お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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バラード《過去》

十五代目の従者となった日 -後編-《18歳》

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 春の夜風は、どこか名残惜しげな湿り気を帯びて、重厚な石造りの窓枠を撫でていた。

 四月十日。祝祭の狂乱が去った後の館は、まるで深海のような静寂に沈んでいる。新当主の誕生を祝う薔薇の香りと、去りゆく旧主たちの馬車が巻き上げた土埃。それらが混じり合った気配のなかで、ゼルヴァンとダリオンは、今夜から自分たちの城となる狭隘な従者部屋へと辿り着いた。

 部屋の奥には、古びた、けれど手入れの行き届いた樫の木のベッドが二つ、対峙するように置かれている。

「やべぇ……想像以上にてんやわんやだったわ……。お袋と親父に手紙渡そうと思ってたのにそんな暇なかった……」

 ダリオンは、誇り高い燕尾服を泥のように引きずり、冷たい床に背中を預けた。吐き出された溜息が、空っぽの部屋に虚しく反響する。
 親という重石が取れた解放感と、それを味わう間もなく押し寄せた労働の重みに、彼の声は掠れていた。

「郵送で送ればいいでしょう……ふぅ」

 ゼルヴァンはため息と共に答える。
 彼は一度はダリオンの隣に、重力に負けるようにして腰を下ろした。だが、その瞬間に背筋を駆け抜けたのは、安堵ではなく、悍ましいほどの嫌悪と恐怖だった。

「……っ」

 弾かれたように立ち上がる。膝の汚れを執拗なまでに払い、銀の髪を乱れ一つなく整え直す。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、深呼吸一つ乱さないその立ち姿は、まるでそこに峻烈な父の視線が、今なお存在しているかのような。

「今は仕事中じゃねーんだからそんな息が詰まるような立ち方しなくてもいいだろ。俺の息が詰まる」

 ダリオンの苦言は、虚空に消える。

「従者としての品位は、主の視線がある時のみに保つものではありません。ダリオン、貴方のその態度は、クォーツ家の名を汚すことに等しい。常に自分を律し、鏡のような静謐を保ちなさい」

 まるで誰かから言われ続けてきたことをそのまま再生したかのようなゼルヴァンの言い草に、ダリオンは硬いその表情を床から見上げる。

 そんなダリオンが見てる間にも、テキパキと、流れるような動作で生地のシワを伸ばし、一分の隙もなくブラッシングを施していく。
 それは、父がいなくなった空白を埋めるための、彼なりの儀式のようでもあった。自分を打つ手がなくなった今、自分自身が自分を打つ「鞭」にならなければ、霧の中に溶けて消えてしまいそうな恐怖が、彼の指先を狂いなく動かしていた。

 整え終えた衣類を、ゼルヴァンは壁に埋め込まれたクローゼットへと収めていく。そこには、事前に運び込まれた彼の持ち物が、定規で測ったかのように整然と並んでいた。

「……なぁ、それ。寝ぼけてる時に、俺のクローゼットと間違えそうだな」

 ダリオンが、どこか茶化すように、けれど寂しさを紛らわせるような声音でぼやいた。
 これから先、親という絶対的な羅針盤を失った二人が、この狭い空間で身を寄せ合って生きていく。その事実を、ダリオンなりに受け入れようとする言葉だった。

 だが、ゼルヴァンはクローゼットの扉を閉める手を止め、冷徹な一瞥を投げた。主人とクォーツ家への忠誠だけを生きる軸とする彼にとって、ダリオンの提示する「共生」という甘えは、毒に等しい。

「杞憂でございます、ダリオン。貴方の乱雑なクローゼットと見間違えるほど、私の意識が朦朧とすることなど生涯ございません。……いいですか、確認しておきます」

 ゼルヴァンは、懐中時計の鎖を指先でなぞりながら、低い声で告げた。

「私たちはこの部屋を共有しますが、それはあくまで空間の共有に過ぎない。互いの生活に干渉せず、私生活においても従者としての矜持を保つこと。貴方は貴方の、私は私の領分を侵さない。……それでよろしいですね」

 淡々と、冷徹に告げるゼルヴァンの声は、同居人への拒絶というよりは、自分という壊れやすい形を維持するための必死の防壁であった。

「ここにソファ欲しくね? でかいやつ。疲れて帰ってきて、床に座るのは流石に惨めだわ」

 ダリオンはわざとらしくその言葉を無視し、虚空に家具の幻影を描くように手を広げた。

「私は座らないのでお好きにどうぞ」

「……お前さ、家族のとこにいた時はどうしてたんだ?流石に立ちっぱなしってことはねーだろ?」

 ゼルヴァンの指先が、クローゼットの扉の縁を神経質に撫でた。

「食事と勉学と就寝時以外は立ちっぱなしでした。慣れておりますのでお気遣いなく」

 淡々と、あたかも今日の天気を語るかのように告げられた事実に、ダリオンの言葉が詰まる。暗がりのなか、ダリオンの赤い瞳がゼルヴァンの硬い背中を射抜いた。
 折檻と教育の境界を奪われ、休息という概念すら剥奪されて育った、この美しすぎる幼馴染の歪み。

「マジかよ……そんなんじゃ疲れ取れねーぞ」

「疲れなど、ただの怠慢の言い訳です。肉体の疲労は、精神の弛緩から来るもの。私は、弛むわけにはいかない」

「よし決めた!こっち側は共有スペースにしようぜ」

 ダリオンは、ゼルの拒絶を強引に押し流すように声を張った。

「ここに寝っ転がれるソファをおいて、こっちに大きめのテーブルと椅子を二脚置く。仕事終わりはここで俺らは一緒に飯を食う。決まり」

「私の話を聞いてましたか?お互い干渉しないよう……」

「そうは言っても、従者はもう俺たち2人しかいねぇんだ。男は俺たち二人、力仕事の類は今まで従者が何十人といた時より圧倒的に増える。効率を考えたら、二人で一緒にやった方がいいもんは山程ある。違うか?」

「効率」という冷徹な言葉が、ゼルヴァンの思考の隙間に滑り込む。
 父を失い、何を基準に「正しさ」を計ればいいのか分からず、ただ闇雲に自らを縛り付けようとしていた彼にとって、その論理は唯一の縋るべき杖であった。

「…………まぁ、一理ありますね。食事の効率化のための共同作業と言うのであれば、受け入れましょう……」

 ゼルヴァンは、渋々と反論を飲み込んだ。父という絶対的な規範を失い、霧の中を彷徨っていた彼の心は、ダリオンが強引に引いた「共有」という名の線引きに、無意識のうちに縋り付いていた。

 パタン、と静かな音を立ててクローゼットが閉まる。
 カーテンのない窓からは、冷たく白い満月の光が差し込み、二つのベッドを等しく照らし出していた。

 それは、親という名の重圧から解き放たれたはずの二人が、互いという未知の重力を受け入れ始めた、最初の夜の光だった。
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