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宿への侵入者

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「……この子に我々が教えることなど、もう何も無いのかもしれんな」

 長が笑んでいる。彼の笑顔を、龍《りゅう》は初めて見た。

 生き残っていた村人の大半が殺された。勝利はしたものの、それによってずっと大切に守られてきた村の秘宝は永遠に失われてしまった。

 本当にひどくて、残酷で、正義なんてかけらもなくて、何も残らなくて――それでも彼らの命は残った。今は、それを喜ぼう。

 スルニが馬車に乗ると、とうとう行列が動き出した。龍は手を振りながら、その様子を見守る。

「お姉ちゃん、また遊びに来てね!」
「……ありがとう、喜んでうかがいます! 今度は愛生《あい》も一緒に!」

 愛生がスルニに出会ったら、どんな顔をするだろうか。龍と同じように、虎子《とらこ》と似ていると言うだろうか。それを想像するのは、とても楽しかった。

「気をつけていけよ!」
「お前ら、ありがとうな!」

 馬車は歓声の中、本格的に走り出す。土煙が消えるまで、街の人たちの声が途絶えることはなかった。

「行ってしまいましたね。あなたはこれからどうするんです? いっそずっとこの街に──」
「それはできません。次の『ゲーム』があるので」

 休む暇などないだろう。龍は虎子から、すでに異変の連絡を受けていた。

 虎子の指示した場所に赴く。街の真ん中、広場の花壇の中に、白い扉が浮き上がっていた。その扉に刻まれているのは、間違いなくドラゴンの横顔。龍はそれを確認して息を吐いた。

 さっきまで盛り上がっていた街の人々は、扉を目前にしておろおろしている。

「なあ、なんだよあれ……」
「知らねえよ。昨日はあんなもの、なかったよな?」

 困惑する彼らを置き去りにして、龍は扉を軽く開く。その向こうは暗いが道があって、ずっと先まで伸びているのが見えた。

「ちょっと、あんた。無闇に触ったら危ないよ」
「心配しないで。これは、私が行くべき道。関係のないあなたたちだけになれば、いずれ消えます」

 龍はノブに手をかけたまま笑った。龍の姿を見て、これで別れだと理解したのは、その場ではベルトランだけだった。彼は堰が切れたように涙をこぼす。

「……ありがとうございました」
「あなたも、お元気で」

 龍は彼に笑いかけた。彼は泣きながらも、近付いてくる。

「最後に、僕を受け取ってください!!」
「まだその芝居をしてるんですか」

 どさくさにまぎれて抱きつこうとするベルトランをかわして、龍は扉に入った。

 扉の奥では、夜が更けているところだ。一応ここは小さな漁村のようで、漁の道具や網が軒先に干してある。街灯も少なく、街は闇に満ちていた。出てすぐに愛生が待っているのではと期待していたが、さすがに虫が良すぎたようだ。

「まず、今日の宿を探しましょうか」

 虎子のナビに頼る。結局、宿は坂を下りて少し戻ったところにあった。幸い、まだ窓から明かりがもれて夜の街に浮き上がっている。

「申し訳ありません。とりあえず一泊でお願いしたいのですが」

 龍が声をかけると、宿の主人──さえない中年男は、どうでもよさそうに宿帳を差し出した。

「おい、聞いたか!? 沖に炎が見えるってよ」

 それを聞くなり、主人は龍を放って宿の外へ駆け出した。横目でその様子を見ていた龍は、密かにため息をつく。

「なにかの風習でしょうか?」
「沖の炎……まさか、これって」

 苦笑いした龍とは逆に、虎子の声は張り詰めていった。

「お姉ちゃん、外に出て沖を確認してみて」

 家から出てきたのは一人二人ではない。駆ける足音は次第に大きくなり、人々がひとつところに集まっていく。そして口を閉ざし、沖を一心に見つめていた。

 追いついた龍は、目の前の光景に唖然とした。

「……ドラゴン」

 静寂の中で、龍の声はよく響いた。

 間違いなく、昼間のように明るい海の一角に、長い首をもたげた姿が見える。伸びた首はゆっくりと動いており、その鼻先がこの村に向けられるのが龍の位置からでも分かった。

「奴が来る……」

 誰かがつぶやいた。それを聞いた人々が、一斉に走り出す。

「逃げろ、急いで荷物をまとめるんだ!」
「使える船は全部出せ!!」

 三十分も経つ頃には、宿から、街から、すっかり人が消えていた。言葉少なに龍に一緒に来いと誘ってくれる者もあったが、断った。すぐにさしのべられる手もなくなり、街の人間は一目散に逃げ出していた。

「情報は何もつかめなかったね」
「仕方無いです、自分の命が大事でしょうから。またエイドステーションでも探せばいいんですよ」

 特に彼らが何をしてくれるか期待していたわけではない。龍は開き直って、一旦宿に戻った。とりあえず今日はそこで寝ようと思ったのだ。

「部屋の鍵はこれ……それにタオルは」

 物資は結構残っていたので、龍は困らずにすんだ。もっと何かないかと宿を探していると、誰かが龍に向かってぼそっと言った。

「まだ人がいたのか。あんた、身の安全ってやつは考えないのかい」

 宿の戸口に、背の高い男が立っている。細いがその体は筋肉で覆われていて、鍛え上げられている。

 彼は街がこの様子だというのに、特に緊張したふうでも困ったふうでもなかった。事情の分からない龍は、目をしばたく。

「……ここに探し人がいるかもしれませんので、残りました」
「自分だけは助かろうとか、考えないのか。いい度胸だ」
「あなたは?」
「自己紹介してもいいが、全員そろってからにしようか」

 男の声を合図にしたかのように、さらに十数人の男が、ぞろぞろと宿に入ってくる。宿の中を見渡す一人一人が手練れの様子で、ほとんどの者が腰に複数の武器を下げていた。

「エルンスト、ルッツの奴が逃げ出しやがった」

 後から入ってきた男の一人が報告すると、背の高い男は腹立たしそうに椅子を蹴った。しかし、龍を見てすぐに思い直した様子だった。

「……まあいいさ。どの道、あいつはこの先、足手まといになりそうだった」

 他の男が動かない中、エルンストと呼ばれた男だけが宿の長椅子に腰掛けた。

「あんた、このままここにいるつもりかい?」
「しばらくは。……あなたたちは何をする気なんですか」
「沖にいる生き物を見たか?」
「ドラゴンのことでしょうか」

 龍の言葉を聞いて、エルンストは笑った。

「俺たちはそいつを狩るのさ。あんたも乗らないか? 運が良ければ、両手で抱えきれないほどの財宝をくれてやるぞ」
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