ブラック企業マナー講師、異世界追放されたら魔族に爆ウケしました

ならん

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第3章 追放と孤立

35. 正しさが評価だった頃

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 夜が深まるにつれて、風の音がはっきりと耳に届くようになった。

 焚き火を起こすほどの余裕はなく、俺は外套を体に巻き付け、木の根元に腰を下ろしていた。地面から伝わる冷えが、じわじわと体力を削っていく。けれど、寒さよりも、胸の内で渦巻くものの方が、ずっと厄介だった。

 昼間に出会った子供の「ありがとう」が、何度も頭の中で再生される。

(……なんで、あれだけでこんなに引っかかるんだ)

 不思議だった。大したことはしていない。ただ転んだ子供を起こしただけだ。それなのに、胸の奥が妙にざわつく。温かいのに、同時にちくりと痛む。

 目を閉じると、別の光景が浮かび上がってきた。

 白い蛍光灯。無機質な会議室。長机に並ぶスーツ姿の新入社員たち。

 ──俺が、マナー講師だった頃の記憶だ。

「いいですか。挨拶は社会人の基本です」

 記憶の中の俺は、背筋を伸ばし、教壇に立っている。壁には大きな時計。開始からまだ十分も経っていない。

「角度は三十度。深すぎても浅すぎてもいけません。三十度です」

 そう言って、実演してみせる。受講者たちは一斉に立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。

「違います。あなた、四十度です。やり直し」

 ぴしりと指摘する。相手の顔が一瞬強張るのが、当時は心地よかった。

(……そうだ。俺は、ああやって評価されてきた)

 正確さ。厳密さ。誰が見ても分かる“正解”。

 上司はいつも言っていた。

『佐藤さん、あなたの指導は分かりやすい。数字で示せるのがいい』

『角度や秒数で言えば、誰も反論できませんからね』

 褒められるたび、胸が高鳴った。役に立っている。必要とされている。そう信じられた。

 だから、もっと厳しくなった。

「声が小さい。やり直し」

「目線が泳いでいます。相手の眉間を見る意識で」

「名刺を出すタイミングが遅い。二秒以内です」

 言葉を重ねるほど、受講者の表情が固くなっていくのが分かった。それでも、止めなかった。

(正しいことを言っているんだから)

 それが、当時の俺の免罪符だった。

 ふと、ある顔が記憶に浮かぶ。

 新人の女性社員。緊張で手が震え、何度も挨拶をやり直させた相手だ。

「すみません……」

 彼女はそう言って、深く頭を下げていた。角度は、たぶん三十五度くらい。

「違います。三十度です」

 俺は容赦なく言った。

「もう一度」

 彼女の肩が、わずかに震えたのを覚えている。

(……あの時、俺は何を見ていたんだ)

 角度か。心か。

 答えは、今なら分かる。

 あの頃の俺は、相手の不安も、緊張も、必死さも、全部見えていなかった。ただ、自分の“正しさ”が通用するかどうかだけを見ていた。

 それでも、研修は成功とされた。

『おかげでクレームが減りました』

『新入社員の意識が変わりました』

 数字で示される成果。評価シートに並ぶ高得点。

 俺はそれを誇りに思っていた。

 誇らしかったはずなのに──。

 焚き火もない暗がりで、俺は思わず顔を覆った。

「……最低だな」

 誰に言うでもなく、吐き捨てる。

 異世界に来てから、俺は同じことを繰り返していた。相手が誰であろうと、文化が違おうと関係なく、“正解”を押し付ける。

 勇者一行が離れていったのも、村人に嫌われたのも、全部同じ理由だ。

(俺は……人を良くしたかったんじゃない)

 胸が、ぎゅっと締め付けられる。

(評価されたかっただけだ)

 正しいと言われることで、自分の存在価値を確かめたかった。それだけだった。

 昼間の子供の顔が浮かぶ。

 怯えも、計算もない、まっすぐな「ありがとう」。

 あれは、評価じゃない。採点でもない。役に立ったから返ってきた言葉でもない。

 ただ、気持ちが届いた結果だった。

「……俺は、何を基準に生きてきたんだろうな」

 呟きは、風に流されて消える。

 けれど、心の奥では、何かが確実に崩れ始めていた。長い時間をかけて積み上げてきた“正しさ”の土台が、音を立てて揺れている。

 怖かった。今さら否定したら、俺には何も残らない気がしたからだ。

 それでも、目を逸らすことはできなかった。

 俺はゆっくりと立ち上がり、夜空を見上げる。星は冷たく、けれど変わらず輝いている。

「……明日から、どうする」

 答えは出ない。

 ただ一つ言えるのは、もう前と同じやり方では、きっと前に進めないということ。

 それだけは、はっきりと胸に刻まれていた。
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