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バラード《過去》
風邪1《20歳》
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夜の余熱がまだ館の奥に滲んでいる。
空がまだ真っ白に溶けきらぬ、夜と朝のはざま。
その空気には硝子を曇らせるような微かな冷気が潜み、息を吸うたび、肺の奥をそっと撫でて通り抜けていった。
ゼルヴァンは、夜のしじまを破らぬよう、静かにまばたいた。
目覚めたというよりは、意識が水面の底からゆるやかに浮かび上がってきたような――そんな、眠気と覚醒の境界に身を預けた感覚だった。
脳の奥に、ゆるやかな霧がかかっている。
頭蓋の内側でゆらゆらと音もなく揺れる濁り。
けれどそれはどこか優美な違和感でもあり、ゼルヴァンはそれを異常とは認識しなかった。
ただ、身体の奥底に沈んだままの鈍さが、どうしようもなく眠っていた重石のように、動くたびに自己主張を始めていた。
深く息を吸い込む。
冷気が喉にひっかかり、肺を通り過ぎていった。
その刺さるような感覚もまた、冬の朝によくあることと片づけられた。
「問題ございません」
自らに確認するように呟き、ゼルヴァンは無音の足音で洗面所へと向かう。
足音は月の反射のように静かで、洗面所までの道を、淡く銀に濡れた白い石の廊下が導いていった。
石の肌がひんやりとして、足裏から体温が吸われていく。
洗面所の白光は、容赦なくゼルヴァンの輪郭を暴いた。
鏡の中で、己が目を細めるのが見える。
光が鋭すぎた。
その刃は、皮膚ではなく、内側を斬ってくるようだった。
白磁のような手を上げて、いつものように手袋を外す。
身だしなみは祈りのように整えられるべきものだ。
櫛を取る。だが──
手が、かすかに震えた。
水面に浮かんだ木の葉のように、ふるり、ふるりと。
化粧がのらない。
肌のきめが、まるで砂漠のように均されず、粉をはじく。
まつ毛がしっとりと濡れているのは、涙ではない。
けれど、まるで見えない泣痕がそこにあるように、鏡の中の瞳はいつもよりやや潤んでいた。
「……?」
ゼルヴァンは、小さく首を傾けた。
しかしそのまま、何も問わず、問い直さず、ただ身支度を続けた。
それは祈りにも似た静かな作業だった。しかし、時間はいつもより遅く流れていた。
細く整えられた手が襟元のボタンに触れる頃には、すでに二時間が過ぎていた。
六時の鐘が鳴る少し前。
軋む扉。
湿気を含んだ眠気の声が、背後からこぼれる。
「今日も長ぇなぁ…」
ぼさぼさの黒髪を跳ねさせたままのダリオンが、欠伸混じりに洗面所に入ってくる。
一度ゼルヴァンをチラリと見て、何気なく視線を外し、
数歩後に、ふいに二度見するように目を戻した。
ゼルヴァンは、鏡越しにその視線を受け止める。
「何ですか」
その声音には、なんの警戒もなく、ただ真っ直ぐな静けさがあった。
答えはなかった。
代わりに伸ばされたのは、日頃の水仕事でかさついた、あたたかく重い掌だった。
ぴたり、と。
冷たくなりかけた額に触れたとき、ゼルヴァンの髪が、苦労して整えた形からすっと崩れた。
「……っ、髪が……乱れました。いくら何でも、無遠慮すぎでは」
「ゼル、お前、熱ねぇ?」
静かに、けれど確信に満ちた声。
まるで心の奥底に指を差し込まれるような鋭さがあった。
「……熱、ですか?」
ゼルヴァンの瞳が、まばたき一つ分の間だけ止まった。
その響きが、己の辞書に載っていない単語のようで、意味をつかめずに宙に浮かぶ。
再び、手が降りてくる。額から頬へ、頬から首筋へ。
その動きは、まるで熱を測るためではなく、何かを確かめるような、繊細な検分だった。
その指先は温かいはずなのに、寒気が背筋を這った。
氷の針のようなものが、皮膚の裏を這い、ぞわりと鳥肌が立った。
「熱あるな。今日は休め。俺がお前の分、やるから」
「な……何を仰っているのですか。私は問題ございません。多少、熱が高いだけでしょう。業務に支障は──」
立ちあがろうとした瞬間、光が滲んだ。視界が淡く揺れる。
真っ白な壁が歪んで、遠くから金属音のような耳鳴りが降ってくる。
足元がぐにゃりと崩れる。
堕ちたのではない。浮かんだ末に、力尽きて地上に戻されたような感覚だった。
正面から差し出された腕が、完璧な受け止め方をした。
呼吸の音、胸板の熱、衣擦れのかすかなざわめき。
どれもが現実味を帯びていて、だがどこか夢の中のようだった。
「支障は?……あるよな?」
低く、ゆっくりとした声が、心の隙間に沈んでくる。
「……いいえ、これは……ただ……足が……もつれただけで」
ゼルヴァンは胸に片手をついたまま、淡く返す。
だが、目を逸らすことができたのは一瞬だけだった。
「お前の納得したい言い訳を探すのはいいけどよ……お嬢に風邪、うつす気か?」
音が消えた。
その言葉が、空気からすべての雑音を奪い去った。
ゼルヴァンの視線が、まるで叱られた子供のようにダリオンを見上げて──そして静かに伏せられた。
肩が、わずかに震えた。
「……」
ダリオンはもう何も言わず、そっとゼルヴァンを支えたまま、ベッドまで運んでいく。
光が、二人の影を細く長く、床に引いていた。
「コート脱げ。……もっかい寝巻きに着替えとけ」
「……午後に、治る可能性は」
「ねーよ。諦めろ」
ゼルヴァンは、ゆっくりと観念したように腰を下ろした。熱を持った身体が、ようやく重力に身を委ねた音がした。
脱いだコートを、ダリオンは無言で受け取り、ハンガーに掛ける。その手つきにはいつもの乱暴さはなかった。
寝巻きに着替え、ゼルヴァンがようやく静かにベッドへ身を横たえた頃、ダリオンはもう身支度を終えていた。
黒いコートに、赤いタイピンが鈍く光を受けている。まるで戦場へ赴く者の鎧のように。
その姿を、ゼルヴァンはベッドからじっと見ていた。
悔しさとも憧れともつかない感情が、胸の奥でじくじくと疼いた。
その視線に気づき、ダリオンは苦笑するように近づく。
そして、濡れたタオルを手に取り──
べちょ、と雑に額へ貼りつけた。
「ちゃんと、休んでろよ」
「……わかっております」
「事務の作業ならオッケー、とか思ってんだろ」
「……」
ゼルヴァンは視線を逸らした。
その背に、冷たい朝の光が斜めに射し込んでいた。
ダリオンは扉を開け、去っていく。
残された部屋には、濡れたタオルからしたたる水音だけが、ぽとり、と時間の奥に落ちていった。
空がまだ真っ白に溶けきらぬ、夜と朝のはざま。
その空気には硝子を曇らせるような微かな冷気が潜み、息を吸うたび、肺の奥をそっと撫でて通り抜けていった。
ゼルヴァンは、夜のしじまを破らぬよう、静かにまばたいた。
目覚めたというよりは、意識が水面の底からゆるやかに浮かび上がってきたような――そんな、眠気と覚醒の境界に身を預けた感覚だった。
脳の奥に、ゆるやかな霧がかかっている。
頭蓋の内側でゆらゆらと音もなく揺れる濁り。
けれどそれはどこか優美な違和感でもあり、ゼルヴァンはそれを異常とは認識しなかった。
ただ、身体の奥底に沈んだままの鈍さが、どうしようもなく眠っていた重石のように、動くたびに自己主張を始めていた。
深く息を吸い込む。
冷気が喉にひっかかり、肺を通り過ぎていった。
その刺さるような感覚もまた、冬の朝によくあることと片づけられた。
「問題ございません」
自らに確認するように呟き、ゼルヴァンは無音の足音で洗面所へと向かう。
足音は月の反射のように静かで、洗面所までの道を、淡く銀に濡れた白い石の廊下が導いていった。
石の肌がひんやりとして、足裏から体温が吸われていく。
洗面所の白光は、容赦なくゼルヴァンの輪郭を暴いた。
鏡の中で、己が目を細めるのが見える。
光が鋭すぎた。
その刃は、皮膚ではなく、内側を斬ってくるようだった。
白磁のような手を上げて、いつものように手袋を外す。
身だしなみは祈りのように整えられるべきものだ。
櫛を取る。だが──
手が、かすかに震えた。
水面に浮かんだ木の葉のように、ふるり、ふるりと。
化粧がのらない。
肌のきめが、まるで砂漠のように均されず、粉をはじく。
まつ毛がしっとりと濡れているのは、涙ではない。
けれど、まるで見えない泣痕がそこにあるように、鏡の中の瞳はいつもよりやや潤んでいた。
「……?」
ゼルヴァンは、小さく首を傾けた。
しかしそのまま、何も問わず、問い直さず、ただ身支度を続けた。
それは祈りにも似た静かな作業だった。しかし、時間はいつもより遅く流れていた。
細く整えられた手が襟元のボタンに触れる頃には、すでに二時間が過ぎていた。
六時の鐘が鳴る少し前。
軋む扉。
湿気を含んだ眠気の声が、背後からこぼれる。
「今日も長ぇなぁ…」
ぼさぼさの黒髪を跳ねさせたままのダリオンが、欠伸混じりに洗面所に入ってくる。
一度ゼルヴァンをチラリと見て、何気なく視線を外し、
数歩後に、ふいに二度見するように目を戻した。
ゼルヴァンは、鏡越しにその視線を受け止める。
「何ですか」
その声音には、なんの警戒もなく、ただ真っ直ぐな静けさがあった。
答えはなかった。
代わりに伸ばされたのは、日頃の水仕事でかさついた、あたたかく重い掌だった。
ぴたり、と。
冷たくなりかけた額に触れたとき、ゼルヴァンの髪が、苦労して整えた形からすっと崩れた。
「……っ、髪が……乱れました。いくら何でも、無遠慮すぎでは」
「ゼル、お前、熱ねぇ?」
静かに、けれど確信に満ちた声。
まるで心の奥底に指を差し込まれるような鋭さがあった。
「……熱、ですか?」
ゼルヴァンの瞳が、まばたき一つ分の間だけ止まった。
その響きが、己の辞書に載っていない単語のようで、意味をつかめずに宙に浮かぶ。
再び、手が降りてくる。額から頬へ、頬から首筋へ。
その動きは、まるで熱を測るためではなく、何かを確かめるような、繊細な検分だった。
その指先は温かいはずなのに、寒気が背筋を這った。
氷の針のようなものが、皮膚の裏を這い、ぞわりと鳥肌が立った。
「熱あるな。今日は休め。俺がお前の分、やるから」
「な……何を仰っているのですか。私は問題ございません。多少、熱が高いだけでしょう。業務に支障は──」
立ちあがろうとした瞬間、光が滲んだ。視界が淡く揺れる。
真っ白な壁が歪んで、遠くから金属音のような耳鳴りが降ってくる。
足元がぐにゃりと崩れる。
堕ちたのではない。浮かんだ末に、力尽きて地上に戻されたような感覚だった。
正面から差し出された腕が、完璧な受け止め方をした。
呼吸の音、胸板の熱、衣擦れのかすかなざわめき。
どれもが現実味を帯びていて、だがどこか夢の中のようだった。
「支障は?……あるよな?」
低く、ゆっくりとした声が、心の隙間に沈んでくる。
「……いいえ、これは……ただ……足が……もつれただけで」
ゼルヴァンは胸に片手をついたまま、淡く返す。
だが、目を逸らすことができたのは一瞬だけだった。
「お前の納得したい言い訳を探すのはいいけどよ……お嬢に風邪、うつす気か?」
音が消えた。
その言葉が、空気からすべての雑音を奪い去った。
ゼルヴァンの視線が、まるで叱られた子供のようにダリオンを見上げて──そして静かに伏せられた。
肩が、わずかに震えた。
「……」
ダリオンはもう何も言わず、そっとゼルヴァンを支えたまま、ベッドまで運んでいく。
光が、二人の影を細く長く、床に引いていた。
「コート脱げ。……もっかい寝巻きに着替えとけ」
「……午後に、治る可能性は」
「ねーよ。諦めろ」
ゼルヴァンは、ゆっくりと観念したように腰を下ろした。熱を持った身体が、ようやく重力に身を委ねた音がした。
脱いだコートを、ダリオンは無言で受け取り、ハンガーに掛ける。その手つきにはいつもの乱暴さはなかった。
寝巻きに着替え、ゼルヴァンがようやく静かにベッドへ身を横たえた頃、ダリオンはもう身支度を終えていた。
黒いコートに、赤いタイピンが鈍く光を受けている。まるで戦場へ赴く者の鎧のように。
その姿を、ゼルヴァンはベッドからじっと見ていた。
悔しさとも憧れともつかない感情が、胸の奥でじくじくと疼いた。
その視線に気づき、ダリオンは苦笑するように近づく。
そして、濡れたタオルを手に取り──
べちょ、と雑に額へ貼りつけた。
「ちゃんと、休んでろよ」
「……わかっております」
「事務の作業ならオッケー、とか思ってんだろ」
「……」
ゼルヴァンは視線を逸らした。
その背に、冷たい朝の光が斜めに射し込んでいた。
ダリオンは扉を開け、去っていく。
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