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第二楽章 信用と信頼
努力の証明・前編
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七月下旬、グラウンドのコンディションは最悪だった。
前日に降り注いだゲリラ豪雨の影響で、正午を回っても湿気が色濃く残っており、それに加えて連日の猛暑。肌が焼けるように痛いのに、汗はじんわりと肌に纏わりつく。まさにサウナの中にいるようであった。
「よーしお前ら、水分補給は徹底しろ! 倒れたら元もこうもないからな!」
疎んじる程の熱気の中、顧問の山口先生は変わらず声を上げて喝を入れてくる。
各々が返事をする中、隣でストレッチをしていた悠馬が声をかけてきた。
「今日の相手、コマ実だぞ……? 熱いだけでも勘弁なのに、本当どうして山口はあんなに気合が入ってんのかね……」
「……先生の母校だからだよ」
「まじかよ」と嘆く悠馬。小鞠実業との試合に勝たなければならない理由が増え、士気が下がっているらしい。
「じゃあ、諦めるか?」
「馬鹿言うな。今からエネルギー使ってたら最後までもたないだろうが。俺は賢く生きたいんだよ」
それでも前向きに意気込む。ストレッチを終え、スパイクの紐を強く結び直しながら悠馬は言った。
「でも、今日が最後の試合になるかもしれないんだよな」
「なんだよ、突然フラグみたいなこと言って……」
「そんなんじゃねーよ」と言い、紐を結び終えた悠馬は膝に手をついて立ち上がる。
そして、つま先を地面に何回も叩きつけ、何処かへ視線を送りながら小さく呟いた。
「中学の最後の試合、覚えてるか?」
頷きながら、悠馬が視線を送る先を見つめる。
グラウンドの反対面では、今日の対戦相手である小鞠実業の選手達がウォーミングアップをしている。
俺達の在籍するブロックを毎年勝ち上がる県大会の常連校であり、県内有数の中高一貫の私立進学校としても知られている。
まさに文武両道を掲げる高校。ラダートレーニングを進行している選手たちの顔つきもどこか洗練されている。
細かい動きを短時間で俊敏に行わなければならないにも関わらず、それを黙々と行う選手たちの息は全く乱れていなかった。
「あの時もさ、誰も俺達が勝つなんて思ってなかったよな」
周囲を見渡す。
我が子の活躍を焼きつけようとする人、次戦のために分析用のカメラを回す人、単なる高校サッカーファンらしき人。木々の陰には応援や観戦に訪れた人たちが入り浸れていた。
でもそれは俺達に対するものではない。
皆が注目するのは、小鞠実業の選手たちだ。
「……そうだな」
随分と懐かしい。
あの時も俺達に期待する声は殆どなかった。あったとしても、それは自チームの保護者応援団だ。
それが一転、会場の歓声が沸き上がる瞬間を迎える。
俺達はまさに挑戦者だった。
「まあ結局、最後の最後で同点に追いつかれて負けちゃったんだけどさ」
「でも」と付け加えて、悠馬は俺を見た。
立ち上がって隣に赴く俺を見て、悠馬は確かめるように強く言った。
「今度こそは成し遂げてやろうぜ」
全身が震える。武者震いというやつだろう。
今が一番感情が高ぶっているのかもしれない。暑さを一瞬忘れてしまう程に俺は高揚していた。
「ああ!」
その高ぶりのままに、俺は力強く応えた。
それと同時に山口先生が集合の合図。俺達はすぐに向かう。
「―――祐介、だろ?」
が、後ろから名前を呼ばれ、俺は立ち止まった。
悠馬が振り返ってこちらを見るが、俺の顔を見て踵を返す。便宜を図ってくれた。
「……高校の名前を聞いて、もしかしたらって思ってた。でも、まさか本当にいるとは思わなかった」
声をかけてきた相手は身長も体格も大きい。
外見は瘦せ型に見えるが、それでも俺より一回り強靭な体格を有していた。あの頃は俺の方が大きかったのに、今では正反対だ。
顔つきも逞しく、以前の面影を感じさせない。それになによりも、全身が自信に満ち溢れていた。
「俺のこと、もう忘れてるんじゃないかって思ってたよ。同じ小学校の同級生なんて、殆ど俺のことなんて覚えてなかったから。ほんと酷いよな」
「忘れる訳ないだろ。あんなに楽しく遊んでた仲じゃないか」
「そうだね」と笑顔を見せるが、その腕には黄色い腕章が巻かれていた。
濃緑のユニフォームを身に纏い、節々から覗かせる筋肉は存在を醸し出す。
これが強者の余裕というやつか。
「……でも、自分優位だった祐介が、まさかチームスポーツをやってたなんて……ほんとに信じられないよ」
「信じられない、か」
その言葉に、俺は静かに歯を噛む。
「俺だって成長してんだよ。お前は何も知らないと思うけどな」
「だよね。いつまでも裏切り者のレッテルを貼られるのは嫌だもんな」
積年振りの再会の喜びを分かち合う雰囲気は、とうに消えていた。
彼は挑発するような口調で、俺の内面を抉ろうとしてくる。
俺が一番言われたくない言葉で動揺を誘う。流石は元友人といったところだ。
「……試合前に言いたいのは、それだけか?」
それでも、俺は私欲に身を任せる立場でないことは分かっていた。
だから、嘲るように俺はあしらった。
「……随分と冷静なんだね」
浮かべていた笑みは消え、冷たい口調で彼は言う。
「祐介が裏切ったのは事実なんだから、あからさまに動揺してほしかったな。そうしたら俺も許してあげようと思ったのに」
「別に要らないよ、そんなの。あの時は俺が悪かったと自覚してるから」
そう告げると彼はポカンとし、突然声を上げて笑い始めた。
「あはははははっ! 悪かったって……! あの祐介が! 認めるんだ……っ!」
不気味に感じつつ、俺は黙り込んだ。
次第に落ち着いたのか目から出た涙を拭き、彼はゆっくりと言葉を発した。
「いやー……、まあ普通に考えたら危険だって分かるよね。ブロック塀も崩れるくらいの嵐なのに外に友達を連れ出そうとするなんて……。俺を殺す気かって誰でも思うだろ」
はっきりとした口調で、彼は続ける。
「人の気持ちなんて分からないのかって思ってたけど……まさかその祐介がチームのキャプテンだなんて、ほんとに信じられないよ」
わざとらしく感嘆する彼。昔の俺を想像すればそんな考えになるのは当たり前だろう。
身の危険を与えるような人間が、今度は皆を統括する立場に変わったなんて、とてもじゃないが信頼できない。
そんな上司の元に誰一人として付いてくるはずがない、そう感じているのだろう。
「……今更許してもらおうだなんて、これっぽっちも思ってねぇよ」
だから、俺は奮い立たせるように告げる。
「でも、俺を信じてくれる仲間がいる以上、俺は二度と過ちを繰り返さない」
こんな俺でも信じてくれる人がいるなら。
ならば、俺が為すべきことは一つ。
「―――絶対に負かしてやるよ、幸人ゆきと」
鼓舞するように俺は言った。
相手が誰であろうと関係ない。俺を信じてくれる人のために、俺は戦う。
「……俺達だって今日を最後にする訳にはいかないんだよ」
明確な敵意を受けられる。
でも、俺は自分の意思で選んだ道を後悔したくないから。
「てめぇだけには絶対に負けたくねぇ……インターハイ予選での雪辱を、こんな奴らに邪魔されてたまるかよ――――――ッ!」
憎悪の籠った目を向けられても、俺は逃げない。
過去のトラウマにケリをつける時だ。
「ああ、やってやるよ―――! お前たちに勝って、俺達の努力を証明してやる―――!」
小学時代の親友、兵藤幸人。いつも一緒に遊び、日常と化していた日々。
でもそれは俺の独りよがりのせいで崩れてしまった。俺に裏切られたと思うのは当たり前だ。
もう二度と取り戻せない日々を今更悔やんでも仕方がない。
だから、俺は今あるものを大切にしたい。信頼を無下にしたくない。
そんな、秘めた熱意を吐き出した。
ーーー
喉が渇く。
鞄から取り出した水筒に手を付けるが、それでも潤うのは一瞬だけ。すぐに渇きに耐える時間に戻る。
「日焼け止め、塗り直さないと」
木陰にいるのに、一向に涼しさを感じない。
風のない木陰なんて、熱射避けには何の意味もなさない。只々体力を奪われるだけ。
周囲を見渡すと同じ有り様で、中には休憩時間を利用して車内冷房で涼む人もいた。
それを羨ましくも眺めていたが、すぐに目を逸らす。
「そろそろだと思うんだけど……」
腕時計は指定の時刻を過ぎていた。
もしかしたら、と不安に駆られてしまう。
「―――ご、ごめん!」
振り返ると、小走りで駆け寄ってくる姿があった。お姉ちゃんだ。
「ちょっと! 病み上がりなのに走ったらまずいよ……!」
「大丈夫、だから……」
乱れた息を整えながら、お姉ちゃんは遅刻したことを謝っていた。
その様子を見るに、駐車場からここまでの距離をずっと走って来たのだろう。それが伝わるだけで、遅刻なんて些細な事だった。
「でも、その服装は……ちょっと変だと思うよ」
都心から離れた街だとしても、お姉ちゃんは超が付くほどの有名人だ。ばれる人にはばれる。
そのための変装だと考えれば道理は成り立つけど、今の格好には流石にモノ申したくなる。
「サングラスは良しとしても……この時期にマスクは悪目立ちだよ」
「そう……? 皆私を見ないで通り過ぎていったけど」
「……見ないようにしてたんでしょ。不審者みたいだから」
その言葉を聞いて、意気消沈しながらマスクをポーチに仕舞うお姉ちゃん。
その仕草に既視感を覚える。そうだ、私も以前に同じことを言われたんだっけ。
随分と昔のことのように思えるが、あれから半年も経ってない。
「……ごめん」
「え、何か言った?」
「いや、別に何も……はい」
「……?」
お姉ちゃんが鈍感で助かった。
探りを入れられないうちに話を変える。
「それよりもさ、凄い人の数だよね! スポーツ観戦って初めてだけど、こんな感じなんだ」
「うーん、そうね……まだ一回戦だって聞いてるから、勝ち上がればもっと人の渋滞が見れると思うわよ」
「へー、これ以上か…………」
中身のない対話に段々と自身の会話力のなさを痛感してしまう。
私には場を取り仕切る能力が欠如しているのかもしれない。もっと楽に対話がしたいのに。
「……未衣奈は今のままでも良いのよ?」
「―――! いや、私は別に今のままでいたいなんてこれっぽっちも思ってなくてもっと色んなことができたらいいなってだけでその―――――」
「ちょっと未衣奈、落ち着いて……」
お姉ちゃんに諭され、冷静さを欠いてしまったことを恥じる。
途中で買ってきたらしいミネラルウォーターを貰い、渇き切った喉を再び潤す。
「きっと暑さのせいね」と漏らし、勝手にお姉ちゃんに納得されてしまった。
「ありがと」
そう言って、空になったペットボトルを返す。
お姉ちゃんに驚愕されてしまったが、がめついと思われたくなかったので、事を荒立てないようにする。
「未衣奈……いえ、何でもないわ」
気を遣われてしまった。やはり羞恥からは逃れられないらしい。
でも、今はそれよりも一つだけどうしても気になったことを問いたくなってしまった。
「……みーちゃんって、もう呼ばないんだね」
「……え?」
一瞬、手を止める。明らかに動揺を見せたと分かった。
私がそうするように求めたのが発端だが、蟠りわだかまが解けた今になってもお姉ちゃんはその名を避けていた。
「そうね……本当ならそう呼びたい。ずっとそれが当たり前だと思ってたから」
空のペットボトルをカバンに仕舞いながら、ゆっくりと説くように言った。
「でも、昔みたいな子供扱いはしないって決めたから。私がそうしたいの。だから未衣奈のせいじゃない」
「お姉ちゃん……」
少し心残りだった。けど、今のお姉ちゃんにこれ以上は無用だ。
お姉ちゃんはそんなことで私を嫌いにならない、そう信じていたい。
「ありがとう」
私がそう言うと、お姉ちゃんは何も言わずに頷いてくれた。
それが分かっただけで、暑さとは別の、何か温かいものを感じた。
「それよりも……ほら未衣奈、もうすぐ試合再開しそうだよ」
雰囲気を紛らわすように、お姉ちゃんはグラウンドに出てきた審判を指差す。
視線をやると、確かに審判の人が笛を拭こうとしていた。
「あの子のチーム、白と赤の方だよね。どう? 勝てそう?」
「分かんない、相手にずっと攻め込まれてたから」
高々に吹かれた笛を合図に、緑を基調とした選手と白を基調とした選手が姿を現す。
この位置からは緑の選手ばかりで分からないけど、奥に点在する中に彼はいるのだろう。
「でも、きっと勝つよ」
彼の言葉を信じて、私は見つめた。
ーーー
「くそ……ッ」
前半を終えて、自身の不甲斐なさに思わず声を荒げてしまう。
一度もシュートを打てず、挙句の果てには相手に徹底的に攻め込まれてしまった。
ボールを奪取してもすぐに奪われて、二撃三撃と波のように押し寄せる相手選手に手一杯になり、気づけば点を奪われていた。
スコアは0―1。最初から苦戦になると分かっていた分、一点でも奪われたら一気に瓦解すると思っていたが、なんとか瀬戸際で踏みとどまっている。
でも、こちらの疲労度は予想以上で、直前にあれだけ走り込んできたチームメイト達はすでに息を切らしていた。
「――――ッ!」
声にならない悲鳴に振り返ると、悠馬が足を上げてのた打ち回っていた。
「足出せ! すぐに伸ばす!」
そう言って、俺は右足を攣った悠馬を介護する。
「―――ッ! マジかよ、まだ前半だぞ……?」
前線で絶え間なく走り回った悠馬の足は既に限界間近だと警告していた。
それを無視するようにふくらはぎを伸ばしていくと、悠馬の顔は段々と涼しくなっていった。
「…………」
相手ベンチを見ると、汗こそ垂らすものの、未だに元気だと言いたげな表情ばかりが立ち並んでいた。それは幸人も例外ではない。
三年間の集大成ともいえる大会、それに懸ける思いは人それぞれ。
だが、インターハイ後からの一か月間と二年以上の努力にはこれ程の差があるのだと痛感してしまう。
体力も、個人技も、戦術も、全てにおいて劣っている俺達が勝つには、最早気力しかなかった。
「こい、悠馬。お前はベンチに座って治療だ」
ベンチに座っていた監督の山口先生は、俺の隣でストレッチをしている悠馬にそう言った。
「はぁ……!? 何言ってんだよ!」
「足攣ったんだろ、初期の脱水症状かもしれん……なら監督として出場を認める訳にはいかない」
「そんなの……! 俺は全然平気だ……!」
悠馬は感情を爆破させていた。
監督の説得を無視し、強く出場継続を求めている。
でも、監督はそれ以上の形相で威圧した。
「脱水症状を甘く見るなッッ!! 脱水症状はなッ、後遺症で済む場合もあれば最悪命を落とすことにも繋がるんだぞ……ッ! それで今後続く人生をふいにしてもいいのかッ!」
強い言葉で正論をぶつける監督に、俺は畏怖してしまった。
いや、俺だけではない。話を聞いていた他のチームメイトも、俺以上に恐怖していた。
「……だからって、このまま諦めろっていうのかよ……」
悠馬は小さく呟くと、背を向けていた俺に振り返り、懇願するように叫んだ。
「祐介、お前はどうなんだよ……! 何もできずにこのまま負けて良いのかよ……! これが……ッ、最後になっても良いのかよ……ッ!」
「悠馬……」
「俺はまだできるッ! いくらでも走れるッ! だから……」
最後まで言わず、悠馬はうなだれた。それは俺の知らない親友の姿だった。
懇願する悠馬の声はこの試合に懸ける思いが人一倍強いのだと伝わる程に強く、そして弱かった。
心の内を曝け出すこと自体皆は躊躇うのに、それでも悠馬は俺に求めた。
俺はチームのキャプテンで、全体の責任があって、個人的なものに縛られてはいけない。
その俺に求めても悠馬の望む結果は得られないのに、それでも悠馬は求めたんだ。
「……監督、あと少しでいいから、悠馬の出場を認めてください」
今の俺は間違っている。自覚してる。
「お前、本気で言ってるのか……? 俺の忠告を聞いてなかったのか……?」
「分かってます。分かった上でお願いしているんです」
「だったら尚更だ。お前はチームの主将で理性的でなければならない。それでもお前は感情に身を任せる仲間を止めずに、死地に追いやるのか?」
監督の言う言葉はどれも正論で、どれも間違っていない。
それでも、俺は自分だけの正義を押し通そうとしている。
「試合中に少しでも変化があれば、俺が絶対にピッチから退場させます。絶対に無理はさせません」
「……それを俺が本気で期待すると思うか? 今のお前を俺が信用すると思うのか? キャプテンなら私利私欲が通じると思ったら大間違いだぞ」
「承知の上です。責任は俺が取ります」
俺は間違った正義をぶつけている。
私利私欲のため、誤った信頼を優先している。
「馬鹿が……ガキが軽々しく責任なんて言葉を使うんじゃない。そういうのは大人の仕事だ。お前の仕事じゃない」
「……それでも少しだけ、五分でもいいんです。最後になるかもしれない試合に未練を残してほしくないんです……」
往生際が悪いと思う。それでも俺は頭を下げた。
「お願いします、出場を認めてください…………!」
悠馬がいなければこの試合は勝てない。
決死の思いで奪い取ったボールを要求する悠馬が前線にいなければ、俺は誰にボールを渡せばいいのか分からない。
一番の理解者で、俺を安心させてくれる奴が同じグラウンドに立っていない事実は到底受け入れられない。
その場で立っているだけでいい、ボールを追わなくていい、ただいてくれるだけで俺は安心してボールを託せる。
「祐介、お前……」
「お願いします、監督! グラウンドに立っているだけでいいんです! 悠馬を立たせてあげてください……!」
結局正論には勝てない。最後には懇願するだけで、理性的とは真逆。
チームキャプテンとして失格だ。
ならば、もう最後まで足掻いてやる。
「―――俺からもお願いしますッ! 悠馬さんの分まで、俺、走りますから……ッ!」
いつの間にか地面に座っていたチームメイトが後ろで懇願していた。
佐藤に賛同するように、続々と監督の前に立つ。
「俺も! まだ体力有り余ってるし!」
「お前はサボってるだけだろ。キーパーだから、動いてない奴が丸わかりなんだよ
湯川の叱咤に頭を抱える高知。
「お前ら……」
和気あいあいとする後輩達は、今の俺には心強い味方だった。
「……変わったな、祐介」
「……え」
頭を上げると、監督はじっと俺を見ていた。
先程までも鬼の形相とは異なる、どこか親に似た目。
「今までのお前なら、ここまで見苦しい真似はしなかっただろ。初めから楯突くことなく穏便に済まそうとしたはずだ」
「それは……そうかもしれません」
「でも、そうはしなかった。他人のためにここまでできるお前は立派だよ……」
監督は頭を掻きながら、目つきを変えていった。
「それでも今回は駄目だ。この暑さの中、脱水症状の疑いがある奴がいれば早期に治療するのが適切だ。体育教師の立場上、それは見過ごせん」
「…………はい」
誤った道に進もうとする生徒を更生させるのが教師の役目。それを理解している分、尚更監督が正しい。
悠馬の意思と悠馬の人生を天秤に懸けられたら、悔しいけどもう納得するしかなかった。
「―――五分だけだ」
「え……」
「聞こえなかったか? 五分だけだ。それ以上過ぎるようなら問答無用で退場させる、それが条件だ」
監督の言葉に混乱してしまう。
「い、いいんですか……?」
「いい訳ないだろ、こんなのバレたら懲戒処分だぞ。嫁にドヤされるに決まってる」
そう言いながら正論に目を瞑る監督はどこか愉快に見えた。
「全て責任取るってんだ……、精々俺に後悔させるような真似はすんなよ?」
「―――あ、ありがとうございます!」
「ったく……、教師失格だよ、全く」
「行ってこい!」という言葉に背中を押され、俺達はグラウンドに散って行く。
後ろには湯川、隣には高知と佐藤、そして遥か前には悠馬が立っていた。皆の背中はどこかいつも以上に頼もしい。
そんな彼らの代表は、俺。どんなに点差が開こうとも、どんなに苦境に立たされても、俺だけは絶対に折れてはならない。キャプテンとしての重圧が圧し掛かる。
でも、不思議と怖くない。
もう孤独に耐える日常は終わりを告げた。
誰もが俺を信頼し、認め、付いて来てくれる。それを知っているから。
ホイッスルの音は刻一刻と迫ってくる中、俺は遠くで立っている幸人を認める。
暑さで脳が焼け切れようとも、足首を削られようとも、俺は絶対に倒れない。
倒れるのは勝負に勝った時だ――――
前日に降り注いだゲリラ豪雨の影響で、正午を回っても湿気が色濃く残っており、それに加えて連日の猛暑。肌が焼けるように痛いのに、汗はじんわりと肌に纏わりつく。まさにサウナの中にいるようであった。
「よーしお前ら、水分補給は徹底しろ! 倒れたら元もこうもないからな!」
疎んじる程の熱気の中、顧問の山口先生は変わらず声を上げて喝を入れてくる。
各々が返事をする中、隣でストレッチをしていた悠馬が声をかけてきた。
「今日の相手、コマ実だぞ……? 熱いだけでも勘弁なのに、本当どうして山口はあんなに気合が入ってんのかね……」
「……先生の母校だからだよ」
「まじかよ」と嘆く悠馬。小鞠実業との試合に勝たなければならない理由が増え、士気が下がっているらしい。
「じゃあ、諦めるか?」
「馬鹿言うな。今からエネルギー使ってたら最後までもたないだろうが。俺は賢く生きたいんだよ」
それでも前向きに意気込む。ストレッチを終え、スパイクの紐を強く結び直しながら悠馬は言った。
「でも、今日が最後の試合になるかもしれないんだよな」
「なんだよ、突然フラグみたいなこと言って……」
「そんなんじゃねーよ」と言い、紐を結び終えた悠馬は膝に手をついて立ち上がる。
そして、つま先を地面に何回も叩きつけ、何処かへ視線を送りながら小さく呟いた。
「中学の最後の試合、覚えてるか?」
頷きながら、悠馬が視線を送る先を見つめる。
グラウンドの反対面では、今日の対戦相手である小鞠実業の選手達がウォーミングアップをしている。
俺達の在籍するブロックを毎年勝ち上がる県大会の常連校であり、県内有数の中高一貫の私立進学校としても知られている。
まさに文武両道を掲げる高校。ラダートレーニングを進行している選手たちの顔つきもどこか洗練されている。
細かい動きを短時間で俊敏に行わなければならないにも関わらず、それを黙々と行う選手たちの息は全く乱れていなかった。
「あの時もさ、誰も俺達が勝つなんて思ってなかったよな」
周囲を見渡す。
我が子の活躍を焼きつけようとする人、次戦のために分析用のカメラを回す人、単なる高校サッカーファンらしき人。木々の陰には応援や観戦に訪れた人たちが入り浸れていた。
でもそれは俺達に対するものではない。
皆が注目するのは、小鞠実業の選手たちだ。
「……そうだな」
随分と懐かしい。
あの時も俺達に期待する声は殆どなかった。あったとしても、それは自チームの保護者応援団だ。
それが一転、会場の歓声が沸き上がる瞬間を迎える。
俺達はまさに挑戦者だった。
「まあ結局、最後の最後で同点に追いつかれて負けちゃったんだけどさ」
「でも」と付け加えて、悠馬は俺を見た。
立ち上がって隣に赴く俺を見て、悠馬は確かめるように強く言った。
「今度こそは成し遂げてやろうぜ」
全身が震える。武者震いというやつだろう。
今が一番感情が高ぶっているのかもしれない。暑さを一瞬忘れてしまう程に俺は高揚していた。
「ああ!」
その高ぶりのままに、俺は力強く応えた。
それと同時に山口先生が集合の合図。俺達はすぐに向かう。
「―――祐介、だろ?」
が、後ろから名前を呼ばれ、俺は立ち止まった。
悠馬が振り返ってこちらを見るが、俺の顔を見て踵を返す。便宜を図ってくれた。
「……高校の名前を聞いて、もしかしたらって思ってた。でも、まさか本当にいるとは思わなかった」
声をかけてきた相手は身長も体格も大きい。
外見は瘦せ型に見えるが、それでも俺より一回り強靭な体格を有していた。あの頃は俺の方が大きかったのに、今では正反対だ。
顔つきも逞しく、以前の面影を感じさせない。それになによりも、全身が自信に満ち溢れていた。
「俺のこと、もう忘れてるんじゃないかって思ってたよ。同じ小学校の同級生なんて、殆ど俺のことなんて覚えてなかったから。ほんと酷いよな」
「忘れる訳ないだろ。あんなに楽しく遊んでた仲じゃないか」
「そうだね」と笑顔を見せるが、その腕には黄色い腕章が巻かれていた。
濃緑のユニフォームを身に纏い、節々から覗かせる筋肉は存在を醸し出す。
これが強者の余裕というやつか。
「……でも、自分優位だった祐介が、まさかチームスポーツをやってたなんて……ほんとに信じられないよ」
「信じられない、か」
その言葉に、俺は静かに歯を噛む。
「俺だって成長してんだよ。お前は何も知らないと思うけどな」
「だよね。いつまでも裏切り者のレッテルを貼られるのは嫌だもんな」
積年振りの再会の喜びを分かち合う雰囲気は、とうに消えていた。
彼は挑発するような口調で、俺の内面を抉ろうとしてくる。
俺が一番言われたくない言葉で動揺を誘う。流石は元友人といったところだ。
「……試合前に言いたいのは、それだけか?」
それでも、俺は私欲に身を任せる立場でないことは分かっていた。
だから、嘲るように俺はあしらった。
「……随分と冷静なんだね」
浮かべていた笑みは消え、冷たい口調で彼は言う。
「祐介が裏切ったのは事実なんだから、あからさまに動揺してほしかったな。そうしたら俺も許してあげようと思ったのに」
「別に要らないよ、そんなの。あの時は俺が悪かったと自覚してるから」
そう告げると彼はポカンとし、突然声を上げて笑い始めた。
「あはははははっ! 悪かったって……! あの祐介が! 認めるんだ……っ!」
不気味に感じつつ、俺は黙り込んだ。
次第に落ち着いたのか目から出た涙を拭き、彼はゆっくりと言葉を発した。
「いやー……、まあ普通に考えたら危険だって分かるよね。ブロック塀も崩れるくらいの嵐なのに外に友達を連れ出そうとするなんて……。俺を殺す気かって誰でも思うだろ」
はっきりとした口調で、彼は続ける。
「人の気持ちなんて分からないのかって思ってたけど……まさかその祐介がチームのキャプテンだなんて、ほんとに信じられないよ」
わざとらしく感嘆する彼。昔の俺を想像すればそんな考えになるのは当たり前だろう。
身の危険を与えるような人間が、今度は皆を統括する立場に変わったなんて、とてもじゃないが信頼できない。
そんな上司の元に誰一人として付いてくるはずがない、そう感じているのだろう。
「……今更許してもらおうだなんて、これっぽっちも思ってねぇよ」
だから、俺は奮い立たせるように告げる。
「でも、俺を信じてくれる仲間がいる以上、俺は二度と過ちを繰り返さない」
こんな俺でも信じてくれる人がいるなら。
ならば、俺が為すべきことは一つ。
「―――絶対に負かしてやるよ、幸人ゆきと」
鼓舞するように俺は言った。
相手が誰であろうと関係ない。俺を信じてくれる人のために、俺は戦う。
「……俺達だって今日を最後にする訳にはいかないんだよ」
明確な敵意を受けられる。
でも、俺は自分の意思で選んだ道を後悔したくないから。
「てめぇだけには絶対に負けたくねぇ……インターハイ予選での雪辱を、こんな奴らに邪魔されてたまるかよ――――――ッ!」
憎悪の籠った目を向けられても、俺は逃げない。
過去のトラウマにケリをつける時だ。
「ああ、やってやるよ―――! お前たちに勝って、俺達の努力を証明してやる―――!」
小学時代の親友、兵藤幸人。いつも一緒に遊び、日常と化していた日々。
でもそれは俺の独りよがりのせいで崩れてしまった。俺に裏切られたと思うのは当たり前だ。
もう二度と取り戻せない日々を今更悔やんでも仕方がない。
だから、俺は今あるものを大切にしたい。信頼を無下にしたくない。
そんな、秘めた熱意を吐き出した。
ーーー
喉が渇く。
鞄から取り出した水筒に手を付けるが、それでも潤うのは一瞬だけ。すぐに渇きに耐える時間に戻る。
「日焼け止め、塗り直さないと」
木陰にいるのに、一向に涼しさを感じない。
風のない木陰なんて、熱射避けには何の意味もなさない。只々体力を奪われるだけ。
周囲を見渡すと同じ有り様で、中には休憩時間を利用して車内冷房で涼む人もいた。
それを羨ましくも眺めていたが、すぐに目を逸らす。
「そろそろだと思うんだけど……」
腕時計は指定の時刻を過ぎていた。
もしかしたら、と不安に駆られてしまう。
「―――ご、ごめん!」
振り返ると、小走りで駆け寄ってくる姿があった。お姉ちゃんだ。
「ちょっと! 病み上がりなのに走ったらまずいよ……!」
「大丈夫、だから……」
乱れた息を整えながら、お姉ちゃんは遅刻したことを謝っていた。
その様子を見るに、駐車場からここまでの距離をずっと走って来たのだろう。それが伝わるだけで、遅刻なんて些細な事だった。
「でも、その服装は……ちょっと変だと思うよ」
都心から離れた街だとしても、お姉ちゃんは超が付くほどの有名人だ。ばれる人にはばれる。
そのための変装だと考えれば道理は成り立つけど、今の格好には流石にモノ申したくなる。
「サングラスは良しとしても……この時期にマスクは悪目立ちだよ」
「そう……? 皆私を見ないで通り過ぎていったけど」
「……見ないようにしてたんでしょ。不審者みたいだから」
その言葉を聞いて、意気消沈しながらマスクをポーチに仕舞うお姉ちゃん。
その仕草に既視感を覚える。そうだ、私も以前に同じことを言われたんだっけ。
随分と昔のことのように思えるが、あれから半年も経ってない。
「……ごめん」
「え、何か言った?」
「いや、別に何も……はい」
「……?」
お姉ちゃんが鈍感で助かった。
探りを入れられないうちに話を変える。
「それよりもさ、凄い人の数だよね! スポーツ観戦って初めてだけど、こんな感じなんだ」
「うーん、そうね……まだ一回戦だって聞いてるから、勝ち上がればもっと人の渋滞が見れると思うわよ」
「へー、これ以上か…………」
中身のない対話に段々と自身の会話力のなさを痛感してしまう。
私には場を取り仕切る能力が欠如しているのかもしれない。もっと楽に対話がしたいのに。
「……未衣奈は今のままでも良いのよ?」
「―――! いや、私は別に今のままでいたいなんてこれっぽっちも思ってなくてもっと色んなことができたらいいなってだけでその―――――」
「ちょっと未衣奈、落ち着いて……」
お姉ちゃんに諭され、冷静さを欠いてしまったことを恥じる。
途中で買ってきたらしいミネラルウォーターを貰い、渇き切った喉を再び潤す。
「きっと暑さのせいね」と漏らし、勝手にお姉ちゃんに納得されてしまった。
「ありがと」
そう言って、空になったペットボトルを返す。
お姉ちゃんに驚愕されてしまったが、がめついと思われたくなかったので、事を荒立てないようにする。
「未衣奈……いえ、何でもないわ」
気を遣われてしまった。やはり羞恥からは逃れられないらしい。
でも、今はそれよりも一つだけどうしても気になったことを問いたくなってしまった。
「……みーちゃんって、もう呼ばないんだね」
「……え?」
一瞬、手を止める。明らかに動揺を見せたと分かった。
私がそうするように求めたのが発端だが、蟠りわだかまが解けた今になってもお姉ちゃんはその名を避けていた。
「そうね……本当ならそう呼びたい。ずっとそれが当たり前だと思ってたから」
空のペットボトルをカバンに仕舞いながら、ゆっくりと説くように言った。
「でも、昔みたいな子供扱いはしないって決めたから。私がそうしたいの。だから未衣奈のせいじゃない」
「お姉ちゃん……」
少し心残りだった。けど、今のお姉ちゃんにこれ以上は無用だ。
お姉ちゃんはそんなことで私を嫌いにならない、そう信じていたい。
「ありがとう」
私がそう言うと、お姉ちゃんは何も言わずに頷いてくれた。
それが分かっただけで、暑さとは別の、何か温かいものを感じた。
「それよりも……ほら未衣奈、もうすぐ試合再開しそうだよ」
雰囲気を紛らわすように、お姉ちゃんはグラウンドに出てきた審判を指差す。
視線をやると、確かに審判の人が笛を拭こうとしていた。
「あの子のチーム、白と赤の方だよね。どう? 勝てそう?」
「分かんない、相手にずっと攻め込まれてたから」
高々に吹かれた笛を合図に、緑を基調とした選手と白を基調とした選手が姿を現す。
この位置からは緑の選手ばかりで分からないけど、奥に点在する中に彼はいるのだろう。
「でも、きっと勝つよ」
彼の言葉を信じて、私は見つめた。
ーーー
「くそ……ッ」
前半を終えて、自身の不甲斐なさに思わず声を荒げてしまう。
一度もシュートを打てず、挙句の果てには相手に徹底的に攻め込まれてしまった。
ボールを奪取してもすぐに奪われて、二撃三撃と波のように押し寄せる相手選手に手一杯になり、気づけば点を奪われていた。
スコアは0―1。最初から苦戦になると分かっていた分、一点でも奪われたら一気に瓦解すると思っていたが、なんとか瀬戸際で踏みとどまっている。
でも、こちらの疲労度は予想以上で、直前にあれだけ走り込んできたチームメイト達はすでに息を切らしていた。
「――――ッ!」
声にならない悲鳴に振り返ると、悠馬が足を上げてのた打ち回っていた。
「足出せ! すぐに伸ばす!」
そう言って、俺は右足を攣った悠馬を介護する。
「―――ッ! マジかよ、まだ前半だぞ……?」
前線で絶え間なく走り回った悠馬の足は既に限界間近だと警告していた。
それを無視するようにふくらはぎを伸ばしていくと、悠馬の顔は段々と涼しくなっていった。
「…………」
相手ベンチを見ると、汗こそ垂らすものの、未だに元気だと言いたげな表情ばかりが立ち並んでいた。それは幸人も例外ではない。
三年間の集大成ともいえる大会、それに懸ける思いは人それぞれ。
だが、インターハイ後からの一か月間と二年以上の努力にはこれ程の差があるのだと痛感してしまう。
体力も、個人技も、戦術も、全てにおいて劣っている俺達が勝つには、最早気力しかなかった。
「こい、悠馬。お前はベンチに座って治療だ」
ベンチに座っていた監督の山口先生は、俺の隣でストレッチをしている悠馬にそう言った。
「はぁ……!? 何言ってんだよ!」
「足攣ったんだろ、初期の脱水症状かもしれん……なら監督として出場を認める訳にはいかない」
「そんなの……! 俺は全然平気だ……!」
悠馬は感情を爆破させていた。
監督の説得を無視し、強く出場継続を求めている。
でも、監督はそれ以上の形相で威圧した。
「脱水症状を甘く見るなッッ!! 脱水症状はなッ、後遺症で済む場合もあれば最悪命を落とすことにも繋がるんだぞ……ッ! それで今後続く人生をふいにしてもいいのかッ!」
強い言葉で正論をぶつける監督に、俺は畏怖してしまった。
いや、俺だけではない。話を聞いていた他のチームメイトも、俺以上に恐怖していた。
「……だからって、このまま諦めろっていうのかよ……」
悠馬は小さく呟くと、背を向けていた俺に振り返り、懇願するように叫んだ。
「祐介、お前はどうなんだよ……! 何もできずにこのまま負けて良いのかよ……! これが……ッ、最後になっても良いのかよ……ッ!」
「悠馬……」
「俺はまだできるッ! いくらでも走れるッ! だから……」
最後まで言わず、悠馬はうなだれた。それは俺の知らない親友の姿だった。
懇願する悠馬の声はこの試合に懸ける思いが人一倍強いのだと伝わる程に強く、そして弱かった。
心の内を曝け出すこと自体皆は躊躇うのに、それでも悠馬は俺に求めた。
俺はチームのキャプテンで、全体の責任があって、個人的なものに縛られてはいけない。
その俺に求めても悠馬の望む結果は得られないのに、それでも悠馬は求めたんだ。
「……監督、あと少しでいいから、悠馬の出場を認めてください」
今の俺は間違っている。自覚してる。
「お前、本気で言ってるのか……? 俺の忠告を聞いてなかったのか……?」
「分かってます。分かった上でお願いしているんです」
「だったら尚更だ。お前はチームの主将で理性的でなければならない。それでもお前は感情に身を任せる仲間を止めずに、死地に追いやるのか?」
監督の言う言葉はどれも正論で、どれも間違っていない。
それでも、俺は自分だけの正義を押し通そうとしている。
「試合中に少しでも変化があれば、俺が絶対にピッチから退場させます。絶対に無理はさせません」
「……それを俺が本気で期待すると思うか? 今のお前を俺が信用すると思うのか? キャプテンなら私利私欲が通じると思ったら大間違いだぞ」
「承知の上です。責任は俺が取ります」
俺は間違った正義をぶつけている。
私利私欲のため、誤った信頼を優先している。
「馬鹿が……ガキが軽々しく責任なんて言葉を使うんじゃない。そういうのは大人の仕事だ。お前の仕事じゃない」
「……それでも少しだけ、五分でもいいんです。最後になるかもしれない試合に未練を残してほしくないんです……」
往生際が悪いと思う。それでも俺は頭を下げた。
「お願いします、出場を認めてください…………!」
悠馬がいなければこの試合は勝てない。
決死の思いで奪い取ったボールを要求する悠馬が前線にいなければ、俺は誰にボールを渡せばいいのか分からない。
一番の理解者で、俺を安心させてくれる奴が同じグラウンドに立っていない事実は到底受け入れられない。
その場で立っているだけでいい、ボールを追わなくていい、ただいてくれるだけで俺は安心してボールを託せる。
「祐介、お前……」
「お願いします、監督! グラウンドに立っているだけでいいんです! 悠馬を立たせてあげてください……!」
結局正論には勝てない。最後には懇願するだけで、理性的とは真逆。
チームキャプテンとして失格だ。
ならば、もう最後まで足掻いてやる。
「―――俺からもお願いしますッ! 悠馬さんの分まで、俺、走りますから……ッ!」
いつの間にか地面に座っていたチームメイトが後ろで懇願していた。
佐藤に賛同するように、続々と監督の前に立つ。
「俺も! まだ体力有り余ってるし!」
「お前はサボってるだけだろ。キーパーだから、動いてない奴が丸わかりなんだよ
湯川の叱咤に頭を抱える高知。
「お前ら……」
和気あいあいとする後輩達は、今の俺には心強い味方だった。
「……変わったな、祐介」
「……え」
頭を上げると、監督はじっと俺を見ていた。
先程までも鬼の形相とは異なる、どこか親に似た目。
「今までのお前なら、ここまで見苦しい真似はしなかっただろ。初めから楯突くことなく穏便に済まそうとしたはずだ」
「それは……そうかもしれません」
「でも、そうはしなかった。他人のためにここまでできるお前は立派だよ……」
監督は頭を掻きながら、目つきを変えていった。
「それでも今回は駄目だ。この暑さの中、脱水症状の疑いがある奴がいれば早期に治療するのが適切だ。体育教師の立場上、それは見過ごせん」
「…………はい」
誤った道に進もうとする生徒を更生させるのが教師の役目。それを理解している分、尚更監督が正しい。
悠馬の意思と悠馬の人生を天秤に懸けられたら、悔しいけどもう納得するしかなかった。
「―――五分だけだ」
「え……」
「聞こえなかったか? 五分だけだ。それ以上過ぎるようなら問答無用で退場させる、それが条件だ」
監督の言葉に混乱してしまう。
「い、いいんですか……?」
「いい訳ないだろ、こんなのバレたら懲戒処分だぞ。嫁にドヤされるに決まってる」
そう言いながら正論に目を瞑る監督はどこか愉快に見えた。
「全て責任取るってんだ……、精々俺に後悔させるような真似はすんなよ?」
「―――あ、ありがとうございます!」
「ったく……、教師失格だよ、全く」
「行ってこい!」という言葉に背中を押され、俺達はグラウンドに散って行く。
後ろには湯川、隣には高知と佐藤、そして遥か前には悠馬が立っていた。皆の背中はどこかいつも以上に頼もしい。
そんな彼らの代表は、俺。どんなに点差が開こうとも、どんなに苦境に立たされても、俺だけは絶対に折れてはならない。キャプテンとしての重圧が圧し掛かる。
でも、不思議と怖くない。
もう孤独に耐える日常は終わりを告げた。
誰もが俺を信頼し、認め、付いて来てくれる。それを知っているから。
ホイッスルの音は刻一刻と迫ってくる中、俺は遠くで立っている幸人を認める。
暑さで脳が焼け切れようとも、足首を削られようとも、俺は絶対に倒れない。
倒れるのは勝負に勝った時だ――――
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