Marieに捧ぐ 安藤未衣奈は心に溺れる

第二楽章 信用と信頼

努力の証明・後編

「クリアッ！！　クリアッ！！」



味方が奪取したボールをピッチの外に出せという指示を、後ろから湯川がする。

すぐにボールを外に蹴り出すが、蹴り位置がズレていたのか、ふわりとしたルーズボールは相手に華麗に奪われてしまった。



「――くッ！　戻れ―――」



俺のコーチングは、相手に蹴り出されたボールによって搔き消されてしまう。

低空飛行するボールは一線を描いてこちらに向かってくる。

それを察知した瞬間、反転してボール奪取に走るが、直前で相手が視界に飛び込んで来た。



「幸人…………！」



左足でトラップしてボールを受けた幸人は、その勢いのまま右足を振り抜こうとする。

その背後から遅れて右足を滑り込ませ、幸人の軸足側から身体をぶつける。

幸人はバランスを崩し、所有者を失ったボールを奪取する。



「――――！」



はずが、次の瞬間、幸人が突然視界から消える。

目の前にあったはずのボールと共に忽然と姿を消していた。



―――トンッ



背中に何かが当たる。

辛うじて目で追うと、幸人の背中が当たっていた。

それに気づいた途端、全てを理解した。俺のタックルは往なされたのだと。

俺と立ち位置を入れ替えるルーレットを巧みに操り、力の行き場を失った俺は追うことさえできなかった。



「コース塞げッ！！」



湯川のコーチングも虚しく、フリーになった幸人は右足を軸に左足を素早く振り抜く。

足の甲で蹴られたボールは寸分違わずゴールに向かった。



やられる、そう思った。



「――――――ぐぅッ！」



湯川の極限まで伸ばしたグローブの指先が触れ、僅かに軌道をずらしたシュートはゴールポストを強烈に叩いた。



「クリアしろッ！！」



ボールの落下地点にいた味方がクリアして窮地を脱した。佐藤だ。



「ナイスだ、佐藤！」



エールを送ると、佐藤は小さくガッツポーズを取った。



「ったく、もう少しで二点目だったのに……」



すぐ隣で腰に手を当てながら文句を垂れる幸人は、ネットを揺らすことのなかったゴールを憎たらしく見ていた。

その背中を見送り、自らの守備の配置に付こうとすると、「待てよ」と声を掛けられた。



「……何だよ、試合中に」

「いや、なんだか必死だなって思ってよ」

「試合なんだ、当たり前だろ」

「まあ、それは別にいいんだけどさ……」



そこまで言うと、少し笑みを零しながら幸人は告げるように言った。



「必死こいて頑張ってくれるから、こっちも倒し甲斐があるってもんよ」

「……ああ？」

「おっと怖い怖い。じゃあ、精々無様に舞ってくれよ？」



そう言い残し、幸人はスローインを始めようとする選手に詰め寄って行った。



「…………くそッ！」



完全に舐められている。

試合が始まってから今に至るまで、一度も幸人からボールを奪えていない。

幸人にボールが行き渡る前に刈り取るか、パスしたボールをカットするくらいしか対処できずにいた。

でもそれは、幸人を自由にさせてしまっていることと同義だ。

小鞠実業というチームの中心は言うまでもなく幸人。ボールに最も触れ、シュートも前半から何本も打たれている。そのせいで、あいつに一点を決められてしまったんだ。

次から次へとパスを供給される幸人は仲間から絶大な信頼を得ているのが分かる。分かるからこそ、その供給先を叩く必要があるのに、俺はずっと踊らされている。

なにか、なにか、あいつを止める手段を見出さなくては。



「―――キャプテン、なに焦ってるんですか」



後ろからの奇襲。振り向くと湯川が隣に来ていた。



「は……俺が？」

「焦って周りが見えてないように見えますよ。後ろからだとよく見えます」



湯川は冷静な頭で俺を分析していた。

すぐさま否定しようとしたが、結局妄言しか思いつかなかった。



「……悪い。確かに焦ってる」



俺は正直に告げる。監督から条件として付きつけられたタイムリミットまで、もう僅かしかない。

攻める人間が一人いなくなるだけで、俺達のチームはジリ貧になる。

そうなれば、勝利の可能性は残らないと悟っているからかもしれない。



「……一つだけ、俺に懸けてみませんか？」

「何だよ、急に」



湯川の発言に思わず聞き返してしまう。俺に案を持ちかけるなんて今まで一度もなかったのに。



「言ったでしょう？　後ろからの俯瞰って案外全体が筒抜けなんですよ」

「確かに言ってたけど……」

「俺の指示通りに動いてくれたら、きっと相手の十番も止められますよ」



十番、即ち幸人のことだ。



「……信じていいんだな？」



湯川の提案に乗れば、幸人を止められる。それだけで信じるに値する。



「任せてくださいよ。今しかないチャンス、無駄にするには惜しいですから」



自信を見せる湯川。こいつの指示を全うすれば、湯川の言うチャンスを掴める。

ならば指揮権を委ね、俺は湯川の手足となることを誓う。







ーーー







「ライン上げろッ！！　おい、下げるなッ！！」



湯川の指示通り、いつも以上にディフェンスラインを上げる。

相手選手に裏を取られてしまえば一気にゴールまで許してしまう諸刃の剣だ。そのため、常に神経を尖らせて相手選手とボールの双方をケアしなければならない。

他チームならまだしも、今の俺達では足が縺れて機能不全に陥る可能性の方が高い。

それでも僅かのため、俺達は従う。



「―――！　マーク気をつけろッ！」



自由にボールをキープしていた相手ディフェンダーが長いボールを放り込んできた。

悠馬が動けない分、それを理解している相手は落ち着いてボールを蹴ることができる。そのため、精度の高い軌道が佐藤の方に向かった。



佐藤はマークしていた相手選手に裏を取られる。

自らよりも数段俊足の相手。距離は段々と開いていく。



「――――くッ！」



急いで佐藤の穴埋めに向かおうとするが、湯川からの指示はそれを求めていない。

ボールを丁寧にトラップした相手選手は内側に切り込みながら、シュートもクロスも可能な位置まで迫って来ていた。シュートコースを塞ぐべきなのに、まだ動けない。

完全に一対一だ。



くそッまだかよ―――



そう思うと同時、相手選手が足を振り抜こうとする瞬間、俺の目の前で動き出した幸人がボールを求めた。



「克也ッ！　こっちだッ！」



その声に一瞬、相手選手が躊躇ったように見えた。

が、勢いそのまま、左足を振り抜く。



「おいッ！？」



幸人の要求も虚しく、フリーの状態で撃たれたボールは湯川の正面。そのままがっしりとキャッチした。

角度がなかったとはいえ、完璧にキャッチして見せたのだ。



「マジかよ、あいつ……！」



思わず俺は声に出してしまった。

が、感嘆するのはまだ早い。切り替えてすぐに前に走り出す。



湯川の長いスローインが弧を描き、走る先にバウンドする。

駆け寄る相手選手よりも早くボールを受け取った俺は、前線を睨む。すると、味方が一人前線で孤立していた。視線の先にいる者は、完全に相手の視界から消えている。

気づかれる前に素早く、俺は右足で大きく蹴り出した。



初めてのカウンターに相手は虚を突かれていた。

必死にボールの落ちる先へ駆け上がるが、力が入らないのか、後ろから迫る相手選手との距離が少しずつ縮まる。疲労困憊の足はすでに限界だった。



「――――走れぇッ！　悠馬ッ！！」



俺は叫ぶと、走る悠馬は強く腕を振って少しでも前に進もうとした。

その姿は余りにも情けなく、でもそれでいて純粋にボールを追いかける姿は、同時に美しいと思った。



相手のゴールキーパーも堪らず動き出す。

後ろから詰め寄る相手選手との三つ巴。誰かが倒れ、最後にボールは外に蹴られた。

同時に鳴らされるホイッスルはどこか悲鳴にも聞こえる。

でも、それは俺達のものではなく、むしろ――――







ーーー







「―――――一いっでぇッ！」



堪らず俺は声を上げた。

ぶつかった時に弾き飛ばされたらしいが、痛みでそれどころではない。

初めての感覚に、全身に寒気を覚える。



「おいッ、悠馬……！」



少しずつ痛みが引いて、意識が鮮明になってきた頃、遠くから走っていた祐介に声を掛けられ、ハッとする。



「……祐介。悪い、俺――――」

「ＰＫだよッ！　悠馬！　お前のお陰だ！」

「―――え」



周りを見渡す。

相手チームが群がり、審判に抗議をしている。その中には、試合前に祐介と話していたあいつもいた。

殺伐とした表情で明らかに動揺の色が窺える。



「あれって審判の進路妨害してるよな？　派手に倒れたのに全然こっちに来れてないじゃん」

「ん？　ああ、ありゃイエローカード出てもおかしくないな」



案の定、その選手は審判にカードを出されていた。

他の選手がなんとかなだめているが、矛先が向くのを恐れて恐縮しているように見えた。



「てか、そんなことはいいんだよ！　悠馬！　ＰＫだよ！　同点のチャンスだ！」

「俺のおかげ……」



言葉を繰り返すが実感が沸かない。自分はただ走っただけでなにもしていないから。



「やっぱりお前が前にいると安心だよ！　絶対走ってくれると思ってたから迷わず蹴れたんだよ！」

「祐介…………」



でも祐介は曇りなき晴れた表情で俺を見てくる。

俺がなにを思ってるかなんて全く介していない。



「……なあ、祐介」

「ん？　どうした？　まさか足痛むのか？」

「ちげぇよ。全然平気。そんなことよりお前に頼みたいことがあるんだよ」

「頼み？」

「……ＰＫ、俺に蹴らせてくれないか？」



祐介は少し動揺した素振りを見せた。当たり前だろう。足元がおぼつかないような状態で蹴れる保証なんてどこにもない。

せっかくの同点のチャンスを俺がふいにする可能性の方が遥かに高いのだから。



「いいよ、蹴ってくれ」



それでも祐介はすぐに了承してくれた。何も言わず、ただ俺を信頼してくれた。



「ああ―――さんきゅ、祐介」

「絶対決めろよ。ここでヒーローになれよ」



胸を強く叩かれる。仰け反りそうになったが、余すことなくエールを受け入れた。



「十一番、怪我は大丈夫ですか？」



ようやくやって来た審判に無事を伝え、ボールを受け取る。

蹴った時に付着したらしい砂と泥が混ざったボールはずっしりと重みを感じた。



「………………」



心臓が跳ねる。

暑さのせいか、喉の渇きのせいか、背中に集中する相手選手たちの視線か、それとも―――



ボールを置き、一歩、また一歩と助走を取る。

距離が離れていっても目の前のキーパーは全身を広げて追いかけてくるように威圧してきた。

正直、怖い。



―――兄ちゃんもこんな感じだったのかな



走馬灯のように蘇る記憶。

全身を震わせるナニモノかが波のように押し寄せてくる。

逃げてしまいたい。僅かな時間で何度も考えた。



渇く。求めたい。貪欲に。欲しい。



期待に応えたい――――――――







ーーー







気持ちの良い音。弾ける喜び。

同時に押し寄せる感情。

皆が走り出す中、俺は一目散に英雄の誕生を祝福した。



「ほんとに決めやがったッ！　マジでヒーローじゃねえかこんにゃろおッ！」



悠馬がもごもごと何か言っていたがそんなの関係ない。全身の喜びを爆発させる。



「―――くる、しいッ！　どいてくれ……ッ！」

「だってよッ、お前ッ！　同点だぞッ！？　かっこよすぎだろッ！」



相次いで皆が駆け寄り、しっちゃかめっちゃか状態の集団。悠馬は次々と賞賛の声をかけられていった。

が、悠馬は途切れたようにその場にへたり込んでしまった。



「おいッ！？　大丈夫かよッ！？」

「悪い……ちょっとしんどくなってきたわ……ッ」



もう出場許可の時間は過ぎている。ベンチを見ると、監督らがタンカの準備を始めてこちらに向かって来ていた。



「……あの時と立場は逆だけどさ、中学の時と同じ展開だな……」

「悠馬……」

「勝てよ……絶対に……」



そう言い残し、悠馬はタンカで運ばれていった。

それを見届け、俺は一人決意する。



「ああ、絶対勝ってやるよ……！」



こちらを睨む幸人と視線を交わす。

中学最後の試合、同点に追いつかれてそのまま敗北。あの時の悔しい出来事を塗り替える。

あの時の続きから、今度は俺達が巻き返す番だ。







ーーー







――――――カンッ！！



甲高く響くゴールポスト。

枠を捉えたはずのボールは逸れていく。

繰り返しボールを受け取り、繰り返しボールを打ち込む。



――――――カンッ！！



それでも、俺の耳に入ってくるのは甲高い音。ネットに包まれる音ではない。



「…………くそッ！！」



思わず悔しさを露わにする。

後半に入ってから上手くいかないことばかりだ。

シュートは入らない。相手が邪魔で全くいいように動けない。マークを外したとしても、いいパスを貰えない。

終いには同点に持ち込まれている。



「（なんで俺の思い通りに事が進まないッ！）」



原因は分かっている。

相手の背番号二番、甲斐祐介。こいつのせいだ。

前半は俺からろくにボールも取れなかったくせに、同点になった途端明らかに動きが良くなった。

疲労困憊なはずなのに俺の前に出てきてボールを搔っ攫っていく。

前を向こうにも身体を入れられてポジションを奪われる。



「てめぇ……ッ！」



雑魚のくせに粋がりやがって……ッ！

お山の大将気取りの野郎に、慕われているだけでいい気になってる奴に、死に物狂いで努力してきた俺が負けるはずがない……！



俺はこんなところで負けるわけにはいかない。今日の試合に勝って、インターハイで負けた中野原中央にリベンジしなければならない。

満足に人材が揃ってさえいない厚ヶ崎に負けるわけにはいかない。



「だからボールを寄越せぇぇぇぇ――――――――ッッ！！」



左でボールを受け取った選手、克也にボールを要求する。

が、直前で祐介が進路に割り込んできた。



「くそッ、邪魔だっつってんだろうがよぉッ！！？」

「簡単にやらせねぇよッ！」



結局ボールを受け取ることは出来ず、攻撃は枠外シュートで終わってしまった。



「――――……ッ！」



そのあまりのあっけなさに、俺はシュートを打った克也に駆け寄った。



「おいッ！？　なんで今俺に渡さなかったッ！？」

「はぁ……！？　なに言ってんだよ？　相手がマークについてただろ？」

「あの程度、俺なら撒けるッ！　いつも俺にボールを集めてくれるだろッ！？　なんで今日に限ってパスくれないんだよッ！？」



感情のままに吐き出す。俺にボールを集めればシュートを決めることができる。実際前半のゴールも俺がシュートしたからこそ決まったゴールだ。



俺がいれば、点は入る。奪える。そう決まっている。



なのに――――――



「…………なんで、なにも言わねえんだよ？」



克也はなにも言わず、ただ俺を見つめていた。

その表情はどこか悲しそうで、どこか俺の見覚えのある光景を映していた。



「随分と自分本位な考え方なんだな、幸人」

「はぁ？　なんでそうなるんだよ？」



言葉と裏腹に、どこか心がえぐられるような錯覚を覚える。これは一体なんだ？



「……！」



ハッとして振り返る。

皆の視線が俺に集中していた。

でもその視線は今までの俺を見るようなものとは別物のように感じられる。

冷徹な目で、俺じゃない、俺の心を見透かすような。俺を見ているのではなく、俺の中を覗き見るような一方的な観察。

プライバシーなんてものは存在しない。

まるで密室で一人、それをどこかから一方的に監視されているような底知れぬ恐怖を覚えた。



「試合再開するぞ、さっさとポジションに戻れ」



そう言って一歩、また一歩、、俺から離れていく克也。

皆の視線は消え、俺を見る人は誰もいなくなっていく。



「…………はは」



知っている。この光景は俺が一番よく知っている。

だって、俺がいたのは、そっち側だったから。



「待てよ……克也……」



自分でも情けないと思う声で呼び止める。

克也はなにも言わず、ただその場で立っていた。



「俺が悪かったよ……だから、待ってくれよ……」



ドラマを見ている時、最後の最後で命乞いをする犯人の気持ちがよく分からなかった。

自分の情けない姿、醜態を晒して、それでも現状に縋ろうとする犯人を見て、俺は心底馬鹿にしていた。

なんて愚かでくだらないことをしているのだろうか。さっさと諦めてしまえば楽になれるのに。そう馬鹿にしていた。



そう、馬鹿にしていたはずなのに―――――



「まだ行かないでくれよ……！　俺はまだ役に立つから……！」



振り解かれようとしているタスキに必死の思いでしがみつく。

強引に振り解かれても、足にしがみつく。

引きずられても離さない。

そこに尊厳なんてものは一切ない。



あるのはただ、俺が心底馬鹿にしていた、在りし日の祐介の写し姿だった。





親が祐介と関わることを許してくれなかった時、俺は反対できなかった。

身の危険を感じたのもそう。加えて、親同士での甲斐家に対する目も否定的だった。

子供には関係ないとかで教えてくれなかったけど、親にとって自身の子供の教育に悪いものは極力排除したいのが親の常。

親友の間柄だった俺達。でも、それは途端に崩れていった。

まだ幼い小学生にとって、親の言う事は全て正しい。

親がそう思うのであれば、子供は追随するのみ。そこに異議は唱えられない。

俺は祐介よりも親を信じた。それだけだった。



初めて実感した。

祐介がどんな思いを受けてきたのか。

仲良かった俺達に裏切られ、蔑まれる恐怖を。

同調圧力で誰も助けてくれなかった悲壮を。

教育に悪いだの評判が悪いだの、それらを鵜吞みにして正義を振りかざして。

俺がやってきたことが果たして正義なのか。

自分勝手と批判した人間こそ、本当の意味で自分勝手なのではないか――――――





「……ごめん、惨めなこと言って」



心が軋む。

錆びた金属のように歪な音を鳴らし、ただ崩れていく。

これが俺の望んでいた諦めなのだと身に染みる。

初めて、心が折れた。













「……なに諦めたような顔してんだよ、幸人。まだ試合は終わってないだろ？」

「え…………」



いつの間にか克也は俺の前に立っていた。



「たかが同点で日和るなんて、お前らしくないぞ」

「え、いや、でも……」



頭の整理が追い付かない。なんで笑顔でいるんだよ……？



「はぁ……ったく……」



そう言いため息をつくと、克也は俺の肩に手を置いて言った。



「俺はただ頭を冷やせって言ってんの。あっちの二番がお前の旧友だってのは分かってるけどさ、それで自分の周りが見えなくなってたら勝てる試合も勝てないだろうが」

「……悪い」

「それに……ほら、後ろ見てみろよ」



そう言われて振り返る。



「あ……」



消えていたはずの皆の視線が俺に向いている。

冷たく感じていたものが、今はとても温かく寄り添っているように。



「お前がチームの中心ってことは百も承知。事実お前のお陰で試合に勝ってきたし、信用だってされている。なら今度は、自分のためじゃなくって、もっと皆のために尽くしてやればいい」

「そんなの、どうやって……」

「難しいことじゃないだろ。ただいつも通りのプレーをすればいいだけだ」

「いつもの……」

「信じてるぜ、幸人。今度こそ中野原に勝って久しぶりの県大会行くんだろ？」



最後にそう言い残し、克也は自身のポジションに戻っていく。

その去り際、左腕を強く叩かれた。

痺れるほどの痛み、そこに巻かれているのはチームの結晶。

左腕に巻かれたキャプテンマークに手を当てると、その重みを実感する。



「……ふっ」



小さく笑みが零れる。

でも、それは先程までの自分に対する自虐ではない。

身に染みて感じた、心からの感謝を込めて。



「…………祐介」



ポジションに戻ると、俺は近くにいた旧友の名を呼んだ。

相変わらず敵意を向けながらも、「なんだよ」と聞き返してくる。

その姿を見て、俺は今だからこそ感じた言葉をそのまま彼に送った。



「眩しいよ、お前が」

「……は？」



送るのはそれだけ。せめてもの敬意。

お山の大将でも、信頼を勝ち取った事実は本物。

今の俺には、それをもう否定することはできなかった。



「でも、負けるつもりはないよ」



ボールが放り込まれ、ゆっくりと放物線を描く。

見慣れた光景に目を見開き、俺はどこまでも広がる青空を追い求めた。







ーーー







試合を通して理解した。相手にボールが渡ると、幸人は動き出しを始める。

相手のチームはこいつが中枢だ。こいつが動けば周りが連動して動き出す。

ならば、その起点を潰すことに集中すれば、他の相手選手が危険な位置にいても問題ない。



そのはずだった。



「……！？」



初めてのことに戸惑いが隠せない。幸人が一向にボールを要求しない。

それを気にせず、相手は幸人を経由せずにボールを繋ぎ始める。初めて見るパターンだ。



「―――克也ッ！」



と思いきや、突然横に動き出しながらボールを要求してきた。

静と動。上手くマークを剝がされてしまう。



「――――くそッ！」



幸人にボールを持たせたら一気にやられる。

堪らず追いかけるがボールは幸人に向かわず、その後方に空いたスペース、高知がマークしている相手選手へと渡った。俺が釣り出されて空いたスペースに入られてしまう。

幸人に気を取られて完全に警戒を緩めてしまっていた。



「キャプテンッ！！　十番マークッ！！」



湯川の指示にハッとする。

先程までいたはずの幸人が消えていた。



「（――――マズイ！）」



姿を捉えたが時すでに遅し。瞬間移動したように幸人はゴール前に走り込んでいた。

一歩動き出すのが遅れる。それでもパスコースを埋めるように入り込み、ショートカットをして距離を縮めていく。



「―――――――ぐッ！！」



読み通り、幸人へ放たれたパスは低い弾道でペナルティーエリアに切り込んできた。

慣れないスライディングで幸人とボールの間に入り込み瀬戸際でパスカットに成功すると、弾かれたボールはそのままピッチ外へ飛んでいく。



「ナイスカットッ！！」



湯川が駆け寄り、立ち上がるのを補助してくれる。

礼を言いながら立ち上がると、湯川深刻そうな面持ちで語りかけてきた。



「……さっきまでの攻撃から差別化を図ってきましたね」



その言葉に同意する。後ろで見ていた湯川にはすぐに理解していた。

先程カウンターが決まった時、相手選手は幸人にボールを回すか自分でシュートを打つか戸惑い気味であった。

幸人を徹底的にマークして自由を与えず、厚みの減った単調な攻撃へ誘導する。幸人が相手の中核を担い、一番ボールに触れる数が多い。それを逆手に取った作戦を提案したのが湯川だった。



「ああ。幸人……相手の十番が囮に徹して、周りが自由になってる」



しかし、今の攻撃は幸人を経由する攻撃パターンから、幸人なしで攻撃を行うパターンへの変更を意味していた。

幸人を自由にさせないというこちらの作戦を利用し、幸人以外の警戒が薄い選手のみが攻撃を行う。これだけなら先程までと変わらない。

だが、幸人が自らが積極的にボールに関わろうとすることで、その攻撃に厚みが生まれてしまう。

幸人がボールを貰いに走れば、自ずとマークしている選手も付いて行かなければならない。

そのせいで生まれたスペースに他の相手選手が走り込む。

ただボールを貰う動きではなく、味方選手と連動且つ味方を生かす囮役。

今までの自分を押し殺す行為そのものだった。



「十番の徹底マークを中止して、前半みたくゾーンで守りますか？」

「いや、それだと十番が絶対に自由になる。そうしたら前半の二の舞だ」



幸人を自由にさせてしまえば、それこそ不利になる。ボールを持たれたら最後、個人技で一気に突破されてしまうからだ。

かと言って、このまま幸人をマークすれば、他の敵選手に自由を与えてしまう。

先程とは戦況は変わった。一対一では技術も経験も相手に劣る、それに加えてこちらはまだ一・二年の仲間達、三年生が殆どを占める相手チームに個人で勝てる人はいない。

俺がいなくなったディフェンス陣では一瞬で瓦解するのみだ。



「（結局どちらを選んでもジリ貧……）」



どちらがマシかという選択。どちらを選んでも反撃のチャンスは訪れない。

それが理解できるからこそ、今の状況は窮地に等しい。



どうする―――――――――





「あ、あの……」



声のする方を振り向く。高知だった。



「俺が代わりに……十番のマークやります」

「なに言ってんだよ、そんなの―――」



無理。そう言おうとした。

俺でさえ幸人を止められないのに、高知にできるはずがない。

お前には荷が重すぎる。そう思った。

が、俺は言えなかった。



「……お前、本気で言ってんのか？　前半でもう既にバテてたのに……後半の残り数分、全力疾走するのと同じことなんだぞ？」

「ぐっ……、そうですけど……」



言葉に反して、高知はいつになく真剣な目をしていた。

それを見て、俺は――――――



「……分かった」



俺が了承すると、高知は表情を明るくした。



「でも絶対に抜かれるなよ。ボールを奪いにいかない、それが条件だ」

「分かってますって！　壁役に徹するだけですよね？」

「ああ、頼むぞ」



俺は信じることにした。

失敗する確率の方が明らかに上。だけど、それでも信じる。

何事も最初から自分だけで全て解決することはできない。それは俺が一番知っていること。いや、学んだことだから。



中盤で高知が幸人をマークし、俺はその後方のディフェンスラインを統括する。

一人ではないからこそ選択できる道。





「……なんだ、俺へのマークは諦めたのか？」



ポジションに戻り体勢を整えている最中、幸人が挑発するように言ってきた。



「それ、負けた時の言い訳に使うなよ？」

「そんなことしねえよ……それに、負けるつもりなんて最初からねーから」

「ふーん？　なるほどね……」



幸人は納得したような顔で言った。



「……否定しないんだな」

「しねぇよ。過程なんてどうでもいいからな。結果が全てだ」



やはり幸人は肩の力が抜けたように穏やかで、しかし内では静かに牙を研いでいる。

今もスローインによる試合再開を渇望しているような目だった。



「……そうだな」



その言葉に静かに同意する。

そうだ、結果が全てだ。

悠馬のため、自分の望む結末のため、そして……心に浮かぶ、その人のため。









「――――――――ッ！」



放たれたボールを合図に、俺は全てを意識に捧げる。

幸人に渡ったボール目掛けて進路を妨害しに向かう。

既に高知がマークについているが、幸人はボールに触れたワンタッチ目だけで高知の虚を付いていた。相変わらずのボールコントロールだ。



「（けど、これで――――！）」



高知を抜くために使ったワンタッチのお陰で、幸人の足からボールが三個分離れた。

自由になったボールはこちらに向かってきている。



「――――――つッ！」



が、俺は奪いに行かない。直前で留まり、ゴールとの間に壁を作る。

幸人の足捌きは格別。この距離でさえあいつの支配圏だ。前半で何度も突っ込み、そして一度も奪えずに抜かされている。

これは餌だ。飛びつけば逆に食われる。



案の定、幸人はボールをキープして隙を伺っていた。

右か左か、それとも味方という新たな選択肢か。可能性を挙げればキリがない。

でも、その一瞬の迷いが時間を稼ぐ。一度抜かれた高知が懸命に戻ってきているのが、視界に入る。

二対一の状況。幸人を挟んで刈る。



「高知ッ！！　挟めッ！！」



湯川が後方から指示を出す。それと同時に後ろから高知が到着した。

目論見通り、完全に略奪の条件を満たす―――――――



が、それでも幸人からボールを奪えない。

腕を大きく広げ、自身の領権を主張するようにドリブルを強行する。



絶対に突っ込んではいけない。自身に言い聞かせるが、それでも時折見せる隙に身体が反応してしまう。

滑らかなボールタッチ、時折混ぜられるシザースに身体が傾く。

数的有利をものともしない風貌に、焦燥感が漂ってしまう。



「――――――ッ！！」



突然、幸人が仕掛ける。

針の糸を通すが如き隙間に身体をねじ込み、ペナルティーエリアに侵入してきた。



「く―――――ッ！！」



反転してこちらも右手を差し出す。

前かがみになった幸人の胸元へ塞ぐように身体を入れる。一瞬の隙に対応した。



が、高知は付いてこれていない。ゴール前、幸人と俺の一騎打ち。不利だ。



「（でも―――――！）」



ここで点を取られたら全てが無駄になる。

あいつらのこれまでの努力も、悠馬の決死のゴールも、全て。



「オオオオオオオアアアァァァッッッッアア！！！」



悲鳴に近い叫びで、貪欲にボールを奪いにいく。

ダブルタッチで逆を突かれ、幸人と身体が交差する。が、伸ばした右足で地面を叩き、それ起爆点とする。

勢いを余さず、左足でシュート体勢に入る幸人目掛け突進、こちらも左足を繰り出してボールを簿ロックする。轟音と共に繰り出されたボールを超至近距離で弾いた。



「な―――――ッ！？？」



視界外からの突然の奇襲。幸人の動揺は明らかだった。



「湯川ぁぁッッ！！！」



足の痺れなんて関係ない。名前を叫ぶと同時に、頭上に上がったボールを湯川が掻き出す。



「てめぇ……、今のに食いついて来るのかよ」



幸人は悔しさというよりも感嘆といった表情だった。



「はあ――……ッ、負けねぇって言ったろ……ッ」

「それならこっちもだよ」



副審が足元に旗先を向ける。向けた先はピッチの角、つまりコーナーキックだ。



「……これがラストプレイだ。ここで決勝点を取る」



そう言い残し、幸人は背を向ける。

その背中に刻まれた背番号はこれまでにない存在感を醸し出していた。

これまで幾度となく見てきたからこそ察知する。今のあいつを野放しにするのは危険だ、と。

高知には悪いが、ここは絶対に俺が付くべきだ――――――



「―――キャプテン」



肩を叩かれ、後ろを向く。



「なんだよ、今の内にマークの確認しないと、ここ凌がないとＰＫ



湯川の目は俺を一線に見ていた。

いや、俺ではなく、その先、もしかすればもっと…………



「……何か作戦でもあるのか？」



仲間を信じるのに否定は要らない。

仲間を頼ることに躊躇なんてしない。

湯川だけじゃない、この場で共に戦ってくれる仲間全てだ。



「もう一つだけ、俺の作戦、聞いてくれますか」



そう言うと、湯川は自身が見据える終楽章を奏で始める――――







ーーー







「幸人、お前に合わせて蹴るよ」



コーナーキックに向かう克也は、途中、俺にそう言ってきた。



「合わせるって……俺にマークが集中してるの分かってて言ってんだよな？」



幾度となく動きを制限されてきたこの試合。その中でも特に祐介には手を焼いている。

それに加えて、技術がない分数的有利を作る戦術を見せる相手チーム。

誰が見ても、俺よりフリーな他の味方にボールを預けた方がゴールの可能性は高い。



「俺よりも他の奴らに渡した方が点を取れるだろ。なのにどうして……」

「どうしてって……そんなの決まってるだろ？」



そう言うと、克也は俺の肩に手を置いた。



「お前が一番点を取ってくれると思ったからだ」

「俺が――――……！」

「信じてるぞ、幸人」



そう言い残して、克也はコーナーキックに向かって行った。



「…………責任重大過ぎるだろ」



取り残された俺は一人呟く。

このくそ暑い中、前後半必死に走り続けて攻め続けて、そして最後のチャンス。正直足が重い。

ここで点を取ればＰＫ戦にならずに済む。その重圧を担うのが、俺。

ミスした時の皆からの視線が怖い。



「…………ふっ」



だというのに、武者震いが止まらない。

期待に答えたくて仕方がない。

今の俺に、皆が信頼してくれている。もう知っている。だから、



―――仲間の信頼に応えたい。



「よしッ！」



気合を入れ直し、ゴール前に陣取る。

すぐ後ろで壁を作る祐介。そして、もう一人の選手。

周りを見ると、この試合最後のチャンスに先立って、今まで守備に徹していたディフェンスやキーパーまでこちらに入ってきていた。

その数の多さに、相手選手達は自分が誰をマークすればいいのか混乱しているように見える。

完全に数的有利。こぼれ球やセカンドボールを拾う体制も万全だ。



「（絶対に決める）」



克也が助走を取り、ゆっくりと足を前へと進める。



「マーク離すなぁッ！！」



相手キーパーの声が響く。

それに連動して、あいての士気の高まりを感じ取る。

走り込む味方、それを抑える相手、一歩ずつボールに近づく度にボルテージが高まっていく。







―――――――――！！







熱気に包まれた世界に一筋の灯が匙を投げる。

高く、円を描く軌道。

両者が地面を蹴って飛ぶ。



それでも届かない。



向かう先はただ一つ。





「ぬああああぁぁぁぁッッッ！！！」

「――――――なッ！？？」



祐介との空中戦。背の高い俺の方が有利。だが、予想以上のバネで空中に留まる祐介。

俺はなんとか競り勝つことができたが、ヘディングしたボールは勢いを殺されてしまう。



「くそ……ッ！」



飛び出したキーパーのパンチングによって、大きくゴール前から遠ざかるボール。攻撃が失敗した―――――



「――――いや、まだだ！！」



託されたボールをゴールに届ける、それが俺の使命。



こぼれ球を拾った味方にパスを求める。俺の独断じゃない、自分勝手なプレイじゃない。皆から託された使命を全うする、俺の中にあるのはそれだけ。



「ッ！　幸人――――！」



ボールを受け取り、皆の信頼を実感する。託されたと理解する。



「！」



が、前を向くと、目の前には祐介が立ち塞がる。

決死の表情で、絶対に俺を抜かせないという覚悟が伝わってくる。



「（けど――――）」



俺は細かいタッチでボールを動かす。右アウトサイドで体重をずらし、と思いきや親指に引っ掛けて左に切り返す。エラシコだ。

それでも祐介は付いてくる。左に傾きかけた重心をなんとか矯正してきた。

右からでも左からでも対応できる、そう思わせる体勢。祐介は俺の足捌きに全神経を集中させていた。

どちらの選択肢を選んでも俺は奪える、そう言いたげな顔で。



――――――掛かった



だから、俺は第三の選択肢を選んだ。

大きく開いた股下、そこにゆっくりとボールを通す。



「――――――ッ！？」



祐介は予想外の選択肢に動揺している様子だった。

きっと祐介は股下をくぐるボールの行方を果てしなく長い時間をかけて理解していくのだろう。

思考が止まり、身体が硬直し、何もできないまま、横を走り抜ける俺の姿を目で追うことしかできない。



完全に抜き去った。後は――――



「コース塞げッッ！！」



ゴールキーパーとの一対一。

大きく両手を広げ、自身を大きく見せようと誇張してくる。



「（いや――――）」



右から他の選手がボール奪取にくる。

直前で察知し、小指に絡めながらボールを外に逃がす。飛び込んできた相手と入れ替わる。



その瞬間、ゴールキーパーの視界が飛び込んできた選手によって妨害された。

一方の俺は、その選手を盾に奇襲的にシュートが打てる。完全にフリーだ。





――――ここだッ！！





何度も何度も繰り返し練習してきた動作。

汗水垂らし、血のにじむような努力を重ね、掴み取ってきた実力。

それら全てが報いる瞬間、それが今だ。



「決まれえええええぇぇぇぇぇ――――――ッッッッッ！！！」







振り抜く―――――











「な―――――……ッ！！？」





刹那、視界に飛び込んでくる白いユニフォーム。

声にならない叫びをあげて、顔面でボールをブロックした。



「ナイスだッ！！　佐藤ぉッ！！」



こぼれたボールをキーパーにキャッチされる。

それを認めた瞬間、俺は固まってしまった。

点が決まると思った。ネットを揺らすと思った。

今まで幾度となく点を取ってきた無数の記憶が、その幻想を見せていた。



でも、今この瞬間、俺の目の前で起こっている出来事は全くの別もの。

仲間が駆け寄ってこない。観客が歓声に沸かない。それどころか落胆の声が聞こえる。



「――――…………！」



突然ハッとする。全身に寒気が走った。

一連の光景に思考が止まっていたせいで、俺は気づかなかった。

後ろを振り返るが、いない。左右を確認しても、どこにもいない。





あいつはどこに消えた―――――――――――







ーーー







大きな賭けだった。

アディショナルタイムを過ぎ、審判が時計を確認している。

ラストプレイが過ぎれば、残るのは審判の笛一つ。

僅かな可能性。

僅かなチャンス。



後方からやってくるボール。繋がれた想い。細く伸びた一筋の糸を手繰り寄せ、俺は走っていた。



疲労に縛られ、足が重い。

陽炎が渦巻く視界、瞳に映るものは果たして幻か。

耳に入ってくる歓声は、本物か。



喉が痛い。足が痛い。身体が痛い。止まってしまいたい。



でも、俺は走り続けた。



近づく幻影。

近づく悲鳴。

近づく結末。



右足を丁寧に振り抜き、晴れ渡る世界へ、一封を届ける。



ゆっくりと転がっていくそれは、音なき世界でただ一つ、光をもたらす。



その瞬間、耳に入るのは狂乱。



心に浮かぶのは、最愛の人。





「…………これが、俺の結末、か」



手足にじんわりと広がる熱。汗ばんだせいで絡みつく砂。そして、目の前に広がる青空。

仰向けに倒れ込んだ俺に待っていたのは、祝福の笛だった。