お嬢様はご存じない。

新月ポルカ

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バラード《過去》

風邪2《20歳》

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 静かな光が、窓辺のカーテンを透かして、白い床に淡く滲んでいた。
 昼の少し前。まだ空気には眠気の残り香があり、音の輪郭はやわらかい。

 ゼルヴァンはいつの間にか眠っていたようだった。
 額のタオルは乾きかけ、首元の寝巻きが少しだけ乱れている。

 ぼんやりとまぶたを持ち上げると、視界の中に映り込んだのは、デスクに頬杖をつく黒い背中だった。
 ダリオン。

 片脚を組み、上半身を斜めに預けるようにしてペンを走らせている。
 インクのかすかな擦過音と、紙の表面に触れる筆圧が、部屋の静寂の中にかすかに揺れていた。

 差し込む光は斜めで、彼の輪郭をやわらかく撫でていた。
 睫毛の影が長く、額に落ちる光が少しだけまぶしく、うるさいはずのその顔は、どこか知らない他人のように静かだった。

 ゼルヴァンは寝台の中から、その姿をしばらく眺めていた。
 意味のない凝視。言葉をかけることもなく、ただその光と影の中にいる彼を見ていた。

 ふいに、ダリオンが顔を上げる。
 目が合うと、彼はいつもの調子でぱっと笑った。
 一瞬で儚い印象は霧のように散り、明るさだけが残った。

「目が覚めたか。気分は?」

 その声は柔らかく、音を立てない午前の空気にするりと溶けた。

 ゼルヴァンは少しだけ身体を起こし、返そうとした言葉の途中で咳き込んだ。

「……普通で、ごほっ」

「咳まで出てきてんじゃん。ほら」

 椅子を引いて立ち上がったダリオンが、無造作に水の入ったコップを差し出してくる。
 ゼルヴァンは動作を慎重に整えながら、枕を少し押し下げて上体を起こす。
 ぼんやりとした視界のまま、そのグラスを両手で受け取った。

 ガラスの向こうで、窓の光が微かに揺れる。

 水を一口。
 舌の上に広がる冷たさに、ほんの一瞬、目を細めた。
 身体の芯が熱でぼんやりとしていて、どこか自分が遠い。

 最後に風邪をひいたのはいつだったか。
 思い出そうとして、ふと浮かんだのは、幼い頃の断片。
 最後に風邪を引いたのは──確か、子供の頃。
 けれどその頃、どこまでが痛くて、どこまでが普通だったかは、判然としない。
 幼い身体の痛覚は、冷たい規律と命令の中で、だいぶ前に沈んでしまっていたのだった。

 ふと目を伏せる。

「粥作ってもらったけど…食えそうか?」

 不意に向けられた問いに、少しだけ間を置く。

「……?それは、どういう…?」

 ほんの少しの間があった。
 ゼルの声はゆるやかだったが、答えを持たない空白を含んでいた。
 ダリオンの手の動きが止まる。

 彼はわずかに口角を動かして、小さく息をついた。
 そして、ほんの少しだけ言い方を変えて、問い直した。

「……吐き気はないか?」

 そこには、気遣いよりも理解があった。
 ゼルヴァンが何に引っかかっていたのかを、完全に分かっていて、それでも責めずに言葉を差し出した。

 ゼルヴァンの瞳が瞬く。
 喉元がごくりと動いた。

 その沈黙は短く、けれど確かに考えた気配を含んでいた。

「あぁ、なるほど…ないです。食べられます」

 頷いた声は変わらず静かだったが、その裏に小さく感触があった。
 自分の身体が“どうあるか”ではなく、"どう感じているか"に目を向けるという思考。
 それが今、初めて、ゼルヴァンの中で形になったのだ。

「そうか」

 ダリオンは立ち上がり、簡易キッチンへ向かっていった。
 燕尾の裾が床をすべる音が、空気を撫でるように後に残った。

 しばらくすると、器をよそう音と、湯気の立ち上る気配がする。
 米と出汁のやさしい香りが、部屋の温度に混じりはじめた。
 それだけで、喉の奥がすこしほぐれるような気がした。

 ダリオンが戻ってくる。
 器と木のスプーンを持ち、ベッドの横の椅子を足で蹴って動かす。

 その音に反応して、ゼルヴァンは反射的に口を開きかけたが、出たのは咳だった。
 指先が胸元を押さえ、椅子を咎める言葉は咳に飲まれたまま宙に消える。

 ダリオンは何も言わずに座り、足を組んで器にスプーンを沈めた。
 ふうふうと二度、三度。
 吹きかけられた息が、白い粥の湯気を揺らす。

「ほれ、口」

 差し出されたスプーンには、ひと匙分の粥。
 ゼルヴァンは一瞬だけ戸惑ったようにその手元を見つめた。

 まるで何かの作法を問われているように、ぼんやりと。

 けれどダリオンの手は引っ込まない。
 ためらいもなく、当然のようにそこにあり続ける。

 ゼルヴァンは、静かに口を開いた。
 唇が粥のあたたかさに触れ、木の感触が歯の内側にやさしく触れた。
 それだけのことが、なぜだか胸の奥をざわつかせる。

 これは仕事の補助ではない。
 指示を受けての行動ではない。
 誰かの手に、完全に身を任せるということ。

 むず痒さとも、気恥ずかしさとも違う、居場所の定まらない気持ち。
 ゼルヴァンはそれを飲み込むように、粥を喉へ送り込んだ。

 ダリオンは何も言わず、またひと匙を掬って、吹きかけ、差し出した。
 その手つきが、あまりにも自然だったから。
 ゼルヴァンは、これが普通なのだと、自分を納得させた。

 粥はすこしずつ器の底を見せ始める。
 熱がゆっくりと、身体の内側を満たしていく。

 やがて器が空になった。
 ダリオンが立ち上がる。
 布がふわりと揺れ、椅子の脚がきゅっと床を擦った。

「じゃ、俺は仕事に戻るけど…寝とけよ」

「…仕事は、…お嬢様にご不便は」

 ゼルヴァンの声はまだ少しかすれていたが、問うべきことを問う、いつもの節度がそこにあった。

「大丈夫だ、今日も至って平和だよ。お前がいないこと以外な」

「…申し訳ございません」

「そう思うなら早く治してくれ」

 返される言葉は、どこまでも軽く、どこまでも本気だった。

 扉が開き、静かに閉まる。
 音が去った後、部屋にはまた穏やかな沈黙が戻ってくる。

 ゼルヴァンはベッドに身を戻し、まぶたを閉じた。

 目の裏に浮かぶのは、ずっと昔の記憶。
 風邪を引いた日、倒れるまで誰にも気づかれず、
 倒れた先でかけられた言葉は「早く治せ」。
 乾いたパンがひとつ、皿の上に置かれただけだった。

 それが当たり前だった。
 それが、普通だった。

 でも、今。
 さっきまでの時間が、たった一匙の粥が。
 あの頃の、自分の奥に閉じ込めた幼い誰かを──
 ほんの少しだけ、救ってくれたような気がした。

 ゼルヴァンは静かに息を吐き、まぶたの裏の闇に、もう一度身を沈めた。
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