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十六話
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ヴォルフラムが戦地――といっても、国境付近への軍隊の進駐――へ向かってから、三日が経過した。
アイゼン帝国の皇城は、主を欠いているというのに、不思議と静まり返ってはいない。むしろ、残された騎士や使用人たちは、フィオーレを見るたびに「陛下はすぐにお戻りになります」「安心してください」と、温かな声をかけてくれる。
フィオーレは、いつもの温室の片隅で、新しく届いた白銀の種を手のひらで見つめていた。
ヴォルフラムが「ご褒美」だと言ってグンターに預けていった、秘蔵の種だ。
けれど、今のフィオーレの指先は、土に触れることを躊躇うように小さく震えていた。
「……ヴォルフラム様。お怪我、されていないかな」
ポツリとこぼれた独り言に、背後から柔らかな気配が近づく。テレーゼが、湯気の立つミルクティーをトレイに乗せて現れた。
「フィオーレ様。指先をそんなに強く握りしめては、せっかくの種が痛んでしまいますわ」
「あ……ごめんなさい、テレーゼさん。つい、考え事をしてしまって」
「陛下のことですわね。あの方は、戦場においては『氷龍の化身』と恐れられる御方。ラングリスのような小国の揺さぶりに、遅れを取るようなことは決してございません」
テレーゼは、フィオーレの隣に座ると、優しくその銀髪を撫でた。
フィオーレは、その手の温もりに少しだけ緊張を解き、深く息を吐く。
彼の脳裏には、出陣の直前、ヴォルフラムが自分に見せた表情が焼き付いていた。
『俺がいない間、寂しければこの温室のバラに話しかけていろ。お前の声を聞けば、あいつらも喜ぶだろう』
冗談めかしてそう言ったヴォルフラムの瞳には、かつての冷徹さは微塵もなかった。そこにあったのは、愛おしいものを手放したくないという、不器用な情熱だけだ。
「私、ヴォルフラム様に守られてばかりなのが、時々もどかしくなるんです。……私にできることは、本当にお花を育てることだけなのでしょうか」
フィオーレは、右肩の「聖種の証」をそっと上から押さえた。
ヴォルフラムが触れるたびに、この紋様は熱を持ち、フィオーレの体へ不思議な力を流し込んでくる。
ただの王子だった頃には感じられなかった、植物たちの「脈動」が、今は自分の心音と同じように響いてくるのだ。
「いいえ、フィオーレ様。お花を育てることは、命を育てること。それはこの帝国の心を癒やすことに繋がりますわ。……それに」
テレーゼは、温室の中央で今にも咲きそうな、一輪の「雪割り草」を指さした。
「あの子たちを見てください。フィオーレ様が毎日声をかけて、大切にされているからこそ、この極寒の中でもあんなに強く、凛と立っていられるのです。陛下も同じ。貴方がここで待っているという事実が、あの方を無敵にするのですから」
フィオーレは、ハッとして顔を上げた。
自分が無力だと思い込んでいたけれど、ヴォルフラムにとっては、自分の存在そのものが「帰る場所」になっている。
(……そうだ。泣いて待っているだけじゃなくて、ヴォルフラム様が一番喜ぶことをしよう)
フィオーレは、手元の白銀の種を、慎重に土の中へと埋めた。
そして、両手をそっと土の上に添える。
覚醒した「聖種」の力が、指先から黄金の光となって土の中へと染み込んでいく。
「……お願い。ヴォルフラム様を、守って。冷たい風から、あの方を包み込んであげて」
フィオーレが祈りを捧げた瞬間、土が微かに盛り上がり、透き通った銀色の芽が顔を出した。
それは、どんな魔導具よりも純粋な、フィオーレの「愛」の結晶だった。
その日の夜。
城の門が大きく開かれ、馬の嘶きが静寂を切り裂いた。
ヴォルフラムの帰還だ。
フィオーレは、マントを翻してエントランスへと駆け寄った。
そこには、黒い鎧を纏ったままのヴォルフラムが、側近たちを引き連れて立っていた。
鎧には雪が積もり、肌を刺すような冷気を纏っている。けれど、フィオーレの姿を見つけた瞬間、その険しい表情は一気に崩れた。
「フィオーレ……! なぜ外へ出た。風邪を引いたらどうする」
ヴォルフラムは、大股で歩み寄ると、冷え切った自分の腕を躊躇い、一歩手前で足を止めた。
自分の鎧の冷たさが、フィオーレの柔らかな肌を傷つけるのを恐れたのだ。
けれど、フィオーレは迷うことなく、ヴォルフラムの胸に飛び込んだ。
「おかえりなさい、ヴォルフラム様……っ!」
「……っ、こいつは。汚れると言っているだろう」
ヴォルフラムは困ったように呟いたが、すぐに諦めたように、フィオーレを抱きしめ返した。
冷たい鎧の感触。けれど、その奥から伝わってくるヴォルフラムの体温は、驚くほど熱かった。
「ラングリスの連中は、どうなりましたか……?」
「……鼠どもは、国境に並ぶ我が軍の姿を見ただけで、震え上がって降伏文書を寄越してきた。形見のガラスも、今ヴァレリウスが修復を終えたところだ。……拍子抜けするほど、あっけない幕切れだったぞ」
ヴォルフラムは、フィオーレの髪に顔を埋めた。
彼は気づいていた。フィオーレが温室で作ってくれた「サシェ」の香りが、戦場でも自分を穏やかに包み込み、一度も冷静さを失わせなかったことに。
「ヴォルフラム様。これ、見てください」
フィオーレは、ヴォルフラムの手のひらに、温室で芽吹かせたばかりの銀色の蕾を乗せた。
それは不思議なことに、ヴォルフラムの手の上でパッと花開き、柔らかな光を放ち始めた。
「これは……?」
「私の、祈りの花です。ヴォルフラム様がどこにいても、寒くないように。……ずっと、そばにいたかったから」
ヴォルフラムの金の瞳に、微かな驚きと、耐えきれないほどの情熱が宿った。
彼は花を壊さないように握りしめると、フィオーレの腰をぐいと引き寄せ、深い、深いくちづけを交わした。
「……全く。お前という奴は、俺をどこまで狂わせれば気が済むんだ」
エントランスの騎士たちが気まずそうに顔を逸らすが、ヴォルフラムは構うことなく、フィオーレを抱き上げた。
「これからは、一分一秒たりとも離さん。……今夜は、覚悟しておけ」
ヴォルフラムの低い笑い声が、フィオーレの耳元で心地よく響く。
雪はまだ止まない。けれど、二人の間には、世界で一番温かな春が訪れていた。
アイゼン帝国の皇城は、主を欠いているというのに、不思議と静まり返ってはいない。むしろ、残された騎士や使用人たちは、フィオーレを見るたびに「陛下はすぐにお戻りになります」「安心してください」と、温かな声をかけてくれる。
フィオーレは、いつもの温室の片隅で、新しく届いた白銀の種を手のひらで見つめていた。
ヴォルフラムが「ご褒美」だと言ってグンターに預けていった、秘蔵の種だ。
けれど、今のフィオーレの指先は、土に触れることを躊躇うように小さく震えていた。
「……ヴォルフラム様。お怪我、されていないかな」
ポツリとこぼれた独り言に、背後から柔らかな気配が近づく。テレーゼが、湯気の立つミルクティーをトレイに乗せて現れた。
「フィオーレ様。指先をそんなに強く握りしめては、せっかくの種が痛んでしまいますわ」
「あ……ごめんなさい、テレーゼさん。つい、考え事をしてしまって」
「陛下のことですわね。あの方は、戦場においては『氷龍の化身』と恐れられる御方。ラングリスのような小国の揺さぶりに、遅れを取るようなことは決してございません」
テレーゼは、フィオーレの隣に座ると、優しくその銀髪を撫でた。
フィオーレは、その手の温もりに少しだけ緊張を解き、深く息を吐く。
彼の脳裏には、出陣の直前、ヴォルフラムが自分に見せた表情が焼き付いていた。
『俺がいない間、寂しければこの温室のバラに話しかけていろ。お前の声を聞けば、あいつらも喜ぶだろう』
冗談めかしてそう言ったヴォルフラムの瞳には、かつての冷徹さは微塵もなかった。そこにあったのは、愛おしいものを手放したくないという、不器用な情熱だけだ。
「私、ヴォルフラム様に守られてばかりなのが、時々もどかしくなるんです。……私にできることは、本当にお花を育てることだけなのでしょうか」
フィオーレは、右肩の「聖種の証」をそっと上から押さえた。
ヴォルフラムが触れるたびに、この紋様は熱を持ち、フィオーレの体へ不思議な力を流し込んでくる。
ただの王子だった頃には感じられなかった、植物たちの「脈動」が、今は自分の心音と同じように響いてくるのだ。
「いいえ、フィオーレ様。お花を育てることは、命を育てること。それはこの帝国の心を癒やすことに繋がりますわ。……それに」
テレーゼは、温室の中央で今にも咲きそうな、一輪の「雪割り草」を指さした。
「あの子たちを見てください。フィオーレ様が毎日声をかけて、大切にされているからこそ、この極寒の中でもあんなに強く、凛と立っていられるのです。陛下も同じ。貴方がここで待っているという事実が、あの方を無敵にするのですから」
フィオーレは、ハッとして顔を上げた。
自分が無力だと思い込んでいたけれど、ヴォルフラムにとっては、自分の存在そのものが「帰る場所」になっている。
(……そうだ。泣いて待っているだけじゃなくて、ヴォルフラム様が一番喜ぶことをしよう)
フィオーレは、手元の白銀の種を、慎重に土の中へと埋めた。
そして、両手をそっと土の上に添える。
覚醒した「聖種」の力が、指先から黄金の光となって土の中へと染み込んでいく。
「……お願い。ヴォルフラム様を、守って。冷たい風から、あの方を包み込んであげて」
フィオーレが祈りを捧げた瞬間、土が微かに盛り上がり、透き通った銀色の芽が顔を出した。
それは、どんな魔導具よりも純粋な、フィオーレの「愛」の結晶だった。
その日の夜。
城の門が大きく開かれ、馬の嘶きが静寂を切り裂いた。
ヴォルフラムの帰還だ。
フィオーレは、マントを翻してエントランスへと駆け寄った。
そこには、黒い鎧を纏ったままのヴォルフラムが、側近たちを引き連れて立っていた。
鎧には雪が積もり、肌を刺すような冷気を纏っている。けれど、フィオーレの姿を見つけた瞬間、その険しい表情は一気に崩れた。
「フィオーレ……! なぜ外へ出た。風邪を引いたらどうする」
ヴォルフラムは、大股で歩み寄ると、冷え切った自分の腕を躊躇い、一歩手前で足を止めた。
自分の鎧の冷たさが、フィオーレの柔らかな肌を傷つけるのを恐れたのだ。
けれど、フィオーレは迷うことなく、ヴォルフラムの胸に飛び込んだ。
「おかえりなさい、ヴォルフラム様……っ!」
「……っ、こいつは。汚れると言っているだろう」
ヴォルフラムは困ったように呟いたが、すぐに諦めたように、フィオーレを抱きしめ返した。
冷たい鎧の感触。けれど、その奥から伝わってくるヴォルフラムの体温は、驚くほど熱かった。
「ラングリスの連中は、どうなりましたか……?」
「……鼠どもは、国境に並ぶ我が軍の姿を見ただけで、震え上がって降伏文書を寄越してきた。形見のガラスも、今ヴァレリウスが修復を終えたところだ。……拍子抜けするほど、あっけない幕切れだったぞ」
ヴォルフラムは、フィオーレの髪に顔を埋めた。
彼は気づいていた。フィオーレが温室で作ってくれた「サシェ」の香りが、戦場でも自分を穏やかに包み込み、一度も冷静さを失わせなかったことに。
「ヴォルフラム様。これ、見てください」
フィオーレは、ヴォルフラムの手のひらに、温室で芽吹かせたばかりの銀色の蕾を乗せた。
それは不思議なことに、ヴォルフラムの手の上でパッと花開き、柔らかな光を放ち始めた。
「これは……?」
「私の、祈りの花です。ヴォルフラム様がどこにいても、寒くないように。……ずっと、そばにいたかったから」
ヴォルフラムの金の瞳に、微かな驚きと、耐えきれないほどの情熱が宿った。
彼は花を壊さないように握りしめると、フィオーレの腰をぐいと引き寄せ、深い、深いくちづけを交わした。
「……全く。お前という奴は、俺をどこまで狂わせれば気が済むんだ」
エントランスの騎士たちが気まずそうに顔を逸らすが、ヴォルフラムは構うことなく、フィオーレを抱き上げた。
「これからは、一分一秒たりとも離さん。……今夜は、覚悟しておけ」
ヴォルフラムの低い笑い声が、フィオーレの耳元で心地よく響く。
雪はまだ止まない。けれど、二人の間には、世界で一番温かな春が訪れていた。
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