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バラード《過去》
光と祝福
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それは、あまりに静かで、整いすぎた祝福の午後だった。
五月。初夏と晩春のちょうど狭間。
風はまだ春を孕み、庭の花々は湿った緑の香りを立てていた。陽光は柔らかく、だがその優しさがかえって人々を慎ましくさせるような──神の手のひらの中にあるような午後だった。
館全体が、ひとつの命を祝していた。
沈黙さえ整列し、ざわめきすら天使の囁きのように響く。
四月に生まれたばかりの、当主の娘のために。
月長石の館は、この日、祝福と献身と微笑で満たされていた。
齢二歳のゼルヴァンは、その中心に立たされていた。
理由も告げられないまま、父に託児室から引き出され、黒い服の襟元を正され、ただ言われるがままに歩く。
その横にはダリオン。靴の音を鳴らしながら、ときおり「どこいくの?」と問うていたが、返事はなかった。
広間の前、絨毯の縁で、ふたりの足が止められる。
父の手が、無言で背を押す。
踏み出せ、と言われなくてもわかる。
ゼルヴァンは黙って前に出た。ダリオンもついてくる。
陽の粒が絨毯に落ちていた。
大理石に反射するそれが、まるで祈りのように見えた。
広間の奥、陽の中心に、その方はいた。
当主の妻。
クォーツ家十五代目の光を産み落とした、高雅なるその人。
絹の衣に包まれ、腕に抱くのは、生まれてまだ一ヶ月の娘──
ゼルヴァンは、それが何を意味するのか、わからなかった。わからないまま、ただ父の手に背を押され、広間へ踏み出す。
そのとき、微笑みを浮かべた当主の妻が、まるで春の神話の一節のように、娘へと語りかけた。
「ジルシオ、目を開けて。ゼルヴァンとダリオンよ。あなたの従者となる子たちよ」
その柔らかな音のなかに、確かにあった。
初めて聞く、自分が仕える者の"名"。
けれどその瞬間のゼルヴァンには、何の感慨もなかった。
彼女の姿を見ても、心は動かなかった。
ただ、命令されたから見る。そこに居るから見る。
そういう、意味のない視線だった。
柔らかな布にくるまれた、白い肌。
きゅっと結ばれた小さな口。
そして──まだどこを見ているとも知れぬ、深いアメジストの瞳。
ゼルはそれを、じっと、静かに眺めていた。
「うわ…ちいさいなぁ……」
ダリオンが息を漏らす。ゼルヴァンの隣で、目を丸くして見つめていた。
「まだ目がよく見えてないから、触ってあげてくれる?」
その声に、ゼルヴァンは小さくまばたきをした。
命令、だ。
指を伸ばす。それだけ。
迷いはない。けれど、動きは遅かった。
彼にとって人に触れるという行為は、"許されるか否か"だけが判断基準だったから。
おそるおそる、細く伸ばされた指が、小さな掌に触れる。
すると──
小さな手が、きゅっとゼルの指を握った。
まるで、光が自分に触れてきたようだった。
ゼルヴァンは、動けなかった。
自分の手が、何かに包まれていること。
自分の存在が、何かに触れているということ。
それが、あまりに不確かで、確かなことだった。
見上げると、焦点の定まらぬアメジストの瞳が、こちらを見ていた。
赤子の視線などに意味はない。
だがゼルヴァンには、それが"向けられた"ものだと、本能で知覚していた。
──初めて、「見られた」と思った。
誰かに。名を持った存在に。意味として。
ゼルヴァンの中に、名もなき何かが流れ込んでいた。
それは「忠誠」ではなかった。
それは「従属」でもなかった。
ただただ、
"この方に触れていたい"という願いにも似た衝動が、
彼の無の中心に、ゆっくりと広がっていた。
ゼルは、それが感情だとは理解しなかった。
理解できないまま、ただその日を終える。
──そして数日後には、再びちちうえの手が飛ぶ。
けれどその痛みの奥、ゼルヴァンの胸の深くには、
やわらかな掌の感触が、ずっと消えずに残っていた。
五月。初夏と晩春のちょうど狭間。
風はまだ春を孕み、庭の花々は湿った緑の香りを立てていた。陽光は柔らかく、だがその優しさがかえって人々を慎ましくさせるような──神の手のひらの中にあるような午後だった。
館全体が、ひとつの命を祝していた。
沈黙さえ整列し、ざわめきすら天使の囁きのように響く。
四月に生まれたばかりの、当主の娘のために。
月長石の館は、この日、祝福と献身と微笑で満たされていた。
齢二歳のゼルヴァンは、その中心に立たされていた。
理由も告げられないまま、父に託児室から引き出され、黒い服の襟元を正され、ただ言われるがままに歩く。
その横にはダリオン。靴の音を鳴らしながら、ときおり「どこいくの?」と問うていたが、返事はなかった。
広間の前、絨毯の縁で、ふたりの足が止められる。
父の手が、無言で背を押す。
踏み出せ、と言われなくてもわかる。
ゼルヴァンは黙って前に出た。ダリオンもついてくる。
陽の粒が絨毯に落ちていた。
大理石に反射するそれが、まるで祈りのように見えた。
広間の奥、陽の中心に、その方はいた。
当主の妻。
クォーツ家十五代目の光を産み落とした、高雅なるその人。
絹の衣に包まれ、腕に抱くのは、生まれてまだ一ヶ月の娘──
ゼルヴァンは、それが何を意味するのか、わからなかった。わからないまま、ただ父の手に背を押され、広間へ踏み出す。
そのとき、微笑みを浮かべた当主の妻が、まるで春の神話の一節のように、娘へと語りかけた。
「ジルシオ、目を開けて。ゼルヴァンとダリオンよ。あなたの従者となる子たちよ」
その柔らかな音のなかに、確かにあった。
初めて聞く、自分が仕える者の"名"。
けれどその瞬間のゼルヴァンには、何の感慨もなかった。
彼女の姿を見ても、心は動かなかった。
ただ、命令されたから見る。そこに居るから見る。
そういう、意味のない視線だった。
柔らかな布にくるまれた、白い肌。
きゅっと結ばれた小さな口。
そして──まだどこを見ているとも知れぬ、深いアメジストの瞳。
ゼルはそれを、じっと、静かに眺めていた。
「うわ…ちいさいなぁ……」
ダリオンが息を漏らす。ゼルヴァンの隣で、目を丸くして見つめていた。
「まだ目がよく見えてないから、触ってあげてくれる?」
その声に、ゼルヴァンは小さくまばたきをした。
命令、だ。
指を伸ばす。それだけ。
迷いはない。けれど、動きは遅かった。
彼にとって人に触れるという行為は、"許されるか否か"だけが判断基準だったから。
おそるおそる、細く伸ばされた指が、小さな掌に触れる。
すると──
小さな手が、きゅっとゼルの指を握った。
まるで、光が自分に触れてきたようだった。
ゼルヴァンは、動けなかった。
自分の手が、何かに包まれていること。
自分の存在が、何かに触れているということ。
それが、あまりに不確かで、確かなことだった。
見上げると、焦点の定まらぬアメジストの瞳が、こちらを見ていた。
赤子の視線などに意味はない。
だがゼルヴァンには、それが"向けられた"ものだと、本能で知覚していた。
──初めて、「見られた」と思った。
誰かに。名を持った存在に。意味として。
ゼルヴァンの中に、名もなき何かが流れ込んでいた。
それは「忠誠」ではなかった。
それは「従属」でもなかった。
ただただ、
"この方に触れていたい"という願いにも似た衝動が、
彼の無の中心に、ゆっくりと広がっていた。
ゼルは、それが感情だとは理解しなかった。
理解できないまま、ただその日を終える。
──そして数日後には、再びちちうえの手が飛ぶ。
けれどその痛みの奥、ゼルヴァンの胸の深くには、
やわらかな掌の感触が、ずっと消えずに残っていた。
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