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第二楽章 信用と信頼

彼岸花

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代わり映えのしない梅雨景色に思いを巡らせる余裕なんてない。

自由を奪われているようで憂鬱になる。

疎んじる思いを馳せながら、俺は部室を出た。



「あ、キャプテン。もう帰るんですか?」



部室の窓が開き、鉄格子の間から二年の湯川が顔を覗かせる。



「雨が入るから、さっさと閉めろよ」

「すみませんって……そんなに怒らないでくださいよ」

「別に怒ってはないけど……」



少し注意したつもりが、随分と否定的な受け取られ方をされてしまった。

気持ちが表情に現れていたのだろうか。

でも、雨のせいで夕方なのに既に暗くなっている。

ましては傘を差して顔に陰りが出ているのだ。

明るい部室から顔を覗いた一瞬で外にいる俺の感情を判別するのは困難だろう。



「……で、何か用?」



カバンに雨がかからないように体勢を変えて、俺はそう尋ねた。

決して不機嫌でないのだと自分を言い聞かせながら。



「こんな雨の中わざわざ帰らなくても良いじゃないですか。もうすぐで雨脚が弱くなるって予報ですし」

「部室で駄弁ってるなら、俺はさっさと帰るよ」

「ノリが悪いですね……いつもだったら参加するでしょ?」

「今日は気分じゃない、それだけだよ」



少し突き放すような言い方をしてしまった。

湯川が気にしていないことを願う。



「そっすか。じゃあまた明日」



そう言って湯川は窓を閉めた。

中から談笑する声が自分のいる外まで聞こえてくる。

気に留めていないらしい。



「ああ……明日」



既にいなくなってしまったのに、俺は遅れてそう答えた。

もちろん返事をしてくれる人はいない。

雨脚が強まる中、俺は部室棟の前で一人立ち竦んでいた。



帰るか……



このまま一人でいるのは耐えられなかった。

傘を深く差し、俺はその場を後にした。

今日はほとんど練習らしいことは出来ていない。

部活が始まる直前に降り出した雨のせいでグラウンドが使えず、そのまま今日の練習は中止になってしまったからだ。

そのお陰で、いつも通りの疲れた足で帰路につくこともない。

でも、だからといって、足取りが軽い訳ではなかった。



「……」



数日前の出来事が脳裏に浮かぶ。

異変を感じて安藤と会うことが出来たあの日、勇気を出して対話に臨んだが無駄だった。

依然として既読も付かず、連絡も徒労に終わった。

初めは送ることが出来たメッセージも、次第に苦痛に感じるようになり、今では送るどころか画面を開くことすらままならない。

気持ちが離れていくようだった。



そんな思いが顕現するように、俺は校門を出てすぐの信号によって行く手を阻まれる。



「ツイてないな……」



その場で信号が変わるのを待つ。

車両が目の前を横切る度に、路面に溜まった雨水が勢いよく広がる。

それを避けるが、思いがけずカバンに水飛沫が跳ねて汚れてしまった。



「……最悪だ」



取り出したタオルで拭き取ったが、焼け石に水だった。

中身まで染みてはいなかったものの、カバンの表面は被害が甚大だった。

制服にも少しずつ染みが目立つようになり、雨脚が強まっているのが伝わってくる。

ジリジリと追い詰められている、そんな気がした。



……



変わらない信号に嫌気がさし、俺は踵を返していつもと違う帰路を選ぶ。

立ち止まっていたら、嫌なことばかり考えてしまう。

雨に濡れつつも、迂回して歩く。



「こんなんでイライラすんなよ……」



自分にそう言い聞かせる。

上手くいかない現実に苛立ちが隠せなかった。

自分でも幼稚だと思う。

でも、胸の内に留めていられないほどに不安と焦燥感が肥大していた。

それを紛らわすように感情を放出する、それが今の自分に出来る精一杯の強がりだった。



この先、もうあんな日々を送ることは叶わないのだろうか。

安藤とは信頼関係を築けていると思っていた。

落ち込んでいる時に支えてもらったことも大きな原因だが、それ以上に安藤と過ごした日々の積み重ねが自信に繋がっていた。

初めて仲良くなれた異性の友人であり、数少ない心の支えだった人間。

一緒に過ごす中で、次第に心の内で大きな存在になっていた。

それを失ってはっきり分かる辛さ。

心に大きな穴が開いたように、自分が空っぽになっていることを自覚出来る。



「はあ……」



大きくため息を吐く。

少し気持ちを切り替えよう。

伏していては悪いことばかりに目が行く。

そう思い、頭を上げて視界をなるべく明るくした。



「……ちょっと逸れたな」



自分のことばかり気にしていて、周りに意識を向けていなかった。

高校付近の賑やかさはなくなり、河川の方に来てしまったようだ。

迂回するどころか、完全に遠回りしていた。

それに気づき、俺は来た道を見返す。

幸いにも気づいた場所がまだ調整出来る段階だったので助かった。



「遠回りだけど、団地の方から帰ろう」



信号を渡り、俺は団地側から迂回するように自宅がある住宅街を目指すことにした。

正直に言うと、この時間帯に団地を通るのは少し抵抗がある。

誰も住んでおらず廃墟と化しているこの集合団地には、基本的に人は寄り付かない。

厚ヶ崎市で昔に再開発計画が存在していたらしいが、市長の献金問題が原因でその計画は頓挫したと聞く。

当時の住人を追い出しといて、肝心の計画が頓挫したとあれば、流石に非難も集中する。

その影響で計画は中止、市長も辞任してこの問題は終結したらしい。

そのため、この場所は地元では呪われた団地と称されているほどに不良物件だった。

そんな人の気配がない道を一人でただ歩くのは結構な勇気がいる。

小学生の時は人目の億劫さを理由に通って来た気がするが、如何せん昔の記憶だ、正確ではない。

あれから何年も経ったが、高校生になった今でも寄り付こうとはしない。

それに加えて、今日は雨水が木々を鳴らしており、より一層不気味さを演出している。

余程趣味の悪い人でないと立ち寄らないだろう。



「……」



でも、今日に限っては都合が良かった。

もし道行く人とすれ違ったら、それが自分の知り合いであったら、相手に不快な思いを抱かせるかもしれない。

自分が隠せていると思っていても、相手には伝わっているらしい。

実際に部室前で湯川と会話した一瞬、その僅かな時間でも苛立ちを指摘されたのだから尚更だ。

自分の思っていること、感じていること、考えていること、それを見透かされるのは不快感を覚える。

両者に利点のないやり取りなんて御免だ。



だから、自ら木々の生い茂る道中を歩む。

さび付いた格子やネームプレートが欠けた郵便箱、漆が剝げたのかコンクリートが露わになる外壁が視界に移る。

何列にも連なって建てられている建造物、その隙間には廃品物が放置されたままの駐車場が露呈している。

ブルーシートで全容が覆われているが、要所要所で剥がれ落ちて、剥き出しになっていた。

おそらくだが財政的な問題で取り壊し工事を行えずに、何十年も放置されているのだろう。

その光景は自分が住んでいる町並みとはかけ離れた異質さを醸し出していた。



その様子を後目に、俺は路面の剝がれた道を進む。

次第に薄気味悪さも晴れ、住宅街が見えていた。

路肩に停車された車両から人影が見えたことで、その実感が沸く。

この辺では珍しい赤いスポーツカー、それが教会の手前で停車していた。



「こんなところに教会なんてあったのか」



外壁に亀裂が入り、その隙間から植物が顔を覗かせている。

所々に苔が生えており、もはや教会と呼べる代物ではないように見える。

そんな場所に用があるのか、人影は車両の傍で立っていた。



……



初めは建物の所有者かと思った。

人が立ち寄らなそうな建物に入る理由なんてそのくらいだ。

教会関係者が用ありで立ち寄った可能性もある。

でも、スポーツカーを綺羅びやかせて路面に佇む人が果たして関係者なのだろうか。

教会事情に詳しくないから、明確に根拠があったわけではない。

根拠はないけど、遠目には不審な人物のように見えた。

傘を差しているせいで顔を見ることは出来ないが、興味本位で観察した。

長めのスカートを身につけ、トップスにはシースルー状のシャツを合わせている女性。

足元からはパンプスを覗かせており、都会育ちを思わせるような落ち着いた雰囲気を纏っていた。



「―――……!」



心臓が跳ねる。

顔を見た訳ではないし、ここから確認することも出来ない。

今まで自分の予感というものを信じたことはなかったし、当てにならないと経験が証明していた。

でも、目の前にいる女性を知っている、会ったことがある。



「……あら? どうかしましたか?」



その女性が振り向く。

こちらの視線に気が付いたらしい。

一歩一歩、少しずつ俺のほうに近づいてくる。

そして、だんだんと解像度が鮮明になってくると、その女性もこちらに気が付いたのか、声を上げた。



「あなたって、この間の……」



最悪な予感が的中した。

もう会わないと思っていた人物だ。

記憶から消してしまいたかったのに、脳みそにこべりついて離れない悪夢。

その人がよりによって自分の地元に、自分の目の前に再び現れる。



「……お久しぶりです、新藤さん」



先月のコンサートホールで出会った人物、新藤理沙に俺はそう挨拶をした。

なるべく平生を装い、動揺を隠すように。



「私のこと覚えてたのね。あの時が初めましてだったのに」



そんな動揺を知ってか知らずか、新藤さんは俺の顔を覗うように言った。



「有名人にあったら誰でも忘れられませんから」



取り繕うような答えを返した。

実際に有名人に会えば、一生記憶に残るし、何よりも他人に自慢できるだろう。

それを忘れるなんて道理は合わない。

でも、俺はそんな大衆向けの理由があって彼女という存在を覚えていた訳ではない。



「……」



新藤さんを微視する。

純粋そうに、ただ何となく質問をしているように見えるが、実際は違う。

この人は安藤のお姉さんだ。

初対面でいきなり関係を断つように迫り、俺を脅し、安藤から引き裂こうとした人間だ。

俺の意見など鑑みることなく、俺という存在を排除しようとした人間なんだ。



これは牽制だ。

あんなことがあったのによくも私の前にいられるわね、そういう意味を孕んでいる。

この会合が偶発的とはいえ、敵意を剥き出しで俺の前に立っているのは間違いない。

事実、新藤さんの目は黒かった。



「……まあ、そういうことにしておくわ」



新藤さんはそう言うと、視線を教会に向けた。

それと同時に、緊張で張っていた神経が一気に弛緩していく。

知らないうちに恐怖していたのか、動悸が収まらなかった。



「……新藤さんはどうしてここに?」



動揺を悟られないように、俺は気になっていたことを質問する。

すると、新藤さんは頷きながら言葉を発した。



「私ね、教会巡りが趣味なの。場所によって十字架の位置や建造物の様子も異なるし、その地域にどういう風に溶け込んでいるのか、それを考えると見ていて飽きないの」

「教会、ですか」

「そう、あなたも興味があれば同行してもいいわよ?」

「……遠慮しときますよ。宗教には無頓着なもので」

「私も宗教には興味ないわよ? それが生まれた背景を知るのが好きなだけ。あなたもきっと気に入るはずよ」



そう言うと、新藤さんはほがらかな表情を浮かべた。



「……はい、機会があれば」



口ではそう返事したが、次にどんな言葉が来るのかを警戒して身構える。

これが社会行儀であることは明白だった。

心に思っていないことを善くもまあ平然と言えるものだと感心するほどにだ。

これも演技の一環なのだろう。

初めから本心を知っていなければ、騙されるところだ。



そんなことを考えている間に、新藤さんは教会の敷地に足を踏み入れた。

それを見届ける間も、俺は警戒を緩めない。

一つ一つの挙動に目を向けていた。



「ねえ、ちょっと緊張しすぎじゃない?」

「……え」



それに意識を奪われて、新藤さんがこちらを向いていることに気がつかなかった。

新藤さんの一言で、俺は顔を上げた。



……



強張ってた表情が解けていくのが分かる

自分の視線に気づかれた動揺も原因の一つだが、それ以上に新藤さんの声に動揺した。

今の言い方、声質はまるで安藤そのものだった。



「表情が硬すぎ。話しててもつまんないよ」

「……すみません」

「相手を気遣ってよ、全く……」



やはり姉妹なんだ、そう実感する。

図らずも安藤の面影を見ることが出来た。

それに安堵するが、すぐに現実に戻ってくる。



「ふふ……」



新藤さんは笑みを浮かべていた。

それが気味悪いと思う反面、安藤の面影が重なり混乱する。

狙っていたのだろうか。

でも策に嵌ってしまった以上、腹の探り合いが出来る状況ではなくなってしまった。

受け身にならざるを得なかった。



「祐介君はさ、聖十字架教会って知ってる?」



新藤さんが質問をしてきたので、首を横に振った。

それを上から見下ろすように確認すると、新藤さんは言葉を続けた。



「ワルシャワの観光名所の一つなんだけど、その教会には特別な柱が存在するの。何だか分かる?」

「そんなこと……俺は知りませんよ」



俺が吐き出すように告げると、新藤さんは教会を見上げながら答えた。



「……ショパンの心臓、それが埋められていると言われているの。彼をご存じ?」

「作曲家、ですよね」



教科書の知識を基にそう答える。

名前は聞いたことがあるが、詳しくは知らない。

でも、どうしてそんなことを聞くのか、俺には分からなかった。



「ポーランドが生んだ若き作曲家、数々の名曲を創作し、偉人とまで言われた人物よ。その心臓が教会に埋められている……どうしてかしらね」



新藤さんは自問するように呟いた。



「……不気味ですね」

「ええ、気味が悪いわ。遺体はパリで埋葬され、故郷のワルシャワには心臓だけが帰ってきた……それが生前の彼の願い、そう伝えられている」

「……」

「故郷に未練があったのか理由は分からないけど、彼の作った曲を聞いていれば何か分かるかもしれない、そう思ってるわ」

「……そうですか」



この人は好事家こうずからしい。

高校生の俺には理解出来ない考え方だけど、その意味は何となく分かる。

この人はきっと自分の求める答えを探しているのだ。

書物に答えを求めるのではなく、創作された曲を通して彼と対話する、それが本質だと信じている人なんだ。

あの人に、母さんに似ている、そんな近視感があった。



……そうだ、似ている



「……だから、コンサートホールにいたんですね」



どうしてあんなところで出会ったのか、今まで分からなかった。

けど、あの公演の演目が想像する通りであれば、辻褄が合う。

俺と会ったのは本当に偶然だったのか……



「あら、別にあなたに会うために行った訳じゃないわよ? 寧ろ、どうしてあなたがあそこにいたのか知りたいぐらいだし」

「俺は……偶然、気が向いただけですよ」

「偶然、ね……」



公演者が自分の母であるとは知られたくなかった。

ただでさえ、安藤との関係を疎んじられているんだ。

家の事情にまで漬け込まれるのは極力避けたい。



「でもね、あの場にいてくれて手間が省けたわよ」

「手間、ですか」



そう言いながら、俺は新藤さんの方を見た。

が、新藤さんと目が合う。

教会へ注がれていた視線が再びこちらに向いていた。



「―――……!」



胸が締め付けられるように痛む。

一瞬で圧迫とした空気に変わっていた。

それでもなんとか声を抑えることは出来た。



「本当は高校の前で待ち伏せて伝えるつもりだったしね。身分は掴んでたけど、どこで会えるかまでは分からなかったから、校門から出てくるまで待つ予定だったの」



それは言い換えれば、俺に会うために時間も厭わないと言うことだろう。

安藤と関わるな、という趣旨を確実に伝えようとしたんだ。



……



全く心が躍らない、寧ろ凍り付いた。



「……そうまでして、あなたに何の意味があるんですか?」



俺は新藤さんにそう質問する。

答えなんて分かっているが、それでも聞かずにはいられなかった。



「みーちゃん……いいえ、未衣奈は大事な時期なの。ここで踏ん張れるかどうかで明暗が分かれる、それを前提から壊さないでほしいの。それは以前に伝えたはずだけど?」



今更何を言い出すのか、そんなことを言いたげな視線を感じる。

事実、同様の内容を告げられているのだから仕方ない。



「それは……覚えてます。でも、あれは安藤自身の問題で、新藤さんには関係ない、と思うんです」



でも、俺は知っている。

安藤がそんなことを望んでいなかったことを。



「関係ない? どうして?」

「それは……安藤が思っていることじゃない……と言うより、安藤から直接聞いたんです、新藤さんが勝手にやったことだって……」



自分の意見は正しい、根拠がある。

だから、自信を持って言える。



「……」



そこまで言うと、新藤さんは黙り込んだ。

これまでの会話で起こらなかった初めての出来事。

俺は思わず高揚感を抱いてしまった。

事実と異なっていれば、必ず隙はつける

安藤が一度でも俺のことを否定しただろうか。

勝手に判断して、落ち込んで、そんなことを繰り返したくない。

安藤が決して俺のことを蔑んでいないって、俺を認めてくれているって、証明するんだ。

だから、俺は言葉を続けていく。



「それなら俺は、安藤の方を信じたいんです」



新藤さんは依然として黙ったままだった。

でも、俺の話を聞いてくれている。

新藤さんにも伝わっているんだ。

だから、新藤さんが憂うべきことではない、安心してほしい、そう言おうとした。



「……だから、私は邪魔だって、そう言いたいの?」

「……え」



動転して思わず声が詰まる。

今の声の主が新藤さんだったことに遅れて気がついた。

新藤さんは笑みを浮かべていたが、俺はこの顔をよく知っている。

あの日、コンサートホールで見た顔、最後の言葉を告げた際に見せた表情と同じだった。



「―――……!」



突き放すような眼差しに、身が竦む。

思い出したかのように身体が震え出した。

でも、そんな俺のことなんてお構いなしに新藤さんは続ける。



「私はあの子の保護者役なの。子供が間違った道に進まないように矯正するのが私の役目。私から見れば、あなたの方が余程だと思うけど?」

「ち、違います! 俺はそんなつもりで言ったわけじゃ……!」



必死に弁明するが、新藤さんの耳には届いていない。

いや、届いても尚、投げ捨てられているんだ。



「他人の家庭事情に口出しする権利があなたにあるの? 声優なんてものを知らない一般人が軽々しく干渉して、何かあった時にあなたは責任が取れるの?」



責任……



その言葉が強くのしかかった。

安藤は気にしなくて良いと言ってくれたけど、不測の事態に俺が干渉出来る領域ではない。

同業者ならともかく、一般人に対する秘密漏洩は発覚した時のリスクが極めて高い。

いくら俺が責任を取ると言っても、万が一が起こった時に責任を取るのは安藤自身なんだ。



……



分かってるつもりだった。

それでも、目の前にいる新藤さんの言葉に反論することが出来なかった。

自分が信頼されていない、その事実に心を揺さぶられた。



「……それでも……俺は安藤を裏切ることは出来ません……」



でも、新藤さんに信頼されてなくても、俺には信頼してくれる人がいる。

俺が裏切ってしまうことは即ち、安藤を悲しませることに繋がる。

何があっても、それだけは手放してならない。

そんな僅かな希望を胸に抱いて、俺は絞り出すように言葉を出した。



「裏切る、ね」



そう呟いた新藤さんは、冷酷な眼差しを向けてきた。

平然を装うように俺は息を吞む。

今更取り繕っても無駄なのに。



「でもそれって、信頼関係が結ばれていたらの話でしょ?」



……?



思いがけない言葉に理解が追い付かなかった。

どうして仮定するような言い方をするのか。

俺と安藤が今までどんな思い出を共有してきたのかなんて、顧みれば数えて余りある程なのに。



「結ばれていたらって……まるで今の関係が結ばれてないみたいじゃないですか……」



震える唇を動かして、なんとか言葉を紡ぐ。

新藤さんは不思議そうな顔をするが、すぐに理解したのか、再び笑みを浮かべた。



「だってそうでしょう? あなた達ってもう無関係なんだから」

「無関係って……何を根拠に……」

「もう連絡、取ってないんでしょう? それも一週間」

「―――……! どうしてそれを……」

「別に良いじゃない、過程なんて。それよりも、自然消滅してる今の関係で信頼なんて言葉、果たして合うのかしら?」

「……」



自然消滅……? 俺と安藤が……?

いや、そんなはずはない。

たかが一週間連絡がないだけだ。

今後もずっとこのままなんて有り得ないだろ。

いつか返事はくる、そうに違いない。



「……嘘だ……だって、そんなこと……あるわけ……」

「直接言えないのよ、あの子は。それもあの子なりの優しさかもしれないけどね。それでも、心当たりはあるはずよ」

「心当たり……」



そんなものあるはずがない、何度も言い聞かせる。

でも、克明に覚えている言葉が頭の中で反芻された。



これは私の問題だから______



「……」



どうして俺を頼ってくれなかったんだと思った。

今まで一緒に読み合わせもしたし、小説の解釈もやった。

それは安藤に頼まれたからだ。

安藤に頼られたから、俺は信頼されていると思ったんだ。

でも、今の俺は頼られていない。

寧ろ遠ざけているように見えた。



ずっと霧が晴れなかったけど、安藤のその言葉が全てを結論づけている気がした。

結局それが答えだったのだろうか。



「思い当たる節はあるみたいね」

「そんなはず……」

「……辛いのも無理はないわ。失って初めて大切なものに気づくのだから。でも今回は運が悪かったとしか言えないわね。相手が相手、不相応だったと諦めなさい」

「……」



新藤さんは最後にそう言って、俺の前から消えて行った。

俺が振り向くといつの間にか消えていた、と言った方が正しい。

停車してあったスポーツカーもいなくなり、教会の前に俺は一人取り残されていた。







ーーー







虚ろ虚ろ歩きながら、俺は家に辿り着いた。

玄関を開けると、偶然父さんと鉢合わせする。



「お帰りー……って、お前どうしたんだ」



父さんが詰め寄ってきたが、反応する気力はなかった。



「ずぶ濡れじゃないか……傘はどうしたんだ? 朝持って行ってただろ?」

「……ああ、失くした」

「失くしたってお前……いや、それは後でいい。とにかく風呂入って来い……」



指示されるがまま、俺は風呂場に向かった。



「湯船に浸かれよ? 風邪ひくから」



父さんに後ろからそう言われたが、返事は出来なかった。

それからの記憶はほとんどない。

どのくらい湯船につかっていたのか、父さんにどんな言い訳をしたのか、ご飯を食べたかどうか、全てが曖昧だった。

でも気がつくと、ベッドに横たわっていた。

何を考える訳でもない。

ただ横になっていた。



「……安藤」



最初に出てきた言葉がそれだった。

返事が返ってくることなく、その言葉は空気に溶けていく。

受け止められることなく消えていった。
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