上 下
13 / 29
第二楽章 信用と信頼

変わりゆく

しおりを挟む
身体が軽い。

澄み渡るような心地良さだ。

隙間から差し込む朝日が染み渡る。



「……起きないと」



でも、そんなことに思いを馳せている場合じゃない。

急いで身体を起こし、俺はスマホを見る。



「あれ?」



画面に表示された時刻は、まだ起床時間よりも早かった。



寝坊したと思っていたのに……



いつもよりもぐっすりと寝ていた。

だから、完全に寝過ごしてしまったと勘違いしてしまった。



……



部屋を見渡す。

昨日と変わらない内装、配置。

机の上には応急手当用の解熱剤が置いてあるが、それ以外はいつも通りだ。

でも、昨日とは違う。



俺はカーテンを開け、全身に光を浴びる。

小鳥のさえずり、自転車が通り過ぎる音、町が産声を上げる。

煩わしく感じていた昨日までの自分とは別の何かに生まれ変わったような、そんな気分だった。



部屋から出ると、俺は階段を降りる

そのまま一日の所作を済ませてキッチンで料理を始めると、父さんが降りて来た。

料理を終えた俺は、調理したものを皿に移す。

盛り付けを終えて食卓を並べていくと、すでに椅子に座っていた父さんに話しかけられた。



「もう体調は良いのか?」

「うん、平気」

「……そうか」



それだけを言うと、再び沈黙する。

会話を終えると、父さんはテレビから流れる情報に耳を傾けた。



「?」



何か言いたげな様子だったが、これ以上の追及は御法度らしい。

配膳を終えて、俺も席に着く。



「いただきます」



今日の朝食は、焼いた食パンの上にフライパンで調理したハムと目玉焼きを乗せた簡単な料理。

腹持ちが良いため、基本はご飯を食べるようにしているが、昨晩炊くのを忘れてしまった。

でも、昨日は色々とあったから、今回に限ってはしょうがない。



『本日は県内全域で快晴なので、洗濯物を干すには絶好の一日になりそうです』



テレビの中から、お天気アナウンサーが元気良くそのように教えてくれた。

もう6月に入る。

そろそろ梅雨に入っても仕方のない時期だったが、それは今日ではないらしい。

一週間に渡る天気予報を見ても、晴れのマークが並んでいる。

今週末から考査期間に入るが、天気の心配はなさそうだ。

問題はその先、来週末にある大事なイベント______



「祐介」



一人考え事をしていると、父さんが遮るようにして言葉を発した。



「何?」



昨日のことがあっての今日だ、何か気になることがあるのだろう。

いつものような気怠さを感じさせない父さんの不気味さに少し身構える。

でも、父さんが何を聞きたいと思っているのか、俺には何となく分かる。



「昨日何かあったのか?」

「……どうして?」

「いや、父さんが家を出る前と後で随分と様子が違ってたから」

「それは……」



正直迷う。

別に悪いことをしていたわけではない。

自宅を訪ねて来た安藤に励まされた、ただそれだけだ。

でも、それを言ったら、俺が自宅に女性を招いていたと誤解される恐れがある。

自分がしたいと思ってそうしたわけではないが、客観的に見ればまあまあ危ない。

自宅前に夜になるまで放置していた、その事実が自分の評価を著しく下げてしまう。

それだけは避けたい。



「……何もないよ」



俺は嘘をつくことにした。

でも、誰かを傷つける嘘じゃない。

両者が面子を保つことが出来る折衷策だ。



「そうか、ならいいが……」



少し煮え切らない態度を取られた。



「本当だよ、これが普通なんだし」



確かに俺は嘘をついた。

でも、完全に嘘とは言えない。

何もなかったから、何も起こらなかったから、関係を保つことが出来たのだ。

もしあのまま安藤と会わずに今日を迎えていたら、それこそ関係が変わってしまっていた。

もう二度と修復できない関係に陥っていた可能性だってある。

だから、安藤には感謝しないといけない。

不変の関係でいられるのは、安藤のおかげだ。

これまで培っていた繋がり、それが消えることはない。

きっとこれからも、この先も______



「…………」

「ん、どうした?」

「……いや、何でもない」



多分、気のせいだろう。

それよりもやることがいっぱいある。

食器の片づけ、荷物の確認、身支度その他。

時間がいくらあっても足りない。



食事を終えて、俺は食器を片付ける。

忙しい朝は、洗い物はシンクに置くだけで済む。

帰ってきた時にまとめて洗えばいい。

そのまま自身の部屋に戻り、学校に行く準備をする。

今週はもう部活がないから、荷物が少なくて楽だった。

準備を終え、制服に着替える。

昨日休んだ分、久しぶりに袖に手を通すのには少し気恥ずかしさを感じる。



「よし」



鏡で確認をし、玄関に向かう。

時間にはまだ余裕があるが、身体が勝手に動き出してしまう。

元気が有り余って仕方のない小学生みたいだ。

靴紐を結び、荷物を持って立ち上がる。



「じゃ、行ってくる」



ドアに手を伸ばし、外に進もうとしたその時、後ろから声をかけられた。



「祐介」

「ん?」



先ほどから何か言いたげではあったが、今は出掛ける寸前だ。

帰ってきてからにしてほしい、そんな気持ちで返事をした。



「……本当に大丈夫なんだな?」

「だから、平気だって」

「そうか」



再び沈黙する父さん。

いつもそうだが、父さんは何を考えているか分からない。

こういう人をマイペースと呼ぶのだ。

やはり自分よりもこの人の方がその名が相応しい、そう認識した。



「……子供の成長は早いってことか」

「?」

「大人にはもう出来ない。だから祐介、今を大事にしろよ? 今にしか出来ないこともあるんだから……」



……



父さんの言う事はよく分からなかった。

一人納得している父さんを置いて、俺は玄関を出る。

扉から手を離し、ゆっくりと閉じていく瞬間、父さんと目が合った。

その目はどこか遠くを見ているような、そんな気がした。







ーーー







「……で、昨日はどうしたんだよ?」

「え?」



昼休み、俺は教室で弁当を食べていた。

昨晩の残り物を詰めただけだが、教室で食べると味覚を刺激する良質なスパイスになるらしい。

余すことなく平らげていたら、一緒に食べていた悠馬にそう聞かれた。



「え? じゃねーよ。休んだと思ったら平然と学校に来てさ。何があったかくらい言ってくれてもいいんじゃねーの?」

「そう言われても……」



普段、俺が学校を休まない理由を悠馬は知っている。

中学の時に俺が悠馬に話していたから、それ関連の話だと思っているのだろう。

知っている以上、悠馬に心配をかけたくない。

でも、あったことを馬鹿正直に言ってしまえば、からかわれるかもしれない。



「ちょっと気分がすぐれなかっただけで、今日は全然平気だから」

「ふーん……?」

「……何だよ、その含みのある返事」

「別に?」



俺の回答が不服なのか、意味深な反応だった。

でもしょうがないだろう。

あんな醜態を他人に聞かせるなんて、とてもじゃないが出来ない。

誰でも他人に隠したいことは一つや二つあるはずだ。



「それよりもさ、昨日の授業のノート貸してくれよ。テスト範囲だから、すぐに覚えないと」

「俺に何もメリット無いんだけど?」

「まあまあ、人助けだと思ってここは一つ頼むよ」

「じゃあ、自販機百円分奢りで」

「金取るのかよ。まあ、別に良いけどさ」



俺は完食した弁当の容器を片付けて、次の授業に使う教科書を並べる。

次の授業は英語表現だが、テスト範囲が終わっている理由で自習時間になった。

この機会を有効に使いたい。

不安箇所が多く残る古文の教科書を選択して机の上に出す。



「……なあ」



筆記用具をリュックサックから取り出している最中に、悠馬が話しかけてきた。



「ん?」

「お前さ、あの話って本気でそう思ってるのか?」

「あの話って?」

「だからさ、あれだよ……、試合に勝ちたいって話」



先週あたりに部室で俺がみんなに言ったことだろうか。

確かに言ったけど、みんな乗り気ではなかった。

だから白紙のままにしようとしていた。



……



でも、今の自分は違う。

今まで通りに周囲に流されているままでは駄目なんだ。

それでもいいのかもしれないと何度も思った。

けど、今の自分では、安藤の隣を胸張って歩くことは出来ない。

歩く資格がないのなら、自ら手に入れるしかない。

もう逃げてばっかりの人生は嫌だ。



「……勝ちたいよ、一回でもいい、その一回が欲しい。だから、再来週のインターハイ予選は絶対勝ちたい」



気持ちが先行して、自分でも何を言っているのか分からない。

それでも、自分の思いをぶつける。

何か自分を誇れるような経験をしたい。

自分の事を好きになれるように。



「そっか」

「ああ、だからさ、悠馬も一緒に頑張ろうぜ」



悠馬はきっと賛同してくれる。

部室でははぐらかされたけど、本当は同じ気持ちのはずだ。

中学から同じ部活動で、一番の友人で、互いの秘密を初めて語り合った間柄だ。

悠馬と初めて会った時、彼は教室で苛められていた。

趣味が変だからとかそんな理由だったが、そんなものは関係ない。

俺と同じ部活に入って、一緒に練習して、悔しい思いもたくさんしてきた。

たくさんの出来事を共有して、親友になれた。

だからきっと、悠馬も同じ気持ちのはず……



「いや、無理だろ……」

「……え」

「冷静に考えろよ。今まで勝ったこともないチームがいきなり勝てるようになるかよ。今までは先輩がいたから惜しいところまで行けたよ。でもさ、最終学年は俺たち二人、その他のメンバーは高校から始めたばかりの後輩だけ。そんな毛の生えた程度の素人集団が試合に勝てるかどうかなんて、相当のくじ運引かないと無理なんだよ」

「で、でもさ、頑張ればきっと___」

「部活も勉強と同じだ、日々の積み重ねが結果につながる。普段勉強をしていない奴が本番でいきなり満点なんて取れるはずないだろ?」

「それは……」

「最初から無理なんだよ。無謀な挑戦はするべきじゃない。もっと賢く生きないと」



……



悠馬の言う事は正論だった。

二週間程度頑張ったところで結果は目に見えている。

そんな無駄な努力をするのであれば、最初から諦めた方が楽なのだ。

勇敢さと無謀さを履き違えてはいけない。

でも、それは逃げているのと同義だ。

最初から無理だと諦めていたら、俺は一生変わることは出来ない。

茨の道であっても、突き進むしかないんだ。

それを悠馬も分かってくれていると思っていた。

なんだかんだ言っても、俺に付いて来てくれると思っていたのに。



「……だからって、諦めるわけにはいかないんだよ」



もう、俺には逃げる道は残されていない。

今までの自分と決別するため、無謀な道を突き進む。

周囲に流されるようでは、俺は変わることは出来ないんだ。



「……そうかよ」



悠馬はそう言うと、前を向いて授業の準備を始めた。

それが会話終了の合図だった。



悠馬……



本当にそう思っているのだろうか。

心のどこかでは勝ちたいって思ってるんじゃないのか。

ずっと負け続けて、周囲から認められず、それでもいいのか。







チャイムが鳴り、次週の時間が始まっても尚、俺の思考は前を向いていた。







ーーー







「っと」



錆びついた扉を開き、俺は屋上にやって来た。

もちろん、理由もなくやってくるような場所じゃない。

呼び出しをした人物は、建物を背に座っていた。



「あ、来た」

「いきなり呼び出しって、何の用だよ?」

「いや、大したことじゃないんだけどさ」



そこには、安藤がいた。

放課後となり太陽が傾きつつある屋上で、夕日に照らされながら何かを読んでいる。



「金曜から試験始まるし、場合によっては断るよ」

「えー? 私のおかげで学校に通えるようになったのに? それはちょっと無いんじゃない?」

「……元々元気だったし、関係ないよ」

「うわ、恩知らずな奴」



にやにやしながら答える安藤。



……



こいつはいつもと変わらない。

何があってもお構いなしにこちらに踏み込んでくる。

以前なら抵抗感はあったが、今はそうじゃない。

昨日のことが原因だろうか。

単に昨日の今日で若干気恥ずかしさがあるだけな気もする。

でも、少なくとも嫌だとは思わない。



「で、何をすればいいの?」



そう言いながら彼女の隣に座り、俺も建物を背に夕日を浴びる。

ずっと室内にいたからか、夕暮れの日差しがやけに眩しかった。

俺は安藤の影に入るように陣取る。



「お、やる気満々じゃん」

「こちとら元気が有り余っているもので」

「じゃあさ、この問題教えてよ」

「数学か。別に良いけど」

「良かったー、テスト近いのに誰にも聞けなくて困ってたんだよ」

「だったらクラスの誰かに…は駄目か。なら担当の先生に聞きに行けばいいじゃん。先生達と仲良いんだろ?」

「いやあ、今って職員室に入るの駄目な期間じゃない? 特別な用事以外は極力控えないと不正疑われちゃうし……」

「確かに」

「私は課題提出する必要があるから大丈夫だけど、その他の理由で行くのはちょっと抵抗がある」

「まあ、安藤って友達いないもんな……」

「あ、今笑ったでしょ! そう言うのは良くないんじゃない?」

「ははは、ごめんって。ちゃんと教えるから」

「これでチャラになると思ったら大間違いだからね?」

「分かったから。じゃあ、ちょっと問題見せてよ」

「ん、この問題」



差し出された教科書を確認する。

この範囲は先月あたりに授業でやっていた部分だ。

定期的に復習しておけば問題ない部分だが、他の教科との兼ね合いもある。

ましてや、安藤はオーディション練習をしていたから、時間の確保が難しいのだろう。



「これって積分か。基本は公式を当てはめればいいんだけど」

「……」

「一つ前のページに公式が載ってるはずだから、それを確認しながらやればいけるよ」

「……」

「えーっと、どこにあるかな……」

「……ねえ」

「ん? どうかした?」

「近いから、ちょっと離れて」

「え?」



言われて初めて気がつく。

いつの間にか、安藤の肩に寄りかかってしまっていた。

迂闊だった。



「ご、ごめん」



慌てて離れる。

突然のことに動転したが、それがばれないよう平然を繕った。

なるべく平生を保つことが出来た、と思う。



……



ちらりと隣を見る。

安藤は気にする素振りもなく、先ほどの該当箇所を確認しながら問題に取り組んでいた。

眩しくてよく見えなかったが、俺の教えを守り、真剣に問題と向き合っている。



気にし過ぎだろ、俺……



なんだか調子が狂う。

昨日のことがあったからだろうか。

自分の知ってほしくない部分を知ってもなお、安藤は俺を受け入れてくれた。

それだけで無性に救われる思いだった。

それがあったから、今こうして隣にいられる。

それで十分だろう……





「解けた」

「……え、何が?」

「だから問題が解けたの。ほら、採点してよ」

「あ、ああ」



目の前に差し出された教科書。

少し上の空になっていた俺は、再び現実に帰って来ることが出来た。

答案の式が正しく書かれているかを確認する。

でも、頭に情報が入ってこない。



「……」



安藤が隣から首を伸ばして覗いてくる。

終始無言で、俺が添削している光景を凝視していた。

視界に入ってくる安藤の横顔。

その真剣な眼差しから、俺は目を逸らすことが出来なかった。



「手、止まってるけど」

「安藤が邪魔で見えないんだよ」



こっちを向かないでほしい。



「そっか、ごめん。気をつけるよ」

「ああ、そうしてくれ」



俺には眩しすぎる。

身体を熱い。

きっと夕日のせいに違いない。

だからもう、これ以上惑わせないでほしい。



交差する視線を離し、俺は目の前の答案に注意を向ける。

隣でおとなしくなった安藤は、背もたれに寄りかかって待っていた。

再び邪魔される前に、俺はペンを走らせて添削した。



「はい」

「ん、ありがと。どれどれ……」



教科書を受け取った安藤は、まじまじと答案を確認する。

俺はなるべく見ないように、視界の奥に設置されている給水タンクに目を向けた。

夕日が重なり、鮮やかなグラデーションを醸し出している。

その光景に目をやっていると、確認を終えた安藤が声を上げた。



「こんな簡単でいいの? もっと難しいもんだとばっかり……」

「先入観を無くすのは大事だろ? まあ、俺も人の事を言えないけど」

「確かに。最初から出来ないって決めつけたら、出来るものも出来ないしね」



先入観、か



自分の言葉を頭の中で反芻する。

初めから何でもできる人なんて、おそらく存在しない。

したとしても、それはごく一部の天才なのだろう。

俺みたいな凡人は、コツコツと地道に登っていくしかない。

その過程は果てしなく困難を極めるだろう。

でも、その過程の先にあるのは結果だ。

結果を求めるならば、その道中を怠惰に過ごしていてはいけない。

やるなら最後までやり切る、それが大切だ。



「ああ、そうだな」



自分の言葉に納得する。

きっと誰しもがそうなんだ。

逃げてばかりの人生は、思考を放棄して、楽な日々を過ごして、そんな当たり障りのない日常。

それを望む人もいるし、望まない人もいる。

ただ、目的や目標が無ければ、無駄となってしまう。

そんな当たり前の事だったんだ。



「……俺さ、決めたよ」

「え、突然どうしたの?」

「目標だよ。次の試合は勝つぞってさ」

「いや、急に目標何て言われても」

「まあ、決意表明ってやつだよ。安藤にだってあるだろ、立派な夢が」



悠馬に否定された時、俺は無理やりにでも自分を鼓舞しようとした。

理解されなくても良い、ただ自分が努力すれば良いのだと。

でも、俺には理解者がいる。

だから、隣で座っている彼女には知ってほしい。

自分だけではないのだと背中を押して欲しい。

ただ、同意してくれるだけでもいい。

それだけで、俺は頑張れる気がするから。



「まあ、私の方が大変だけどね。あんたとはハードルが違い過ぎるから」

「何でそこでマウント取るんだよ……」

「でもさ、目標は大事だよ。活力になってくれるし」

「活力……」

「目標が無くなったら、私が私じゃ無くなっちゃう、そんな気がする」

「持論ってやつか」

「そんな感じ。だから、嫌いな勉強も頑張れるの。テストだって正直嫌いだし、一生来てほしくない。でも、ちゃんと卒業できなかったら、夢を追いかけるどころの話じゃ無くなるし……」



安藤はグラウンドの方へと視線を送る。

それにつられ、俺も視線を向けた。

グラウンドには下校中の生徒はおらず、誰もいない校庭が広がっているだけだった。



「だからさ、ちゃんと勉強もして、レッスンも受けて、オーディションも合格して、胸張って自分の事を誇れるようになりたい」

「……そうか」



安藤は全力なんだ。

今までもこれからも、ずっと走り続ける。

そのことに今更ながら気づいた。

ずっと見ないようにしていたからだろうか。

俺は隣にいたのに気づかなかったのか。

いや、気づいていたはずだ。

気づいた上で、俺は本当の意味で認めていなかったんだ。



安藤に申し訳ないな……



「……あのさ、何かあったら言えよ? 困ってたら助けるからさ」

「え、ほんと?」

「まあ、昨日の借りもあるし……」

「え、じゃあさ、他の教科も教えてよ。テスト範囲だけ教えられても、課題やるだけじゃ心許無いし」

「保健室登校だと、そういう問題もあるのか」

「元々私が悪いんだけどね。でも、重要な所とかもう少し教えてくれてもいいと思う」

「いや、それ教えたらテストに出す箇所がばれるだろ」

「……確かに」



少しばかりの謝罪の意だったが、テスト勉強に付き合うくらいで済むなら万々歳だ。

幸いにも、悠馬から教えてもらった重要そうな箇所はマークしてある。

それを中継すればいいだけだし、何より自分の復習にもなる。

多少自分の勉強が出来なくなるが、まあいいだろう。

両者に利のある作戦だ。



「じゃあ明日にでもするか? それか週末に……ってなると、金曜の科目が出来なくなるか」

「金曜は一つだけだし大丈夫だよ。それより来週分の方がやばいかも」

「じゃあ、土曜にでもやるか。時間とかは後で連絡するよ」

「え、帰るの?」

「俺も勉強しないとだし。安藤はまだいるの?」

「それなら私も帰ろうっと」



安藤は立ち上がり、床に置いたカバンに手を伸ばす。

もう放課後と言うには遅い時間だ、校内に残っている生徒も少ないだろう。

自分たちも早く帰った方がいい。

俺も立ち上がり、出口に向かう。

そのまま昇降口で靴に履き替えて、俺達は校門に向かう。

ふとグラウンドを見渡すと、溢れかえっている生徒がいない異様さに感慨深い何かを感じた。

部活動が行われていない分、いつもの忙しなさが消えた校舎は少し寂しそうだった。

餞別はしない。

ただ、目の前の道を進むだけだった。

しおりを挟む

処理中です...