、それ」

 笑いながら言うダリオンに、ゼルはほんのわずかだけ肩をすくめてみせた。
 そして、枝を確かめるようにして、ゆっくりと地面へと降りる。
 足の裏が草を踏みしめる音が、やけに慎重だった。

「……疲れました」

「お疲れ。しょうがねぇから、これからも木登りは俺がしてやるよ」

「仲間に獣がいて本当に助かります」

「おいこら」

 ふたりの間に風が吹いた。
 枝の先で、木漏れ日がまた、紫のリボンに似た光をちらつかせていた。

 ──月長石の館。
 本日もまた、平和である。
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