お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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カプリス《日常》

紅茶

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 窓辺には曇りがかった光が射し込み、敷かれたラグに柔らかな陰影を描いていた。
 空はまだ晴れきらず、風もない。音という音がほとんど失せた空間に、ペン先のかすかな擦れだけが響いていた。

 ゼルヴァンは、長机の端に帳簿を広げ、黙々と書き物に没頭していた。
 姿勢は寸分の狂いもなく、まるで時間そのものに支配されているような均衡の中にある。
 書き続ける指は速すぎず遅すぎず、一定のリズムで紙を走る。室内にわずかな緊張感を残しながら。

「おい、差し入れだ」

 ドア越しに届く、低く気の抜けた声。
 扉はすでに開け放たれており、その向こうから入ってきた外気が、カーテンをわずかに揺らす。
 ゼルが顔を上げるよりも早く、目の前の机に──陶器の音が、すっと滑るように届いた。白磁に金の縁取りがある、館の正式な茶器だ。

「……恐縮です。助かります」


 ゼルヴァンはわずかに眼差しを上げ、自然に礼を口にした。

 飲みたいときに飲みたい者が、相手にもついでに淹れてやる。ふたりにとっては、それは日常のひとこまだ。ゼルヴァンは何の疑いも抱かず、ペンを置き、手を清めるように一度拭いてからカップを手に取った。

 ふと──その動きが止まる。
 わずかに眉が動き、鼻先にかすかな迷いが浮かんだ。

 そして、ひとくち。

 薄い音を立てて唇が離れ、ゼルヴァンのまなざしが、ごくわずかに遠くへ向いた。

「……これは、何を根拠に"紅茶"と呼ばれたのでしょうか?」

 呟きは静かに始まり、まるで鑑定士のように、精密な言葉が続いてゆく。

「まず香り。欠如しております。これは"無臭"ではなく"無念"です。湯気は出ているのに、存在感がありません。まるでこの世に生まれたこと自体が罪であるかのような気配の薄さ。茶葉たちが、ここに至るまでにどれほどの絶望を経たのでしょう」

 沈黙。
 ダリオンは小さく瞬きをした。反応とも無反応ともつかない、ごく自然なまばたき。
 口元は動かない。ただ、わずかに右の唇の端にだけ、乾いた指がかかっている。

「味は……これは難解です。苦味とも渋味とも言えない、"何か"が主張しております。しかも一方的に。協調性に欠ける風味。突如現れて喉を攻撃し、余韻もなく去っていく。無法者の集まりと言って差し支えない」

 ゼルヴァンの指が、そっとカップの縁を撫でる。
 まるで罪なき器だけは慰めようとしているようだった。

「温度に関しても言及を避けるわけにはまいりません。これは、紅茶が持つべき温かさではなく、"ぬるま湯"という名の背徳。淹れてからしばらく放置され、失意のうちに命を落とした液体──そう形容するのが最も適切かと」

「…………」

「全体としての印象は、そうですね……味の墓標、もしくは味覚の戦争犯罪、という言葉が近いかもしれません」

 部屋には、風がひとしきり通り抜けていった。
 その一息を挟んで、ダリオンが口を開く。

「…………お嬢が淹れたんだ」

 一瞬、空気が止まった。
 ゼルヴァンの指先が、かすかに震えた。

「…………失礼いたしました」

 それだけを口にし、ゼルヴァンは再び紅茶を手に取る。
 神聖な儀式のように姿勢を正し、視線を一度下げ、そしてゆっくりと口を近づけた。

「──この深み。これは、未熟という名の若葉の香り。茶葉が完全でないがゆえに、どこまでも透明で、どこまでも優しい。まるで、お嬢様の微笑のようでございます……」

「……」

「そして、この温度。これは偶然などではない。お嬢様の御手が触れていた時間、そして私たちに冷まさぬよう配慮された愛──すなわち、"慈温"と呼ぶべきでございます。人間が飲むに最も適した、思いやりの体温」

「なぁゼル」

「黙っていてください。いま、私は聖域におります」

 ゼルヴァンは静かに目を閉じ、両手で包み込むようにカップを持ち直した。
 その仕草は、まるで冷えた光を胸元であたためるような慎重さで、指先の一点まで礼節に満ちている。

「お前さっき、"味覚の戦争犯罪"とか言ったよな」

「それは、私の未熟な舌が、この繊細さを即座に理解できなかったための……いわば、感動のあまり言葉を失い、結果として言葉を誤ったというだけのことでございます」

 ゼルヴァンは静かに言葉を継ぎながら、二度目のひとくちを口に含む。
 熱さはなく、ぬるい温度だけが穏やかに舌の上を流れる。

 その刹那、ほんの微かに彼の睫毛が震えた。

「……お前すごいな」

 ゼルヴァンは最後のひとくちまで大切に飲み干し、カップをそっと置いた。
 その顔はどこかしら恍惚すら帯びており、先ほどまでの毒舌が幻だったかのよう。

「お嬢様が私のことを思ってくださった、そのお気持ちが、この紅茶の中にございます。その事実だけで、私は今日一日、いや……一年分の栄養を補給できた気すらいたします」

 ゼルヴァンの声は、穏やかにして揺るぎなく、そしてどこまでも真剣だった。
 まるで聖句を紡ぐ修道士のように、静謐な語り口で感謝という名の詩を語っている。

「はいはい」

 返されたその声に、ゼルヴァンは何も返さず、ただ静かにカップを傾け続けた。
 昼過ぎの光が机の上に斜めに伸びて、ふたりの影を淡く重ねていた。
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