お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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カプリス《日常》

雨上がりの競争

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 数日続いた長雨が、ようやく終わりを迎えていた。

 月長石の館の裏庭──雨を吸った地面はまだ柔らかく、わずかな風にも草木が湿った匂いを含んで揺れている。
 空はまだ雲の名残を残しながらも、時折差し込む陽が、屋根のしずくを銀色に光らせていた。

 ゼルヴァンは、燕尾の袖をすっとまくり上げ、手袋を丁寧に外す。
 露を含んだ空気の中でも、白い肌は冷ややかに冴えていた。
 彼の腕には、水を吸って重さを増した土嚢が四袋。肩へと滑らせるように載せ、無駄のない動きで台車へと運んでいく。

 泥の跳ねも、足音も、彼の周囲ではまるで音を失っているかのようだった。

「……おいゼル、これ、けっこう重ぇぞ」

 湿った土を靴底で払いながら、ダリオンが肩越しに声を投げた。
 彼の腕にも土嚢がふた袋。だが、少し傾ければ、重さに引きずられるように泥が音を立てて滑り落ちた。

「雨水吸ってる分、増量してんな……」

「そうでございますか」

 ゼルの声は、翳りのない水面を撫でるように静かだった。
 その手には、既に次の四袋が乗っている。重さを感じさせぬ所作で、重心を流すようにして持ち上げる。

「……お前、軽々持ってんな」

「慣れておりますので」

 陽の光が彼の肩先で反射し、淡い銀色の軌跡を描いた。
 その姿は、まるで儀式でも行っているかのように整然としていた。

「……お前、筋肉の密度おかしくね?」

「お褒めの言葉として受け取っておきます」

 ゼルが僅かに口元を緩め、ダリオンの抱える袋へ視線を落とす。
 そして、ごく自然な動作で首を傾げた。

「……それしか、持てないのですか?」

 ダリオンの動きがぴたりと止まる。
 水の音さえも、一瞬だけ沈黙するようだった。

「……は?」

 ゼルは完璧な姿勢を保ったまま、四袋を抱えて歩き出した。
 泥濘を踏む足取りさえ、静謐な舞のように乱れがない。

「重量が増しているとはいえ、二袋とは……少々控えめではございませんか」

「控えめってな、お前……四つとか普通に持ちにくいだろ!」

「バランスを整えれば可能です」

「人間のバランスじゃねぇよそれ!!」

 吐き出すようなダリオンの言葉に、ゼルはわずかに肩を揺らす。
 笑みの代わりに沈黙で返すその姿は、むしろ余裕を見せつけているようで。

 ダリオンは舌打ち混じりに袋へ向き直る。
 腕を大きく広げ、濡れた麻布の感触に指先を沈めながら、強引に持ち上げた。
 湿った土が地面を跳ね、泥の粒が光を浴びて散る。
 深く吸い込んだ呼吸が、吐き出されると同時に白い息のように空へ溶けていった。

「っ……ほらよ、俺だって持てる!」

「そうでしょうとも」

 ゼルは、わずかに口元を緩めた。
 目元には微かに光を帯びた余裕が滲み、睫毛の影が涼しげに揺れる。

「……はぁー! なんだそのドヤ顔! ムカつく!」

「そのような顔はしておりません」

「してた!」

「あなたの疲労が幻覚を見せているだけでしょう」

 ゼルの声は静かだった。
 わずかな風が、彼の銀髪を揺らす。
 光を受けた睫毛がかすかにきらめき、呼吸の浅さまでもが優雅に見えてしまうから厄介だった。

 ダリオンはぐしゃりと音を立てる泥を踏みながら、無言で土嚢を持ち直した。

「おうおう上等だ、このまま全部運んでやる!」

「……では、競争いたしますか」

「受けて立つ!」

 小さな衝突が波紋のように広がり、作業のリズムが変わる。
 濡れた石畳にふたりの足音が交差し、台車の軋む音が空に跳ねた。
 先ほどまで長閑だった庭に、わずかに色が差し込む。




 最後の一袋が積まれたとき、世界が再び沈黙を取り戻す。
 ぬかるみに足を取られたまま、ダリオンは肩を大きく上下させ、濃く湿った空気を吸い込む。
 背中から立ち上る熱が、すでに冷えはじめた風にさらわれていくのがわかる。
 額の汗が頬をつたって泥に混ざった。

「っはー……どうだ、同数、同速!」

「見事でございます」

 ゼルは整った呼吸のまま、少しだけ頷く。
 白シャツの袖を直しながら、乱れひとつない姿勢で言葉を返すその様子は、まるで最初から疲労の余地などなかったかのようだった。

「認めたな」

「ええ。ただし、持ち上げる姿勢がいささか雑でございましたが」

「うるせぇ」

 吐き捨てるようなひと言に、木々の隙間から風がすっと吹き抜ける。

 ゼルは袖口を慎重に整えながら、ふと庭の奥に目を向ける。
 朝の雨が残した水たまりが、雲間から差し込む光を受けて、鏡のように空を映していた。

「……お嬢様がこの光景をご覧になったら、どう思われるでしょうね」

「あ?そりゃ、"あらあら、仲良しね"って笑うに決まってんだろ」

 ダリオンが苦笑交じりに言う。
 その声音の柔らかさに、ゼルのまなざしがかすかに揺れた。

「……目に浮かびます」

 光と音が、しずかに溶けてゆく。
 濡れた草の匂いの中、ふたりの影が並び、午後の静けさの中に溶けていった。
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