お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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カプリス《日常》

黒猫の起こし方

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 朝、六時。
 月長石の館には、夜の名残がまだ薄く漂っていた。
 床を撫でる冷気の尾が、白い石壁に反射してゆらぎ、そこかしこに微光を残す。
 静寂はまるで絹のように繊細で、ひとつ音を立てれば破れそうなほどだった。

 ゼルヴァンはすでに完璧な燕尾服に身を包み、洗面台の前で手袋の縫い目を整えていた。
 指先の動きは寸分の乱れもなく、まるでそれ自体が儀式の一部であるかのような正確さだった。
 窓の外に目をやれば、薄い光が一枚の布のように空を覆い始めている。しらじらとした朝の色。まだ世界が本格的に目覚めるには、いささか早い。

 だが、その静寂の中に、あるべきものの欠如があった。

「……ダリオンが、まだ起きておりませんね」

 紅茶の湯が、小さな吐息を立てて沸きはじめたとき。
 ゼルヴァンはふと、背後に感じるはずの気配がないことに気づいた。
 いつもなら、寝癖を直しかけたままの髪と、眠たげな赤い瞳がこちらを覗き込んでくる時間だった。

 だが今朝に限って、気配はない。
 空気が静かすぎる。まるで、部屋の一角が呼吸をやめているかのように。

「……まったく」

 眉根をわずかに寄せ、ゼルヴァンは寝室の奥へ向かった。
 音もなく歩を進め、ベッドへとたどり着く。

 白布に覆われた塊。
 厚手の毛布が小山のように膨らみ、その中心にダリオンが沈んでいる。

「ダリオン、起床時間を過ぎております」

 ベッドの傍に立ち、落ち着いた声で呼びかける。
 声は、深く低く、それでいて刺すような鋭さはなかった。
 ただ、容赦がなかった。

「……聞こえておりますか?すでに六時五分でございます」

 応答はない。
 毛布に潜り込んだ黒髪の男は、まるで死者のように沈黙していたが、肩がわずかに上下している。眠っている。確かに。まだ。

「……ダリオン?」

 ゼルはすっと膝をつき、絨毯の上に沈んだ。
 指先でそっと、肩を押す。
 毛布の下、ぬくもりに沈んでいる肉体が、小さく軋むように揺れた。

「起きてください。お嬢様のお目覚めまで、あと一時間です」

 しかし返ってきたのは、くぐもった寝言のような声だった。

「……あと五分……」

 掠れるような甘えた声。
 毛布の向こうから洩れたそれは、まるで子供が母を呼ぶような湿度を帯びていて、ゼルの瞳から静かに慈愛の光を奪っていった。

 その瞳に、凍るような冷色が差す。

「仕方ありませんね」

 息を吐く。
 それは嘆息というには静かすぎて、冷たい朝の光の中へひとしずく沈んでいく。

 ゼルヴァンは立ち上がると、無言でベッドの脚元へと移動した。
 毛布の端にかかるダリオンの身体の一部──彼の脇腹に、燕尾服の黒がすっと影を落とす。

 そして、ゆっくりと片足を上げる。
 長く鍛え抜かれた脚が、ベッドの上へ。

「失礼」

 まるで処罰のように、しずかに、正確に、ダリオンの身体に触れた。

 ……つ、と。
 ゼルヴァンのかかとが、毛布越しにダリオンの腰をひっかける。
 そして、ほんのわずか、重心をかける。

 次の瞬間──身体がゆっくりと回転する。
 毛布ごと、ダリオンがベッドの縁から滑り落ちた。
 どすんっ、と情けない音が床に響く。

「……ん゛でっ」

 目を覚ましたダリオンの視界に、まず入ってきたのは自分を引きずり落とした、ゼルヴァンの脚だった。
 一方はベッドにかけられたまま、もう一方は床に立っている。
 その間に自分の頭があるという、屈辱的な──いや、少し滑稽な構図。

「……いってぇ……何……?ゼル……?」

 ようやく上体を起こしたとき、ダリオンは見上げた。
 189センチの従者が、無言で彼を見下ろしている。
 白手袋の手は膝の上に、背筋は微塵の揺らぎもなく、まるで一枚の鋼のようだった。

「起きないからです」

「え? だからってベッドから落とすか……?」

「あなたは従者です。そして私は従者長です。命令に従わない者に処置を下すのは、義務でございます」

「処罰って……」

 毛布を抱えたまま、床にぺたりと座り込む姿は、どこかしら子猫じみていた。
 ぐしゃぐしゃになった髪の隙間から覗く赤い目が、光をうっすら弾く。

「せめて声からにしてくれよ……寝てたんだよ、俺……」

「声をかけました。揺らしました。顔も叩こうかと思いましたが、最も有効で、最も短時間で済む手段を選びました。感謝してください」

 朝の光が、ゼルヴァンの輪郭をほの白く縁取っていた。
 その表情には、怒気も苛立ちもない。ただ冷徹な美と意志だけが、静かに浮かんでいた。

「しねぇよ……」

 ゼルはその返答に、特に反応もせず、ただ淡々と次の命を告げた。

「お湯は沸いております。五分以内に洗面所へ。でなければ水をかけます」

 そして、扉へ。
 完璧な姿勢のまま、背後に何も残さぬ足取りで部屋を出て行った。

 閉じた扉の向こうには、紅茶の香りが待っていた。
 茶葉が跳ねる音。光が湯面をなぞる音。
 まだ朝の静けさは破れていない──だが、確かに、目覚めの処置は完了していた。
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