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撫子の花(7)
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一方筝琴は、夢中で馬を駆っていた。
(たのむ、間に合ってくれ…!)
やっとで夜の繁華街にたどりついた。馬から飛び降り、素早くあたりを見回す。
(どこだ!どこにいる!)
走りながら探すが、どこにもいない。
(くそっ・・・・店を片端からまわるか)
すると、視界に見たことのある男の姿がふとよぎった。
肩をおとし、下を向いて歩く姿…顔は良く見えないし、服も変装しているのかいつもの格好でない。だがあの大きい背格好に覚えがある。たしか屋敷の気のいい下男の…五郎だ。
「おい!待て!」
ぐっと肩をつかむと、必要以上にぎょっと飛び上がり、下男は振り返った。そして驚愕の表情を浮かべた。
「お、お師匠様…!」
「おい、姫をどこにやった!」
とたんに五郎は泣き崩れた。
「も、申しわけねぇお師匠様…俺、奥方様に脅されて…」
地面に手をつき、涙ながらに五郎は訴えた。
「手を貸さないと、お前が二度と働けないよう役場に申し立てると言われちまって…お松にも毒を盛って子どもも殺すと…」
そこまで汚い手を使うとは。筝琴は唸った。
「お前のことはわかった。それで姫を、どこにやったんだ」
「この街の女衒に引き渡してしめぇました…」
筝琴は蒼白になって五郎に詰め寄った。
「どの女衒だ!」
「すいません、わからねぇです」
「っ…!」
怒りに我を忘れ、筝琴はおもわず拳をにぎった。五郎のような巨漢だろうと、筝琴にとって相手に不足はない。だが怯え、後悔の表情を顔ににじませる彼を見ると、瞬間的な怒りは消えて理性がその目に戻った。
(いかん、私としたことが。考えなければ。どうすれば姫を…そうだ)
筝琴は五郎の肩に手を置いて問いかけた。
「お前だって、姫をだまして売るなんてしたくなかっただろう」
「はい…そりゃあ」
五郎は、ぼたぼた涙を落としながらうなずいた。
「お前の身の安全は俺が保障する、絶対にだ」
五郎が、へ?とあっけにとられた表情をした。
「だから姫を取り戻すのに協力してくれ!」
撫子はふっと目をあけた。とたんに頭がガンガンと痛んだ。
「うっ…」
「目が覚めましたか、姫」
撫子はぎょっとした。いつのまにか、見知らぬ薄汚れた風体の男がそばにいる。
「おっと、もう姫じゃあ、ありませんな」
さっきまで自分の部屋にいたはずなのに…ここは一体、どこ?どういう事?撫子は半狂乱になって周りを見渡した。
「混乱してますな、ねえさんよ」
男はニヤリと笑って撫子の体に手をかけた。
「こんな上物が年明けから飛び込んでくるとは、俺もツイてきたってもんよ・・・さて、中身をちょいと確かめさせてもらいますぜ」
がっ、と男が着物の袷を開いた。
「嫌っ…!」
必死で手足をばたつかせ抵抗する撫子に、男は慣れたように言った。
「なぁに手荒なことはしやせん。商品が生娘か確かめるだけでっせ。おとなしくしときなさい」
下袴の紐に男の手がかかる。渾身のちからを振り絞って抵抗しているのに、体がだるくて思い通りにならない。
「むだでっせ、薬が抜けるまではね」
そうか、薬…。妙に眠たくなったのは、そのせいか。誰かが私の食事に薬を盛ったのだ…。そう気が付いて、撫子の目の前は真っ暗になった。
「そうそう、あきらめがいいほうがこの先…っ!」
男は言いかけて、ぎょっと後ろを振り向いた。
「だ、誰だあんた!」
後ろに立っていたのは筝琴だった。男は驚いて筝琴につかみかかろうとした・・・が、次の瞬間には床に崩れ落ちていた。
「痛え…」
男が蹲って呻いている。撫子は、驚いて筝琴を見た。
「乱暴な真似をしてすまない。じつはお前さんににひとつ商談があってね」
筝琴は息ひとつ乱さず、男に話しかけた。
「な、何ですってい…?」
男は呻きながら筝琴を見上げた。
「彼女を売ったのはそこの下男の手違いだ。返してくれ。もちろん金も返す」
「な…!そんな商売あがったりな事、できませんで!」
男は怒鳴った。
「だいたいさっき売りに来たってのに、どういう了見だぁ!?」
筝琴は腕組みをし、ため息をついた。
「だから手違いだって。あんたにゃ悪いけどしょうがない。…なんなら上乗せしてもかまわないよ。迷惑料ってことでね」
「そんなん承知できませんや!」
男はわめいた。そりゃあそうだろう、こんな上物が安金で手に入ったのだから。ふう、と筝琴はため息をついた。その次の瞬間、素早く拳を男の鳩尾にのめり込ませた。
「ぐあっ!!」
その拳を離す前に、もう一方の手刀を男の首に打ち込む。ドサリ、と音がして男の体が地面に伸びた。撫子が目を白黒させていると、筝琴が彼女を素早く抱き上げて外に出た。
「なにをぼんやりしているんですか、さっさとずらかりますよ」
戸を開けると、五郎が見張りに立っていた。
「お師匠様」
五郎の足元に、柄の悪い男が二人ほど倒れていた。
「お師匠様が中に入ってからこいつらが掴みかかってきたんで…」
「やはり徒党がいたか」
撫子は目を白黒させた。
「あ、あの一体これは…?」
「説明はあとです。五郎、彼らに金を返して」
五郎が慌てて、先刻受け取った姫の代金を倒れた男の懐にねじこんだ。
「さ、姫、ひとっぱしりしますよ」
「…どこに?」
筝琴はさっと撫子を馬上に乗せ、自らも飛び乗った。五郎の馬を先に走らせ、それに続いて目にも留まらぬ速さで走った。
「屋敷へ戻って、母上に直訴しに行きましょう。正念場ですよ、姫」
「つまり、母上が私を…?」
「ああ、説明がまだでしたね。その通りです。姫と若の仲を嗅ぎ付けた奥方が、五郎の妻を人質にとってあなたを人買いに売りとばさせたのです」
「そう…ですか…」
予測はしていたが、やはり。撫子は肩を落とした。
「殿が亡くなってから警戒はしていたのですが、ここまで大胆な手にでるとは」
「…ありがとうございます、先生…」
撫子は怒りより、空しさを感じた。そこまで疎まれていたとは。姫の落胆の気配を感じて、筝琴は冗談めかして声をかけた。
「どうしますか、姫。屋敷に戻りますか。それとも…私と一緒に、逃げますか?」
思わず撫子は笑った。
「…心配しなくても戻りますよ、師匠」
屋敷は、まだ明々と灯りがともっている。この時間なのに、まだ起きている人間がいるようだ。筝琴は撫子を抱えてさっと馬から飛び降りた。五郎もそれに続く。三人が降り立った瞬間、五郎が撫子の前で土下座した。
「姫様、申し訳ありやせんでした!」
「五郎・・・」
「おれは、殿様に打ち首にされても…仕方がねぇことをしました」
地べたに額をつけ、五郎が言った。
確かに、五郎によって売り飛ばされるところだったのか、と思うと悲しい。だがそれは母が命じたことであり、逆らえばお松の命はなかったのだ。それを考えると、撫子はとても怒れなかった。
「五郎は悪くない」
撫子はきっぱり言い切った。
「助かったのだし、もういいでしょう。それよりも」
筝琴は撫子と五郎を交互に見た。
「いいですか、座敷に堂々と乗り込みましょう」
「母上は怒るのでは…?」
「怒ったところで、姫を売り飛ばす権利は奥方にはない。きっちり反省して頂かないと」
「五郎、お前も一緒に乗り込むんだ。必要とあれば、姫を守れ」
「はい、お師匠様」
その瞬間、三人に連帯感が漲った。筝琴を先頭に、五郎、姫と屋敷へ歩き出す。土間をくぐり、敷居をまたぐと、いきなり近江が駆け出してきた。
「ひ、姫様…!」
ぎゅっとこれまでにないほどきつく、近江が撫子を抱きしめた。
「良く…ご無事で…!」
近江が腕を緩め、撫子と目をあわせた。
「からっぽの姫様の部屋を見て、先生が形相を変えて馬を駆っていって、生きた心地がしませんでした…」
「近江…」
「危うく人買いに売り飛ばされるところだったよ。やはり奥方の姦計だった」
「そんな…葛野様…ひどすぎます、こんな…」
筝琴の言葉に、近江の目から涙が零れ落ちた。
「いくら、いくら常夏様が憎いといって、なんの罪もない姫にこんな仕打ちを…!」
腕の中で、撫子には近江の怒りが感じられた。
近江が、いつも優しく、世話焼きの近江が怒っている…本気で。
「近江…」
筝琴、そして近江。こんなに自分のことのように、私のことを心配してくれるひとがいた。その気づきに撫子は目頭がじいんと熱くなり、不覚にも泣き出してしまった。
「…お、近江…ありがとう…」
「ああ怖かったでしょう姫、可哀相に…」
近江は姫をひしっと抱きしめた。
「近江、奥方と夕那はどうしている?」
筝琴が冷静に近江に問うた。近江ははっとして、表情を変えた。
「若様も奥様を疑って、尋問して行き先を聞き出そうとして…。奥様は知らぬ存ぜぬの一点張りで。でもこれで、嘘も終わりでございますね…」
その瞬間、騒ぎを聞きつけたのか、夕那が廊下の奥から走り出てきた。
「撫子!」
近江がやれやれと笑いながら撫子を抱いていた腕を解いた。自然と、撫子の足が駆け出す。二人は廊下の真ん中で、ぎゅっと抱きしめあった。
「撫子…戻って良かった…!一体、どこに?」
「人買いに売られるところだった」
筝琴が答えた。夕那が息をのんだ。
「そうよ。そこの五郎を脅して姫を攫わせ、女衒に売り渡すはずだったのよ」
背後で、葛野が氷のようにつめたい声で言った。
いきなりの登場に、とっさに誰も気がつかなかった。夕那の腕が緩んだ隙に、葛野は撫子を床に引きずり倒し、その上に跨った。五郎と筝琴が動いたときにはもう遅かった。撫子の首もとに、鋭い刃があてがわれる。
「やめろッ!」
夕那が無我夢中で叫び、母親に向かっていった。
「だめです!近づいたら姫が殺されちまいます!」
五郎がそんな夕那をつかまえた。
「そう…わかってるじゃない」
葛野が歌うようにいった。
「もうやめてください、葛野様!」
近江が泣き崩れた。
「このような非道な振る舞い、本当は葛野様もなさりたくないはずです!」
涙を浮かべ、必死に葛野に訴えかける。
「昔の、優しい葛野様に戻ってくださいませ!」
「…近江…残念だが、手遅れだ」
筝琴が近江の手をとり、立ち上がらせた。葛野は冷たい目でそれを見ている。
「今の彼女には説得は無駄だ。かえって逆上させてしまう…」
葛野を見据えながら、暗くつぶやいた。
「なぜなら、彼女は捨て身だ…。何だってやりかねない」
その言葉にかぶせるように、葛野が言った。
「夕那、私よりも、この女を選ぶのかい?」
「選ぶ…?何を言うのですか、母上!僕は彼女と一緒になりたいだけだ!」
「ふふ…そうかい…」
幽鬼のように、ぞっとするような微笑を葛野が浮かべた。
「やっぱり、その女を選ぶのだね。もう、私は疲れたよ…やっと終わると思ったのに」
「何が…?」
夕那が恐る恐る聞いた。葛野はふわふわとした声で答えた。
「怒りや嫉妬に苛まれて一生をすごすのは、もう、終わりにしたいのだよ…五郎、夕那をお放し」
その声は、この状況にそぐわず柔らかかったが、それがかえって不気味さをあおった。彼女は、何をするつもりだ?筝琴をはじめ、全員が緊張の中、動きを止めた。
「五郎、放しておくれな」
彼女はなおも言った。五郎はおずおずと夕那を放した。
「…この女を選ぶのなら、私を殺しなさい、夕那」
葛野の放った言葉に、その場の空気が総毛立った。
「は、母上、何をおっしゃる!」
「殺せないのなら、私がこの女を殺すまで」
夕那の全身に、戦慄が走った。
「な…!正気に戻ってください、母上!」
「そうです、葛野様!目を覚ましてくださいませ!」
近江と夕那が必死で呼びかけるが、葛野は泰然として動かない。
「私は十分、正気だよ。さあ、いつまでも待てない」
葛野が刃を持つ手に、ぐっと力をこめた。撫子の首に、刃がわずかに食い込む。
「十数えるうちに、決めておくれ」
そして、空ろに数字を数え始めた。
「十……九……」
夕那がぐっと唇を噛む。
「八………七…」
筝琴が、刀を抜こうと柄に手をかけた。撫子は下で抑えつかられている手を、抜こうと動かした。
「うっ!」
その瞬間、撫子の首からつっと一滴、血が滴った。
「だめよ、刀を抜いていいのは夕那だけ。下がりなさい…お前も、動くんじゃないよ」
「くっ…」
筝琴は悔しげにうめき、刀を仕舞った。
「ふふっ……六……五……」
夕那がぐっと顔を上げ、母を懇願の眼差しで見た。
「母上、どうか…!おやめください…!」
夕那の言葉もむなしく、母は刀を下ろさなかった。
「………四………三……」
夕那は腰の刀に手をかけた。
「仕方が無い…!」
夕那が鞘を抜いた。夕那の刀が、きらめく。撫子の脳裏に、走馬灯のように次々と光景が浮かんだ。
兎を捕まえようとして転び、泣いている夕那。
一緒に正月の餅を盗み食いし、笑っている夕那。
撫子が離れに追い払われた日の、怒っている夕那。
初めてくちづけした時の、夕那。
そして、走馬灯は未来への場面を撫子に見せる。
母を殺し、重罪人となり、奉行所の役人に捕らえられる夕那。
夕那の首から血しぶきがあがる、その首は獄門に晒される―――
「嫌…!」
思わず撫子は大声を出した。
「そんなの、絶対に嫌!」
「…二…」
「お母さま、私を殺して!」
葛野が数を止め、千寿にむかって目を見開いた。
「お前に言われずとも…」
首の刀がさらに食い込む。
「だめだ!撫子!そんなの許さない!」
夕那の必死な声が耳に届いた。刀を構え、夕那がたっと走り出した。
撫子は気がついた。
――夕那に死なれたら私は死ぬほど苦しい、でも夕那だってそうなんだ!私に死なれたら、きっと夕那は…。
(だめだ、わたし達どっちも、死ねない!)
「………一
その瞬間、夕那が刀を振り下ろそうとした。
「待って!!」
撫子は渾身の力を振り絞り、素手で首に食い込む刀をぎゅっと握り、押さえつけた。葛野は慌てて刀を動かそうとした。歯刃がくいこみ撫子の手から血がどくどくと流れ出す。
「母上、お約束します」
「……何?」
「もう決して夕那の前に姿を現しません。この屋敷の敷居を二度と跨ぎません。わたしは…消えます」
「そんな約束、誰が!」
「母上!私を殺せば、母上が罪に問われてしまいましょう、そうすれば、この家はどうなります!」
「バカな娘。私は家などもう、どうでも良いのだよ」
「家だけではありません、夕那はどうなりますか!罪人の息子として、一生を過ごす事になるのですよ!」
葛野は言葉につまった。これは効いたようだ。さらに撫子は畳み掛けた。
「今、この刀をどけて下されば、すぐにも門から出て行きます。もう二度と戻りません」
「……。」
葛野が迷っているのがわかった。あともう一押しだ。
「お約束します」
その一言のあと、無言で葛野が立ち上がり、刀を引いた。
「撫子!」
夕那が撫子を助け起こそうと、さっと両腕をさしだした。だがその瞬間、再び撫子に刀の切先が向く。
「さあ、さっさと出てお行き。でないと刀は下ろさないよ」
夕那の変わりに、筝琴が撫子を助け起こした。
……振り返らず、行かねば。でないとまた彼女は暴走するだろう。撫子は自分の甘さを悔いた。そしてはっきりと理解した。
葛野がいるかぎり、二人が一緒になれる日はこないのだ。あらゆる手を使って二人を引き裂こうとするだろう。今日のように。
だったらこれ以上誰かが犠牲になる前に。
(ああ、もう二度と、夕那に会えないのかあ…)
首の痛みよりも手の痛みよりも、その事実が辛かった。一歩一歩、筝琴に助けられ進みながら、撫子はこれが最後だ、と思って言った。
「夕那…今まで、ありがとう。私の部屋に、贈り物があるから」
あと一歩で、外だ。こらえきれなくなって、撫子は振り向いた。
夕那の呆然とした顔が見えた。いつでも一緒だった、親しい腕、髪、目、唇・・・・。ああ、そんな悲しい顔をしないでほしいのに。夕那には、笑っていてほしいのに…。
「私のことは、忘れて…」
あれ、あれ、夕那が見えない。最後の姿を目に焼き付けておきたいのに、滲んで、ぼやけて……。
「さあ、撫子」
言葉少なに師匠が促す。お互い悲痛な思いをわかっていた。
こうして撫子は家を出、筝琴の一番弟子となった。
「…心配することはないよ。まず私の所属する一座に身を寄せよう」
旅のはじめに、二人は大きな川にさしかかった。この船にのって長く下っていくのだ。東の方へ。
「さあ、足元に気をつけて」
そう師匠が注意したのに、撫子は上の空で船へと一歩をふみだした。
(夕那の居る場所から、離れていくんだ…)
ふらついた足は船のへりを踏むことができず、空中を空しく蹴った。そして撫子は、川に落ちた。流れは速く、水は凍るように冷たかった。あっという間に撫子の体は沈んだ。
「姫!撫子…ッ!」
「だんな、あぶねえっ!」
必死で身を乗り出した筝琴を、船頭が止めた。
「今日は流れが速え、あんたも流されちまうよ!」
食い入るように川面を見つめる筝琴に、気の毒そうに船頭が言った。
「…悪いことはいわねえ、あきらめな…」
撫子は泳げない。ただ水の動きのままに、ながされていった。息ができず苦しかったが、すぐに目の前が暗くなった。
そこで千寿は目が覚めた。はれぼったい瞼をこすり、むっくりと起き上がる。
(ああ、嫌な夢)
あれから「撫子」は奇跡的に川船に拾われ、蘇生した。その後は流れの芸人にまぎれ、その日暮らしの生活を続けた。だが、世間は弱者に厳しい。訳ありで身元不詳の「撫子」は程なくして芸人の棟梁の借金のカタにされ、結局この「胡蝶屋」へ売られる事となったのだった。
「ふぁーあ、起きなきゃ」
過去は過去だ。悔いてもしょうがない。
布団をたたみながら、呪文のように念じる。「彼」を諦めたのも、体を売るのも、しょうがない、生きていくにはそうするより他ないのだから。目立たず、日々食べていければいい。心から誰を求める事も、求められる事もなく、毎日仕事に励むのだ。ここに骨を埋めるその日まで。
もう何かを得て、奪われるのはこりごりだ。だから、しょうがない。しょうがないのだ。
あと一歩で壊れそうになる千寿の心は、そう予防線を張ることによって危うい平穏を保っていた。
「さて、今日もお仕事がんばるぞ」
(たのむ、間に合ってくれ…!)
やっとで夜の繁華街にたどりついた。馬から飛び降り、素早くあたりを見回す。
(どこだ!どこにいる!)
走りながら探すが、どこにもいない。
(くそっ・・・・店を片端からまわるか)
すると、視界に見たことのある男の姿がふとよぎった。
肩をおとし、下を向いて歩く姿…顔は良く見えないし、服も変装しているのかいつもの格好でない。だがあの大きい背格好に覚えがある。たしか屋敷の気のいい下男の…五郎だ。
「おい!待て!」
ぐっと肩をつかむと、必要以上にぎょっと飛び上がり、下男は振り返った。そして驚愕の表情を浮かべた。
「お、お師匠様…!」
「おい、姫をどこにやった!」
とたんに五郎は泣き崩れた。
「も、申しわけねぇお師匠様…俺、奥方様に脅されて…」
地面に手をつき、涙ながらに五郎は訴えた。
「手を貸さないと、お前が二度と働けないよう役場に申し立てると言われちまって…お松にも毒を盛って子どもも殺すと…」
そこまで汚い手を使うとは。筝琴は唸った。
「お前のことはわかった。それで姫を、どこにやったんだ」
「この街の女衒に引き渡してしめぇました…」
筝琴は蒼白になって五郎に詰め寄った。
「どの女衒だ!」
「すいません、わからねぇです」
「っ…!」
怒りに我を忘れ、筝琴はおもわず拳をにぎった。五郎のような巨漢だろうと、筝琴にとって相手に不足はない。だが怯え、後悔の表情を顔ににじませる彼を見ると、瞬間的な怒りは消えて理性がその目に戻った。
(いかん、私としたことが。考えなければ。どうすれば姫を…そうだ)
筝琴は五郎の肩に手を置いて問いかけた。
「お前だって、姫をだまして売るなんてしたくなかっただろう」
「はい…そりゃあ」
五郎は、ぼたぼた涙を落としながらうなずいた。
「お前の身の安全は俺が保障する、絶対にだ」
五郎が、へ?とあっけにとられた表情をした。
「だから姫を取り戻すのに協力してくれ!」
撫子はふっと目をあけた。とたんに頭がガンガンと痛んだ。
「うっ…」
「目が覚めましたか、姫」
撫子はぎょっとした。いつのまにか、見知らぬ薄汚れた風体の男がそばにいる。
「おっと、もう姫じゃあ、ありませんな」
さっきまで自分の部屋にいたはずなのに…ここは一体、どこ?どういう事?撫子は半狂乱になって周りを見渡した。
「混乱してますな、ねえさんよ」
男はニヤリと笑って撫子の体に手をかけた。
「こんな上物が年明けから飛び込んでくるとは、俺もツイてきたってもんよ・・・さて、中身をちょいと確かめさせてもらいますぜ」
がっ、と男が着物の袷を開いた。
「嫌っ…!」
必死で手足をばたつかせ抵抗する撫子に、男は慣れたように言った。
「なぁに手荒なことはしやせん。商品が生娘か確かめるだけでっせ。おとなしくしときなさい」
下袴の紐に男の手がかかる。渾身のちからを振り絞って抵抗しているのに、体がだるくて思い通りにならない。
「むだでっせ、薬が抜けるまではね」
そうか、薬…。妙に眠たくなったのは、そのせいか。誰かが私の食事に薬を盛ったのだ…。そう気が付いて、撫子の目の前は真っ暗になった。
「そうそう、あきらめがいいほうがこの先…っ!」
男は言いかけて、ぎょっと後ろを振り向いた。
「だ、誰だあんた!」
後ろに立っていたのは筝琴だった。男は驚いて筝琴につかみかかろうとした・・・が、次の瞬間には床に崩れ落ちていた。
「痛え…」
男が蹲って呻いている。撫子は、驚いて筝琴を見た。
「乱暴な真似をしてすまない。じつはお前さんににひとつ商談があってね」
筝琴は息ひとつ乱さず、男に話しかけた。
「な、何ですってい…?」
男は呻きながら筝琴を見上げた。
「彼女を売ったのはそこの下男の手違いだ。返してくれ。もちろん金も返す」
「な…!そんな商売あがったりな事、できませんで!」
男は怒鳴った。
「だいたいさっき売りに来たってのに、どういう了見だぁ!?」
筝琴は腕組みをし、ため息をついた。
「だから手違いだって。あんたにゃ悪いけどしょうがない。…なんなら上乗せしてもかまわないよ。迷惑料ってことでね」
「そんなん承知できませんや!」
男はわめいた。そりゃあそうだろう、こんな上物が安金で手に入ったのだから。ふう、と筝琴はため息をついた。その次の瞬間、素早く拳を男の鳩尾にのめり込ませた。
「ぐあっ!!」
その拳を離す前に、もう一方の手刀を男の首に打ち込む。ドサリ、と音がして男の体が地面に伸びた。撫子が目を白黒させていると、筝琴が彼女を素早く抱き上げて外に出た。
「なにをぼんやりしているんですか、さっさとずらかりますよ」
戸を開けると、五郎が見張りに立っていた。
「お師匠様」
五郎の足元に、柄の悪い男が二人ほど倒れていた。
「お師匠様が中に入ってからこいつらが掴みかかってきたんで…」
「やはり徒党がいたか」
撫子は目を白黒させた。
「あ、あの一体これは…?」
「説明はあとです。五郎、彼らに金を返して」
五郎が慌てて、先刻受け取った姫の代金を倒れた男の懐にねじこんだ。
「さ、姫、ひとっぱしりしますよ」
「…どこに?」
筝琴はさっと撫子を馬上に乗せ、自らも飛び乗った。五郎の馬を先に走らせ、それに続いて目にも留まらぬ速さで走った。
「屋敷へ戻って、母上に直訴しに行きましょう。正念場ですよ、姫」
「つまり、母上が私を…?」
「ああ、説明がまだでしたね。その通りです。姫と若の仲を嗅ぎ付けた奥方が、五郎の妻を人質にとってあなたを人買いに売りとばさせたのです」
「そう…ですか…」
予測はしていたが、やはり。撫子は肩を落とした。
「殿が亡くなってから警戒はしていたのですが、ここまで大胆な手にでるとは」
「…ありがとうございます、先生…」
撫子は怒りより、空しさを感じた。そこまで疎まれていたとは。姫の落胆の気配を感じて、筝琴は冗談めかして声をかけた。
「どうしますか、姫。屋敷に戻りますか。それとも…私と一緒に、逃げますか?」
思わず撫子は笑った。
「…心配しなくても戻りますよ、師匠」
屋敷は、まだ明々と灯りがともっている。この時間なのに、まだ起きている人間がいるようだ。筝琴は撫子を抱えてさっと馬から飛び降りた。五郎もそれに続く。三人が降り立った瞬間、五郎が撫子の前で土下座した。
「姫様、申し訳ありやせんでした!」
「五郎・・・」
「おれは、殿様に打ち首にされても…仕方がねぇことをしました」
地べたに額をつけ、五郎が言った。
確かに、五郎によって売り飛ばされるところだったのか、と思うと悲しい。だがそれは母が命じたことであり、逆らえばお松の命はなかったのだ。それを考えると、撫子はとても怒れなかった。
「五郎は悪くない」
撫子はきっぱり言い切った。
「助かったのだし、もういいでしょう。それよりも」
筝琴は撫子と五郎を交互に見た。
「いいですか、座敷に堂々と乗り込みましょう」
「母上は怒るのでは…?」
「怒ったところで、姫を売り飛ばす権利は奥方にはない。きっちり反省して頂かないと」
「五郎、お前も一緒に乗り込むんだ。必要とあれば、姫を守れ」
「はい、お師匠様」
その瞬間、三人に連帯感が漲った。筝琴を先頭に、五郎、姫と屋敷へ歩き出す。土間をくぐり、敷居をまたぐと、いきなり近江が駆け出してきた。
「ひ、姫様…!」
ぎゅっとこれまでにないほどきつく、近江が撫子を抱きしめた。
「良く…ご無事で…!」
近江が腕を緩め、撫子と目をあわせた。
「からっぽの姫様の部屋を見て、先生が形相を変えて馬を駆っていって、生きた心地がしませんでした…」
「近江…」
「危うく人買いに売り飛ばされるところだったよ。やはり奥方の姦計だった」
「そんな…葛野様…ひどすぎます、こんな…」
筝琴の言葉に、近江の目から涙が零れ落ちた。
「いくら、いくら常夏様が憎いといって、なんの罪もない姫にこんな仕打ちを…!」
腕の中で、撫子には近江の怒りが感じられた。
近江が、いつも優しく、世話焼きの近江が怒っている…本気で。
「近江…」
筝琴、そして近江。こんなに自分のことのように、私のことを心配してくれるひとがいた。その気づきに撫子は目頭がじいんと熱くなり、不覚にも泣き出してしまった。
「…お、近江…ありがとう…」
「ああ怖かったでしょう姫、可哀相に…」
近江は姫をひしっと抱きしめた。
「近江、奥方と夕那はどうしている?」
筝琴が冷静に近江に問うた。近江ははっとして、表情を変えた。
「若様も奥様を疑って、尋問して行き先を聞き出そうとして…。奥様は知らぬ存ぜぬの一点張りで。でもこれで、嘘も終わりでございますね…」
その瞬間、騒ぎを聞きつけたのか、夕那が廊下の奥から走り出てきた。
「撫子!」
近江がやれやれと笑いながら撫子を抱いていた腕を解いた。自然と、撫子の足が駆け出す。二人は廊下の真ん中で、ぎゅっと抱きしめあった。
「撫子…戻って良かった…!一体、どこに?」
「人買いに売られるところだった」
筝琴が答えた。夕那が息をのんだ。
「そうよ。そこの五郎を脅して姫を攫わせ、女衒に売り渡すはずだったのよ」
背後で、葛野が氷のようにつめたい声で言った。
いきなりの登場に、とっさに誰も気がつかなかった。夕那の腕が緩んだ隙に、葛野は撫子を床に引きずり倒し、その上に跨った。五郎と筝琴が動いたときにはもう遅かった。撫子の首もとに、鋭い刃があてがわれる。
「やめろッ!」
夕那が無我夢中で叫び、母親に向かっていった。
「だめです!近づいたら姫が殺されちまいます!」
五郎がそんな夕那をつかまえた。
「そう…わかってるじゃない」
葛野が歌うようにいった。
「もうやめてください、葛野様!」
近江が泣き崩れた。
「このような非道な振る舞い、本当は葛野様もなさりたくないはずです!」
涙を浮かべ、必死に葛野に訴えかける。
「昔の、優しい葛野様に戻ってくださいませ!」
「…近江…残念だが、手遅れだ」
筝琴が近江の手をとり、立ち上がらせた。葛野は冷たい目でそれを見ている。
「今の彼女には説得は無駄だ。かえって逆上させてしまう…」
葛野を見据えながら、暗くつぶやいた。
「なぜなら、彼女は捨て身だ…。何だってやりかねない」
その言葉にかぶせるように、葛野が言った。
「夕那、私よりも、この女を選ぶのかい?」
「選ぶ…?何を言うのですか、母上!僕は彼女と一緒になりたいだけだ!」
「ふふ…そうかい…」
幽鬼のように、ぞっとするような微笑を葛野が浮かべた。
「やっぱり、その女を選ぶのだね。もう、私は疲れたよ…やっと終わると思ったのに」
「何が…?」
夕那が恐る恐る聞いた。葛野はふわふわとした声で答えた。
「怒りや嫉妬に苛まれて一生をすごすのは、もう、終わりにしたいのだよ…五郎、夕那をお放し」
その声は、この状況にそぐわず柔らかかったが、それがかえって不気味さをあおった。彼女は、何をするつもりだ?筝琴をはじめ、全員が緊張の中、動きを止めた。
「五郎、放しておくれな」
彼女はなおも言った。五郎はおずおずと夕那を放した。
「…この女を選ぶのなら、私を殺しなさい、夕那」
葛野の放った言葉に、その場の空気が総毛立った。
「は、母上、何をおっしゃる!」
「殺せないのなら、私がこの女を殺すまで」
夕那の全身に、戦慄が走った。
「な…!正気に戻ってください、母上!」
「そうです、葛野様!目を覚ましてくださいませ!」
近江と夕那が必死で呼びかけるが、葛野は泰然として動かない。
「私は十分、正気だよ。さあ、いつまでも待てない」
葛野が刃を持つ手に、ぐっと力をこめた。撫子の首に、刃がわずかに食い込む。
「十数えるうちに、決めておくれ」
そして、空ろに数字を数え始めた。
「十……九……」
夕那がぐっと唇を噛む。
「八………七…」
筝琴が、刀を抜こうと柄に手をかけた。撫子は下で抑えつかられている手を、抜こうと動かした。
「うっ!」
その瞬間、撫子の首からつっと一滴、血が滴った。
「だめよ、刀を抜いていいのは夕那だけ。下がりなさい…お前も、動くんじゃないよ」
「くっ…」
筝琴は悔しげにうめき、刀を仕舞った。
「ふふっ……六……五……」
夕那がぐっと顔を上げ、母を懇願の眼差しで見た。
「母上、どうか…!おやめください…!」
夕那の言葉もむなしく、母は刀を下ろさなかった。
「………四………三……」
夕那は腰の刀に手をかけた。
「仕方が無い…!」
夕那が鞘を抜いた。夕那の刀が、きらめく。撫子の脳裏に、走馬灯のように次々と光景が浮かんだ。
兎を捕まえようとして転び、泣いている夕那。
一緒に正月の餅を盗み食いし、笑っている夕那。
撫子が離れに追い払われた日の、怒っている夕那。
初めてくちづけした時の、夕那。
そして、走馬灯は未来への場面を撫子に見せる。
母を殺し、重罪人となり、奉行所の役人に捕らえられる夕那。
夕那の首から血しぶきがあがる、その首は獄門に晒される―――
「嫌…!」
思わず撫子は大声を出した。
「そんなの、絶対に嫌!」
「…二…」
「お母さま、私を殺して!」
葛野が数を止め、千寿にむかって目を見開いた。
「お前に言われずとも…」
首の刀がさらに食い込む。
「だめだ!撫子!そんなの許さない!」
夕那の必死な声が耳に届いた。刀を構え、夕那がたっと走り出した。
撫子は気がついた。
――夕那に死なれたら私は死ぬほど苦しい、でも夕那だってそうなんだ!私に死なれたら、きっと夕那は…。
(だめだ、わたし達どっちも、死ねない!)
「………一
その瞬間、夕那が刀を振り下ろそうとした。
「待って!!」
撫子は渾身の力を振り絞り、素手で首に食い込む刀をぎゅっと握り、押さえつけた。葛野は慌てて刀を動かそうとした。歯刃がくいこみ撫子の手から血がどくどくと流れ出す。
「母上、お約束します」
「……何?」
「もう決して夕那の前に姿を現しません。この屋敷の敷居を二度と跨ぎません。わたしは…消えます」
「そんな約束、誰が!」
「母上!私を殺せば、母上が罪に問われてしまいましょう、そうすれば、この家はどうなります!」
「バカな娘。私は家などもう、どうでも良いのだよ」
「家だけではありません、夕那はどうなりますか!罪人の息子として、一生を過ごす事になるのですよ!」
葛野は言葉につまった。これは効いたようだ。さらに撫子は畳み掛けた。
「今、この刀をどけて下されば、すぐにも門から出て行きます。もう二度と戻りません」
「……。」
葛野が迷っているのがわかった。あともう一押しだ。
「お約束します」
その一言のあと、無言で葛野が立ち上がり、刀を引いた。
「撫子!」
夕那が撫子を助け起こそうと、さっと両腕をさしだした。だがその瞬間、再び撫子に刀の切先が向く。
「さあ、さっさと出てお行き。でないと刀は下ろさないよ」
夕那の変わりに、筝琴が撫子を助け起こした。
……振り返らず、行かねば。でないとまた彼女は暴走するだろう。撫子は自分の甘さを悔いた。そしてはっきりと理解した。
葛野がいるかぎり、二人が一緒になれる日はこないのだ。あらゆる手を使って二人を引き裂こうとするだろう。今日のように。
だったらこれ以上誰かが犠牲になる前に。
(ああ、もう二度と、夕那に会えないのかあ…)
首の痛みよりも手の痛みよりも、その事実が辛かった。一歩一歩、筝琴に助けられ進みながら、撫子はこれが最後だ、と思って言った。
「夕那…今まで、ありがとう。私の部屋に、贈り物があるから」
あと一歩で、外だ。こらえきれなくなって、撫子は振り向いた。
夕那の呆然とした顔が見えた。いつでも一緒だった、親しい腕、髪、目、唇・・・・。ああ、そんな悲しい顔をしないでほしいのに。夕那には、笑っていてほしいのに…。
「私のことは、忘れて…」
あれ、あれ、夕那が見えない。最後の姿を目に焼き付けておきたいのに、滲んで、ぼやけて……。
「さあ、撫子」
言葉少なに師匠が促す。お互い悲痛な思いをわかっていた。
こうして撫子は家を出、筝琴の一番弟子となった。
「…心配することはないよ。まず私の所属する一座に身を寄せよう」
旅のはじめに、二人は大きな川にさしかかった。この船にのって長く下っていくのだ。東の方へ。
「さあ、足元に気をつけて」
そう師匠が注意したのに、撫子は上の空で船へと一歩をふみだした。
(夕那の居る場所から、離れていくんだ…)
ふらついた足は船のへりを踏むことができず、空中を空しく蹴った。そして撫子は、川に落ちた。流れは速く、水は凍るように冷たかった。あっという間に撫子の体は沈んだ。
「姫!撫子…ッ!」
「だんな、あぶねえっ!」
必死で身を乗り出した筝琴を、船頭が止めた。
「今日は流れが速え、あんたも流されちまうよ!」
食い入るように川面を見つめる筝琴に、気の毒そうに船頭が言った。
「…悪いことはいわねえ、あきらめな…」
撫子は泳げない。ただ水の動きのままに、ながされていった。息ができず苦しかったが、すぐに目の前が暗くなった。
そこで千寿は目が覚めた。はれぼったい瞼をこすり、むっくりと起き上がる。
(ああ、嫌な夢)
あれから「撫子」は奇跡的に川船に拾われ、蘇生した。その後は流れの芸人にまぎれ、その日暮らしの生活を続けた。だが、世間は弱者に厳しい。訳ありで身元不詳の「撫子」は程なくして芸人の棟梁の借金のカタにされ、結局この「胡蝶屋」へ売られる事となったのだった。
「ふぁーあ、起きなきゃ」
過去は過去だ。悔いてもしょうがない。
布団をたたみながら、呪文のように念じる。「彼」を諦めたのも、体を売るのも、しょうがない、生きていくにはそうするより他ないのだから。目立たず、日々食べていければいい。心から誰を求める事も、求められる事もなく、毎日仕事に励むのだ。ここに骨を埋めるその日まで。
もう何かを得て、奪われるのはこりごりだ。だから、しょうがない。しょうがないのだ。
あと一歩で壊れそうになる千寿の心は、そう予防線を張ることによって危うい平穏を保っていた。
「さて、今日もお仕事がんばるぞ」
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