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救護室を後にした結友は、正体の掴めない焦燥感と不安とに追われて、その正体を探すように、足早に艦内を見て回っていた。救護室にいたときから分かっていたが、現代のイージス艦とは異なり木造軍艦で、所謂ガレオン船に近いものであるらしかった。
内装は軍艦らしく厳しい印象で、実質剛健。頑丈そうに見える。装飾はあまりない。機能性と量産性を重視しているのだろう。通路は思っていたより広く取られていた。大人が並んで歩ける。鎧を着て歩くことも想定されているのかもしれなかった。
一人の船員とすれ違う。軽い会釈。相手も会釈してくれたが、奇異な目をしていた。目立つ白亜と蒼十字の提督服を着ているのが、助けたばかりの名も知らぬ若造では無理もない視線だ。ただ艦長から少しは通達があったのだろう。もしくは、変わり者の艦長の奇行に慣れているのかもしれない。いずれにせよ、特に何も言われなかった。
その若い船員は、カロンの説明通り、獣耳と獣尾を持っていた。他は結友とあまり変わらない。筋肉質に見えるのは船乗りだからだろう。自然と、渡されたベレー帽を深くかぶり直す。余計な不和は生みたくなかった。
すれ違った船員は何人もいた。先の青年だけでなく、男も女も、皆、種族は違うようだが、誰もがケモミミと尻尾を生やしている。その誰もが強い疲労と悲哀を滲ませていた。大なり小なりケガをしている。比較的に動ける者が艦の運営をしている。そんな印象を受けた。
カロンの話が真実と仮定するなら、よほど過酷な闘いだったのだろう。撤退戦ほど難しい戦いはないと聞く。見かけた船室のどれも怪我人のない部屋はなく、逆に空恐ろしいほどに静謐な部屋もあった……。すでに結友も通路で行き交った人と似たような顔色になっていた。
……だが、正直、これだけではここが本当の異世界だとする確証は薄い。獣人が多数出てくるゲームも<ウィズ>にもある。
言うまでもなく、人類にとってケモミミは尊い。ゆえに、そのゲームも根強い人気を誇るロングヒット作だ。黒猫ツンデレヒロインは正義であった……それはともかく。
ただ、そのゲームはスローライフ系で、多少の戦闘はあるものの、こういった血生臭いシーンはなかった。もちろん、獣人は他のアクションゲームにも出ているだろうが、結友は知らない。知らないゲームをいつの間にかプレイしているなんて、それこそ無理があった。では、ここは本当に実在する異世界なのだろうか?
(まさか、な……)
結友は軽く首を振る。しかしその表情は強張っていた。理屈では〝ありえない〟。でも肌の感覚が疑義を呈する。思考を重ねていく。
(やっぱり異世界って思えない。だって話してる言葉が日本語だぞ? まぁ、ある意味で、異世界なんだから日本語で不思議じゃないとも言えるけどさあ……異世界召喚とか転生にはお決まりの様式美だし。
でも、ここがゲーム世界だって決める確証もないんだよなあ。もしそうなら全てがリアル過ぎる。例えばこの左頬の痛み。まだ痛くてヒリヒリしてる。数十分前の出来事なのに……てか、めちゃくちゃ強く引っ叩いてくれたみたいだな……まァ、いいや。迷惑かけたみたいだし。
で、ここまで痛覚を持続させるメリットなんて運営にないだろ。プレイヤーのストレスになるだけだ。リアルを追求するって言っても限度ってもンがある。痛覚レベルだって普通じゃないぞ? 現実に最も近いA.W.sだって比較にならない。メニュー表示だって出ないままだし。ログアウトボタンだって……これが何かのイベントでしたってのは、ちょっとばかし、趣味が悪すぎる。いくら規制の緩い海都でもさすがに問題視されるぞ? ……ウ゛~ン)
思考は深まったが、まだ情報が足りていないのだろう、答えは出ない。不足する情報を集める必要がある。カロンさんも暗にそうしてみるよう促していた。
ブルッと、体が震える。寒気がした。現実なのかゲームなのか、はたまた夢なのか分からない。胡蝶の夢とは言うが、まぁそれはそれで良し、と許せるほど結友は肝が据わっていない。色々とあるが、現実がイイ。まだ未経験なのだ。好きになった女の子とイチャイチャラブラブしたい。ーーそう思った瞬間、ズキッと胸が強く痛んだ。病気を疑うぐらいに強い衝撃だった。たちくらみや息切れなどはない。急性の病気ではなさそうだが……。
(なんだろ。考えてることとは別で、さっきからずっと何かに焦ってる気がする……俺は何をそんなに……何か探してる、のか?)
歩いても歩いても消えないナゾの焦燥感で、胸がいっぱいになる。ソワソワと居ても立ってもいられないが、どこへ向かえばいいのかも分からない。単に現状に怯えているだけとも思えない。キリキリと精神を引き絞るかのようなこの緊張感……。正体が見えない分、不安も大きくなっている。
(このままじゃ船酔いになりそうだ……いや、単にそうなのかもな。ちょっと外の空気でも吸ってみるか)
視界に甲板につながる階段があったので、これ幸いと、少しフラつきながら登った。
広い甲板に出た。大空は見事な快晴。遥かに青く、雲一つない。海風は爽やかに。波は穏やかに。輝く太陽は肌に鋭い。見渡す限り海だ。水平線がわずかに丸い。陸地は近くになかった。
大きく深呼吸。体も伸ばして、こわばった筋肉をほぐしてあげる。どうしても心が整わない時には、よく体を動かして気分転換するのが常だった。しばらく体操していると、縮こまっていた胸奥が、空と海と光に颯爽と開かれていく。
(ふぅ~……少し、落ち着いたな)
「ひどい顔」
人気のない甲板で海風に吹かれていたら、横から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。氷冷な雪解け水を思わせる。
「そんなにかなあ?」
「似合わないわよ、その提督服」
「知ってるよ。他に着るモノがないんだ」
返答しつつも、結友は横に顔を向けず、船縁に寄りかかって正面の大海原を眺め続ける。
彼女ーー<氷の黒髪乙女>は、結友の左頬に鋭いビンタをお見舞いしてくれた、艦長の自慢の副官ユノだ。自己紹介は互いにしていないが、カロン艦長から多少は聞いている。彼女もそうだろう。長い黒髪がキレイなユノは、見事にくびれた細腰に片手を添え、2人分ほど間を開けて、モデルのように立っている。警戒されているらしい。そんな必要はないのに。
淡麗な少女だ。切れ長の目元は流麗で、鼻梁も高く、顎も小さい。目が醒めるほどの美人だった。整い過ぎた顔立ちが、他人を拒む冷たい印象を抱かせてしまうほどには……。結友? 彼は女好きなので、そこら辺は気にしない。妙な所でメンタルが鋼だった。
同年代と思うが、実に大人っぽい雰囲気である。もし、夜のバーでシックなドレスを纏い、つまらなそうにカクテルを飲んでいたら、アンニュイなキレイな年上のお姉さんとして、さぞや絵になることだろう。
研ぎ澄まされた美しさは、どうしようもなく、場の注目を惹きつける。だが同時に、抜き身の日本刀のような、一切の惰気を許さぬ清冽な気を放つので、安易に近寄りがたくもある。まさに高嶺の花を地で行く美人だった。
そんな氷の淡麗乙女は、烏の濡れ羽色の長い黒髪を首元で払うと、周囲に誰もいないことを確認してから結友に問いかける。
「あなた、隊長に言われて艦内を見て回ったのよね? どうだったかしら。少なくとも、ここがあなたの知ってる世界じゃないって分かってきた? 危ないから、なるべく早く自覚して欲しいのだけど。見たところ、少しずつ分かってきているみたいね……それとも、そういう設定なのかしら? 海都の学生って聞いたのだけれど、それを装ってこちらの情報を盗み出そうとしているのかしら。一緒にいたお人がお人ですもの。注意深くして損はないわ」
もともと流麗な切れ長の目元が剣呑に細められる。敵意だった。異様な気配を感じて振り返った結友は、そんな目を向けられる覚えがなく、狼狽する。
「な、なんの話だよ」
「あら、知らばっくれる気?」
「しらばっくれるも何も……」
「……異世界に来る直前の記憶がないって本当? 一応、私はあなたの恩人よ。見え透いたウソはつかないでほしいわね。仁義に悖ると思わない? ほら、この職業って、そこら辺のスジは通すでしょう?」
「物騒な言い方だな……記憶がないのはホントだ。ゲーム中に寝落ちしたのかって思ったくらいだ……違うみたいだけど」
「ふぅん……」
「ふぅんって………お前も海都から来たのか?」
「……その質問、誰彼構わずしているわけじゃないわよね?」
細められた目元に、白刃の如き鋭い眼光が上乗せされる。あまりの気迫に、結友は胃の腑がキュッと縮んだ。
「そんなわけないだろ。カロンさんとお前だけだ」
「当然よ。もし話していたら、あなたを助けたこと後悔していたわ」
なんとか、乾いた口でそう答えると、氷の淡麗黒髪乙女は、不機嫌そうに腕を組んで、
「ユノよ。お前お前って呼ばないで。失礼だと思わないの?」
「………………悪かったよ。俺は神城結友。でもお互いに名乗ってなかったんだから、名前を勝手に呼ぶのも変じゃないか(性格キッツイなぁ~。でもこうやって詰られて喜べるヤツがいるとかカロンさん言ってたけど、最強でしょその人! 世界は広いなあ!)」
同世代の女子に冷たく批難され、男子高校生のナイーブなハートに深い傷がつく。男子高校生という生き物は、女子生徒に白い目で見られるのが何より堪える、実にセンシティブな生命体だった。取り扱いには十分注意して欲しい。
(これまた随分と嫌われたモノだな)
「それでどうなのよ。ここが異世界って、まだ信じられないの?」
「いや、まぁ、それは…………」
整い過ぎて、美しくも冷たい氷の美貌に鋭く睨まれると、思わず口ごもる結友。背丈はユノのほうが小柄だが、オーラの違いだろう、結友のほうが小さく見えた。目を逸らして答えを濁していると、ユノからの無言の圧力がビリビリと伝わってきてーー、
「そりゃそうだろう? (怖すぎだって)」
結友は観念して正直に認めた。下手なウソや誤魔化しは通用しなさそうである。むしろ彼女の不興を買ってしまうだろう。
「俺の身にもなってほしい。寝て起きたら見慣れない部屋で、ここは異世界だって言われても……カロンさん、親切そうでいい人っぽいけど、ちょっと胡散臭いし……せめてここに来る直前の記憶があれば――って、それ」
話の途中で結友が気付いたのは、ユノの端整な顔立ちにある頬の腫れ。強く吹いた横風で、黒髪で隠された頬の発赤が顕わになった。
カロンは何も言わなかったが、なんとなく、結友は察した。
理由は不明ながら、結友はだいぶ錯乱していたそうだ。ベッドで暴れてしまったことは、うすら覚えている。結友を押さえつけてくれたのはユノだとカロンから聞いていた。おそらく、その時に振り回した手が当たってしまったのだろう。言葉を選ばずに言えば、殴ったも同然だ。仕方なかったとは言え、女の子を殴ったという事実に、結友はショックを受ける。
彼の気まずそうな表情に気付いたユノは、小鼻を鳴らし、平然と言い放つ。
「別に気にしないでいいわ。職務上、ケガには慣れてるし、ちゃんと殴り返したもの」
思わず結友は苦笑した。道理で着付けにしては痛かったはずだ。気っぷのいいことである。
「それでも、ごめんなさい」
結友が深く頭を垂れる。すまなかった、悪かった、申し訳ない等ではなく、結友が選んだ言葉は「ごめんなさい」だった。
90度まで腰を折る結友の姿に、氷の淡麗少女は「別にいいわよ」と腕を組んで面倒そうに嘆息する。
「そんなことより、早くここが本当の異世界ってこと、受け入れて欲しいわね。でないと迷惑なのよ。あなたも私たちの身になってみてちょうだい。現実をゲームと思い込んでる人がいて、その人を保護して監督しなければならない人がいるとしたら? 頭が痛くなる話ではなくて?」
「……それはそうかもしれないけど…………本当に、ここは実在する異世界なのか?」
氷の淡麗少女は厳しくてつっけんどんだが、錯乱する結友の正気を呼び覚ましてくれた。もっと別の方法もあったのではないかと考えなくもないが、優しくないわけではない……はずだ。
いずれにせよ、直感で、ユノは信じられると思った。だからユノに聞いておきたかった。するとーー。
「実在するのかと聞かれると、返答に困るわね。それ、今でも議論されてるトコだから」
てっきり、当たり前よ、と返されると思っていただけに、結友は言葉を失った。アレだけ現実なんだから受け入れなさいと言ったのに?
「なによ、その間抜けな顔は。ホントのこと言ってあげたんじゃない。それとも、単にわたしに肯定してほしかっただけなの? なら、お望み通りそうしてあげる」
ふたり分ほど空いていた間合いを詰めたユノは、まっすぐに結友を見据える。裏表のない、まっさらな視線だった。
「ここは紛れもない異世界よ。名前は<アルマーン>。今のところ、現世から1番に〝近い〟異世界ね」
晴れた青空の下、穏やかな海の上で、ユノが紡いだ言葉は、やけに事務的だった。それだけ、彼女にとって当たり前の事実であるからだろう。「今何時?」と聞かれて「午後5時」と答えたその言葉に、ゆたかな情感など聞こえるはずもない。ユノの言い回しには理解できない部分もあったが、事実を伝えようとする気持ちは感じ取れた。
結友は肩の力を抜いて、大空をあおぐ。何やら先ほどよりも、ジリジリと肌を焼く陽の光にさえ、実感を覚えるような気がした。
「…………そっか。けどなんで日本語が通じるんだ?」
「まぁ、そこは気になるわよね、当然。理由としては〝私たちが日本語を話すから〟なのだけど、意味がわからないわよね。まぁ、そこら辺については気にしなくていいわ。異世界転生のお約束と思っておけばいいわよ。あながち間違いでもないのだし……それよりも聞いておきたいのだけど」
今までと違い、ユノは訝しげというよりも、少し咎めるような視線だった。
急に、また先の不安と焦燥とがぶりかえした。前より強く、濃厚に。心拍が加速していくも、体は指先まで逆に冷えていくようだった。
「あなた、どうやってこっちに来たのか、本当に何も覚えていないの? そもそも、あなただけで知りもしない異世界にこれると思うの?」
「……ど、どういう意味だよ」
「そのままよ……隊長には口止めされてたけど、それもあなたのメンタルが落ち着くまでって話だったし、伝えておくわ」
結友はたちくらみを覚えていた。動悸がして呼吸が荒くなる。眼の前のユノが、結友の罪を無慈悲に暴き出す天使のように見えた。
「あなた、自分を庇ってくれた恩人を忘れているわよ——月島澪。この名前、知ってるでしょう?」
内装は軍艦らしく厳しい印象で、実質剛健。頑丈そうに見える。装飾はあまりない。機能性と量産性を重視しているのだろう。通路は思っていたより広く取られていた。大人が並んで歩ける。鎧を着て歩くことも想定されているのかもしれなかった。
一人の船員とすれ違う。軽い会釈。相手も会釈してくれたが、奇異な目をしていた。目立つ白亜と蒼十字の提督服を着ているのが、助けたばかりの名も知らぬ若造では無理もない視線だ。ただ艦長から少しは通達があったのだろう。もしくは、変わり者の艦長の奇行に慣れているのかもしれない。いずれにせよ、特に何も言われなかった。
その若い船員は、カロンの説明通り、獣耳と獣尾を持っていた。他は結友とあまり変わらない。筋肉質に見えるのは船乗りだからだろう。自然と、渡されたベレー帽を深くかぶり直す。余計な不和は生みたくなかった。
すれ違った船員は何人もいた。先の青年だけでなく、男も女も、皆、種族は違うようだが、誰もがケモミミと尻尾を生やしている。その誰もが強い疲労と悲哀を滲ませていた。大なり小なりケガをしている。比較的に動ける者が艦の運営をしている。そんな印象を受けた。
カロンの話が真実と仮定するなら、よほど過酷な闘いだったのだろう。撤退戦ほど難しい戦いはないと聞く。見かけた船室のどれも怪我人のない部屋はなく、逆に空恐ろしいほどに静謐な部屋もあった……。すでに結友も通路で行き交った人と似たような顔色になっていた。
……だが、正直、これだけではここが本当の異世界だとする確証は薄い。獣人が多数出てくるゲームも<ウィズ>にもある。
言うまでもなく、人類にとってケモミミは尊い。ゆえに、そのゲームも根強い人気を誇るロングヒット作だ。黒猫ツンデレヒロインは正義であった……それはともかく。
ただ、そのゲームはスローライフ系で、多少の戦闘はあるものの、こういった血生臭いシーンはなかった。もちろん、獣人は他のアクションゲームにも出ているだろうが、結友は知らない。知らないゲームをいつの間にかプレイしているなんて、それこそ無理があった。では、ここは本当に実在する異世界なのだろうか?
(まさか、な……)
結友は軽く首を振る。しかしその表情は強張っていた。理屈では〝ありえない〟。でも肌の感覚が疑義を呈する。思考を重ねていく。
(やっぱり異世界って思えない。だって話してる言葉が日本語だぞ? まぁ、ある意味で、異世界なんだから日本語で不思議じゃないとも言えるけどさあ……異世界召喚とか転生にはお決まりの様式美だし。
でも、ここがゲーム世界だって決める確証もないんだよなあ。もしそうなら全てがリアル過ぎる。例えばこの左頬の痛み。まだ痛くてヒリヒリしてる。数十分前の出来事なのに……てか、めちゃくちゃ強く引っ叩いてくれたみたいだな……まァ、いいや。迷惑かけたみたいだし。
で、ここまで痛覚を持続させるメリットなんて運営にないだろ。プレイヤーのストレスになるだけだ。リアルを追求するって言っても限度ってもンがある。痛覚レベルだって普通じゃないぞ? 現実に最も近いA.W.sだって比較にならない。メニュー表示だって出ないままだし。ログアウトボタンだって……これが何かのイベントでしたってのは、ちょっとばかし、趣味が悪すぎる。いくら規制の緩い海都でもさすがに問題視されるぞ? ……ウ゛~ン)
思考は深まったが、まだ情報が足りていないのだろう、答えは出ない。不足する情報を集める必要がある。カロンさんも暗にそうしてみるよう促していた。
ブルッと、体が震える。寒気がした。現実なのかゲームなのか、はたまた夢なのか分からない。胡蝶の夢とは言うが、まぁそれはそれで良し、と許せるほど結友は肝が据わっていない。色々とあるが、現実がイイ。まだ未経験なのだ。好きになった女の子とイチャイチャラブラブしたい。ーーそう思った瞬間、ズキッと胸が強く痛んだ。病気を疑うぐらいに強い衝撃だった。たちくらみや息切れなどはない。急性の病気ではなさそうだが……。
(なんだろ。考えてることとは別で、さっきからずっと何かに焦ってる気がする……俺は何をそんなに……何か探してる、のか?)
歩いても歩いても消えないナゾの焦燥感で、胸がいっぱいになる。ソワソワと居ても立ってもいられないが、どこへ向かえばいいのかも分からない。単に現状に怯えているだけとも思えない。キリキリと精神を引き絞るかのようなこの緊張感……。正体が見えない分、不安も大きくなっている。
(このままじゃ船酔いになりそうだ……いや、単にそうなのかもな。ちょっと外の空気でも吸ってみるか)
視界に甲板につながる階段があったので、これ幸いと、少しフラつきながら登った。
広い甲板に出た。大空は見事な快晴。遥かに青く、雲一つない。海風は爽やかに。波は穏やかに。輝く太陽は肌に鋭い。見渡す限り海だ。水平線がわずかに丸い。陸地は近くになかった。
大きく深呼吸。体も伸ばして、こわばった筋肉をほぐしてあげる。どうしても心が整わない時には、よく体を動かして気分転換するのが常だった。しばらく体操していると、縮こまっていた胸奥が、空と海と光に颯爽と開かれていく。
(ふぅ~……少し、落ち着いたな)
「ひどい顔」
人気のない甲板で海風に吹かれていたら、横から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。氷冷な雪解け水を思わせる。
「そんなにかなあ?」
「似合わないわよ、その提督服」
「知ってるよ。他に着るモノがないんだ」
返答しつつも、結友は横に顔を向けず、船縁に寄りかかって正面の大海原を眺め続ける。
彼女ーー<氷の黒髪乙女>は、結友の左頬に鋭いビンタをお見舞いしてくれた、艦長の自慢の副官ユノだ。自己紹介は互いにしていないが、カロン艦長から多少は聞いている。彼女もそうだろう。長い黒髪がキレイなユノは、見事にくびれた細腰に片手を添え、2人分ほど間を開けて、モデルのように立っている。警戒されているらしい。そんな必要はないのに。
淡麗な少女だ。切れ長の目元は流麗で、鼻梁も高く、顎も小さい。目が醒めるほどの美人だった。整い過ぎた顔立ちが、他人を拒む冷たい印象を抱かせてしまうほどには……。結友? 彼は女好きなので、そこら辺は気にしない。妙な所でメンタルが鋼だった。
同年代と思うが、実に大人っぽい雰囲気である。もし、夜のバーでシックなドレスを纏い、つまらなそうにカクテルを飲んでいたら、アンニュイなキレイな年上のお姉さんとして、さぞや絵になることだろう。
研ぎ澄まされた美しさは、どうしようもなく、場の注目を惹きつける。だが同時に、抜き身の日本刀のような、一切の惰気を許さぬ清冽な気を放つので、安易に近寄りがたくもある。まさに高嶺の花を地で行く美人だった。
そんな氷の淡麗乙女は、烏の濡れ羽色の長い黒髪を首元で払うと、周囲に誰もいないことを確認してから結友に問いかける。
「あなた、隊長に言われて艦内を見て回ったのよね? どうだったかしら。少なくとも、ここがあなたの知ってる世界じゃないって分かってきた? 危ないから、なるべく早く自覚して欲しいのだけど。見たところ、少しずつ分かってきているみたいね……それとも、そういう設定なのかしら? 海都の学生って聞いたのだけれど、それを装ってこちらの情報を盗み出そうとしているのかしら。一緒にいたお人がお人ですもの。注意深くして損はないわ」
もともと流麗な切れ長の目元が剣呑に細められる。敵意だった。異様な気配を感じて振り返った結友は、そんな目を向けられる覚えがなく、狼狽する。
「な、なんの話だよ」
「あら、知らばっくれる気?」
「しらばっくれるも何も……」
「……異世界に来る直前の記憶がないって本当? 一応、私はあなたの恩人よ。見え透いたウソはつかないでほしいわね。仁義に悖ると思わない? ほら、この職業って、そこら辺のスジは通すでしょう?」
「物騒な言い方だな……記憶がないのはホントだ。ゲーム中に寝落ちしたのかって思ったくらいだ……違うみたいだけど」
「ふぅん……」
「ふぅんって………お前も海都から来たのか?」
「……その質問、誰彼構わずしているわけじゃないわよね?」
細められた目元に、白刃の如き鋭い眼光が上乗せされる。あまりの気迫に、結友は胃の腑がキュッと縮んだ。
「そんなわけないだろ。カロンさんとお前だけだ」
「当然よ。もし話していたら、あなたを助けたこと後悔していたわ」
なんとか、乾いた口でそう答えると、氷の淡麗黒髪乙女は、不機嫌そうに腕を組んで、
「ユノよ。お前お前って呼ばないで。失礼だと思わないの?」
「………………悪かったよ。俺は神城結友。でもお互いに名乗ってなかったんだから、名前を勝手に呼ぶのも変じゃないか(性格キッツイなぁ~。でもこうやって詰られて喜べるヤツがいるとかカロンさん言ってたけど、最強でしょその人! 世界は広いなあ!)」
同世代の女子に冷たく批難され、男子高校生のナイーブなハートに深い傷がつく。男子高校生という生き物は、女子生徒に白い目で見られるのが何より堪える、実にセンシティブな生命体だった。取り扱いには十分注意して欲しい。
(これまた随分と嫌われたモノだな)
「それでどうなのよ。ここが異世界って、まだ信じられないの?」
「いや、まぁ、それは…………」
整い過ぎて、美しくも冷たい氷の美貌に鋭く睨まれると、思わず口ごもる結友。背丈はユノのほうが小柄だが、オーラの違いだろう、結友のほうが小さく見えた。目を逸らして答えを濁していると、ユノからの無言の圧力がビリビリと伝わってきてーー、
「そりゃそうだろう? (怖すぎだって)」
結友は観念して正直に認めた。下手なウソや誤魔化しは通用しなさそうである。むしろ彼女の不興を買ってしまうだろう。
「俺の身にもなってほしい。寝て起きたら見慣れない部屋で、ここは異世界だって言われても……カロンさん、親切そうでいい人っぽいけど、ちょっと胡散臭いし……せめてここに来る直前の記憶があれば――って、それ」
話の途中で結友が気付いたのは、ユノの端整な顔立ちにある頬の腫れ。強く吹いた横風で、黒髪で隠された頬の発赤が顕わになった。
カロンは何も言わなかったが、なんとなく、結友は察した。
理由は不明ながら、結友はだいぶ錯乱していたそうだ。ベッドで暴れてしまったことは、うすら覚えている。結友を押さえつけてくれたのはユノだとカロンから聞いていた。おそらく、その時に振り回した手が当たってしまったのだろう。言葉を選ばずに言えば、殴ったも同然だ。仕方なかったとは言え、女の子を殴ったという事実に、結友はショックを受ける。
彼の気まずそうな表情に気付いたユノは、小鼻を鳴らし、平然と言い放つ。
「別に気にしないでいいわ。職務上、ケガには慣れてるし、ちゃんと殴り返したもの」
思わず結友は苦笑した。道理で着付けにしては痛かったはずだ。気っぷのいいことである。
「それでも、ごめんなさい」
結友が深く頭を垂れる。すまなかった、悪かった、申し訳ない等ではなく、結友が選んだ言葉は「ごめんなさい」だった。
90度まで腰を折る結友の姿に、氷の淡麗少女は「別にいいわよ」と腕を組んで面倒そうに嘆息する。
「そんなことより、早くここが本当の異世界ってこと、受け入れて欲しいわね。でないと迷惑なのよ。あなたも私たちの身になってみてちょうだい。現実をゲームと思い込んでる人がいて、その人を保護して監督しなければならない人がいるとしたら? 頭が痛くなる話ではなくて?」
「……それはそうかもしれないけど…………本当に、ここは実在する異世界なのか?」
氷の淡麗少女は厳しくてつっけんどんだが、錯乱する結友の正気を呼び覚ましてくれた。もっと別の方法もあったのではないかと考えなくもないが、優しくないわけではない……はずだ。
いずれにせよ、直感で、ユノは信じられると思った。だからユノに聞いておきたかった。するとーー。
「実在するのかと聞かれると、返答に困るわね。それ、今でも議論されてるトコだから」
てっきり、当たり前よ、と返されると思っていただけに、結友は言葉を失った。アレだけ現実なんだから受け入れなさいと言ったのに?
「なによ、その間抜けな顔は。ホントのこと言ってあげたんじゃない。それとも、単にわたしに肯定してほしかっただけなの? なら、お望み通りそうしてあげる」
ふたり分ほど空いていた間合いを詰めたユノは、まっすぐに結友を見据える。裏表のない、まっさらな視線だった。
「ここは紛れもない異世界よ。名前は<アルマーン>。今のところ、現世から1番に〝近い〟異世界ね」
晴れた青空の下、穏やかな海の上で、ユノが紡いだ言葉は、やけに事務的だった。それだけ、彼女にとって当たり前の事実であるからだろう。「今何時?」と聞かれて「午後5時」と答えたその言葉に、ゆたかな情感など聞こえるはずもない。ユノの言い回しには理解できない部分もあったが、事実を伝えようとする気持ちは感じ取れた。
結友は肩の力を抜いて、大空をあおぐ。何やら先ほどよりも、ジリジリと肌を焼く陽の光にさえ、実感を覚えるような気がした。
「…………そっか。けどなんで日本語が通じるんだ?」
「まぁ、そこは気になるわよね、当然。理由としては〝私たちが日本語を話すから〟なのだけど、意味がわからないわよね。まぁ、そこら辺については気にしなくていいわ。異世界転生のお約束と思っておけばいいわよ。あながち間違いでもないのだし……それよりも聞いておきたいのだけど」
今までと違い、ユノは訝しげというよりも、少し咎めるような視線だった。
急に、また先の不安と焦燥とがぶりかえした。前より強く、濃厚に。心拍が加速していくも、体は指先まで逆に冷えていくようだった。
「あなた、どうやってこっちに来たのか、本当に何も覚えていないの? そもそも、あなただけで知りもしない異世界にこれると思うの?」
「……ど、どういう意味だよ」
「そのままよ……隊長には口止めされてたけど、それもあなたのメンタルが落ち着くまでって話だったし、伝えておくわ」
結友はたちくらみを覚えていた。動悸がして呼吸が荒くなる。眼の前のユノが、結友の罪を無慈悲に暴き出す天使のように見えた。
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全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
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