お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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プレリュード《序幕》

第四話 儀式の昼食

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 月長石の館。昼食を終えた静けさが、屋敷の中に満ちていた。

 お嬢様とメイドが着替えのために私室へ戻るのを見送ったあと、ゼルヴァンはひとり厨房へと足を運んだ。
 食事の時間を削ってまで、手元にある帳簿の遅れを取り戻すために。

 朝、些細な予定の狂いがあった。その誤差を整えなければ、一日が歪む。
 それが、ゼルヴァンという従者の信条だった。

 厨房の隅。
 高さのある丸い作業台に帳簿を広げ、背筋を伸ばしたまま、ゼルヴァンはペンを走らせていた。
 無駄のない視線。呼吸の音さえも沈黙に溶けるほどの集中。

 その空間に、足音も軽く誰かが姿を見せる。

「ゼル、昼食。コックが俺らのぶんの賄いも一緒に作ってくれた」

 低く、どこか陽気な声が、厨房の扉越しに滑り込む。
 黒髪のダリオンが、白い皿を二枚携えて姿を現した。

 皿の上には、温かみの残るパン、ほんのり湯気を立てるスープ、香ばしいチーズとベーコンの切れ端。
 質素ながら、コックの心遣いが染み込んだ昼食だった。

「あぁ……ありがとうございます。あとで食べるので、置いておいてください」

 ゼルヴァンは一度だけ目を上げると、またすぐに視線を帳簿に戻す。
 その声音は丁寧で、だがどこか思考に引きずられているような曖昧さを帯びていた。

「従者長は大変だな……なんか、やることある?」

「ありません。昼食を短縮すれば、巻き返せる範囲ですので」

 淡々とした声音のまま、ゼルヴァンは手を止めない。
 紙の上に走るペンの音が、空間にふたたび沈黙を戻していた。

「よく噛んで食わねーと、身体に悪いぞ……」

 呆れ混じりにそう言いながら、ダリオンはゼルヴァンの向かい側、丸机の端に皿をふたつ置く。
 どちらも似たような質素な内容。それでも湯気が立ちのぼり、パンはまだ温かかった。

 ダリオンはゼルヴァンの対面に腰をかけ、自分の皿に手を伸ばす。
 スプーンが器に沈み、静かに持ち上げられる。
 その一口を飲みながら、目線は自然と、帳簿に没頭するゼルの横顔に向いていた。

 肩の動きも、手首の角度も、正確無比。
 だが、まるで人の温度がそこに感じられない。

 しばらくの間、無言が流れる。
 カリッ、とパンをかじる音と、ペンの滑る音だけが、穏やかな空気に混ざった。

 ダリオンはパンに指をかけたまま、ふと口を開く。

「……口に運んでやろうか?」

 冗談めいた軽口だった。
 だが、それまで一度も止まらなかったゼルヴァンのペンが、その瞬間だけ、ぴたりと止まった。

 目がゆっくりと帳簿から離れ、真正面からダリオンを捉える。

「じゃあ、お願いします」

「──えっ」

 思わず、ダリオンの口から素の声が漏れた。

 ふざけたつもりが、まさかの本気の返答。
 ゼルの顔は変わらず真剣で、すでにまた視線は帳簿へ戻されている。

「……お前、昔からそういうところあるよな」

「"そういうところ"とは?」

 帳簿から目を離さず、ゼルは問う。
 その声音に焦りはなく、ただ、静かな関心だけが滲んでいた。

 ダリオンは口を開いたまま言葉を探し、結局なにも言えず、黙ってゼルヴァンのパンをひとちぎりにして差し出した。

 ゼルヴァンは、それを当然のように受け取った。
 小さく口を開き、パンをふわりと受け入れる。
 咀嚼しながら、真顔のまま一言。

「……お嬢様も微笑んでおられましたが、今日のパンは出来がいいですね」

 咀嚼の合間、ゼルがぽつりと呟いた。

「そういや、ミモザが自信作だって言ってたな」

 ダリオンはそれに応えながら、またパンを千切る。
 不思議なやり取りが、そのまま続いていく。

 ダリオンは自分の昼食を食べながら、ゼルヴァンの咀嚼のタイミングを見計らって、合間に食べ物を差し出す。
 ゼルヴァンはそれを当たり前のように受け取り、何の違和感もなく口に運ぶ。

 食卓というより、何か儀式のような静けさがそこにはあった。

 やがて、ゼルヴァンの皿の上には、スープだけが残された。
 そのとき、彼が帳簿をめくる手を止めて、小さく首を傾げる。

「……ん?」

 小さく呟きながらページを遡っていく。
 眉がかすかに寄り、紙の一角で指が止まる。

「どした?」

 ダリオンがスープをすすりながら尋ねる。

「計算が……合いません。収支に、謎のズレが出ています。どこかで計算を間違えたのでしょうか……」

「ん、見てやるから。それ食ってろ」

 ダリオンは手元にあったパンの切れ端を口に放り込み、帳簿を覗き込む。

 ゼルヴァンは静かに帳簿を渡すと、手元にスープを引き寄せる。
 静かな器の中、銀のスプーンが波紋を作った。

 ペンの代わりにダリオンの指が、帳簿を滑っていく。
 視線は無駄なく、次から次へとページを追い──

 六ページ目で、ぴたりと止まった。

「……ここだな。ここの計算が間違ってる」

「え、どこですか」

 ゼルヴァンが身を乗り出す。
 指差された箇所に視線を落とし、小さく息を呑む。

「……あぁ……本当ですね。なぜ、こんな初歩的な……」

「人間だからだろ。……ほら、直しとく」

 そう言ってペンをひったくると、ダリオンはゼルヴァンの几帳面な数字の上に、ざくりと二重線を引く。
 その跡に、少し斜めに傾いた癖字で新しい数字を書き込む。

 インクが紙に染みていく。
 その光景に、ゼルヴァンはほんの少しだけ目を細めた。

「……さすが、元家庭教師ですね。今度から、電卓代わりにしてもいいですか?」

「おう、いいぜ。アフタヌーンティーの茶菓子一個と交換な」

 スプーンが、器の底をさらう音。
 手渡された数字と、何も言わず差し出された食事と、帳簿に刻まれた二重線の痕。

 月長石の館には、今日も、ひとしずくの静かな平和が流れていた。
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