20 / 22
カプリス《日常》
折れた直線
しおりを挟む
部屋は、静かだった。
月長石の館の従者部屋。時間は夜の終わりに近い。
浴場からの蒸気はすでに薄くなり、鏡にはわずかな曇りが残るのみ。洗面台の蛇口が一滴、水を落とす。
ゼルヴァンは、ベッドの脇に膝をついていた。
濃藍のカーペットの上に、慎ましく両膝を揃え、肩を傾け、片腕を深くベッドの下へと差し入れている。
硬質なベッドフレームに腹を押しつけながら、手袋のまま伸ばした右手の先を、薄闇の奥へとすべり込ませていた。
ことの発端は、紅茶缶の蓋だ。
書棚の上から手を伸ばした拍子に、缶がわずかに傾き、蓋だけが音もなく転がってベッドの下へと吸い込まれたのだ。
完璧主義の従者にとって、これは許されざる失態である。
放置など、ありえない。
それが埃をかぶるなど、論外だった。
指先に冷たい感触が触れた瞬間、それは起こった。
「…………っ……」
静寂を割るように、息が止まる。
腕の付け根、脇の下から肩甲骨へ──さらに腰の奥まで、
一本の硬直した痛みが、雷のように這い登った。
伸ばしていた背中の筋が、限界の音を立てた。
左手を支えに体勢を整えようとするが、もはや遅い。
絨毯の上に突っ伏したまま、ゼルは一歩も動けなくなっていた。
滑らかに整えられた銀白の髪が床に散る。
燕尾服の裾が硬く折れ曲がり、右肩から腰にかけて不自然な歪みを帯びる。
ふだんの完璧な立ち姿からは想像もつかぬほど、折り畳まれた姿勢。
だが、呻き声は出なかった。ただ、喉の奥に細く押し込めたまま。
そのとき、扉が軋む。
浴室から出てきたダリオンが、髪をタオルで拭きながら廊下を抜けてくる。
裸足の足音が床を湿らせながら進み、洗面所の明かりに肩が濡れて光る。
そして──ベッドの傍らに差しかかり、ふと足を止めた。
そこにあるのは、見慣れた黒の燕尾服。
だが、その姿勢は見慣れない。
まるで這うように、いや、崩れ落ちたようにベッドに腕を差し込んだまま動かないゼルの背中。
家具の隙間に挟まって出られなくなった猫のようだった。
「………………おい、ゼル」
沈黙。
ゼルは微動だにしない。
ただ、床とベッドに挟まれた僅かな空間に、呼吸の熱が白くこもる。
「……なにしてんだよ。掃除……?」
ダリオンは片眉を上げたまま、近づいた。
立ち姿のまま、軽く腰を落とすと、ベッドの下を覗き込む。
そこにあるのは、床に落ちた小さな缶の蓋。
そして、そこへ届きかけたまま凍ったように固まっているゼルの右腕。
「……お前、まさか攣ってんのか」
呆れを滲ませて言う。
ゼルはわずかに首を傾け、呼吸の浅さのなかで応える。
「…………肩と、背中と、腰が、同時に……」
「いや、手を突っ込んだだけで攣る奴がどこにいんだよ」
ダリオンが膝をついて屈み込む。
バスタオルの端が落ち、ゼルの肩にかかる。
ダリオンは無造作にしゃがみこみ、ベッドの下に手を入れた。
あっさりと金属の蓋を拾い、腕をひとひねりして立ち上がる。
猫のように柔らかく、まるで難なく。
「ほらよ。……ってか、お前ほんと体硬ぇな。お嬢の前で攣るなよ、マジで」
「……努めます……」
バスタオルを肩にかけながら、ダリオンはゼルの背に手を添え、ゆっくり身体を起こそうとする。
ゼルの身体は、ぎこちない音を立てながら、ベッドから引きずり出されていった。
まるで高貴な亡骸のように静かに。
「……お嬢様には……内密に……」
かろうじて搾り出した声に、ダリオンは肩を震わせた。
「言ったらお前死にそうだもんな」
「……死には……しませんが……それに類する何かが……」
「なぁにその曖昧な地獄」
タオルで笑いを拭うようにしながら、ダリオンは洗面所へ戻っていった。
その背後に、深く沈んだゼルの姿勢だけが残されていた。
燕尾の裾が敷き布と絡み、重力のなかで崩れ落ちる。
窓の外で、風がかすかに草を揺らした。
薄く光る細い三日月が、静かにその光景を見て笑っていた。
月長石の館の従者部屋。時間は夜の終わりに近い。
浴場からの蒸気はすでに薄くなり、鏡にはわずかな曇りが残るのみ。洗面台の蛇口が一滴、水を落とす。
ゼルヴァンは、ベッドの脇に膝をついていた。
濃藍のカーペットの上に、慎ましく両膝を揃え、肩を傾け、片腕を深くベッドの下へと差し入れている。
硬質なベッドフレームに腹を押しつけながら、手袋のまま伸ばした右手の先を、薄闇の奥へとすべり込ませていた。
ことの発端は、紅茶缶の蓋だ。
書棚の上から手を伸ばした拍子に、缶がわずかに傾き、蓋だけが音もなく転がってベッドの下へと吸い込まれたのだ。
完璧主義の従者にとって、これは許されざる失態である。
放置など、ありえない。
それが埃をかぶるなど、論外だった。
指先に冷たい感触が触れた瞬間、それは起こった。
「…………っ……」
静寂を割るように、息が止まる。
腕の付け根、脇の下から肩甲骨へ──さらに腰の奥まで、
一本の硬直した痛みが、雷のように這い登った。
伸ばしていた背中の筋が、限界の音を立てた。
左手を支えに体勢を整えようとするが、もはや遅い。
絨毯の上に突っ伏したまま、ゼルは一歩も動けなくなっていた。
滑らかに整えられた銀白の髪が床に散る。
燕尾服の裾が硬く折れ曲がり、右肩から腰にかけて不自然な歪みを帯びる。
ふだんの完璧な立ち姿からは想像もつかぬほど、折り畳まれた姿勢。
だが、呻き声は出なかった。ただ、喉の奥に細く押し込めたまま。
そのとき、扉が軋む。
浴室から出てきたダリオンが、髪をタオルで拭きながら廊下を抜けてくる。
裸足の足音が床を湿らせながら進み、洗面所の明かりに肩が濡れて光る。
そして──ベッドの傍らに差しかかり、ふと足を止めた。
そこにあるのは、見慣れた黒の燕尾服。
だが、その姿勢は見慣れない。
まるで這うように、いや、崩れ落ちたようにベッドに腕を差し込んだまま動かないゼルの背中。
家具の隙間に挟まって出られなくなった猫のようだった。
「………………おい、ゼル」
沈黙。
ゼルは微動だにしない。
ただ、床とベッドに挟まれた僅かな空間に、呼吸の熱が白くこもる。
「……なにしてんだよ。掃除……?」
ダリオンは片眉を上げたまま、近づいた。
立ち姿のまま、軽く腰を落とすと、ベッドの下を覗き込む。
そこにあるのは、床に落ちた小さな缶の蓋。
そして、そこへ届きかけたまま凍ったように固まっているゼルの右腕。
「……お前、まさか攣ってんのか」
呆れを滲ませて言う。
ゼルはわずかに首を傾け、呼吸の浅さのなかで応える。
「…………肩と、背中と、腰が、同時に……」
「いや、手を突っ込んだだけで攣る奴がどこにいんだよ」
ダリオンが膝をついて屈み込む。
バスタオルの端が落ち、ゼルの肩にかかる。
ダリオンは無造作にしゃがみこみ、ベッドの下に手を入れた。
あっさりと金属の蓋を拾い、腕をひとひねりして立ち上がる。
猫のように柔らかく、まるで難なく。
「ほらよ。……ってか、お前ほんと体硬ぇな。お嬢の前で攣るなよ、マジで」
「……努めます……」
バスタオルを肩にかけながら、ダリオンはゼルの背に手を添え、ゆっくり身体を起こそうとする。
ゼルの身体は、ぎこちない音を立てながら、ベッドから引きずり出されていった。
まるで高貴な亡骸のように静かに。
「……お嬢様には……内密に……」
かろうじて搾り出した声に、ダリオンは肩を震わせた。
「言ったらお前死にそうだもんな」
「……死には……しませんが……それに類する何かが……」
「なぁにその曖昧な地獄」
タオルで笑いを拭うようにしながら、ダリオンは洗面所へ戻っていった。
その背後に、深く沈んだゼルの姿勢だけが残されていた。
燕尾の裾が敷き布と絡み、重力のなかで崩れ落ちる。
窓の外で、風がかすかに草を揺らした。
薄く光る細い三日月が、静かにその光景を見て笑っていた。
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!
翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。
侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。
そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。
私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。
この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。
それでは次の結婚は望めない。
その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる