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バラード《過去》
十五代目の従者となった日 -前編-《18歳》
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窓の外では、春を告げる湿った風が月長石の館をなぞり、芽吹きを待つ木々の騒めきが、どこか遠く喧騒のように響いている。
四月一日。館の中は、主の交代という大きなうねりを前に、沸き立つような熱気に包まれていた。
回廊を歩けば、荷造りに追われる老練なメイドたちの靴音が、石床に乾いた音を響かせている。
父君が連れて行くのは、彼の手足として長年仕えてきた者たち。残されるのは、お嬢様という新たな太陽を囲む、未熟ながらも瑞々しい若葉のような数名の使用人のみ。
その新旧の交差という特異な空気の中でゼルヴァンは、ここを去るメイド達の荷運びを手伝わされていた。
燕尾服の襟元は一分の隙もなく整えられ、白手袋に汚れひとつない。
だが、その端正な横顔は、死を待つ彫像のように白く強張っていた。
ゼルヴァンの思考を支配するのは、解放への喜びではなく、底知れぬ恐怖だった。
彼の背中には、今朝受けたばかりの折檻の熱が、じっとりと湿った痛みとなって張り付いている。
父親の大きな掌が、空気を裂いて自分の頬を打つ時の、あの耳のうちが熱くなるような風切り音。骨に響く衝撃。
それが、ゼルヴァンにとっての「正しさ」を確認する唯一の儀式であった。
幼い頃から、父の呪詛のような教えは折檻と共に血肉に刻まれてきた。殴られるたび、彼は自らの中にある「不純な自我」が削ぎ落とされ、完璧な従者という器に近づけるのだと信じ込んできた。
だが、あと十日もすれば、その「正しさ」を叩き込んでくれる存在が消える。
それは、闇の中で命綱を断ち切られるに等しかった。自分を縛り、形作っていた鉄の鎖が解けた時、自分は果たして人間としての形を保っていられるのか。あるいは、ただの泥となって崩れ落ちるのではないか。
窓から差し込む春の光が、ゼルの冷ややかな銀髪を透かし、暖かさに芽吹き綻ぶ庭の花々を照らし出す。その美しさが、今のゼルヴァンには毒のように眩しかった。
一方のダリオンは、メイドたちの荷物を先に運び終えて、大きく息を吐いた。
家庭教師という、いわば「言葉」で仕える立場から、実働を担う「従者」へと転身して一年。まだその燕尾服は、彼のしなやかで野性味を帯びた筋肉にはいささか窮屈に感じられた。
ダリオンの胸中にあるのは、ゼルとは対照的な、ひりつくような武者震いだ。
父の拳がいかに重かったか、母の小言がいかに煩かったか。それを思い出すたび、彼は奥歯を噛み締める。
これからは、誰の背中を追うことも許されない。お嬢様を守る盾となり、彼女の歩む道を切り開く剣となるのは、自分と、この後ろにいる堅物な銀髪の男だけなのだ。
ダリオンは、背後で手本のような姿勢のまま荷物を丁寧に置いているゼルヴァンを振り返った。
逆光の中に立つゼルの姿は、あまりに脆く、今にも光に溶けて消えてしまいそうに見える。ダリオンはその違和感の正体を掴みかねながらも、ぶっきらぼうな声を投げた。
「おい、ゼル。何ぼーっとしてやがる。お前らしくもねぇ。……時計、狂ってんのか?」
「……狂ってなど、おりませんが」
ゼルヴァンは、館を包む喧騒の裏側に、死に至るほどの静かな絶望を隠し持ちながら、胸ポケットから懐中時計を取り出した。
カチ、カチと刻まれる正しい秒針の音。それは、彼がこれまで信じてきた世界の、崩壊へのカウントダウンに他ならなかった。
四月一日。館の中は、主の交代という大きなうねりを前に、沸き立つような熱気に包まれていた。
回廊を歩けば、荷造りに追われる老練なメイドたちの靴音が、石床に乾いた音を響かせている。
父君が連れて行くのは、彼の手足として長年仕えてきた者たち。残されるのは、お嬢様という新たな太陽を囲む、未熟ながらも瑞々しい若葉のような数名の使用人のみ。
その新旧の交差という特異な空気の中でゼルヴァンは、ここを去るメイド達の荷運びを手伝わされていた。
燕尾服の襟元は一分の隙もなく整えられ、白手袋に汚れひとつない。
だが、その端正な横顔は、死を待つ彫像のように白く強張っていた。
ゼルヴァンの思考を支配するのは、解放への喜びではなく、底知れぬ恐怖だった。
彼の背中には、今朝受けたばかりの折檻の熱が、じっとりと湿った痛みとなって張り付いている。
父親の大きな掌が、空気を裂いて自分の頬を打つ時の、あの耳のうちが熱くなるような風切り音。骨に響く衝撃。
それが、ゼルヴァンにとっての「正しさ」を確認する唯一の儀式であった。
幼い頃から、父の呪詛のような教えは折檻と共に血肉に刻まれてきた。殴られるたび、彼は自らの中にある「不純な自我」が削ぎ落とされ、完璧な従者という器に近づけるのだと信じ込んできた。
だが、あと十日もすれば、その「正しさ」を叩き込んでくれる存在が消える。
それは、闇の中で命綱を断ち切られるに等しかった。自分を縛り、形作っていた鉄の鎖が解けた時、自分は果たして人間としての形を保っていられるのか。あるいは、ただの泥となって崩れ落ちるのではないか。
窓から差し込む春の光が、ゼルの冷ややかな銀髪を透かし、暖かさに芽吹き綻ぶ庭の花々を照らし出す。その美しさが、今のゼルヴァンには毒のように眩しかった。
一方のダリオンは、メイドたちの荷物を先に運び終えて、大きく息を吐いた。
家庭教師という、いわば「言葉」で仕える立場から、実働を担う「従者」へと転身して一年。まだその燕尾服は、彼のしなやかで野性味を帯びた筋肉にはいささか窮屈に感じられた。
ダリオンの胸中にあるのは、ゼルとは対照的な、ひりつくような武者震いだ。
父の拳がいかに重かったか、母の小言がいかに煩かったか。それを思い出すたび、彼は奥歯を噛み締める。
これからは、誰の背中を追うことも許されない。お嬢様を守る盾となり、彼女の歩む道を切り開く剣となるのは、自分と、この後ろにいる堅物な銀髪の男だけなのだ。
ダリオンは、背後で手本のような姿勢のまま荷物を丁寧に置いているゼルヴァンを振り返った。
逆光の中に立つゼルの姿は、あまりに脆く、今にも光に溶けて消えてしまいそうに見える。ダリオンはその違和感の正体を掴みかねながらも、ぶっきらぼうな声を投げた。
「おい、ゼル。何ぼーっとしてやがる。お前らしくもねぇ。……時計、狂ってんのか?」
「……狂ってなど、おりませんが」
ゼルヴァンは、館を包む喧騒の裏側に、死に至るほどの静かな絶望を隠し持ちながら、胸ポケットから懐中時計を取り出した。
カチ、カチと刻まれる正しい秒針の音。それは、彼がこれまで信じてきた世界の、崩壊へのカウントダウンに他ならなかった。
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