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十五話
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アイゼン帝国の冬は、静かに、けれど確実に春への準備を始めていた。
フィオーレは、ヴォルフラムから贈られた温室の中で、新しく届いた花の苗を並べていた。ラベンダーの柔らかな香りが、彼の心を穏やかに満たしていく。
そんな幸福な時間の静寂を破ったのは、早足で近づいてくる騎士の硬い靴音だった。
「フィオーレ様。ラングリス王国からの使節が、貴方宛てに『贈りもの』を届けて参りました」
届けられたのは、古びた、けれど丁寧に磨かれた木箱だった。
フィオーレがその蓋を開けた瞬間、彼の指先から体温がスッと引いていった。
「あ……」
中に入っていたのは、一輪の「ガラスの百合」だった。
それは、フィオーレが幼い頃に亡くした実の母親が、唯一彼に残してくれた大切な遺品だ。ラングリスを追い出される際、義兄のラウルによって取り上げられ、二度と目にすることはないと思っていたもの。
だが、その美しいはずの百合には、無惨な「ひび」が入っていた。
箱の底には、一枚の紙きれが添えられている。
『このガラクタの末路がどうなるかは、お前の返答次第だ。三日以内に、帝国の軍事情報を手土産に帰還せよ。さもなくば、母の形見は粉々に砕け散ることになる』
フィオーレの視界が、ぐらりと揺れた。
呼吸が浅くなり、肺の奥が焼けるように熱い。彼は膝をつき、壊れかけのガラスを壊さないように、震える手でそっと抱きしめた。
「フィオーレ!」
温室の入り口から、地を這うような低い声が響いた。
ヴォルフラムだ。彼はフィオーレの異変を察知し、すべての公務を放り出して駆けつけてきた。
地面にうずくまり、小さな背中を丸めて震えるフィオーレの姿。その光景を目にした瞬間、ヴォルフラムの金の瞳に、これまで一度も見せたことのないような「静かな怒り」が灯った。
「……何があった」
ヴォルフラムは膝をつき、フィオーレの細い肩を抱き寄せた。
フィオーレは、涙をこらえるように唇を噛み締め、抱えていた木箱をヴォルフラムに見せた。
「ヴォルフラム様……。母の、母のたったひとつの思い出が……私のせいで……っ」
「……ラングリスの鼠どもめ。俺の番の心を、これほどまでに踏みにじるとはな」
ヴォルフラムは、フィオーレの手からそっと木箱を預かり、中の手紙を一瞥した。
次の瞬間、ヴォルフラムの周囲の空気が、パキパキと音を立てて凍りついた。彼の内に秘められた圧倒的な魔力が、持ち主の怒りに呼応して溢れ出している。
ヴォルフラムは、フィオーレの涙で濡れた頬を、親指の腹で優しく拭った。その手つきは驚くほど穏やかだが、瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような炎が揺らめいている。
「フィオーレ。お前は何も心配しなくていい。この百合も、お前の思い出も、俺が必ず守り抜く」
「でも、私が戻らないと、これが……」
「戻る必要などない。お前の居場所は、ここだと言っただろう。……奴らは、触れてはならない龍の逆鱗に触れたのだ。それ相応の対価を、支払ってもらう」
ヴォルフラムは立ち上がると、控えていた騎士たちに、氷の礫のような声で命じた。
「クラウス。全軍に通達せよ。ラングリス王国との『対話』の時間は終わった。……国境沿いに配備している第一軍を前進させろ。武力による威嚇ではない。これは、宣戦布告だ」
温室の中に、緊張が走る。
フィオーレは驚いて顔を上げた。自分一人のために、帝国が動く。その事実の重さに、彼はヴォルフラムの袖をぎゅっと掴んだ。
「ヴォルフラム様、私のために、そんな……っ」
「お前のための戦いではない、フィオーレ。これは、俺の誇りのための戦いだ。お前を傷つけることは、このアイゼン帝国そのものを侮辱することと同義だ。……それに、お前が流したその涙一粒に、ラングリスの城ひとつを差し出しても足りん」
ヴォルフラムは、フィオーレを軽々と抱き上げた。
彼の胸板に顔を埋めると、そこから聞こえる鼓動は驚くほど落ち着いていて、フィオーレの不安をゆっくりと溶かしていく。
「フィオーレ、もう泣くな。お前のその銀色の髪が、湿り気で曇るのを見たくない。……このガラスの百合は、ヴァレリウスに預けて修復させる。魔法を使えば、元通りどころか、より輝きを増して蘇るだろう」
「……はい」
「明日には、すべてを終わらせてやる。お前はただ、温かい茶でも飲んで、俺の帰りを待っていればいい」
ヴォルフラムは、フィオーレの額に深い、深い誓いのくちづけを落とした。
そのまま彼は、フィオーレをテレーゼに預けると、一度も振り返ることなく執務室へと歩き去った。その背中は、どんな嵐も遮る巨壁のように頼もしく、そして恐ろしいほど冷徹だった。
フィオーレは、テレーゼの温かい腕の中で、遠ざかるヴォルフラムの足音を聞いていた。
かつての彼は、絶望に支配されるだけの子供だった。けれど今は、自分を信じてくれる人がいる。守ってくれる場所がある。
(私も、泣いてばかりじゃいられない……)
フィオーレは、ぐっと拳を握りしめた。
ヴォルフラムが戦うなら、自分もまた、彼の帰る場所として、この温室を最高の花々で満たしておこうと。
アイゼン帝国の北風が、今、怒涛の勢いでラングリス王国へと吹き抜けようとしていた。
不憫な王子の救済劇は、ここから最大のカタルシスへと向かっていく。
フィオーレは、ヴォルフラムから贈られた温室の中で、新しく届いた花の苗を並べていた。ラベンダーの柔らかな香りが、彼の心を穏やかに満たしていく。
そんな幸福な時間の静寂を破ったのは、早足で近づいてくる騎士の硬い靴音だった。
「フィオーレ様。ラングリス王国からの使節が、貴方宛てに『贈りもの』を届けて参りました」
届けられたのは、古びた、けれど丁寧に磨かれた木箱だった。
フィオーレがその蓋を開けた瞬間、彼の指先から体温がスッと引いていった。
「あ……」
中に入っていたのは、一輪の「ガラスの百合」だった。
それは、フィオーレが幼い頃に亡くした実の母親が、唯一彼に残してくれた大切な遺品だ。ラングリスを追い出される際、義兄のラウルによって取り上げられ、二度と目にすることはないと思っていたもの。
だが、その美しいはずの百合には、無惨な「ひび」が入っていた。
箱の底には、一枚の紙きれが添えられている。
『このガラクタの末路がどうなるかは、お前の返答次第だ。三日以内に、帝国の軍事情報を手土産に帰還せよ。さもなくば、母の形見は粉々に砕け散ることになる』
フィオーレの視界が、ぐらりと揺れた。
呼吸が浅くなり、肺の奥が焼けるように熱い。彼は膝をつき、壊れかけのガラスを壊さないように、震える手でそっと抱きしめた。
「フィオーレ!」
温室の入り口から、地を這うような低い声が響いた。
ヴォルフラムだ。彼はフィオーレの異変を察知し、すべての公務を放り出して駆けつけてきた。
地面にうずくまり、小さな背中を丸めて震えるフィオーレの姿。その光景を目にした瞬間、ヴォルフラムの金の瞳に、これまで一度も見せたことのないような「静かな怒り」が灯った。
「……何があった」
ヴォルフラムは膝をつき、フィオーレの細い肩を抱き寄せた。
フィオーレは、涙をこらえるように唇を噛み締め、抱えていた木箱をヴォルフラムに見せた。
「ヴォルフラム様……。母の、母のたったひとつの思い出が……私のせいで……っ」
「……ラングリスの鼠どもめ。俺の番の心を、これほどまでに踏みにじるとはな」
ヴォルフラムは、フィオーレの手からそっと木箱を預かり、中の手紙を一瞥した。
次の瞬間、ヴォルフラムの周囲の空気が、パキパキと音を立てて凍りついた。彼の内に秘められた圧倒的な魔力が、持ち主の怒りに呼応して溢れ出している。
ヴォルフラムは、フィオーレの涙で濡れた頬を、親指の腹で優しく拭った。その手つきは驚くほど穏やかだが、瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような炎が揺らめいている。
「フィオーレ。お前は何も心配しなくていい。この百合も、お前の思い出も、俺が必ず守り抜く」
「でも、私が戻らないと、これが……」
「戻る必要などない。お前の居場所は、ここだと言っただろう。……奴らは、触れてはならない龍の逆鱗に触れたのだ。それ相応の対価を、支払ってもらう」
ヴォルフラムは立ち上がると、控えていた騎士たちに、氷の礫のような声で命じた。
「クラウス。全軍に通達せよ。ラングリス王国との『対話』の時間は終わった。……国境沿いに配備している第一軍を前進させろ。武力による威嚇ではない。これは、宣戦布告だ」
温室の中に、緊張が走る。
フィオーレは驚いて顔を上げた。自分一人のために、帝国が動く。その事実の重さに、彼はヴォルフラムの袖をぎゅっと掴んだ。
「ヴォルフラム様、私のために、そんな……っ」
「お前のための戦いではない、フィオーレ。これは、俺の誇りのための戦いだ。お前を傷つけることは、このアイゼン帝国そのものを侮辱することと同義だ。……それに、お前が流したその涙一粒に、ラングリスの城ひとつを差し出しても足りん」
ヴォルフラムは、フィオーレを軽々と抱き上げた。
彼の胸板に顔を埋めると、そこから聞こえる鼓動は驚くほど落ち着いていて、フィオーレの不安をゆっくりと溶かしていく。
「フィオーレ、もう泣くな。お前のその銀色の髪が、湿り気で曇るのを見たくない。……このガラスの百合は、ヴァレリウスに預けて修復させる。魔法を使えば、元通りどころか、より輝きを増して蘇るだろう」
「……はい」
「明日には、すべてを終わらせてやる。お前はただ、温かい茶でも飲んで、俺の帰りを待っていればいい」
ヴォルフラムは、フィオーレの額に深い、深い誓いのくちづけを落とした。
そのまま彼は、フィオーレをテレーゼに預けると、一度も振り返ることなく執務室へと歩き去った。その背中は、どんな嵐も遮る巨壁のように頼もしく、そして恐ろしいほど冷徹だった。
フィオーレは、テレーゼの温かい腕の中で、遠ざかるヴォルフラムの足音を聞いていた。
かつての彼は、絶望に支配されるだけの子供だった。けれど今は、自分を信じてくれる人がいる。守ってくれる場所がある。
(私も、泣いてばかりじゃいられない……)
フィオーレは、ぐっと拳を握りしめた。
ヴォルフラムが戦うなら、自分もまた、彼の帰る場所として、この温室を最高の花々で満たしておこうと。
アイゼン帝国の北風が、今、怒涛の勢いでラングリス王国へと吹き抜けようとしていた。
不憫な王子の救済劇は、ここから最大のカタルシスへと向かっていく。
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