モーニングコーヒーはぬるめで

慶野るちる

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本編

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 目が覚めたら昼で。
 今日は土曜で学校は休みだ。だから何時に起きようと問題はない。
 のだが、食事のキャンセルだけはちゃんとしておかないといけない。とは言え、寝過ごせばキャンセルも何もあったもんじゃない。後で食堂のおばちゃんに謝りに行こう。ついでに晩飯分と明日の三食分キャンセルして。
 腹は少しだけ空いてるものの食欲はない。何より人と会いたくない。相部屋の奴とはいい距離感で気にならないし、多分遊びに出て部屋にずっといるわけじゃないからいい。今もいないしタフな奴だ。
 これから実家に帰るか。外泊届って前日までだっけ。長期休暇しか帰ったことがないから勝手がわかんねえ……面倒だな。
 あーもう……何ぐだってんだろ。明日の夜の分までのパン買いに行って部屋に籠るか。多分一番楽だな。家に帰ったってどうしたんだと訊かれるだろうし。ちょっと奮発して、デパ地下パンにしよう。
 昨日は結局そのまま寝てしまい、風呂もシャワーもなしだったので、人目を避けるように急いでシャワーを浴びてから寮を出た。
 外に出れば少しは気分も晴れるかと思ったが、ちっともで。百貨店地下のパンコーナーは昼を回っているにも関わらず混んでいた。買うパンはだいたい決まっているから四食分という思った以上にかさばる量をさっさと買い、百貨店を出るのに三十分ほどで済んだ。
 天気はいいのに、ベンチに座る気すらしない。さすがにお天道様が燦燦と輝いている中、売りと勘違いして声をかけてくるおっさんはいないだろうに日向ぼっこをする気にはなれなかった。
 部屋に戻ってプリンパンを頬張ってベッドにもぐろう。今日も明日も。
 と、バス停に向かおうとした時、目の端に見慣れた後ろ姿を見た。その横にぼんやり影も見えた気がした。
 案外、俺は冷静だった。
 まあ、影程度でどんな子か分からなかったし北見の表情も見えなかったのだが。それでも、それ以上気にならなかったのだ。セックス直後よりもずっと心は空っぽで、これでいいんじゃないかと思えた。
 何も考えないのは楽だ。目の前を過ぎていく事実を受け入れて。考えたり、抗ったりする必要はない。そう、思えた。
 何かを失くしたわけじゃない。最初から何も持ってなかったのだ。
「そういうことだな、帰ろう」
 視界から消えても、もう追いかけることはしない。

 晩飯は食べないと言うと相部屋の奴に驚かれたが、これで過ごすから大丈夫だとパンが入った大袋を見せるとそれ以上は訊いてこなかった。今晩から明日の晩飯まで部屋に戻って来なくてもいいかと言われたから快くOKして。持ちつ持たれつだ。俺も今日明日に限っては一人の方がよかった。
 食堂へ行くからと言って部屋を出るのをごゆっくりと見送って。
 部屋に一人でいると当然静かで。
 そういやゴールデンウィークは帰省するのだろうか。訊くのを忘れてたな。帰省するならまたその頃はだらだらできるな。地方組もいるというのにウチの学校はカレンダー通りの休みしかなく、飛び石連休だと最悪実家に帰ることができない。ゴールデンウィークと言ってもウチだと今年は三日間。帰れないことはないのかもしれないがバタバタスケジュールだろうな。俺は帰省の予定はない。去年も帰らなかった。週末、届けを出せば泊まり込みでいつでも帰れるし、家に帰ったところで特に何かあるわけでもない。恋人と会うだとかそんな艶やかな予定もない。寮はほぼ年間通して開いてるから事情があって帰らない奴、俺みたいに面倒臭がって帰らない奴は一定数いる。だから珍しいことではなく。
 さて、何をするか。ベッドに転がって音楽を聴きながら寝落ちするもよし、スマホで無料配信かレンタルした映画を見ながら寝落ちするもよし。……まあ、勉強をしなければならないのもよくわかっている。まあ、でも今日は。
 とりあえず五枚切りのデニッシュ食パンにいちごジャムを塗って。二枚目にはミルククリームを塗る。どちらも美味い。食堂の飯も美味いがたまにこういう食事もしたくなる。男子校ゆえか三食主食は米だ。朝食にすらパンが出ることはない。
 三枚目を食うかどうか迷っていると。
「二年、多田君。宿直室まで」
 は?
 寮内放送が俺の名を呼んだ。この声、樫木だ。宿直室に来いってどういうことだよ、あいつまた宿直なのかよ。
 面倒だな。行かない選択もアリか? 呼び出される理由はないように思う。今日、俺はほぼ自分の部屋にいたんだぞ。あんたの教え子はそこそこちゃんとしてただろ。
 いいや、行かねえ。寝てるってことでいいだろ。少々座りが悪いが、机の上に広げたジャムの瓶の蓋を締めていると。
「おーい多田ー、いないのー? 樫木先生が呼んでるよー」
 ドアをノックされた。
 あ? 桜野? クラス委員長まで使うかよ。担任案件だって体で呼びたいのか、本当にそういうことなのか。いやま、もう何もないのだから担任案件だよな。
「いますよー」
 仕方ないのでドアを開ける。案の定読めないニコニコ顔で桜野が立っていた。
「多田?」
 のだが、俺の顔を見るなりニコニコを引っ込めて首を傾げた。
「なに?」
 それはどういうリアクションだよ。
「魂の抜けたような顔をしてるけど」
「ん? 俺いつもこんな顔よ?」
 男前でもなければ、頭が良いわけでもない。そういう中身が顔に出てるだけだ。むしろごちゃごちゃ考えるのをやめたから幾分すっきりしてんじゃないか?
「もっと柳みたいにしなやかで風の中を泳ぐ感じだったように思うけど」
「そんな格好良く言ってもらっても何にも……メロンパンならあるわ、持ってく?」
 何かと声をかけてくれる礼代わりに渡してもいい。二つ三つやったところで大量に買ったパンが減るわけではないしな。

「お前、その顔どうした」
 行かないと桜野に言っても仕方ないので結局、宿直室に来るしかなく。
「どうもしてませんよ、普通の顔です」
 誰かに殴られてもない。こいつもそんなことを言うのか。
「それが普通なわけあるか」
 樫木の手の平が俺の顔に向かって来て。俺は一歩身を引いた。気安く触るな。
 指先が届かなかった樫木は、一瞬苦しそうな表情をして。
「熱もありませんし、具合が悪いこともないです。用件はなんですか?」
「今晩消灯後、ここに来れるか?」
 は?
 あんたやめたんだろ? 自分から言い出して自分でやめた。真夜中に呼び出して、しかもこんなとこで。何すんだよ。
「寮則違反なんで」
 消灯後の移動は寮の規則で禁止されている、一応。それを教師自ら破れって言うのかよ。俺に罰だと荷物持ちまでさせたくせに。
「お話なら、学校ででも、今でも伺いますが」
「いや……ここで、静かになってからお前と話がしたい」
 確かに今は建物内、人の行き来や声がする。当然だ、晩飯後の、みんな寛いでる時間なのだから。
「素行も正しますし、勉強も頑張ります。そう決めたんで、自分で言ったことは守りますからしばらく様子を見ててほしいです。成績が上がらなかったらその時はご指導お願いします」
 人には顔をどうのと言っときながら、俺にはあんたが顔色悪く見えるが。
「来ないということか」
 担任として心配してくれてるというのなら、もうこれで話はついただろう。
「はい」
 もう、あれこれ考えるのは疲れた。勿体つけて後でなんて言われてもその頃は寝る時間だろ。目の前のことしかもう捌く気になれない。
「お前のその疲れ切った顔は俺のせいか」
「違います」
 自分が疲れた顔をしてるのかはわからないが、樫木のせいじゃない、樫木だけじゃない。いろいろ混ざり合ってそういうことになっただけだ。俺のメンタルの弱さもあるのだろう。マルチタスクな頭じゃない。桜野が柳のようになんて言ってたが要はそうやって誤魔化してただけだ。やれてるようなフリをして、実のところたった一つのことしか結論が出せない。
「多田」
 樫木はそう言うと一歩前に出た。
 俺はビクついて更に一歩下がろうとしたら俺を通り過ぎてドアの鍵をかけた。
「ちょ」
 また密室にするのか。でももう俺はそれに対して抗議してもいいはずだ。
「先生、そういうのはもうやめ……っ」
 無言で腰から引き寄せられた。
 拘束されるように樫木の胸の中に俺は収まって、きつく、苦しくなるほどに抱きしめられて。
「ちゃんと言う」
 樫木の顔は見えなくて、俺は樫木のワイシャツの前立てあたりしか視界になくて。
「笑ってくれて構わない。俺はお前のことが好きだ」
 場所も時間もあって、樫木は俺の耳元で囁くように言った。それは俺にしか聞こえない、樫木の言葉で。真摯な、迷いのない声で。
 何を笑うというのだろう。教師と生徒だから? 歳が十も離れてるから?
 ……予感なんてなかった。なのに、岸さんのせいで驚くほど胸にすとんと落ちて、抗う言葉が見つからなかった。
「笑いませんよ」
 もう、知っているぬくもりだった。
「でも苦しいです」
 そう言うと、小さくすまんと言って少し腕を緩めた。それでも子供がおもちゃを頑として離さないような、大事なものを取られまいと気は抜かない、そんな感じもして。思わずくすりと笑ってしまった。
「笑ったな」
「すみません」
 子供みたいだなと思ってと言ったら怒るのだろうか。
「先生」
「なんだ」
「俺は好きでもない人と半年寝てました」
「そうだな」
「その人と終わって、違う人とも寝ました」
「そうだな」
「嘘もつきました」
「それは俺がつかせたようなものだ」
「俺は手垢の付いた傷ものですよ」
「身綺麗なお人形だけが愛される資格を持つわけじゃない」
 樫木はもう少し腕を緩めて、俺の顔を見つめた。
「多田、嫌なら今すぐに振りほどけと俺は言えない。俺を受け入れてくれ。好きになってくれ。お前を抱きたい。大事にしたい。お前を愛しいと思う人間がいることを知ってほしい」
 逃げることは許さない的なことまで言うが、俺の何が樫木の奥底に響いたのかちっともわからない。前に岸さんに言われた庇護欲、あれなのだろうか。俺は可哀想な奴なのだろうか。好きな人に振り向いてもらえない、寂しい奴。
 これまで好きという言葉は北見にしか向けられてなくて、それももう消えてしまった。だからといってそれが樫木にシフトするのかといえばそんなことはない。
「正直に言うと、今こうやって抱きしめられてるのは嫌じゃない。そしてセックスすることも無茶をしなければ嫌じゃない。でもそれにまだ名前をつけることはできない。ただ、セフレとも違うと思う」
「お前がそれでもこのままでいてくれるのなら、俺は名前はいらない。お前の心はお前のものだ」
 セフレのようなドライな気持ちではない気がする。樫木に素直に気持ちを向けられて嫌な気はしないし。
「お前が傷ものだと言ったのは俺だ。俺も不誠実にお前に手を出した一人だ」
「まあ、それは……」
 そんなやり方しかできなかったのだとすれば。俺だって北見の件では似たようなもので、樫木の言う不誠実なやり方で気持ちを断とうとした。
 好意を向けられるのは誰でもいいというわけではないとわかった。
 今はそれでいいんじゃないかと思う。案外、樫木の腕の中は心地良くて、楽だと、感じて。最初から何もかも不平等な俺と樫木は俺が楽をしていいのだと。気負わず身を寄せるだけでいいのだと。
 だから、このままで、無理に腕を上げて樫木の背を抱き返さなくてもいいんじゃないかと。
 俺は、樫木の肩に頭を預けた。
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