渡る手のひら

Z.PJ

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一首 百の歌

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■■
 
 次の日。
 案の定といったところか。
 転校生、有馬高嶺は、ぼそぼそと名前を言って窓際のあらかじめ僕が用意した席についたあと、ぶつけられる好奇心に何一つ答える事なく、傷だらけの使い古された机を見下ろしていた。
 一度も笑う事なく――はっきりしているとなると、沖石のことを思い浮かべてしまうけれど、いくらはっきりしているものでないと嫌だとしても、有馬の掴み所のない暗さは許容外と見える。
 昨日あんなことを言っていたとはいえ誰とでも話す彼女は、僕の見ていないところで話しかけるだろうと思っていたけれど、有馬のことを全く見ないということは、きっとそういうことなのだ。

 朝礼を終えて教室から出て行く溝口は、ちらりと僕を見ていったところを考えると「あとはお前の仕事」と言っているのだろう。

 集まっていた好奇心は行き場を失い散り散りになってしまい、そのおかげが、有馬は丸まっていた背を少しだけ起こした様子である。視線は机を見たままだが、解放されてホッとしているのかもしれない。

 と、僕は有馬高嶺の表情を盗み見た。

 しっかり手入れされていることがわかる艶のある長髪が、肩を撫でて机に降りる。
 きっちりと並べた指は、腿の上でおとなしく座っている。
 窓からくる春の日差しが、汚れのない爪を白く光らせていて――僕は彼女ことを、大人だと思ったのだった。
 僕は、一度は目をそらした有馬高嶺の顔を、もう一度盗み見る。

「――」

 顔写真を見て、消えそうだなんて僕は思っていたけれど、そんなことをもう一度思うことはなかった。


 もう消えているのだ。


 表情というよりも、感情そのものが欠落したかのようにも見える。
 だから僕は、話しかけなければいけない義務を忘れて、一度は持ち上げた腰を、また元の場所に落ち着かせたのだった。 
 どう話しかければいいのか。
 いや、そう話しかけたとしても、彼女のあの表情は、決して変わらないだろう。
 笑顔で話しかけたとしても、僕のぎこちない笑顔が、吸い込まれるように失われてしまうに違いない。
 どうしたものかと動けないまま観察していると、有馬はブレザーの胸ポケットから何かを取り出した。
 眼鏡をかけていないとはいえ、僕の視力は並でしかなく、教室内でほぼ正反対の位置にある僕の席からでは、それが何なのかわからない。

 手紙にしては妙な形で、縦長である。
 大きさで言えば、ポイントカードのような、そのくらいの大きさだろうか。
 表面には何か書いてあるようで、裏面は濃い緑色。それ以上は分かりそうにない。
 有馬は目を閉じて一呼吸置いた後、カードを元の場所に仕舞った。

「……」

 表情に僅かだが、動きがあったように思えた。
 勘違いしているだけかもしれない。
 感情を表に出すということが苦手だというだけで、話してみれば存外心温かな女子生徒かもしれないではないか。

 気のせいではなかったらしい。

 有馬が目を開くと、表情に色が付いていた。
 それは黒一色にほんのちょっぴりの赤色が混じったような――よく見ても違いなんてわからないはずなのに、僕には彼女が笑ったように見えて仕方がなかったのだ。

 僕は意を決して立ち上がり、有馬の側に立った。
 きっと彼女は恐ろしかっただけなのだ。
 引っ越しなのか、急な転校をさせられて、知らない人ばかりに囲まれて――。
 きっと今見ていたものはお守りなのだ。それで気持ちが落ち着いたのだ。

「僕は蝶谷渡(ちょうやわたる)。クラス委員長をしているんだ」

 有馬は机横に掛けた鞄に手を伸ばし、ゴソゴソと何かを探しているようである。 
 しかし僕の声を無視できなかったようで、そっと顔をあげた。

「……」

 何も言おうとはしないが、何も言う必要はないだろう。
 初日なのだから、声を聞いてもらうだけでも、きっと十分なのだ。

 鞄から目的のものを見つけたようで、有馬は姿勢を戻す。
 それが一瞬何なのかがわからず思考が停止してしまい――ああ、何かと思えば、それはハサミだ。
 持ち手が水色の刃先が丸いハサミだ。
 学生なら持っていてもおかしくないものだが、机の上に置かれてもなお、異質さは失われなかった。
 ほんの少し開いた刃先を見ていると、言いようの無い寒気に襲われる。

「有馬――」

 言葉を失った。
 彼女が急に髪を後ろにまとめ始めたからだ。
 彼女は何をしようとしているのだろう。
 髪ゴムを手に持っていれば、束ねるだけだ。
 でも彼女が机に置いているのは、ハサミだけだ。

 まとまった髪を片手で押さえて、有馬はついに、ハサミに手を伸ばした。

「有馬!」

 拒絶だったのだ。

 ばさりと床に落ちた髪束を追って、落ちそびれた髪がふわりと遅れて着地する。
 彼女は何も言わない。
 けれど、その行為のメッセージ性はあまりに強烈だった。

 話しかけないでほしいなんて言われた方が、きっとマシだっただろう。
 でも、彼女にとってみればそのたった一言の言葉も、苦痛だったのかもしれない。

 女の子にとって髪は命なんていうけれど、それは結局のところ個人の価値観によるだろう。
 有馬高嶺にとって、話しかけられるくらいならばっさりと切ってしまってもいい程度のものだったのだから。
 ああ、この場合、話しかけられるということが、命と同等の髪の毛と同じ重さだったのかもしれないが。

 なんにせよ、彼女のその行為のおかげで、僕はもう話しかけにくくなってしまったのだ――もう一度話しかけるなんて簡単なのかもしれないが、そうやって気楽に話しかけてしまい、すでに短くなってしまった髪がまた短くなってしまい、やがて髪を切る限界を迎えてしまったら、有馬高嶺が何をしてしまうか想像もつかない。

 教室には悲鳴が反響していた。
 そしてやはり、ここまで担任教師溝口が想定していたとは思えないが、彼女はひっそりと――いや、ばっさりと、孤立したのだ。
 
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