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バラード《過去》
託児室《2歳》
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しん、と静まり返った託児室の空気は、まるで硝子の内側に閉じ込められたようだった。
薄く曇った天窓からは、灰色の光がぽたりと滴るように降り、乳白の床にうすく滲んでいた。
淡い灰青色のカーテンが風もないのにゆっくりと揺れている。窓辺には鉛色の光がじっとりと降り積もり、その中に幼い男の子がひとり、静かに腰を下ろしていた。
ゼルヴァン。
銀白の髪は肩をなぞるように揺れている。風はない。だが、揺れていた。
背筋をまっすぐに、口を閉じ、脚を組まずに座る。
右手には鉛筆。左手は膝の上、指先は揃い、爪先が床に届かないまま、ただ宙に浮いていた。
彼は動かなかった。息はしている。まばたきもする。けれど、それらは意思によるものではない。
あくまで身体の反応として、機械的に続いていた。
小さな指に握られた鉛筆は、赤と黒の線が交互に刻まれた、子供用の柔らかい芯のもの。紙の上には「おはようございます」の文字。大きな文字の練習帳。だがその筆跡は、整いすぎていた。恐ろしいまでに乱れがない。まだ手首の可動域も狭いはずの年齢で、力の加減も習わぬままにここまで整えることができるという事実が、すでに異様だった。
──"ゼル、お前は従者だ。間違えるな。跪く所作が遅れれば、首が飛ぶのだと覚えろ"
父の声が、鉛のように脳裏に貼りついている。いや、まだ脳などというものが言語化されるほどの自己が育っていない年齢だ。
それでも、恐怖の記憶だけは、明確に形を持って沈殿する。視線を逸らしただけで指の骨にまで響く痛み。笑っただけで頬に残る紅の跡。
ゼルヴァンは笑うという行為を知らなかった。二歳の春を迎えてなお、たった一度も。
と、がた、と音がして。
「ゼル!いたー!」
ダリオンが部屋に駆け込んでくる。膝を上げて走るたび、床が軽く軋んだ。
黒い髪が跳ねて、丸い赤い瞳が笑っていた。ゼルヴァンよりわずかに背が高く、身体の動きに遠慮がない。
「ぜんぶ、おわった?あそぶ?」
ゼルヴァンは紙から目を離さなかった。
顔を上げれば、視線を奪われる。視線が外れれば、字が乱れる。
字が乱れれば──叱られる。
「……まだでございます。いま、ちちうえから、ここまでと、仰せつかっております」
小さな唇が、機械のように整った言葉を紡ぐ。
声音に波はなく、言葉に重さもない。あるのはただ、「言うべき形」のみ。
ダリオンは、それを聞いてから、ゼルヴァンのすぐ横にどすんと座った。
少しだけ、ゼルヴァンの体が強張る。肩にかかった髪が揺れ、わずかに頬に触れる。
「ゼル、あそばないの?」
「ちちうえが……これを終えろと、おっしゃっておりました。ですので、あなたは、じゃまを……その、なさらぬよう……」
そこに感情はなかった。ただ、綺麗に刈り揃えられた植木のように、整然と並べられた言葉が、口からこぼれ落ちた。
「ふーん。……なあ、ここ、ちがうよ」
そう言って、ダリオンはゼルヴァンの書いた一文字に指を置く。まるでそれは、木漏れ日が影の中に落ちてくるような──唐突で、まぶしい干渉だった。
ゼルの身体がこわばる。
「まちがって、いません……」
震える声。それは自信のなさではない。"怒られる"ことへの恐れだった。
──間違えたら、父が怒る。間違えなくても、誰かが邪魔をすれば、それもまた自分の責任になる。
その法則だけが、この世界を形づくっていた。
「これきらい。ゼル、あそぼ」
言って、ダリオンは腰を落とし、ゼルヴァンのすぐ隣に座り込む。近い。息が触れるほどの距離。ゼルヴァンの小さな背中が、ゆっくりと緊張を孕んで硬直する。
ダリオンはゼルヴァンの練習帳を覗き込んで、意味もなく指で線をなぞった。いたずらのように、けれど悪意はない。
ゼルヴァンのまつ毛が震え、唇がきゅっと結ばれる。
「……だめです、ちちうえが、だめと……」
それは意思ではなく、呪文のようだった。自らに刻みつけられた恐怖という名の祈り。
託児室の窓の向こう、雲間がかすかに裂けて、光が差した。
まるで硝子の粒が砕けたように、淡い陽が床の上へ静かにこぼれてゆく。
灰白に沈んでいた空気が、ほんの一瞬、金色の縁取りを帯びた。
その光の輪の中に、いつしかゼルヴァンとダリオンの影が、寄り添うように並んでいた。
陽の粒が肩に落ちても、ゼルヴァンは微笑まなかった。
声が近くても、目を合わせることはなかった。
温もりがそばにあっても、それを知覚する術を、彼は与えられていなかった。
──だからゼルヴァンはただ、紙の上の文字だけを見ていた。
命よりも正しく書かれた、「おはようございます」。
その文字こそが、ゼルヴァンにとって唯一、ここに在ることを許される証だった。
その傍らに、柔らかな黒髪の少年が何度も笑いかけていたということを──
この日、ゼルヴァンはまだ、記憶にすら残していなかった。
ゼルヴァンは黙って、ダリオンの言葉にも触れにも何一つ応えず、ただ、何事もなかったように、練習帳の次のページを、淡々と開いた。
薄く曇った天窓からは、灰色の光がぽたりと滴るように降り、乳白の床にうすく滲んでいた。
淡い灰青色のカーテンが風もないのにゆっくりと揺れている。窓辺には鉛色の光がじっとりと降り積もり、その中に幼い男の子がひとり、静かに腰を下ろしていた。
ゼルヴァン。
銀白の髪は肩をなぞるように揺れている。風はない。だが、揺れていた。
背筋をまっすぐに、口を閉じ、脚を組まずに座る。
右手には鉛筆。左手は膝の上、指先は揃い、爪先が床に届かないまま、ただ宙に浮いていた。
彼は動かなかった。息はしている。まばたきもする。けれど、それらは意思によるものではない。
あくまで身体の反応として、機械的に続いていた。
小さな指に握られた鉛筆は、赤と黒の線が交互に刻まれた、子供用の柔らかい芯のもの。紙の上には「おはようございます」の文字。大きな文字の練習帳。だがその筆跡は、整いすぎていた。恐ろしいまでに乱れがない。まだ手首の可動域も狭いはずの年齢で、力の加減も習わぬままにここまで整えることができるという事実が、すでに異様だった。
──"ゼル、お前は従者だ。間違えるな。跪く所作が遅れれば、首が飛ぶのだと覚えろ"
父の声が、鉛のように脳裏に貼りついている。いや、まだ脳などというものが言語化されるほどの自己が育っていない年齢だ。
それでも、恐怖の記憶だけは、明確に形を持って沈殿する。視線を逸らしただけで指の骨にまで響く痛み。笑っただけで頬に残る紅の跡。
ゼルヴァンは笑うという行為を知らなかった。二歳の春を迎えてなお、たった一度も。
と、がた、と音がして。
「ゼル!いたー!」
ダリオンが部屋に駆け込んでくる。膝を上げて走るたび、床が軽く軋んだ。
黒い髪が跳ねて、丸い赤い瞳が笑っていた。ゼルヴァンよりわずかに背が高く、身体の動きに遠慮がない。
「ぜんぶ、おわった?あそぶ?」
ゼルヴァンは紙から目を離さなかった。
顔を上げれば、視線を奪われる。視線が外れれば、字が乱れる。
字が乱れれば──叱られる。
「……まだでございます。いま、ちちうえから、ここまでと、仰せつかっております」
小さな唇が、機械のように整った言葉を紡ぐ。
声音に波はなく、言葉に重さもない。あるのはただ、「言うべき形」のみ。
ダリオンは、それを聞いてから、ゼルヴァンのすぐ横にどすんと座った。
少しだけ、ゼルヴァンの体が強張る。肩にかかった髪が揺れ、わずかに頬に触れる。
「ゼル、あそばないの?」
「ちちうえが……これを終えろと、おっしゃっておりました。ですので、あなたは、じゃまを……その、なさらぬよう……」
そこに感情はなかった。ただ、綺麗に刈り揃えられた植木のように、整然と並べられた言葉が、口からこぼれ落ちた。
「ふーん。……なあ、ここ、ちがうよ」
そう言って、ダリオンはゼルヴァンの書いた一文字に指を置く。まるでそれは、木漏れ日が影の中に落ちてくるような──唐突で、まぶしい干渉だった。
ゼルの身体がこわばる。
「まちがって、いません……」
震える声。それは自信のなさではない。"怒られる"ことへの恐れだった。
──間違えたら、父が怒る。間違えなくても、誰かが邪魔をすれば、それもまた自分の責任になる。
その法則だけが、この世界を形づくっていた。
「これきらい。ゼル、あそぼ」
言って、ダリオンは腰を落とし、ゼルヴァンのすぐ隣に座り込む。近い。息が触れるほどの距離。ゼルヴァンの小さな背中が、ゆっくりと緊張を孕んで硬直する。
ダリオンはゼルヴァンの練習帳を覗き込んで、意味もなく指で線をなぞった。いたずらのように、けれど悪意はない。
ゼルヴァンのまつ毛が震え、唇がきゅっと結ばれる。
「……だめです、ちちうえが、だめと……」
それは意思ではなく、呪文のようだった。自らに刻みつけられた恐怖という名の祈り。
託児室の窓の向こう、雲間がかすかに裂けて、光が差した。
まるで硝子の粒が砕けたように、淡い陽が床の上へ静かにこぼれてゆく。
灰白に沈んでいた空気が、ほんの一瞬、金色の縁取りを帯びた。
その光の輪の中に、いつしかゼルヴァンとダリオンの影が、寄り添うように並んでいた。
陽の粒が肩に落ちても、ゼルヴァンは微笑まなかった。
声が近くても、目を合わせることはなかった。
温もりがそばにあっても、それを知覚する術を、彼は与えられていなかった。
──だからゼルヴァンはただ、紙の上の文字だけを見ていた。
命よりも正しく書かれた、「おはようございます」。
その文字こそが、ゼルヴァンにとって唯一、ここに在ることを許される証だった。
その傍らに、柔らかな黒髪の少年が何度も笑いかけていたということを──
この日、ゼルヴァンはまだ、記憶にすら残していなかった。
ゼルヴァンは黙って、ダリオンの言葉にも触れにも何一つ応えず、ただ、何事もなかったように、練習帳の次のページを、淡々と開いた。
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