お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

文字の大きさ
6 / 12
プレリュード《序幕》

第六話 一日の終わり

しおりを挟む
 月長石の館の壁が、夜の帳にうっすらと浮かび上がっていた。
 月と星の光をまといながら、その白さはどこか幽かで、夢の中の景色のように現実から少しだけ滲んで見える。

 お嬢様の寝室の扉が、やわらかく閉まる音。
 玄関口から回廊を抜け、静けさの中を歩いてきたゼルヴァンとダリオンの足音が、最後の最後、従者部屋の扉の閉まる音に吸い込まれて消える。

「はぁー、疲れた~」

 ダリオンの声が、柔らかなランプの明かりに包まれた部屋に、ぐっと伸びをするように響いた。
 ソファに雑に放られ床についたテイルコートの尾が、濃い影を床に落とす。

「……ダリオン、衣服を脱ぎ散らかさないでください。何度言えばお分かりになるのです?」

 声はやや抑制の効いた静けさを保ちながらも、言葉尻にほのかに棘を宿している。
 ゼルヴァンは乱雑に投げ出されたテイルコートを拾い上げると、黙々とハンガーにかけて所定の位置に戻していく。

「あとで片付けるって。そんな目くじら立てんなよ~」

「……"あとで"と言って、いつ片付けましたか? いいえ、結構です、分かっています。私が勝手にやると思っているのでしょう?」

 淡々と小言を漏らしながらも、ゼルヴァンの手つきはいつも通り丁寧だった。服の襟を整え、埃を払う指は一分の乱れも許さない。
 無駄のない動き、だがどこか、諦めと習慣の混じった優しさが滲んでいた。

「ゼルが俺の従者だったら、何もしなさすぎて俺、絶対太るなぁ…」

 ダリオンはそう言って、気だるげにソファに身を沈めた。
 ゼルヴァンはふとその横顔を見やり、きっぱりと断言する。

「なるつもりはないので、安心してください」

「はぁ? わかんねーだろ。俺がお嬢と結婚……するとか」

 その言葉が落ちた瞬間、空気が一瞬だけ張りつめる。
 ゼルヴァンの指が止まり、振り返った視線が、月の反射を浴びてほんの一瞬だけ鋭く光った。

「……言っていい冗談と、悪い冗談の区別もつかないんですか?」

 その声音は、底に薄い氷が張ったようなひやりとする静けさだった。

「……過ぎた冗談でした」

「そうですね。反省してください」

 パン、とゼルヴァンがダリオンのテイルコートをわざと大きな音で叩く。
 けれどそれは、苛立ちの音というよりも、空気を切り替えるための鐘のようだった。
 微かな埃が舞い、ランプの明かりに照らされて黄金色に揺れる。

「……ブラッシングはやっておきますから、お風呂を沸かしてきてください」

 ゼルヴァンの声が、先ほどまでの張り詰めたものを解いたように、柔らかく戻っていた。

「……ん、了解」

 ダリオンは素直にうなずくと、後頭部を軽く掻いてから、風呂場へと消えていった。

 

 ***

 
 湯の香りがまだ空気にうっすら残る頃、ゼルヴァンが風呂から上がってくる。
 淡い蒸気がほのかに残る髪を後ろに払いつつ部屋に入ると、視界に映るのはダリオンの姿。
 ベッドの横のラグにぺたりと座り込み、背筋を伸ばして柔軟体操に励んでいる。
 その腕はゆっくりとつま先に向かって伸ばされ、脚は見事なまでに床にぴたりとついていた。
 身体の柔らかさが、骨と筋に無駄のない動きとして現れている。


「ちゃんと乾かさないと風邪ひきますよ」

「俺はお前と違って、そこまでやわじゃねーって」

 笑いながらうつ伏せになったダリオンの背中から、水滴が一粒、ラグにぽたりと落ちた。
 ゼルは眉をひそめると、肩にかけていたタオルを無言のまま手に取り、ためらいもなくダリオンの頭めがけて投げつける。

「うぉっ……」

「ラグが濡れますので、ちゃんと水気を取ってください」

 そう言い残すと、ゼルヴァンは自分のデスクへ向かい、椅子に腰掛ける。
 背後では、しぶしぶ頭を拭くダリオンの姿と、がしがしとタオルの音が聞こえた。

 棚の中から、分厚い日記帳を一冊。
 いつものように羽ペンをインクに浸し、ゼルヴァンは書き始める。ペン先が紙を滑る微かな音が部屋に沁み込んでいく。

 静かだった。
 ただ、ラグの上でストレッチするダリオンの柔らかな呼吸と、ゼルの筆の音だけが夜の帳の中で響いていた。

 やがて、先に柔軟を終えたダリオンが部屋を離れる。
 ゼルヴァンは目を上げずに、その気配だけを背後に感じた。

 淡々と記されていく一日。だがそれは、誰にとっても尊い、ただ一つの記録。



 それからどれほど経っただろう。
 書き続けて三ページ目を過ぎた頃、ふわりと香ばしい香りとともに、ダリオンがカップを二つ手にして戻ってくる。

「……シナモンですか? あと、ジンジャー……」

「ベースはカモミール。ほれ」

 カップを受け取りながら、ゼルヴァンの瞳がやわらかく細められる。

「……ありがとうございます。いただきます」


 ゼルヴァンは受け取ったカップを丁寧に持ち、ゆっくりと口をつける。
 温かな液体が舌を滑ると同時に、喉を優しく潤していく。

 二人分のカップから立ちのぼる湯気が、蝋燭の灯りにふわふわと揺れていた。
 ゼルヴァンは日記に向かったままカップを少し傾け、ダリオンは赤い枕カバーが置かれたベッドの端に腰を下ろす。

 互いに向き合うわけでもなく、ただ同じ空間にいて、それを分かち合う静かな時間。

「…よくそんなに書くことあるな」

 ぽつりと落ちたダリオンの声は、湯気の残るカップを唇から離した直後に洩れた。
 ベッドの上、胡座をかいて背をもたせた姿勢のまま、彼の赤い瞳はゼルの手元をぼんやりと見つめている。
 灯火の明滅が、湯上がりの頬を淡く照らしていた。

「…そんな大したことは書いてないですよ」

 ゼルヴァンはインクの染みた羽根先を紙から上げず、筆先の重みだけで言葉を継ぐ。
 細く整えられた指が、書き慣れた流れの中で迷いなく動き、帳面の行間に次の一文を差し込んでいく。

「大したことない文を何ページ書いてんだよ」

「今日は七ページ程度で終わりそうです」

 静かに告げられた言葉のあと、ゼルヴァンはふと小さくまばたきをした。
 青い瞳の奥に、まだ整理しきれない一日の記憶がゆるやかに沈んでいる。

「書きすぎだろ…」

「たくさん書き残しておきたいことがあるのです」

「ふぅん…」

 その声には、冗談交じりの軽口の裏に、どこかほんのりとした温度があった。
 ゼルヴァンの日記を書く姿は、蝋燭の明かりに照らされてとても静かだ。
 水気を含んだ長い銀白の髪が、ぬるりと肩を滑り、赤みを帯びて煌めく。
 ときどき遠くを見ては瞬きをするその様は、ダリオンの目に映るとまるで絵画のようだった。

「……書き終わりました。お待たせしました」

 パタンと日記帳を閉じた音。
 はっと我に返ったダリオンが、そっとランプに手を伸ばす。

「んじゃ、火消すぞ」

「はい、お願いします」

 青い枕カバーの鎮座するベッドの中、ゼルヴァンは足を軽く曲げて静かに横たわる。
 シーツの音すら立てず、まるで白い羽がふわりと落ちたかのような動き。

 ──彼が身長に見合ったベッドで眠れたのは、もはや遠い昔。
 そんなことを知っているのは、この館ではダリオンだけだった。

「おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

 蝋燭の灯が、ゆらりと揺れてから、ふっと消える。
 それを境に、月長石の夜が再び静寂に包まれた。

 今日も無事に、一日が終わった。
 そして、きっと明日もまた──この白く静かな館で、三人の平和で穏やかな日常が続いてゆく。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】ドレスと一緒にそちらの方も差し上げましょう♪

山葵
恋愛
今日も私の屋敷に来たと思えば、衣装室に籠もって「これは君には幼すぎるね。」「こっちは、君には地味だ。」と私のドレスを物色している婚約者。 「こんなものかな?じゃあこれらは僕が処分しておくから!それじゃあ僕は忙しいから失礼する。」 人の屋敷に来て婚約者の私とお茶を飲む事なくドレスを持ち帰る婚約者ってどうなの!?

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

番が見つけられなかったので諦めて婚約したら、番を見つけてしまった。←今ここ。

三谷朱花
恋愛
息が止まる。 フィオーレがその表現を理解したのは、今日が初めてだった。

【完】はしたないですけど言わせてください……ざまぁみろ!

咲貴
恋愛
招かれてもいないお茶会に現れた妹。 あぁ、貴女が着ているドレスは……。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

処理中です...