お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

文字の大きさ
5 / 26
プレリュード《序幕》

第五話 アフタヌーンティー

しおりを挟む
 日は傾きはじめていた。
 青空の底にうっすらと金が溶け、風の中に夕刻の気配がまじる。
 庭園の奥、蔓薔薇と白藤に覆われたガゼボの下──その小さな天蓋のもとで、今日もまた、変わらぬ午後の習慣が始まっていた。
 
 お嬢様は、紅茶の香り立つカップを手に取り、目を細めて静かに口元へと運んだ。

「……ふぅ。おいしい。やっぱり、ゼルの紅茶が世界で一番ね」

 湯気が白く立ち昇るその向こうで、ゼルヴァンが静かに姿勢を正す。
 翡翠色のティーポットを置く指先に、曇りひとつない白手袋。深く、美しい角度で頭を垂れた。

「お嬢様のお言葉、一生の誉れにございます」

 柔らかく、けれどその声音は一点の曇りもなく、まっすぐ。光の移ろいを纏うように、ティーポットを所定の位置に戻す手元まで、徹底された優美さを崩すことはなかった。

「美味ぇよな、ゼルの紅茶。紅茶のことはさっぱりな俺でも、美味いと思うもん」

 紅茶を啜る軽い声が、柔らかな陽射しに割り込むようにして聞こえてきた。
 いつのまにか、ダリオンが腰を下ろしている。お嬢様の斜め前、紅茶と菓子の揃った席に、当然のように。

「……ダリオン?」

 ゼルヴァンの声色が一瞬だけ硬質なものを帯びた。
 青い瞳が静かに揺れて、カップの位置からダリオンの顔へと移る。

「ん?」

「なぜあなたが、そこに座っておられるのですか?」

 カップの受け皿が、軽く揺れた。
 白磁がかすかに音を立てる。ゼルの声が、その音よりもさらに静かだった。

「なんでって……もうやることないだろ?」

 ダリオンは肩をすくめ、日射しの中でスコーンをひとつ摘む。
 テーブルには焼きたての湯気が立ち昇る菓子たち──果実が飾られたタルト、スコーン、ジャムの入った小鉢──華やかで、それでいて穏やかな彩り。

「あります。お嬢様への取り分けを」

「ゼル、大丈夫よ」
 お嬢様の声がそっと割って入る。
 春の風のような、包み込むような声音だった。

「わたし、自分でとれるわ。ほら、だからゼルも座って?」

「ですが……」
 ゼルヴァンの言葉が、ほんのわずかに揺らぐ。
 しかしその隙を逃さず、ダリオンがずるく口を挟んだ。

「はやく座らねーと、お嬢がいつまで経っても食えねーぞ」

「そうよ?冷めたスコーンは食べたくないわね」

 二人に軽く促されるようにして、ゼルヴァンは僅かに眉を下げ──やがて小さく頷いた。

「……では、失礼いたします」

 椅子を引く音も静かに、ゼルヴァンが腰を下ろす。
 白いクロスの上、ティーカップが三つ、整然と並ぶ。
 お嬢様の右手にゼルヴァン、左手にダリオン。三角を描くような形で三人は座り、穏やかな午後の庭を囲む。

「ゼル、今日のタルトはなあに?」

「本日は三種のオレンジとバニラのタルトでございます」

 ゼルヴァンが応じる声音には、どこか誇りのような光が滲んでいる。
 皿の上には、ネーブル、ブラッドオレンジ、甘夏──柑橘の果実が陽光を吸い込み、宝石のように色づいている。

「美味しそう。だから紅茶もシトラス系なのね」

「はい、スモーキー領産の春摘みの茶葉に、ブラッドオレンジピールとベルガモットのエッセンスを合わせております。

 この茶葉は、朝晩の寒暖差により香りが引き締まり、口当たりが軽やかでありながら、奥に柔らかなコクを隠しております。ストレートでお召し上がりいただいても、最後まで雑味のない誇り高い茶葉でございます」

 言葉とともに、紅茶の芳香が風に乗って漂う。
 庭の空気にまで、柑橘と茶葉の複雑な香りが重なり、まるで夢のような深みをつくっていた。

「そこへ、ブラッドオレンジのピールを細かく刻み──ほんの少しのベルガモットの精油を馴染ませて──」

「長ぇよ紅茶マニア!」

 ダリオンの突っ込みが、空気をふっと軽くする。
 お嬢様はスコーンの皿に手を伸ばしながら、くすっと笑った。

「ふふ、面白くて好きよ。もっと聞かせて?」

「おいおい、お嬢。やめとけ。こいつ紅茶について語らせたら、三日は寝ないで喋り通すぞ」

「……失礼ですね。語り尽くすには、最低でも一週間は必要です」

「なんでこの流れで競うんだよ」

 くすくすと笑いが弾む。
 お嬢様は楽しげにフォークを手に取り、たっぷりとオレンジの果肉が乗ったタルトを一口。
 果実のきらめきが刃に映り、瑞々しい断面から、やさしい甘みが香り立つ。

「そういえば紅茶といえば、お前宛になんか手紙来てなかったか?紅茶の協会だかなんだかから」

 カップを傾けながら、ダリオンがふと思い出したように言う。

「……ああ、来ていましたね。ソムリエ講師として、一日登壇してほしいという内容でした」

「すごい。ゼルは教えられる立場に立てるほど紅茶に詳しいのね」

「いえ、私などまだまだ浅学の身で」

 ゼルヴァンの視線がテーブルに落ちる。
 金色の葉の影が、その頬にかすかに重なった。

「行くのか? 講師ってことは、ギャラも出るんだろ? いいな」

「行きませんよ。お金には興味がありませんので」

「でも、紅茶好きな人たちが集まるんでしょう? 話してきたら楽しいんじゃない?」

 お嬢様の声が風に乗って、ゼルヴァンの胸元を撫でる。
 それは肯定でも否定でもない、ただ心を映すような、優しい問いだった。

 ゼルは目を伏せ、ゆっくりと答える

「……私は、この館で従者をしている時が、一番楽しいので」

 その声は、心から漏れたもののように、柔らかく、しかし静かに響いた。

「……俺はうるさい従者長が一日いない日が欲しいけどな」

 沈黙を崩すように、ダリオンが茶化す。
 その言葉の奥には、こそばゆい感情と、それを包む照れ隠しが見え隠れしていた。

 お嬢様は少し目を細めて笑った。

「そう言われると…ゼルが一日いないのは嫌ね」
 お嬢様が微笑み、カップをそっと揺らす。

 「幼馴染とのアフタヌーンティータイムがなくなってしまうのは困るもの」

「……私は、どこにも行きません。ずっとお嬢様にお仕えいたします」

 ゼルヴァンの宣言は、風の中で囁かれた祈りのようだった。

「まぁ、今さら、誰かが欠ける想像って──つかねーよな」

 ダリオンの目元が、わずかに細められる。
 カップの中の紅茶は、もう残りわずかだった。

「そうね。いつまでも一緒にいてね。ゼル、ダリオン」

 お嬢様の言葉に、風が応えるように白藤を揺らす。
 黄昏が、静かにガゼボの白い屋根を染めていく。

 あたたかい午後の、儚いひととき。
 タルトの甘さと紅茶の香りの中で──誰もが、言葉にしない“永遠と平和”を、静かに願っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

お飾りの妃なんて可哀想だと思ったら

mios
恋愛
妃を亡くした国王には愛妾が一人いる。 新しく迎えた若い王妃は、そんな愛妾に見向きもしない。

さようなら、あなたとはもうお別れです

四季
恋愛
十八の誕生日、親から告げられたアセインという青年と婚約した。 幸せになれると思っていた。 そう夢みていたのだ。 しかし、婚約から三ヶ月ほどが経った頃、異変が起こり始める。

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

あら、面白い喜劇ですわね

oro
恋愛
「アリア!私は貴様との婚約を破棄する!」 建国を祝うパーティ会場に響き渡る声。 誰もが黙ってその様子を伺う中、場違いな程に明るい声色が群衆の中から上がった。 「あらあら。見てフィンリー、面白そうな喜劇だわ。」 ※全5話。毎朝7時に更新致します。

愛する義兄に憎まれています

ミカン♬
恋愛
自分と婚約予定の義兄が子爵令嬢の恋人を両親に紹介すると聞いたフィーナは、悲しくて辛くて、やがて心は闇に染まっていった。 義兄はフィーナと結婚して侯爵家を継ぐはずだった、なのにフィーナも両親も裏切って真実の愛を貫くと言う。 許せない!そんなフィーナがとった行動は愛する義兄に憎まれるものだった。 2023/12/27 ミモザと義兄の閑話を投稿しました。 ふわっと設定でサクっと終わります。 他サイトにも投稿。

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

処理中です...