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第二楽章 信用と信頼
信頼Ⅰ
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「祐介、朝だぞ」
「ん……」
耳元からお父さんの声が聞こえる。
くすぐったさで思わず身をよじった。
「おいおい、早く起きないと学校間に合わないぞ?」
そう言いながら、お父さんはカーテンを勢いよく開き、太陽の光を部屋に取り込ませている。
「いやだ、このまま寝てたいの」
僕は感じたことをそのまま告げる。
頭では分かっていても、布団の誘惑には逆らえないのだ。
「ったく……」
そう言い残すと、お父さんの気配が消えた。
やった……!
まさか自分の意見が通ると思わなかったので、精一杯の抱擁を布団にしてもらう。
この時間がずっと続けばいい、そう思っているといきなり全身が露わになった。
「ほら! さっさと起きろ!」
「あ! ちょっと返してよ!」
「返さないぞー! もう起きる時間だ!」
どうやら油断していた隙に、身をかがめていたお父さんに騙されてしまったらしい。
布団を取り上げられ、身の拠り所を失う。
「ん――……分かったよ……」
「よし、えらいな」
「お父さんが布団取ったからでしょ? 全く……」
観念した僕は、重い身体をゆっくりと持ち上げてベッドから起き上がった。
「ご飯もうすぐで出来るから、学校の準備はしとけよ」
僕の部屋から出ていくお父さんが、去り際にそう告げる。
頷いて返事をすると、僕は寝間着から予め準備されていた服に着替える。
朝起きる時は、お父さんが僕を起こしに来てくれる。
朝が苦手な自分からすれば、どうしてお父さんが毎朝僕より早く起きることが出来るのか不思議でたまらなかった。
でも、起きた後はそんなことを考えている余裕がない。
急いで身支度を済ませてリビングに向かう。
すると、時間を見計らったようにお父さんがフライパンから料理を皿に移していた。
「お、今日は早いな」
僕に気づいたお父さんが時計を見ながらそう言った。
「僕だって子供じゃないんだから。今日から二年生なんだからね」
「そっかそっか。もう二年生か……」
考え事をしているお父さんを無視して席に座る。
そして、テーブルの向こうで座っている人に挨拶をした。
「おはよう、お母さん」
「うん…おはよう」
姿勢を崩さずに凛とした表情を保っていたが、僕の挨拶で朗らかな表情に変わっていた。
「今日はお母さんって家に居るの?」
「ええ、公演がないから家に居るわよ」
「そっか! じゃあ久しぶりに全員で食べられるね!」
「そうね」
お母さんは忙しい。
一年で家に帰って来る日は僅かで、基本的に各地のホールを飛び回っている。
コンサートホールで公演をするのが主な理由だが、時には学校で講演をしたこともあるらしい。
人気のあるピアニストでないと、ここまで引っ張りだこにはならないとお父さんが言っていた。
だから、今日みたいに一緒にご飯を食べられる日は滅多にない。
「母さんは凄いんだぞ? 一人で演奏したこともあるんだから」
「利紀さん、それ昨日も言ってましたよ」
「あれ、そうだっけ?」
盛り付けを終えて、テーブルにやって来たお父さんがお母さん自慢を始めようとしたが、その隣で座っていたお母さんに制されてしまった。
「この前観に行った所も凄かったもんね。お洒落な人がいっぱいいたし」
「祐介まで……」
でも、お父さんだけではなく僕までもが話に興じてしまったので、さすがのお母さんも諦めたのか、お父さんの制止を解いた。
「あれはドレスコードって言うんだぞ? 海外ではああいった服装が正装なんだ」
「へー、そうなんだー」
「特に思想家と詩人の国と称されているドイツだったり、ヨーロッパ音楽の総本山と言われているオーストリアでは常識になってるんだぞ?」
「ドイツ? オーストリア? ……よく分からないけど、取り敢えず凄いってこと……?」
「そうそう! 日本だとあまり馴染みがないからって正装以外で公演に来る人もいるくらいだからな……やっぱり音楽と言えばヨーロッパなんだよ!」
「そ、そうなんだ……」
興味本位で話題にしてしまったことを後悔してしまった。
お父さんの音楽愛が過熱していた。
お母さんが止めたがっていたのも頷ける。
「母さんはオーストリア好きだから演奏する曲もその国の作品に絞られてるけど、父さんとしてはもっと広く他の演奏も聞きたいんだよな……例えばポーランドとか____」
「ほら、祐介が困ってますから……」
そう言いながら、お母さんは更に白熱しかけていたお父さんの話を横から制止した。
実際にお父さんの話は談義に移り変わっていたから、僕にはさっぱり理解出来ない。
「お父さんってさ、お母さんの話になるといつもテンション高くなるよね」
お母さんに促されて席に着いたお父さんに向かって、僕はそう言った。
「いや、つい熱中しちゃうんだよな……」
「急に分からないことばっかり話されてもつまんないよ」
「ご、ごめん……いや、でもさ、母さんだって気になるよな?」
そう言ってお父さんは隣に座っている人に助けを求める。
「もう知ってます」
「そうか……」
でも、お母さんはその手を叩いてしまった。
お父さんが一人孤立する形となった。
「でもさ、お父さんっていつもその話しかしないよね。それしかないの?」
「い、いや、他にもあるぞ? 例えば……あ、あれだ、母さんはお酒が強いんだよ!」
「お酒?」
「ウォッカっていうアルコールの強いお酒があるんだけど、母さんはストレートで飲むんだよ! 凄いだろー?」
「……」
「父さんなんかいっつもベロベロになるのに、母さんは相変わらずすました顔のままでさ……」
ウォッカとかストレートと言われても、僕にはよく分からなかった。
お酒なんて飲んだこともないし、そもそも水を飲んだだけで強いとか弱いとか言われても理解出来ない。
「ほら…祐介が混乱してるから、その話はまた今度にでも……」
「ん――……仕方ない。じゃあ祐介が大きくなった時まで温めておこう」
お母さんが再び白熱するお父さんを咎めたことで会話が終わる。
でも、お父さんの最後の言葉は聞き捨てならない。
「もう二年生なんだよ? 大きいに決まってるじゃん!」
二年生になったのだから、もう十分な大人なんだ。
年齢だってもう八歳になろうとしている。
子ども扱いはもうたくさんだ。
「そうか、祐介はもう大人だもんな」
「そうだよ、もう大きいんだから僕でも分かるよ!」
見栄を張ったが、張って困るものでもない。
分からなかったらお母さんに教えてもらおう。
「じゃあ、お酒じゃなくて、母さんの好きなものを一つ教えてあげよう」
「お酒だって分かるよ」
「お酒は二十歳になってからだからな……今教えるのはちょっと不味いし、勘弁してくれ」
そう言って若干肩をすぼめているお父さんだったが、すぐに取り繕って言葉を続けようとした。
が、何を察したのか隣にいたお母さんによって再び抑えられた。
「あんまりそういったことは言わないでください……」
「え? 言っても減るもんじゃないんだし、別に良いだろ?」
「それでも駄目です……」
「……分かったよ、言わない」
二人でこそこそ話しているが、テーブルを介してはっきりと声が聞こえてくる。
それでも、僕にはどんな内容なのかまでは分からなかった。
二人の間で勝手に話が終わってしまい、僕だけが外野にいるようで納得がいかなかった。
「ねえ、結局どうなの? 教えてくれるの? くれないの?」
堪忍袋の緒が切れる寸前だった僕は、お父さんに催促した。
「ごめんな、祐介。これも駄目らしい」
「全部駄目じゃん……お父さんの馬鹿」
「そこまで言うか……」
僕が罵倒すると、お父さんは思っていた以上に落ち込んでしまった。
流石に言い過ぎたな、そう思い僕は訂正する。
「だ、大丈夫だよ……もう大人だし、我慢出来るよ?」
「祐介は優しいな……まあ、大したもんじゃないし、母さんがいない時にでも教えてあげるよ」
「聞こえてますよ、利紀さん」
「あはは……ほら、学校に間に合わなくなるから、ささっと食べよう」
そう言うと、お父さんは仕切り直して味噌汁を啜った。
時計を見ると、急がないといけない時間帯に入っていた。
「やば……! お父さんがいつまでも話してるから……!」
お父さんに文句を垂れるが、そんなことを言っても時間は戻ってこない。
僕もすかさずおかずに手を付けて、流し込むように味噌汁を平らげた。
熱々の白米を息を吐きながら食し、次々と皿を空にしていく。
「急いで食べると喉を詰まらせるぞ?」
「ちゃんと噛んでるから大丈夫!」
実際には数回しか噛んでいない。
でも、その数回の咀嚼の方が味わい深く感じられるから、僕は好きだった。
美味しいものは一番美味しい食べ方で食べた方が良い。
おじいちゃんみたいに何十回も噛んでいたら、それこそ味気ない気がする。
そんなことを考えていると、ずっと無言を貫いていたお母さんが僕に話しかけて来た。
「……祐介」
「何? お母さん」
僕は返事をして、お母さんの方を向く。
お母さんはじっとこちらを覗き込むように座っていた。
そして、僕と目が合うと、恥ずかしかったのか照れくさく笑った。
「どうしたの?」
不思議に思った僕は、もう一度質問した。
すると、お母さんは返事をする代わりに指を伸ばしてきた。
こっちに向かって伸びてきた指先は、僕の鼻先までやってきて、そこで止まった。
「……?」
「米粒、付いてるよ」
訳が分からず混乱していると、伝わっていないことに気づいたのか、お母さんがそう呟いた。
箸を止めて確認する。
人差し指には米粒が付いていた。
どうやら先程白米にがっついていた際に付いたようだ。
慌てて醜態を隠す。
「分かってたんなら、さっさと教えてくれよ……!」
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに」
「う、うるさいな……言われないと分からないんだから、すぐに教えてよ……」
「分かったわよ、ごめんなさいね」
「ったく、お母さんは……」
お母さんの意地悪な所だ。
目が合って恥ずかしがっていると思ったけど、実際はそうではなかった。
僕が気づいていないと思って、アホ面になっている姿を傍観していたんだ。
傍から見れば物静かそうな性格に見えるのに、実際は悪戯好きの悪い人なんだ。
睨みつけるように、ちらっとお母さんに視線を向ける。
すると、お母さんは今日一番の砕けた表情を浮かべていた。
それを見て、隣をお父さんは満足そうな笑みを浮かべている。
二人が笑顔だった。
「……」
やっぱり、この光景が好きだ。
お父さんと二人で居る時ももちろん楽しい。
でも、やっぱり三人一緒に食卓を囲うこの瞬間が一番好きだ。
一年で何回あるかも分からない日常。
それを日常と呼んでも良いのか分からないけど、それでも僕にとっては最上の日々なんだ。
「にやにやしてどうしたんだ? ……父さんの顔に何かついてんのか?」
「別にどうもないよ? それよりもほら、会社遅れるよ」
「わ、やばい……急がないと……!」
そう言いながら、忙しなくもどこか楽しそうにしているお父さん。
その隣では、辟易しながらも享受するお母さん。
テーブルを介して伝わってくる心地良さがある。
ずっと続いてくれたらいいのに、そう思った。
でも、望んでいた日常は続かなかった。
ーーー
「水……」
深夜に目が覚めた僕は、のどの渇きを潤すために部屋の扉を開けた。
この時間は皆が寝静まっている頃合いだったので、廊下は暗闇に包まれていた。
手探りで電気を点けると、空間に隙間なく閃光が走った。
「……!」
思わず目を閉じてしまった。
痛みが走り、視界に残像が強く残る。
なので、目が慣れるまでしばらく閉じたままで過ごすことにした。
それをやり過ごすと、ようやく僕は先に進んだ。
寝起きの身体を過信すると痛い目に合うのは経験済みだった。
だから、階段の手すりを便りにゆっくりと降りていく。
二階からの光が段々と遠ざかる。
そのまま進めば、今度は階下の暗闇の中で再び電気を点ける作業が待っている。
面倒ではあったが、目的達成のためには仕方ない。
ゆっくりと降りていき、曲がり角に差し掛かる。
が、そこで違和感に気がついた。
点いていないはずの電気が点いている。
「消し忘れかな?」
最初は疑問に思ったが、たまにお父さんが点けっぱなしで部屋を後にすることがあるので、その一環だと最終的には理解した。
でも、今日は違った。
階下に近づくほどに、微かに話し声が聞こえてくる。
お父さん……?
一階の廊下に辿り着くと、声の正体が鮮明になった。
次第にもう一人の存在も明らかになり、リビングに両親がいるのだと理解した。
日付が変わり、夜も更けている時間帯。
それなのに就寝せずに二人が何をしているのか、僕はただ気になった。
興味のままに、僕は光が漏れている方に向かう。
両親がいる所へ、導かれるように進んでいった。
でも、お父さんが言葉を発した瞬間、その歩みを止めた。
「お前の気持ちを尊重するよ、文乃……」
「ごめん……なさい……っ」
「いいんだ……仕方ないんだよ……」
雰囲気が違った。
嗚咽を漏らしながら泣き崩れるお母さん。
その後ろで背中をさすりながら何かを囁くお父さん。
会話の内容は途切れ途切れでよく聞こえない。
でも、尋常ではないことが起こっているとだけは分かった。
最初は喧嘩しているのかと思った。
お母さんが泣いている所を初めて見たし、あんなに真剣な顔をするお父さんだって同様だ。
分からないことだらけで困惑する。
でも、それだけが理由ではない。
時折見せる慈しみな表情は、僕が見たことのないお父さんの一面だった。
僕の知らないお父さんがそこにはいた。
「―――……!」
その事実が余計に辛かった。
いつも自分に向けられるものとは別の何か、それを享受しているのは今のお母さんだった。
今まで自分が見てきたものは自分に対して向けられたものだと思っていた。
朝起こしに来てくれるお父さん、車で迎えに来てくれるお父さん、食卓を囲う時のお父さん。
その全ての笑顔は自分に向けられているとばかり思っていた。
でも、それは幻想で、まやかしで、身勝手な妄想だった。
あの時の表情も、これまでの表情も、そして今の表情も、全てお母さんに向けられたものだったのだ。
だってそうだろう?
こんな顔、僕は知らない。
お母さんは知っていて、僕だけが知らない、こんなの不公平じゃないか……
疎外感、その一言が分かりやすい。
家族なのに自分だけが何も知らない。
どうして泣いているのか、どうして背中をさすっているのか、それさえも分からない。
朝までは皆で笑いあっていたのに、そんな面影は消えていた。
両親の間で勝手に話が進んで、自分だけが何も知らずに置いて行かれる、そんな疎外感。
「なんだよ、これ……」
分からないことがこんなにも辛いなんて知らなかった。
リビングに入る気力はもうすでに消えていた。
理解したいけど、足が前に動かない。
茫然としながら、僕はその場で立ち竦んだ。
目の前で行われている出来事をただ傍観しながら。
その後、お母さんは家から出て行ってしまった。
どうやら離婚したらしい、次の日の朝、お父さんにそう聞かされた。
寝つけずに朦朧としていた頭でなんとか咀嚼したけど、大して実感は沸かなかった。
それでも、ただ一つ、ぼんやりとお母さんのことを思い浮かべる。
物静かながら可憐な表情を浮かべて笑っていたあの日のお母さん。
いつも凛とした表情を崩すことはないのに、時折見せる表情は本当に楽しそうで、自分のことのように嬉しかった。
そんな楽しい日々が続くのだと思っていた。
これからもずっと僕達は一緒だと、そう思っていた。
……
裏切られた気分だった。
僕には何も告げずに目の前からいなくなってしまった。
言ってくれないと分からないのに、僕には教えてくれなかった、話してくれなかった。
二人で勝手に離婚を決めて勝手に家からいなくなってしまった。
その事実が胸の奥に重く残る。
ずっと幸せが続いていくのだと信じていたのに、それが消えていく。
当たり前が当たり前じゃなくなる。
それがただただ辛かった。
俺は次第に母親を恨むようになった。
家族を捨てて、自身を優先した最低な人間だと思うようになった。
そこに、在りし日の思い出はない。
あるのは、引き裂かれた家族だけだった。
「ん……」
耳元からお父さんの声が聞こえる。
くすぐったさで思わず身をよじった。
「おいおい、早く起きないと学校間に合わないぞ?」
そう言いながら、お父さんはカーテンを勢いよく開き、太陽の光を部屋に取り込ませている。
「いやだ、このまま寝てたいの」
僕は感じたことをそのまま告げる。
頭では分かっていても、布団の誘惑には逆らえないのだ。
「ったく……」
そう言い残すと、お父さんの気配が消えた。
やった……!
まさか自分の意見が通ると思わなかったので、精一杯の抱擁を布団にしてもらう。
この時間がずっと続けばいい、そう思っているといきなり全身が露わになった。
「ほら! さっさと起きろ!」
「あ! ちょっと返してよ!」
「返さないぞー! もう起きる時間だ!」
どうやら油断していた隙に、身をかがめていたお父さんに騙されてしまったらしい。
布団を取り上げられ、身の拠り所を失う。
「ん――……分かったよ……」
「よし、えらいな」
「お父さんが布団取ったからでしょ? 全く……」
観念した僕は、重い身体をゆっくりと持ち上げてベッドから起き上がった。
「ご飯もうすぐで出来るから、学校の準備はしとけよ」
僕の部屋から出ていくお父さんが、去り際にそう告げる。
頷いて返事をすると、僕は寝間着から予め準備されていた服に着替える。
朝起きる時は、お父さんが僕を起こしに来てくれる。
朝が苦手な自分からすれば、どうしてお父さんが毎朝僕より早く起きることが出来るのか不思議でたまらなかった。
でも、起きた後はそんなことを考えている余裕がない。
急いで身支度を済ませてリビングに向かう。
すると、時間を見計らったようにお父さんがフライパンから料理を皿に移していた。
「お、今日は早いな」
僕に気づいたお父さんが時計を見ながらそう言った。
「僕だって子供じゃないんだから。今日から二年生なんだからね」
「そっかそっか。もう二年生か……」
考え事をしているお父さんを無視して席に座る。
そして、テーブルの向こうで座っている人に挨拶をした。
「おはよう、お母さん」
「うん…おはよう」
姿勢を崩さずに凛とした表情を保っていたが、僕の挨拶で朗らかな表情に変わっていた。
「今日はお母さんって家に居るの?」
「ええ、公演がないから家に居るわよ」
「そっか! じゃあ久しぶりに全員で食べられるね!」
「そうね」
お母さんは忙しい。
一年で家に帰って来る日は僅かで、基本的に各地のホールを飛び回っている。
コンサートホールで公演をするのが主な理由だが、時には学校で講演をしたこともあるらしい。
人気のあるピアニストでないと、ここまで引っ張りだこにはならないとお父さんが言っていた。
だから、今日みたいに一緒にご飯を食べられる日は滅多にない。
「母さんは凄いんだぞ? 一人で演奏したこともあるんだから」
「利紀さん、それ昨日も言ってましたよ」
「あれ、そうだっけ?」
盛り付けを終えて、テーブルにやって来たお父さんがお母さん自慢を始めようとしたが、その隣で座っていたお母さんに制されてしまった。
「この前観に行った所も凄かったもんね。お洒落な人がいっぱいいたし」
「祐介まで……」
でも、お父さんだけではなく僕までもが話に興じてしまったので、さすがのお母さんも諦めたのか、お父さんの制止を解いた。
「あれはドレスコードって言うんだぞ? 海外ではああいった服装が正装なんだ」
「へー、そうなんだー」
「特に思想家と詩人の国と称されているドイツだったり、ヨーロッパ音楽の総本山と言われているオーストリアでは常識になってるんだぞ?」
「ドイツ? オーストリア? ……よく分からないけど、取り敢えず凄いってこと……?」
「そうそう! 日本だとあまり馴染みがないからって正装以外で公演に来る人もいるくらいだからな……やっぱり音楽と言えばヨーロッパなんだよ!」
「そ、そうなんだ……」
興味本位で話題にしてしまったことを後悔してしまった。
お父さんの音楽愛が過熱していた。
お母さんが止めたがっていたのも頷ける。
「母さんはオーストリア好きだから演奏する曲もその国の作品に絞られてるけど、父さんとしてはもっと広く他の演奏も聞きたいんだよな……例えばポーランドとか____」
「ほら、祐介が困ってますから……」
そう言いながら、お母さんは更に白熱しかけていたお父さんの話を横から制止した。
実際にお父さんの話は談義に移り変わっていたから、僕にはさっぱり理解出来ない。
「お父さんってさ、お母さんの話になるといつもテンション高くなるよね」
お母さんに促されて席に着いたお父さんに向かって、僕はそう言った。
「いや、つい熱中しちゃうんだよな……」
「急に分からないことばっかり話されてもつまんないよ」
「ご、ごめん……いや、でもさ、母さんだって気になるよな?」
そう言ってお父さんは隣に座っている人に助けを求める。
「もう知ってます」
「そうか……」
でも、お母さんはその手を叩いてしまった。
お父さんが一人孤立する形となった。
「でもさ、お父さんっていつもその話しかしないよね。それしかないの?」
「い、いや、他にもあるぞ? 例えば……あ、あれだ、母さんはお酒が強いんだよ!」
「お酒?」
「ウォッカっていうアルコールの強いお酒があるんだけど、母さんはストレートで飲むんだよ! 凄いだろー?」
「……」
「父さんなんかいっつもベロベロになるのに、母さんは相変わらずすました顔のままでさ……」
ウォッカとかストレートと言われても、僕にはよく分からなかった。
お酒なんて飲んだこともないし、そもそも水を飲んだだけで強いとか弱いとか言われても理解出来ない。
「ほら…祐介が混乱してるから、その話はまた今度にでも……」
「ん――……仕方ない。じゃあ祐介が大きくなった時まで温めておこう」
お母さんが再び白熱するお父さんを咎めたことで会話が終わる。
でも、お父さんの最後の言葉は聞き捨てならない。
「もう二年生なんだよ? 大きいに決まってるじゃん!」
二年生になったのだから、もう十分な大人なんだ。
年齢だってもう八歳になろうとしている。
子ども扱いはもうたくさんだ。
「そうか、祐介はもう大人だもんな」
「そうだよ、もう大きいんだから僕でも分かるよ!」
見栄を張ったが、張って困るものでもない。
分からなかったらお母さんに教えてもらおう。
「じゃあ、お酒じゃなくて、母さんの好きなものを一つ教えてあげよう」
「お酒だって分かるよ」
「お酒は二十歳になってからだからな……今教えるのはちょっと不味いし、勘弁してくれ」
そう言って若干肩をすぼめているお父さんだったが、すぐに取り繕って言葉を続けようとした。
が、何を察したのか隣にいたお母さんによって再び抑えられた。
「あんまりそういったことは言わないでください……」
「え? 言っても減るもんじゃないんだし、別に良いだろ?」
「それでも駄目です……」
「……分かったよ、言わない」
二人でこそこそ話しているが、テーブルを介してはっきりと声が聞こえてくる。
それでも、僕にはどんな内容なのかまでは分からなかった。
二人の間で勝手に話が終わってしまい、僕だけが外野にいるようで納得がいかなかった。
「ねえ、結局どうなの? 教えてくれるの? くれないの?」
堪忍袋の緒が切れる寸前だった僕は、お父さんに催促した。
「ごめんな、祐介。これも駄目らしい」
「全部駄目じゃん……お父さんの馬鹿」
「そこまで言うか……」
僕が罵倒すると、お父さんは思っていた以上に落ち込んでしまった。
流石に言い過ぎたな、そう思い僕は訂正する。
「だ、大丈夫だよ……もう大人だし、我慢出来るよ?」
「祐介は優しいな……まあ、大したもんじゃないし、母さんがいない時にでも教えてあげるよ」
「聞こえてますよ、利紀さん」
「あはは……ほら、学校に間に合わなくなるから、ささっと食べよう」
そう言うと、お父さんは仕切り直して味噌汁を啜った。
時計を見ると、急がないといけない時間帯に入っていた。
「やば……! お父さんがいつまでも話してるから……!」
お父さんに文句を垂れるが、そんなことを言っても時間は戻ってこない。
僕もすかさずおかずに手を付けて、流し込むように味噌汁を平らげた。
熱々の白米を息を吐きながら食し、次々と皿を空にしていく。
「急いで食べると喉を詰まらせるぞ?」
「ちゃんと噛んでるから大丈夫!」
実際には数回しか噛んでいない。
でも、その数回の咀嚼の方が味わい深く感じられるから、僕は好きだった。
美味しいものは一番美味しい食べ方で食べた方が良い。
おじいちゃんみたいに何十回も噛んでいたら、それこそ味気ない気がする。
そんなことを考えていると、ずっと無言を貫いていたお母さんが僕に話しかけて来た。
「……祐介」
「何? お母さん」
僕は返事をして、お母さんの方を向く。
お母さんはじっとこちらを覗き込むように座っていた。
そして、僕と目が合うと、恥ずかしかったのか照れくさく笑った。
「どうしたの?」
不思議に思った僕は、もう一度質問した。
すると、お母さんは返事をする代わりに指を伸ばしてきた。
こっちに向かって伸びてきた指先は、僕の鼻先までやってきて、そこで止まった。
「……?」
「米粒、付いてるよ」
訳が分からず混乱していると、伝わっていないことに気づいたのか、お母さんがそう呟いた。
箸を止めて確認する。
人差し指には米粒が付いていた。
どうやら先程白米にがっついていた際に付いたようだ。
慌てて醜態を隠す。
「分かってたんなら、さっさと教えてくれよ……!」
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに」
「う、うるさいな……言われないと分からないんだから、すぐに教えてよ……」
「分かったわよ、ごめんなさいね」
「ったく、お母さんは……」
お母さんの意地悪な所だ。
目が合って恥ずかしがっていると思ったけど、実際はそうではなかった。
僕が気づいていないと思って、アホ面になっている姿を傍観していたんだ。
傍から見れば物静かそうな性格に見えるのに、実際は悪戯好きの悪い人なんだ。
睨みつけるように、ちらっとお母さんに視線を向ける。
すると、お母さんは今日一番の砕けた表情を浮かべていた。
それを見て、隣をお父さんは満足そうな笑みを浮かべている。
二人が笑顔だった。
「……」
やっぱり、この光景が好きだ。
お父さんと二人で居る時ももちろん楽しい。
でも、やっぱり三人一緒に食卓を囲うこの瞬間が一番好きだ。
一年で何回あるかも分からない日常。
それを日常と呼んでも良いのか分からないけど、それでも僕にとっては最上の日々なんだ。
「にやにやしてどうしたんだ? ……父さんの顔に何かついてんのか?」
「別にどうもないよ? それよりもほら、会社遅れるよ」
「わ、やばい……急がないと……!」
そう言いながら、忙しなくもどこか楽しそうにしているお父さん。
その隣では、辟易しながらも享受するお母さん。
テーブルを介して伝わってくる心地良さがある。
ずっと続いてくれたらいいのに、そう思った。
でも、望んでいた日常は続かなかった。
ーーー
「水……」
深夜に目が覚めた僕は、のどの渇きを潤すために部屋の扉を開けた。
この時間は皆が寝静まっている頃合いだったので、廊下は暗闇に包まれていた。
手探りで電気を点けると、空間に隙間なく閃光が走った。
「……!」
思わず目を閉じてしまった。
痛みが走り、視界に残像が強く残る。
なので、目が慣れるまでしばらく閉じたままで過ごすことにした。
それをやり過ごすと、ようやく僕は先に進んだ。
寝起きの身体を過信すると痛い目に合うのは経験済みだった。
だから、階段の手すりを便りにゆっくりと降りていく。
二階からの光が段々と遠ざかる。
そのまま進めば、今度は階下の暗闇の中で再び電気を点ける作業が待っている。
面倒ではあったが、目的達成のためには仕方ない。
ゆっくりと降りていき、曲がり角に差し掛かる。
が、そこで違和感に気がついた。
点いていないはずの電気が点いている。
「消し忘れかな?」
最初は疑問に思ったが、たまにお父さんが点けっぱなしで部屋を後にすることがあるので、その一環だと最終的には理解した。
でも、今日は違った。
階下に近づくほどに、微かに話し声が聞こえてくる。
お父さん……?
一階の廊下に辿り着くと、声の正体が鮮明になった。
次第にもう一人の存在も明らかになり、リビングに両親がいるのだと理解した。
日付が変わり、夜も更けている時間帯。
それなのに就寝せずに二人が何をしているのか、僕はただ気になった。
興味のままに、僕は光が漏れている方に向かう。
両親がいる所へ、導かれるように進んでいった。
でも、お父さんが言葉を発した瞬間、その歩みを止めた。
「お前の気持ちを尊重するよ、文乃……」
「ごめん……なさい……っ」
「いいんだ……仕方ないんだよ……」
雰囲気が違った。
嗚咽を漏らしながら泣き崩れるお母さん。
その後ろで背中をさすりながら何かを囁くお父さん。
会話の内容は途切れ途切れでよく聞こえない。
でも、尋常ではないことが起こっているとだけは分かった。
最初は喧嘩しているのかと思った。
お母さんが泣いている所を初めて見たし、あんなに真剣な顔をするお父さんだって同様だ。
分からないことだらけで困惑する。
でも、それだけが理由ではない。
時折見せる慈しみな表情は、僕が見たことのないお父さんの一面だった。
僕の知らないお父さんがそこにはいた。
「―――……!」
その事実が余計に辛かった。
いつも自分に向けられるものとは別の何か、それを享受しているのは今のお母さんだった。
今まで自分が見てきたものは自分に対して向けられたものだと思っていた。
朝起こしに来てくれるお父さん、車で迎えに来てくれるお父さん、食卓を囲う時のお父さん。
その全ての笑顔は自分に向けられているとばかり思っていた。
でも、それは幻想で、まやかしで、身勝手な妄想だった。
あの時の表情も、これまでの表情も、そして今の表情も、全てお母さんに向けられたものだったのだ。
だってそうだろう?
こんな顔、僕は知らない。
お母さんは知っていて、僕だけが知らない、こんなの不公平じゃないか……
疎外感、その一言が分かりやすい。
家族なのに自分だけが何も知らない。
どうして泣いているのか、どうして背中をさすっているのか、それさえも分からない。
朝までは皆で笑いあっていたのに、そんな面影は消えていた。
両親の間で勝手に話が進んで、自分だけが何も知らずに置いて行かれる、そんな疎外感。
「なんだよ、これ……」
分からないことがこんなにも辛いなんて知らなかった。
リビングに入る気力はもうすでに消えていた。
理解したいけど、足が前に動かない。
茫然としながら、僕はその場で立ち竦んだ。
目の前で行われている出来事をただ傍観しながら。
その後、お母さんは家から出て行ってしまった。
どうやら離婚したらしい、次の日の朝、お父さんにそう聞かされた。
寝つけずに朦朧としていた頭でなんとか咀嚼したけど、大して実感は沸かなかった。
それでも、ただ一つ、ぼんやりとお母さんのことを思い浮かべる。
物静かながら可憐な表情を浮かべて笑っていたあの日のお母さん。
いつも凛とした表情を崩すことはないのに、時折見せる表情は本当に楽しそうで、自分のことのように嬉しかった。
そんな楽しい日々が続くのだと思っていた。
これからもずっと僕達は一緒だと、そう思っていた。
……
裏切られた気分だった。
僕には何も告げずに目の前からいなくなってしまった。
言ってくれないと分からないのに、僕には教えてくれなかった、話してくれなかった。
二人で勝手に離婚を決めて勝手に家からいなくなってしまった。
その事実が胸の奥に重く残る。
ずっと幸せが続いていくのだと信じていたのに、それが消えていく。
当たり前が当たり前じゃなくなる。
それがただただ辛かった。
俺は次第に母親を恨むようになった。
家族を捨てて、自身を優先した最低な人間だと思うようになった。
そこに、在りし日の思い出はない。
あるのは、引き裂かれた家族だけだった。
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