渡る手のひら

Z.PJ

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一首 百の歌

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■■■

「どうしよう、沖石」

 僕が相談できる相手なんてそうそういない。
 連絡先ならクラスメート全員分、いや、転校生を除いてだけれど、つまりほぼ全員分あるが、相談するとしたら沖石しかいないと僕は思っていた。

『……あのさあ』
「なんだ?」
『カチャカチャうるせーよ』
「あー。悪いが、聞き流してくれ」

 ため息だけが返ってきた。

 日課というか、これは僕の仕事なのだ。
 家族内の仕事というものがある程度あったりするけれど、僕にとってはこの山積みにされた食器の洗浄が仕事なのだ。
 カチャカチャ鳴ってしまうことは仕方ないことだろう。

『聞きたくねえからやめろって言っているんだろうが。聞き流す以前の問題だ。それに、ながら電話っていうのが気に入らねえ』
「いいじゃないか。沖石も電話しながら何したっていいんだぜ」

 そうか、と言って音が離れていく。

「待て待て! 放置はナシだ! ちゃんと僕と話せ!」
『あたしからは何も話さねえよ。聞いてほしいならさっさとしろ。忙しいんだろ』

 どうやら僕の声の他にもいろいろ聞こえてしまっているようだ。
 
 こうして皿洗いをしているというのも、アルバイトをしているからというわけではない。
 家に定食屋があるという、それだけの話だ。
 調理を手伝うことはないが、こうして皿洗いだけは昔からやらされているのである。
 今の時代食洗機なんていう便利なものがあるにもかかわらず、皿洗い専門の従業員がいるせいで導入されないのだ。
 僕がちょっぴり不良のフリでもしてボイコットすれば、簡単に仕入れるかもしれないけれど、そんなことができるほど親を嫌っているわけではない。

「僕は皿を洗っているだけさ。何を注文されようが僕には関係ない。忙しいのは親だけだ」
『なんだ、こんな田舎で定食屋なんて、廃れているもんだと思っていたけど違うんだな。何がうまいんだ?』

 突然の問いかけに思わず手が止まってしまう。
 いつも僕から話を振るだけで、彼女からなにか訊いてくることなんて一度もなかったからだ。

『手、止まってるぞ』
「あ、ああ、悪い悪い」

 謝っても意味がないことだと気付いたのは、電話越しに沖石の笑い声が聞こえたからだ。
 彼女が笑うなんて珍しいことだけれど、その珍しさも恥ずかしさが塗り潰して、泡だらけのスポンジを音を立てて皿に擦り付けた。

「女将! 唐揚げ頼む!」

 一際大きな声に続いて、俺も、俺もと声が上がる。

『魚か?』
「鶏だよ」

 沖石にも聞こえていたらしい。

『魚じゃないんだな』

 と沖石が言うのも、僕が住む街は漁師町だということを話したことがあったからである。
 でもよくよく考えてみればわかるだろう。
 漁師町だからこそ、肉料理は特別に感じてしまうのだ。魚はどこでだって見られるけれど、そのせいで普通の肉料理は、新鮮な魚に喰われてしまう。
 有り余る魚料理に埋もれず、生き残っているものはやはりそれなりの味なのだ。

「いいなあ坊主は、いくらでも食えるしなあ」

 背中にぶつけられるアルコールの笑い声は、もうすっかり慣れたものだけれど、面倒であることに変わりはない。
 暖簾の先からくる、父親の指示に頷いて、屈強な男たちに笑顔を見せた。

「ええ、すごく美味しいでしょう。ずっと変わりませんよ、ここの味は」

 父親の顔をちらりと見て頷きが返ってきたことを確認し、客に頭を下げてから店を出た。

「悪い、もう本題に入るよ」

 店から家までは徒歩1分。
 つまり隣だ。
 けれど、このまま真っ直ぐ帰っても仕方ない。
 少しばかり散歩しながら、沖石と話をしたいところだ。

『いまの、いつもやらないといけないのか?』

 スピーカーのままだったおかげで、ばっちり聞かれていたらしい。

「仕方ないさ。そういうもんだろ」

 土地に根付く定食屋は、客を逃すことができない。
 一人を逃してしまえば、チェーン店と違って、ダメージが大きすぎるのだ。

『唐揚げ、そんなに美味いのなら、今度食わせてくれ』
「なんだ、好きなのか」
『嫌いだよ』

 唐揚げが嫌いな人というのは初めて聞いたかもしれない。
 が、嫌いなのにそんなことを言ったのは、僕を気遣ったのだろう。

 僕の将来に、気付いたから「食わせてくれ」なんて言ったのだろう。
 僕の逃げられない、変化のない人生を知ってしまったから――。

「有馬のことなんだが、何が悪かったと思う」

 やっと本題だ。
 数秒、音も立てず、もしかしたらまた離れたのかと思ったけれど、どうやら沖石はしっかり、考えてくれたようである。

『呼び捨てだったからじゃないか』
「……」

 確かに、僕は勢い余って有馬と呼び捨てしてしまったけれど、それは既に手遅れだった時のことだ。
 それ以前に、彼女はもうハサミを取り出そうとしていたのだから。

『女の子なんだから、呼び捨てっていうのは嫌なのかもしれないだろう』
「そうなのか? 沖石ちゃん」
『やめろ次言ったら、ばっさり、切るぞ』

 ここでそう言ってくる沖石は流石だった。

 沖石のことは初めから「沖石」と呼んでいたけれど、確かに他の女の子には、ちゃんを付けて呼んでいる。
 有馬にも、ちゃんを付けた方がいいかもしれないが、まあそれはそれだ。
 いまは髪を切ってしまった根本的な原因を知りたいのである。

「髪を切るって例えばどんな時にするものなんだ? 失恋とか?」
『なんでも色恋に繋げるんじゃねえよ。乙女かお前は』
「冗談だよ。失恋だとしたら、転校初日のあのタイミングな訳がないからな」

 僕が話しかけたからではなく、そもそも切るつもりだった可能性もゼロではないのだ。
 だとすると随分気持ちが楽になるけれど、その線はないと思っていいだろう。
 僕の顔を見てから切ったのだから。

『おかえりー』

 少し声が離れて、沖石は遠くの誰かに言っているようだ。
 沖石も僕と同じように「おかえり」とか言うんだな、と思ってしまったけれど、大概の家族にとっては普通のことか。

『ねーちゃん髪切ったの? 似合ってるじゃん』
「沖石! なんで切ったのか訊いてくれ! 貴重な女の子の意見だぞ!」

 姉となれば年が上だが、女の子といえる年なのかどうかはともかく、気になるところである。

『鬱陶しかったからだとさ。まあ、長いと洗うのも面倒だしな』
「ん? 沖石も長かった頃が?」
『女の子、なので』

 忘れてしまいがちだが、沖石は女なのである。
 女の子なのである。

「鬱陶しいか……でも確かに、僕が髪を切るとすれば、理由はそれだろうな」

 有馬が髪を切った理由を鬱陶しかったからだとすれば、鬱陶しかったのは髪ではなく、ハエのように集まった好奇心たちだろうけれど。

『明日が楽しみだな、蝶谷』
「……どう思う?」

 よくある話だ。
 起きた事が大きいほど、話は変に形を変えて広まる。
 僕と沖石が、妙な噂を立てられたのと同じだ。

『彼氏の悪評なんて、彼女は聞きたくないなあ』

 なんてふざけて言う沖石は、心底楽しそうに笑った。
 僕たちは今もまだ《付き合っている》なんて噂を立てられているけれど、いくら僕が否定したって、面白がって沖石が肯定するせいで、噂が消えないのである。

 そして案の定、また僕の、妙な噂が流れ始める。

《蝶谷渡は、転校生の髪を切った》

 まあ確かに、有馬の行為は僕のせいだと見えただろうし。

 ポジティブに考えるなんて僕らしくないが、これがもし僕と有馬ではなく他のクラスメートと有馬の事件だったら、二人の生徒の対応を強いられていたであろうことは間違いない。
 だからつまり、被害は最小限なのだ。
 ほんの少し救われた気持ちになったが、きっと僕は、有馬が視界に入るたびになんとも言えない苦痛を味わうことになるだろう。
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