お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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バラード《過去》

『泉は自ずと湧き出づ』《16歳と14歳》

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 陽は、音もなく傾いていた。

 秋の蔵書室──
 時間の降るような静けさと、積もる書物の匂い。そして、斜陽。
 大窓から射す一筋の光が、厚い書の表紙に触れては、そこに微かな金属の粉をまぶしたような反射をつくる。
 ゆっくりと漂う紙塵が、光のなかで浮遊し、その小さなきらめきが、呼吸のように棚の奥へ消えていく。

 窓辺には机。
 白く研がれた木肌の上に、薄紫の羽根ペンと、開かれた詩集と、少女の手がある。
 巻き髪の金糸が光をすべらせながら肩にかかり、陽に透けた睫毛の影が、ページの余白をすっと撫でていた。

「……"かのひとに水を与えし日、泉は自ずと湧き出づ"」

 言葉の輪郭はやわらかく、
 けれどどこか、空気を試すように、光の中へ流れ込んだ。

 対面には、黒髪の少年が立っていた。
 ダリオン。十六歳。
 整えられた服の下で、首の後ろを少しだけ掻くような無造作さが、陽の落ちる角度とよく馴染んでいた。
 彼の視線は、詩集を挟んで、お嬢様の手元から、窓の外へと自然に流れてゆく。

「誰かに親切にすれば、それが巡り巡って戻ってくる──って意味だな」

 ゆるい語尾に、硬さはない。
 けれど、その声には熱ではなく、温度があった。
 お湯であたためた石のように、静かで、持続する優しさ。

「与えた水は、いつか巡り巡って泉になる。手紙の締めとかにも引用されることが多いから覚えておいて損はねーな」

 ページに落ちた光が、微かに揺れる。お嬢様の指が、羽ペンの軸を軽く転がした。
 扉が開いたのは、その直後だった。

 ──銀の音。
 金具に触れた指先が、慎重すぎるほどに機械的な角度で扉を押し、その動作が止むまで、何ひとつ空気を乱さなかった。

「……お嬢様。お茶のご用意ができました」

 入ってきたのはゼルヴァン。
 従者としての名を与えられてまだ間もない。
 十六歳の彼の姿は、陽を受けてほんのわずかに溶けかけた影のようで、立ち姿の輪郭の内側にさえ、正しく在ろうとする固い意志が滲んでいた。

 ワゴンの上には、揃えられた銀器。
 お嬢様の席の前にのみ、ひとつだけ置かれた小さなカップ。
 そこへ注がれる琥珀の茶が、カップの白磁をゆっくりと濡らしてゆく。

「本日はガーネット領の秋摘みでございます。芳香は白花と林檎皮にて整えております。抽出時間は──」

 言葉よりも、香りが先に満ちた。
 陽に触れた茶の蒸気が、やわらかく空をすべり、
 湯気が巻き髪に沿って昇ると、金の一房がそれに誘われるように揺れた。

「ありがとう、ゼル。とてもいい香り……」

「……光栄にございます」

 その声音は、ほとんど息に近い。
 礼の角度すら寸分の狂いもなく、けれど、その正確さがどこか不安げな軋みを含んでいた。

「……なあ、俺の分は?」

 ふいに、ダリオンの声が横から射し込んだ。

 ゼルヴァンの指が、ぴたりと止まる。
 視線は下を向いたまま、肩ひとつ動かさず、彼は答えた。

「……ありませんが」

 その答えは、ためらいも、迷いもなく。
 紅茶を淹れる所作の延長として、自然に出てきたものだった。

 静かな光が、すっと沈んだ。
 カップの縁に落ちた影が、一瞬、張りつめる。

「お前な……"泉は湧き出づ"って、今ちょうど話してたとこなんだぜ?"かのひとに水を与えし日"って……俺にも水をくれても良かったんじゃねぇの?」

 その言葉に含まれた色は、からかいにも見え、嘆きにも見えた。
 だが、それ以上にどこか、緊張をほぐしてやろうとする気遣いと親しさの層があった。

「……?」

 ゼルヴァンの眉がわずかに寄る。
 ゼルヴァンは従者としての教育は完璧と言えるほどに受けて生きてきたが、勉学や教養といった面に関してはまだまだ一般的な一六歳の少年と変わらなかった。

 無意識のうちに、お嬢様へと視線が泳ぐ。
 だが──

 お嬢様は、くすくすと、微笑をこぼしていた。
 湯気が頬を撫で、睫毛が光に触れるたび、黄金の小さな羽のように揺れた。

「ふふ、そうね。詩の通りなら、ダリオンにも親切にしてあげた方が、巡って得をするかもしれないわ」

 紅茶の湯面が、わずかに震える。
 笑い声の余韻が、静かな室内にひとつ波紋を描いた。

「……得を……?お嬢様、私は従者ですので、利益を求めて行動するわけでは──」

「違う違う、そういう意味じゃなくてだな……」

 ダリオンが苦笑まじりに肩を竦め、
 お嬢様は、笑ったまま、羽ペンをもう一度持ち直す。

 ゼルヴァンは沈黙する。
 理解は遠く、けれどその沈黙さえ秩序のように整っていた。

 ──斜陽は、窓の外で音もなく傾いてゆく。
 カップのなかに揺れる光と、空気の温度が、少しずつ変わっていく。
 まだ何も起きてはいない。けれど確かに、何かが芽吹くような音が、書棚の奥に潜んでいた。

 それはまだ、言葉にならない。

 ただの紅茶。
 ただの勉強。
 ただの午後。

 けれど、その全てが、あとから振り返れば、きっと──

 泉の湧いた日のように、記憶の底で静かに揺れているに違いなかった。


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