お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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バラード《過去》

月と焔 -前編-《17歳》

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 夜はすでに、呼吸をやめていた。
 湿り気を帯びた静寂のなか、空だけが異様に澄み、月は雲ひとつない夜空に、そのかたちを完全に露わにしている。

 ひとつの白い円が、世界を淡く染めている。
 まるで、夜が選び抜いた、ただ一人のために。

 そこに立つ影。
 銀白の束が夜気をすべり、やわらかく舞いながら、また静かに肩へと落ちていく。

 その一本いっぽんに月光が宿り、細く、冷たく、光の繊維のように、宵の景色を編み直していた。
 
 肩に流れた一筋は、風の方こそ気を遣うように微動だにせず、その周囲だけが、まるで空気が服従しているような静けさに沈んでいた。

 ゼルヴァン。
 その名を知らぬ者がいたとしても、今この景色を見れば、誰もが悟るだろう。
 夜が服を与え、風が髪を撫で、月が輪郭を愛した男。
 その存在のすべてが、秩序に従うのではなく、秩序を生み出していた。

 ──その顔に微笑みはない。

 普段、柔らかく形づけられていたはずの唇は無音のままに閉じ、
 氷のような青の瞳が、月を反射して細く光っていた。
 光は宿っている。だが、それは生の熱ではない。
 夜の光をそのまま鏡のように返すだけの、完璧な冷たさ。

 衣の裾──黒いテイルコートは、まるで無音の羽のように翻る。
 そのすべてが、光と風とに選ばれたもののように、この世ならぬ均整を帯びていた。


 草を踏む音がかすれ、前方で男が倒れる。
 息が荒く、手足は泥にまみれ、もはや逃げる体力すら残っていない。
 その目に映ったのは、ただ──沈黙のなかに、まっすぐ歩を進めてくるゼルヴァンの姿だった。

 そして、声が落ちる。

「随分と、遠くまで逃げてくださいましたね」

 成人していない、少し高めの声。
 抑揚のない、乾いた響き。
 夜に飲まれることを前提としたような、存在を主張しない音。
 優しさも、怒りも、誇りさえも宿さず、ただ言葉のかたちをした何かが空気に放たれただけだった。

「……正直、助かります。ここなら、汚れも目立たないですからね」

 目立たない。何が。と問うより早く、彼は小さく息を吐いた。ほんの僅かな熱が空へと消える。
 そして、目を細めたまま、ごく自然に呟いた。

「血は、落ちにくいですから」

 その瞬間、音もなく、銀が抜かれる。
 鞘からこぼれたのは、まるで月光そのものを細く削り出したような剣──
 磨き上げられた刃が、月を映してわずかに煌めき、そして、闇へと溶けた。

 光の質が変わった。
 白かったはずの月が、どこか青白く滲み始める。
 その淡い光は彼の肌を透かし、血の温度を奪っていく。

 銀糸のような髪が、静かに沈む。
 動きのない空気の中で、それでも揺れる。
 まるで、光が己を引き立て役だと気づいて、それを怖れたかのように。

 完璧であることが、こんなにも冷たいのなら。人が美と呼ぶものの果ては、もしかすると生ではないのかもしれない。
 ゼルヴァンの存在が、それを静かに証明していた。

 月光が頬を撫でるたび、影が薄れる。
 影が薄れるたび、輪郭が消えていく。
 その消えゆく美しさは、どこまでも穏やかで、どこまでも無慈悲だった。

 風が戻らない。
 音もない。
 ただ、ひとつの形が残る。

 あまりに美しすぎて、死のように静かな形。

 月も風も沈黙し、刃もまた語らない。
 ただ一度、影が伸びる。
 そしてそれきり、すべてが夜に溶けていった。
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