お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

文字の大きさ
12 / 12
バラード《過去》

光と祝福

しおりを挟む
 それは、あまりに静かで、整いすぎた祝福の午後だった。

 五月。初夏と晩春のちょうど狭間。
 風はまだ春を孕み、庭の花々は湿った緑の香りを立てていた。陽光は柔らかく、だがその優しさがかえって人々を慎ましくさせるような──神の手のひらの中にあるような午後だった。

 館全体が、ひとつの命を祝していた。
 沈黙さえ整列し、ざわめきすら天使の囁きのように響く。
 四月に生まれたばかりの、当主の娘のために。

 月長石の館は、この日、祝福と献身と微笑で満たされていた。

 齢二歳のゼルヴァンは、その中心に立たされていた。

 理由も告げられないまま、父に託児室から引き出され、黒い服の襟元を正され、ただ言われるがままに歩く。
 その横にはダリオン。靴の音を鳴らしながら、ときおり「どこいくの?」と問うていたが、返事はなかった。

 広間の前、絨毯の縁で、ふたりの足が止められる。
 父の手が、無言で背を押す。

 踏み出せ、と言われなくてもわかる。
 ゼルヴァンは黙って前に出た。ダリオンもついてくる。

 陽の粒が絨毯に落ちていた。
 大理石に反射するそれが、まるで祈りのように見えた。

 広間の奥、陽の中心に、その方はいた。

 当主の妻。
 クォーツ家十五代目の光を産み落とした、高雅なるその人。
 絹の衣に包まれ、腕に抱くのは、生まれてまだ一ヶ月の娘──

 ゼルヴァンは、それが何を意味するのか、わからなかった。わからないまま、ただ父の手に背を押され、広間へ踏み出す。

 そのとき、微笑みを浮かべた当主の妻が、まるで春の神話の一節のように、娘へと語りかけた。

「ジルシオ、目を開けて。ゼルヴァンとダリオンよ。あなたの従者となる子たちよ」

 その柔らかな音のなかに、確かにあった。
 初めて聞く、自分が仕える者の"名"。
 けれどその瞬間のゼルヴァンには、何の感慨もなかった。

 彼女の姿を見ても、心は動かなかった。
 ただ、命令されたから見る。そこに居るから見る。
 そういう、意味のない視線だった。

 柔らかな布にくるまれた、白い肌。
 きゅっと結ばれた小さな口。
 そして──まだどこを見ているとも知れぬ、深いアメジストの瞳。

 ゼルはそれを、じっと、静かに眺めていた。

「うわ…ちいさいなぁ……」
 ダリオンが息を漏らす。ゼルヴァンの隣で、目を丸くして見つめていた。

「まだ目がよく見えてないから、触ってあげてくれる?」

 その声に、ゼルヴァンは小さくまばたきをした。
 命令、だ。
 指を伸ばす。それだけ。

 迷いはない。けれど、動きは遅かった。
 彼にとって人に触れるという行為は、"許されるか否か"だけが判断基準だったから。

 おそるおそる、細く伸ばされた指が、小さな掌に触れる。
 すると──

 小さな手が、きゅっとゼルの指を握った。

 まるで、光が自分に触れてきたようだった。

 ゼルヴァンは、動けなかった。
 自分の手が、何かに包まれていること。
 自分の存在が、何かに触れているということ。
 それが、あまりに不確かで、確かなことだった。

 見上げると、焦点の定まらぬアメジストの瞳が、こちらを見ていた。
 赤子の視線などに意味はない。
 だがゼルヴァンには、それが"向けられた"ものだと、本能で知覚していた。

 ──初めて、「見られた」と思った。
 誰かに。名を持った存在に。意味として。

 ゼルヴァンの中に、名もなき何かが流れ込んでいた。
 それは「忠誠」ではなかった。
 それは「従属」でもなかった。

 ただただ、
 "この方に触れていたい"という願いにも似た衝動が、
 彼の無の中心に、ゆっくりと広がっていた。

 ゼルは、それが感情だとは理解しなかった。
 理解できないまま、ただその日を終える。

 ──そして数日後には、再びちちうえの手が飛ぶ。

 けれどその痛みの奥、ゼルヴァンの胸の深くには、
 やわらかな掌の感触が、ずっと消えずに残っていた。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

【完結】ドレスと一緒にそちらの方も差し上げましょう♪

山葵
恋愛
今日も私の屋敷に来たと思えば、衣装室に籠もって「これは君には幼すぎるね。」「こっちは、君には地味だ。」と私のドレスを物色している婚約者。 「こんなものかな?じゃあこれらは僕が処分しておくから!それじゃあ僕は忙しいから失礼する。」 人の屋敷に来て婚約者の私とお茶を飲む事なくドレスを持ち帰る婚約者ってどうなの!?

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

番が見つけられなかったので諦めて婚約したら、番を見つけてしまった。←今ここ。

三谷朱花
恋愛
息が止まる。 フィオーレがその表現を理解したのは、今日が初めてだった。

【完】はしたないですけど言わせてください……ざまぁみろ!

咲貴
恋愛
招かれてもいないお茶会に現れた妹。 あぁ、貴女が着ているドレスは……。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

処理中です...