お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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カプリス《日常》

折れた直線

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 部屋は、静かだった。
 月長石の館の従者部屋。時間は夜の終わりに近い。
 浴場からの蒸気はすでに薄くなり、鏡にはわずかな曇りが残るのみ。洗面台の蛇口が一滴、水を落とす。

 ゼルヴァンは、ベッドの脇に膝をついていた。
 濃藍のカーペットの上に、慎ましく両膝を揃え、肩を傾け、片腕を深くベッドの下へと差し入れている。
 硬質なベッドフレームに腹を押しつけながら、手袋のまま伸ばした右手の先を、薄闇の奥へとすべり込ませていた。

 ことの発端は、紅茶缶の蓋だ。
 書棚の上から手を伸ばした拍子に、缶がわずかに傾き、蓋だけが音もなく転がってベッドの下へと吸い込まれたのだ。

 完璧主義の従者にとって、これは許されざる失態である。
 放置など、ありえない。
 それが埃をかぶるなど、論外だった。

 指先に冷たい感触が触れた瞬間、それは起こった。

「…………っ……」

 静寂を割るように、息が止まる。

 腕の付け根、脇の下から肩甲骨へ──さらに腰の奥まで、
 一本の硬直した痛みが、雷のように這い登った。

 伸ばしていた背中の筋が、限界の音を立てた。

 左手を支えに体勢を整えようとするが、もはや遅い。
 絨毯の上に突っ伏したまま、ゼルは一歩も動けなくなっていた。

 滑らかに整えられた銀白の髪が床に散る。
 燕尾服の裾が硬く折れ曲がり、右肩から腰にかけて不自然な歪みを帯びる。
 ふだんの完璧な立ち姿からは想像もつかぬほど、折り畳まれた姿勢。
 だが、呻き声は出なかった。ただ、喉の奥に細く押し込めたまま。

 そのとき、扉が軋む。

 浴室から出てきたダリオンが、髪をタオルで拭きながら廊下を抜けてくる。
 裸足の足音が床を湿らせながら進み、洗面所の明かりに肩が濡れて光る。
 そして──ベッドの傍らに差しかかり、ふと足を止めた。

 そこにあるのは、見慣れた黒の燕尾服。
 だが、その姿勢は見慣れない。
 まるで這うように、いや、崩れ落ちたようにベッドに腕を差し込んだまま動かないゼルの背中。
 家具の隙間に挟まって出られなくなった猫のようだった。

「………………おい、ゼル」

 沈黙。
 ゼルは微動だにしない。
 ただ、床とベッドに挟まれた僅かな空間に、呼吸の熱が白くこもる。

「……なにしてんだよ。掃除……?」

 ダリオンは片眉を上げたまま、近づいた。
 立ち姿のまま、軽く腰を落とすと、ベッドの下を覗き込む。

 そこにあるのは、床に落ちた小さな缶の蓋。
 そして、そこへ届きかけたまま凍ったように固まっているゼルの右腕。

「……お前、まさか攣ってんのか」

 呆れを滲ませて言う。
 ゼルはわずかに首を傾け、呼吸の浅さのなかで応える。

「…………肩と、背中と、腰が、同時に……」

「いや、手を突っ込んだだけで攣る奴がどこにいんだよ」

 ダリオンが膝をついて屈み込む。
 バスタオルの端が落ち、ゼルの肩にかかる。
 ダリオンは無造作にしゃがみこみ、ベッドの下に手を入れた。
 あっさりと金属の蓋を拾い、腕をひとひねりして立ち上がる。
 猫のように柔らかく、まるで難なく。

「ほらよ。……ってか、お前ほんと体硬ぇな。お嬢の前で攣るなよ、マジで」

「……努めます……」

 バスタオルを肩にかけながら、ダリオンはゼルの背に手を添え、ゆっくり身体を起こそうとする。
 ゼルの身体は、ぎこちない音を立てながら、ベッドから引きずり出されていった。
 まるで高貴な亡骸のように静かに。

「……お嬢様には……内密に……」

 かろうじて搾り出した声に、ダリオンは肩を震わせた。

「言ったらお前死にそうだもんな」

「……死には……しませんが……それに類する何かが……」

「なぁにその曖昧な地獄」

 タオルで笑いを拭うようにしながら、ダリオンは洗面所へ戻っていった。
 その背後に、深く沈んだゼルの姿勢だけが残されていた。
 燕尾の裾が敷き布と絡み、重力のなかで崩れ落ちる。
 窓の外で、風がかすかに草を揺らした。
 薄く光る細い三日月が、静かにその光景を見て笑っていた。
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