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第二楽章 信用と信頼
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週末、俺は公民館にいた。
勉強をするときは自室の机で行うのが常であったが、今日は特別だ。
構内は吹き抜けの構造になっており、一階はホールや受付などが設けられているが、螺旋階段を上った先にある二階は中央に待機スペースが置かれ、その両端には図書室や胎児所など育児向けの施設が設置されている。
図書室で声を出すのは流石に憚られるので、俺達は中央に置かれたテーブルの一枠を借りる。
こっちの方が開放的な空間なので、多少の会話なら反響することもなく、ガラス張りの天井から光が差し込んで来て非常に快適だ。
「やっぱり天井が高いよね……。こんな吹き抜けの家に住めたら最高だろうなあ」
カバンをテーブルに置き、ドーム型になっている天井を眺めながら、安藤はそう呟いた。
「ほら、観光に来たわけじゃないんだから」
「いきなり始めるの? 時間ならたっぷりあるんだし、ちょっとくらい……」
「お前が言い出したんだろ? なら責任くらい持てよ」
「……」
安藤はその場に立ち竦みながらこちらを見ているが、俺には関係ない。
その視線を無視して教材をテーブルに広げる。
昨日から始まった中間考査は特に目立ったミスはなかったが、不安は募る。
三年生一学期が最後の判断材料となる推薦合格への道、少しでも高い点を取っておかないと安心出来ない。
安藤もようやく席に着き、同じく教材を取り出し始めた。
でも、それとは全く関係のない別の物がテーブルに置かれている。
「……おい、何でお菓子があるんだよ?」
「え?」
俺の質問に悪びれる素振りもなく、安藤はただ純粋に言葉を出す。
教材の上に置かれた袋の中には、個包装されたチョコレートが詰まっていた。
この量を今日で食べ切るつもりなのか……?
いや、でも問題はそこではない。
「今日は勉強する日だろ? 遊びに来たわけじゃないしさ、それにここ飲食禁止だからまずいだろ」
「でもさ、勉強するときに甘いもの食べると良いってよく言うじゃん?」
「だからって目的と手段を穿き違えちゃ駄目だろ」
「えー、駄目?」
「駄目」
「ぬぅ……」
ため息をつきながら、安藤は袋をカバンに戻す。
自分から勉強に誘ったくせに、本人が乗り気ではないらしい。
「勉強が出来ないタイプには見えないんだけどな……」
「最低限は頑張るけど、勉強やってても辛いし楽しくないんだよね。でもさ、これも今だけだよ? 卒業しちゃえば、後は本業一筋だし。あーあ、早く人気声優になりたいなあ……」
「そんな後ろめたい理由でなれるものじゃないだろうに」
「声優の勉強なら頑張れるのに……」
学業よりも自身の本職に関する勉強が好きなのか。
何に対しても全力だと思っていた安藤への認識は改めないといけない。
自分の好きに対して全力なのだろう。
好きなモノを極める精神、それが彼女を形成している。
……
対して、俺の方はどうだろう。
安藤のように、悠馬のように、明確に他人に対しても言えるような好きなモノがない。
サッカー? 勉強? 音楽?
いや、どれも明確に好きとは言えない。
サッカーだって続けているから好き、とは言えないし、勉強だって将来のために今出来ることでしかない。
音楽もそうだ。
昔から馴染みがあるからという理由だけで、自ら率先して聴こうとは思わない。
あったとしても、それで好きになれるかという保証がない。
今の自分には何もない。
だからこそ、俺は目の前を向くって決めたんだ。
果てしなく続く未来への不安に煽られている暇があるならば、今の自分に出来ることを取り組む。
その過程で見つかるかもしれない、自分の好きに。
そう前向きに捉えられるようになれた。
「安藤はさ、どうして声優になろうって思ったの?」
「え?」
我ながら結構踏み込んだ質問だったと思う。
今まで自分から明確に聞こうとは思わなかった。
単に声優に対して無知であったのもある。
でも、聞いてみたくなった。
実際に自分の好きに正直に向き合っている人の話を。
「唐突だね、いきなりそんなこと聞いて来るなんて。勉強するって言ってなかった?」
「……前言撤回するよ。お菓子だって少しなら大丈夫…なんじゃないか?」
「意思が弱いなあ。人のこと言えないよ?」
「別に言いたくなかったら言わなくていいよ。でもさ、闇雲に努力しても意味無いだろ? だからこそ、安藤がどうしてそこまで一筋でいられるのかが気になってさ。それを知りたいんだ」
選択権を安藤に委ねる。
初めて俺の家に来た時、みんなを笑顔にしたいから、安藤はそう言いながら俺に催告してきた。
あの時の言葉が嘘だとは思えない。
でも、あの言葉は少し他人行儀な気がした。
あれから安藤の事を知っていく中で、その考えは強くなった。
知りたい。
それを知るには、彼女の原点を知る必要がある。
それを知ることが出来たら、俺にも何か分かるかもしれない。
自分が今にどう向き合って行けばいいのかを。
「うーん、そうだなあ……」
安藤は何か迷っているように見える。
時折俺の後ろや天井に視線を泳がせながら、何か思案しているようだった。
「そこまで言い難いんだったら、別に言わなくていいよ?」
「いや、そういうわけ…じゃないんだけどさ。ちょっと憚られるというか何と言うか……」
「……?」
「やっぱりごめん。言わなくてもいい?」
「あ、ああ、大丈夫だけど……」
何だろうか。
ここまで煮え切らない姿勢を取られるのは初めてだった。
もしかしたら聞いてほしくない内容だったのだろうか。
軽い気持ちで聞いたのは少々無神経だったかもしれない。
「ほら、勉強しようよ。時間が勿体無いでしょ?」
「……そうだな」
これ以上深入りするのは止めたほうが良いらしい。
安藤の言葉通り、俺は目の前の教材に取り組む。
今日は不安箇所の多い古典分野に時間を割く予定だったが、ここに来た事で少しばかり予定が狂ってしまった。
元々俺は人の多い場所では集中出来ないタイプの人間だから、比較的人通りの多い中央廊下に近いこの場所で勉強するのは、効率がどうしても下がる。
けど、普段から復習は心掛けていたから、そこまでの影響はないはずだ。
別に終わらなかったとしても、帰ってから続きをやれば良い。
……
テスト直前に焦る必要がないから、目の前で必死に紙をめくっている人のようにならずに済む。
心に余裕があれば、焦らずに物事を推し進めることが出来る。
これは勉強に限ったことではない。
部活でも、日常生活でも、過去に対しても、未来に対しても。
冷静に考えられるから、今の自分を見失わずに済む。
それが出来るようになったのは安藤、お前のおかげなんだ。
お前が受け入れてくれたから、俺は引きずることなく前を見ることが出来た。
お前がいたから、今の自分がいる。
でも、それだと、俺はしてもらってばかりだ。
対等を望む安藤に対して、俺は何も出来ていない。
今のままの関係では、俺は自分を許せなくなる。
ーーー
「あー、疲れたあー」
公民館からの帰り道、俺は安藤と帰り道を歩いていた。
安藤は凝った背筋を伸ばしながら、器用に揺れている。
「そんなに頑張ったのか? ちょっと大袈裟じゃない?」
「いや、私は頑張った。ご褒美をもらっても良いくらいだよ」
「そんなにか……」
達成感で満たされているのか、いつもよりテンションが高い。
先ほど聞いた勉強が嫌いと言うのは本当らしい、安藤は開放感に浸っていた。
「まあ、何はともあれ、お疲れ様」
「これでテストは完璧だね。祐介君が教えてくれたおかげだ」
「教えたって言っても、大したことはしてないしなあ」
「でもさ、すぐにどこのページに書いてあるか教えてくれたし。私なら探すのに時間かかるから助かったよ」
「……そうか」
素直な感謝に少し狼狽えてしまった。
俺でも役に立てたということなのだろう。
それが分かっただけで狼狽する自分は単純かもしれない。
「テストで最低限の点数は取っておかないと、流石に推薦取り消しもあり得るからね。せっかくの機会なんだし、掴んでおかないと」
「……推薦?」
一瞬、聞き間違えかと思った。
推薦をもらうには三年の一学期までの成績が各大学が指定した基準を上回る必要がある。
でも、推薦を提出するのは七月以降の話だ。
その推薦を既にもらっている?
「え、どういう事? 推薦はまだ先の話じゃ……」
「私さ、一応芸能人で実績があるから、それを基準にした特別枠で迎えられる予定なんだよね。ほら、私が出演した『ドラゴンズレクイエム』って作品あったでしょ? それが実績に入るらしくて」
「そ、そうなんだ……」
芸能人パワーってやつなのか。
いや、頭では本人の努力が実った結果なのだと理解している。
でも、勉強に関しては俺の方が一歩先を行っていると思っていた。
結果は等しく巡ってくるものではないのに。
地道に成績を維持してきた俺の積み重ねがあほらしく感じてしまった。
「どうしたの?」
「いや、器の小さい奴だなって反省してた」
「? まあいいけど」
安藤はその経歴を誇ることなく、平然と述べていた。
その事実が、俺の羞恥心を助長させている。
「でもさ、大学なんてそこまで重要じゃないし、大卒の肩書きが手に入ればそれで充分。出来れば声優活動がしやすい環境なら有難いなって思ってたから、そこの大学は結構便宜を図ってくれるし自分としても悪くないなって思った」
大学ブランドと言うやつだろうか。
有名な人材を輩出し、大学としての地位向上を目指す取り組みの一環。
俺には馴染みのない世界だと思っていたが、実際に行われているのを目の当たりにすると、やはり落ち込んでしまう。
誰かを中心として回っている社会、その隅に自分がいる。
それを想像するだけで辟易する。
……
話を変えよう、そう思った。
「その作品だけどさ、トークショーの後に全部見たんだ。思ってた以上に面白かったよ」
「本当? その類の話なんてしてこなかったから、てっきり興味ないのかと思ってた」
「最初はあんまりなかったよ。でも、知ってる人が出てるんだから、一度は見ておいた方がいいかなって」
「ふーん? そういう贔屓目じゃないと見てくれないんだ?」
「いや、そうじゃなくてさ、普段と違う一面を見るのって相当勇気がいるんだよ。何て言えば良いか分かんないけど、深淵を覗くような感じがして嫌なんだよ。それにさ、次に会った時に何て接すれば良いか分からなくなるし……」
「そういうものなの? 私は寧ろ見なきゃって気持ちになるけど?」
「一般市民に多くを求めないでくれよ……」
確かに興味はなかった。
でも、安藤の演技を見たい、そんな思いで視聴は続けた。
序盤はダークテイストだった物語も、終盤になると細胞が滾るような熱い展開になった。
初めは蛇足的に視聴を続けていたが、終盤になると、迫真の演技も相まって次々と押し寄せる展開を身を乗り出して享受するようになっていった。
俺はもう流れに逆らうことが出来なくなっていたのだ。
そんな中でようやく聞き覚えのある声が耳に入ってくると、自分の中での安藤のイメージが崩れていくことに気がついた。
俺が知っている普段の安藤とは別のナニカ、得体のしれないものを覗き見ているような感覚。
これが演技なのかと確信した。
安藤の生き様を見せつけられて、俺は茫然とした。
「……でもさ、他の人も凄かったけど、俺は安藤の演技が一番凄いと思った。身内贔屓かもしれないけど…身体の内側まで入って来るって言うのかな、目の前に実在してるような感じがした。上手く言語化出来ないけど……」
「……そっか、ありがと」
「いや、お礼を言うほどじゃない…だろ……」
「リアルで称賛されたのは初めてだから、嬉しいよ」
「……」
初めて、か。
その響きが身体に溶け込む。
その言葉に夢中で、俺は隣にいた安藤が付いて来ていない事に気がつかなかった。
「安藤?」
後ろを振り返る。
駅に向かって大通りを進んでいた俺達は、河川橋を渡って左の団地を経由し、そのまま住宅街に入るつもりだった。
でも、安藤は橋を渡り終えることなく、その場に立ち止まっている。
車の往来の少ない時間帯、烏は鳴いていなかった。
俺達以外、誰もいない。
その静寂を切り裂くように、安藤は口を開く。
「私にとって、あの作品は苦い思い出なんだよね」
視線を落として、顔を見られないようにしていた。
でも、坂になっている道を先に降りていた俺には、その顔が見えてしまった。
その表情は少し苦しそうだった。
「おこぼれで受かって僅かの出演で結果を出さないといけない、そんなプレッシャーに押しつぶされそうになって…それでも頑張ろうとした。でも、周りの人達と自分との差が歴然で……分かってたけど、やっぱり悔しかった」
段々と強張りが解けていき、今にも泣きだしそうな表情をしている。
それでも安藤は言葉を続けた。
「私がいくら頑張っても、認められなきゃ皆が私を見てくれない。取り巻きの一部としてしか評価されない。そんな烙印を押され続ける人生なんて、もう……」
「安藤……」
初めて漏らした本音。
安藤にも人知れず抱えているものがある。
俺だってそうだ。
でも、どこかで安藤の事を過信していた。
受け入れてくれる、凄い奴だ、そんな期待をしていたのかもしれない。
けど、等身大の彼女は、俺と同じ人間だ。
重圧を抱えながら、それでも前を向いている彼女は、本当は弱いのかもしれない。
……
それを知っても尚、俺は今の関係に満足するのか。
こんな関係は対等と言えるだろうか。
「俺は安藤みたいに強くない…と思ってた。この前の事もあったし、俺がもっと頑張れば良いんだって思った。そんな単純な話だったら楽だったけどさ、でも、それだけで対等になれるわけないよな」
いや、言えない。
だってそれは相手を見ていないから。
「今の俺に大したことは出来ないけどさ、少なくとも安藤、お前の話を聞くことは出来る。辛い事、悲しい事、苦しい事、それを共有するのは決して悪い事じゃないはずだ」
信頼を裏切らないように、その一歩が大切なんだ。
「もっと話してくれても良いんだぜ? 俺なんてさ、みっともない所しか見られてないからな」
それを教えてくれたのは安藤、お前なんだよ。
なら、俺にだってその権利を行使する義務がある。
今じゃなくても良い。
いつか安藤から話してくれる日まで、俺は待つ。
それぐらいの責任はあるだろう。
だって、俺たちは友人なんだから。
「うん、確かにそうだね。あの時の顔は最高だった……っ」
「あ、何で笑うんだよ? こっちは本気なのにさ」
「ごめんって、謝るから」
「そうだよ。せっかくカッコいい事言えたのに」
「それ、自分で言うんだ……」
「悪いかよ?」
「ううん、いいんじゃない?」
安藤は俺を追い越し、先に進んでしまった。
それを足早に追いかけ、歩幅を合わせる。
それを確認すると、安藤は笑みを向けた。
その表情は、もう先程の彼女とは違うのが分かる。
それだけで、俺は安堵した。
「……さっきの話だけどさ」
と思っていると、安藤は言葉を紡いだ。
「いつか話せる時が来たら話すから、だからさ……」
「分かってる。それまで待つよ」
「……ありがと」
今の自分ではまだ足りない。
安心して話してもらえるように、もっと頑張らないといけない、そんな気がした。
自分の言葉に責任を持てる、その時まで。
勉強をするときは自室の机で行うのが常であったが、今日は特別だ。
構内は吹き抜けの構造になっており、一階はホールや受付などが設けられているが、螺旋階段を上った先にある二階は中央に待機スペースが置かれ、その両端には図書室や胎児所など育児向けの施設が設置されている。
図書室で声を出すのは流石に憚られるので、俺達は中央に置かれたテーブルの一枠を借りる。
こっちの方が開放的な空間なので、多少の会話なら反響することもなく、ガラス張りの天井から光が差し込んで来て非常に快適だ。
「やっぱり天井が高いよね……。こんな吹き抜けの家に住めたら最高だろうなあ」
カバンをテーブルに置き、ドーム型になっている天井を眺めながら、安藤はそう呟いた。
「ほら、観光に来たわけじゃないんだから」
「いきなり始めるの? 時間ならたっぷりあるんだし、ちょっとくらい……」
「お前が言い出したんだろ? なら責任くらい持てよ」
「……」
安藤はその場に立ち竦みながらこちらを見ているが、俺には関係ない。
その視線を無視して教材をテーブルに広げる。
昨日から始まった中間考査は特に目立ったミスはなかったが、不安は募る。
三年生一学期が最後の判断材料となる推薦合格への道、少しでも高い点を取っておかないと安心出来ない。
安藤もようやく席に着き、同じく教材を取り出し始めた。
でも、それとは全く関係のない別の物がテーブルに置かれている。
「……おい、何でお菓子があるんだよ?」
「え?」
俺の質問に悪びれる素振りもなく、安藤はただ純粋に言葉を出す。
教材の上に置かれた袋の中には、個包装されたチョコレートが詰まっていた。
この量を今日で食べ切るつもりなのか……?
いや、でも問題はそこではない。
「今日は勉強する日だろ? 遊びに来たわけじゃないしさ、それにここ飲食禁止だからまずいだろ」
「でもさ、勉強するときに甘いもの食べると良いってよく言うじゃん?」
「だからって目的と手段を穿き違えちゃ駄目だろ」
「えー、駄目?」
「駄目」
「ぬぅ……」
ため息をつきながら、安藤は袋をカバンに戻す。
自分から勉強に誘ったくせに、本人が乗り気ではないらしい。
「勉強が出来ないタイプには見えないんだけどな……」
「最低限は頑張るけど、勉強やってても辛いし楽しくないんだよね。でもさ、これも今だけだよ? 卒業しちゃえば、後は本業一筋だし。あーあ、早く人気声優になりたいなあ……」
「そんな後ろめたい理由でなれるものじゃないだろうに」
「声優の勉強なら頑張れるのに……」
学業よりも自身の本職に関する勉強が好きなのか。
何に対しても全力だと思っていた安藤への認識は改めないといけない。
自分の好きに対して全力なのだろう。
好きなモノを極める精神、それが彼女を形成している。
……
対して、俺の方はどうだろう。
安藤のように、悠馬のように、明確に他人に対しても言えるような好きなモノがない。
サッカー? 勉強? 音楽?
いや、どれも明確に好きとは言えない。
サッカーだって続けているから好き、とは言えないし、勉強だって将来のために今出来ることでしかない。
音楽もそうだ。
昔から馴染みがあるからという理由だけで、自ら率先して聴こうとは思わない。
あったとしても、それで好きになれるかという保証がない。
今の自分には何もない。
だからこそ、俺は目の前を向くって決めたんだ。
果てしなく続く未来への不安に煽られている暇があるならば、今の自分に出来ることを取り組む。
その過程で見つかるかもしれない、自分の好きに。
そう前向きに捉えられるようになれた。
「安藤はさ、どうして声優になろうって思ったの?」
「え?」
我ながら結構踏み込んだ質問だったと思う。
今まで自分から明確に聞こうとは思わなかった。
単に声優に対して無知であったのもある。
でも、聞いてみたくなった。
実際に自分の好きに正直に向き合っている人の話を。
「唐突だね、いきなりそんなこと聞いて来るなんて。勉強するって言ってなかった?」
「……前言撤回するよ。お菓子だって少しなら大丈夫…なんじゃないか?」
「意思が弱いなあ。人のこと言えないよ?」
「別に言いたくなかったら言わなくていいよ。でもさ、闇雲に努力しても意味無いだろ? だからこそ、安藤がどうしてそこまで一筋でいられるのかが気になってさ。それを知りたいんだ」
選択権を安藤に委ねる。
初めて俺の家に来た時、みんなを笑顔にしたいから、安藤はそう言いながら俺に催告してきた。
あの時の言葉が嘘だとは思えない。
でも、あの言葉は少し他人行儀な気がした。
あれから安藤の事を知っていく中で、その考えは強くなった。
知りたい。
それを知るには、彼女の原点を知る必要がある。
それを知ることが出来たら、俺にも何か分かるかもしれない。
自分が今にどう向き合って行けばいいのかを。
「うーん、そうだなあ……」
安藤は何か迷っているように見える。
時折俺の後ろや天井に視線を泳がせながら、何か思案しているようだった。
「そこまで言い難いんだったら、別に言わなくていいよ?」
「いや、そういうわけ…じゃないんだけどさ。ちょっと憚られるというか何と言うか……」
「……?」
「やっぱりごめん。言わなくてもいい?」
「あ、ああ、大丈夫だけど……」
何だろうか。
ここまで煮え切らない姿勢を取られるのは初めてだった。
もしかしたら聞いてほしくない内容だったのだろうか。
軽い気持ちで聞いたのは少々無神経だったかもしれない。
「ほら、勉強しようよ。時間が勿体無いでしょ?」
「……そうだな」
これ以上深入りするのは止めたほうが良いらしい。
安藤の言葉通り、俺は目の前の教材に取り組む。
今日は不安箇所の多い古典分野に時間を割く予定だったが、ここに来た事で少しばかり予定が狂ってしまった。
元々俺は人の多い場所では集中出来ないタイプの人間だから、比較的人通りの多い中央廊下に近いこの場所で勉強するのは、効率がどうしても下がる。
けど、普段から復習は心掛けていたから、そこまでの影響はないはずだ。
別に終わらなかったとしても、帰ってから続きをやれば良い。
……
テスト直前に焦る必要がないから、目の前で必死に紙をめくっている人のようにならずに済む。
心に余裕があれば、焦らずに物事を推し進めることが出来る。
これは勉強に限ったことではない。
部活でも、日常生活でも、過去に対しても、未来に対しても。
冷静に考えられるから、今の自分を見失わずに済む。
それが出来るようになったのは安藤、お前のおかげなんだ。
お前が受け入れてくれたから、俺は引きずることなく前を見ることが出来た。
お前がいたから、今の自分がいる。
でも、それだと、俺はしてもらってばかりだ。
対等を望む安藤に対して、俺は何も出来ていない。
今のままの関係では、俺は自分を許せなくなる。
ーーー
「あー、疲れたあー」
公民館からの帰り道、俺は安藤と帰り道を歩いていた。
安藤は凝った背筋を伸ばしながら、器用に揺れている。
「そんなに頑張ったのか? ちょっと大袈裟じゃない?」
「いや、私は頑張った。ご褒美をもらっても良いくらいだよ」
「そんなにか……」
達成感で満たされているのか、いつもよりテンションが高い。
先ほど聞いた勉強が嫌いと言うのは本当らしい、安藤は開放感に浸っていた。
「まあ、何はともあれ、お疲れ様」
「これでテストは完璧だね。祐介君が教えてくれたおかげだ」
「教えたって言っても、大したことはしてないしなあ」
「でもさ、すぐにどこのページに書いてあるか教えてくれたし。私なら探すのに時間かかるから助かったよ」
「……そうか」
素直な感謝に少し狼狽えてしまった。
俺でも役に立てたということなのだろう。
それが分かっただけで狼狽する自分は単純かもしれない。
「テストで最低限の点数は取っておかないと、流石に推薦取り消しもあり得るからね。せっかくの機会なんだし、掴んでおかないと」
「……推薦?」
一瞬、聞き間違えかと思った。
推薦をもらうには三年の一学期までの成績が各大学が指定した基準を上回る必要がある。
でも、推薦を提出するのは七月以降の話だ。
その推薦を既にもらっている?
「え、どういう事? 推薦はまだ先の話じゃ……」
「私さ、一応芸能人で実績があるから、それを基準にした特別枠で迎えられる予定なんだよね。ほら、私が出演した『ドラゴンズレクイエム』って作品あったでしょ? それが実績に入るらしくて」
「そ、そうなんだ……」
芸能人パワーってやつなのか。
いや、頭では本人の努力が実った結果なのだと理解している。
でも、勉強に関しては俺の方が一歩先を行っていると思っていた。
結果は等しく巡ってくるものではないのに。
地道に成績を維持してきた俺の積み重ねがあほらしく感じてしまった。
「どうしたの?」
「いや、器の小さい奴だなって反省してた」
「? まあいいけど」
安藤はその経歴を誇ることなく、平然と述べていた。
その事実が、俺の羞恥心を助長させている。
「でもさ、大学なんてそこまで重要じゃないし、大卒の肩書きが手に入ればそれで充分。出来れば声優活動がしやすい環境なら有難いなって思ってたから、そこの大学は結構便宜を図ってくれるし自分としても悪くないなって思った」
大学ブランドと言うやつだろうか。
有名な人材を輩出し、大学としての地位向上を目指す取り組みの一環。
俺には馴染みのない世界だと思っていたが、実際に行われているのを目の当たりにすると、やはり落ち込んでしまう。
誰かを中心として回っている社会、その隅に自分がいる。
それを想像するだけで辟易する。
……
話を変えよう、そう思った。
「その作品だけどさ、トークショーの後に全部見たんだ。思ってた以上に面白かったよ」
「本当? その類の話なんてしてこなかったから、てっきり興味ないのかと思ってた」
「最初はあんまりなかったよ。でも、知ってる人が出てるんだから、一度は見ておいた方がいいかなって」
「ふーん? そういう贔屓目じゃないと見てくれないんだ?」
「いや、そうじゃなくてさ、普段と違う一面を見るのって相当勇気がいるんだよ。何て言えば良いか分かんないけど、深淵を覗くような感じがして嫌なんだよ。それにさ、次に会った時に何て接すれば良いか分からなくなるし……」
「そういうものなの? 私は寧ろ見なきゃって気持ちになるけど?」
「一般市民に多くを求めないでくれよ……」
確かに興味はなかった。
でも、安藤の演技を見たい、そんな思いで視聴は続けた。
序盤はダークテイストだった物語も、終盤になると細胞が滾るような熱い展開になった。
初めは蛇足的に視聴を続けていたが、終盤になると、迫真の演技も相まって次々と押し寄せる展開を身を乗り出して享受するようになっていった。
俺はもう流れに逆らうことが出来なくなっていたのだ。
そんな中でようやく聞き覚えのある声が耳に入ってくると、自分の中での安藤のイメージが崩れていくことに気がついた。
俺が知っている普段の安藤とは別のナニカ、得体のしれないものを覗き見ているような感覚。
これが演技なのかと確信した。
安藤の生き様を見せつけられて、俺は茫然とした。
「……でもさ、他の人も凄かったけど、俺は安藤の演技が一番凄いと思った。身内贔屓かもしれないけど…身体の内側まで入って来るって言うのかな、目の前に実在してるような感じがした。上手く言語化出来ないけど……」
「……そっか、ありがと」
「いや、お礼を言うほどじゃない…だろ……」
「リアルで称賛されたのは初めてだから、嬉しいよ」
「……」
初めて、か。
その響きが身体に溶け込む。
その言葉に夢中で、俺は隣にいた安藤が付いて来ていない事に気がつかなかった。
「安藤?」
後ろを振り返る。
駅に向かって大通りを進んでいた俺達は、河川橋を渡って左の団地を経由し、そのまま住宅街に入るつもりだった。
でも、安藤は橋を渡り終えることなく、その場に立ち止まっている。
車の往来の少ない時間帯、烏は鳴いていなかった。
俺達以外、誰もいない。
その静寂を切り裂くように、安藤は口を開く。
「私にとって、あの作品は苦い思い出なんだよね」
視線を落として、顔を見られないようにしていた。
でも、坂になっている道を先に降りていた俺には、その顔が見えてしまった。
その表情は少し苦しそうだった。
「おこぼれで受かって僅かの出演で結果を出さないといけない、そんなプレッシャーに押しつぶされそうになって…それでも頑張ろうとした。でも、周りの人達と自分との差が歴然で……分かってたけど、やっぱり悔しかった」
段々と強張りが解けていき、今にも泣きだしそうな表情をしている。
それでも安藤は言葉を続けた。
「私がいくら頑張っても、認められなきゃ皆が私を見てくれない。取り巻きの一部としてしか評価されない。そんな烙印を押され続ける人生なんて、もう……」
「安藤……」
初めて漏らした本音。
安藤にも人知れず抱えているものがある。
俺だってそうだ。
でも、どこかで安藤の事を過信していた。
受け入れてくれる、凄い奴だ、そんな期待をしていたのかもしれない。
けど、等身大の彼女は、俺と同じ人間だ。
重圧を抱えながら、それでも前を向いている彼女は、本当は弱いのかもしれない。
……
それを知っても尚、俺は今の関係に満足するのか。
こんな関係は対等と言えるだろうか。
「俺は安藤みたいに強くない…と思ってた。この前の事もあったし、俺がもっと頑張れば良いんだって思った。そんな単純な話だったら楽だったけどさ、でも、それだけで対等になれるわけないよな」
いや、言えない。
だってそれは相手を見ていないから。
「今の俺に大したことは出来ないけどさ、少なくとも安藤、お前の話を聞くことは出来る。辛い事、悲しい事、苦しい事、それを共有するのは決して悪い事じゃないはずだ」
信頼を裏切らないように、その一歩が大切なんだ。
「もっと話してくれても良いんだぜ? 俺なんてさ、みっともない所しか見られてないからな」
それを教えてくれたのは安藤、お前なんだよ。
なら、俺にだってその権利を行使する義務がある。
今じゃなくても良い。
いつか安藤から話してくれる日まで、俺は待つ。
それぐらいの責任はあるだろう。
だって、俺たちは友人なんだから。
「うん、確かにそうだね。あの時の顔は最高だった……っ」
「あ、何で笑うんだよ? こっちは本気なのにさ」
「ごめんって、謝るから」
「そうだよ。せっかくカッコいい事言えたのに」
「それ、自分で言うんだ……」
「悪いかよ?」
「ううん、いいんじゃない?」
安藤は俺を追い越し、先に進んでしまった。
それを足早に追いかけ、歩幅を合わせる。
それを確認すると、安藤は笑みを向けた。
その表情は、もう先程の彼女とは違うのが分かる。
それだけで、俺は安堵した。
「……さっきの話だけどさ」
と思っていると、安藤は言葉を紡いだ。
「いつか話せる時が来たら話すから、だからさ……」
「分かってる。それまで待つよ」
「……ありがと」
今の自分ではまだ足りない。
安心して話してもらえるように、もっと頑張らないといけない、そんな気がした。
自分の言葉に責任を持てる、その時まで。
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何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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