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十七話
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アイゼン帝国が建国以来、最も熱く、そして美しい一週間を迎えようとしていた。
皇帝ヴォルフラム・ディートリヒと、ラングリス王国から迎えたフィオーレ・ヴァインの「婚約の儀」。
街中の広場には特設の祭壇が築かれ、人々は見たこともないほど上質な羊毛のケープを纏って、その日を今か今かと待ちわびていた。
けれど、城内の温室には、少しだけ困り果てたような空気が漂っていた。
「……やはり、この寒さでは無理か」
ヴォルフラムが、温室の中央にある大きな植木鉢を見下ろして、低く呟いた。
そこには、帝国の象徴であり、婚約の儀には欠かせないとされる「氷晶の青薔薇」の株が並んでいる。本来、この薔薇は真冬には固い蕾のまま眠り続け、春の訪れと共にようやくその重い花弁を開くものだった。
「陛下、申し訳ございません。魔法具で温度を上げても、この薔薇だけは『本物の春』を感じない限り、決して咲かないのです」
老庭師のグンターが、深く頭を下げる。
ヴォルフラムは、薔薇の鋭い棘を避けるようにして、まだ青白い蕾に指先を触れた。
「……フィオーレに、本物の青薔薇を見せてやりたかったのだがな。あいつは、この国の伝説を本で読んで、ずっと楽しみにしていたんだ」
ヴォルフラムの金の瞳に、微かな陰りが差す。
彼は、フィオーレが喜びそうなことなら、天の星を落としてでも叶えたいと考えていた。けれど、自然の摂理だけは、いかに皇帝の権力をもってしても動かすことはできない。
その様子を、物陰からそっと見つめている影があった。
フィオーレだ。彼は、自分のために心を砕くヴォルフラムの背中を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(ヴォルフラム様……。私のために、あんなに悲しそうな顔をしてくださるなんて)
フィオーレは、自分の右肩に手を置いた。
服の下にある「聖種の証」が、主の感情に呼応するように、ドクンドクンと脈打っている。
ヴォルフラムが戦地から戻って以来、この紋様はより鮮明に、より強く、フィオーレの全身に熱を巡らせるようになっていた。
その夜。
城全体が深い眠りに落ちた頃、フィオーレは一人、月明かりを頼りに温室へと足を運んだ。
「……お部屋にいてくださいって、言われたけれど」
ヴォルフラムは、婚約の儀の前日は「新郎新婦が顔を合わせてはいけない」という古い言い伝えを律儀に守り、フィオーレを離宮の寝室に閉じ込めていた。けれど、今のフィオーレを突き動かしているのは、自分を愛してくれた男への、溢れんばかりの感謝だった。
温室の中は、昼間よりもずっと静かで、植物たちの寝息が聞こえてくるようだった。
フィオーレは、氷晶の青薔薇の前に膝をつく。
「……ねぇ、起きて。お願い」
フィオーレは、そっと蕾を両手で包み込んだ。
冷たい。けれど、その奥には、命の灯火が確かに宿っている。
フィオーレは目を閉じ、自分の内の熱を、指先へと集中させた。
不意に、右肩の紋様がカッと熱くなった。
視界の裏側が黄金色に染まり、フィオーレの指先から、絹糸のような細い光が溢れ出す。
その光は、青薔薇の茎を伝い、根へと潜り込み、土の中に眠るすべての命に語りかけ始めた。
「……っ、あ、つい……」
額に汗が滲む。呼吸が荒くなり、視界がチカチカと火花を散らす。
聖種の力を使うことは、自らの生命力を削ることに等しい。けれど、フィオーレは手を離さなかった。
ヴォルフラムが、自分に「愛」という名の春をくれた。
ならば、自分も彼に、この国に、最高の春を届けたい。
「……咲いて。あの方の、喜ぶ顔が見たいの」
フィオーレの祈りが、頂点に達した瞬間。
パキ、パキ、と、氷が砕けるような澄んだ音が響いた。
固く閉ざされていた蕾が、ゆっくりと、けれど力強く、その花弁を解いていく。
それは、月の光を浴びて透き通る、見たこともないほど鮮やかなサファイア・ブルー。
一輪、また一輪と、連鎖するように薔薇たちが目覚めていく。
温室の中が、青い炎のような光で満たされていった。
「――フィオーレ! 何をしている!」
背後で、扉が乱暴に開く音がした。
駆け込んできたのは、夜着の上にマントを羽織っただけのヴォルフラムだった。彼はフィオーレが部屋を抜け出したことを察知し、血相を変えて追いかけてきたのだ。
「ヴォ、ヴォルフラム様……」
フィオーレは、力の使いすぎで膝がガクガクと震え、その場に崩れ落ちそうになった。
ヴォルフラムは飛ぶように駆け寄り、地面に落ちる直前のフィオーレを、その広い胸の中に受け止めた。
「馬鹿者が……! 禁を破ってまで、こんなところで何を……っ」
ヴォルフラムの言葉が、途切れた。
彼の視界に入ったのは、冬の暗闇の中で燦然と輝く、満開の「氷晶の青薔薇」の群生だった。
本来、あり得ないはずの光景。
そして、その中心で、息を切らしながら自分を見上げて微笑む、愛おしい番の姿。
「……見て、ください。咲き、ました……。貴方に、見せたかったんです」
フィオーレは、弱々しく笑いながら、ヴォルフラムの頬に手を添えた。
ヴォルフラムの表情が、驚愕から、言葉にできないほどの深い情熱へと変わっていく。
彼は、震える手でフィオーレを抱きしめた。
「……お前という奴は。俺を喜ばせるために、命まで削るつもりか」
ヴォルフラムの声が、わずかに震えている。
彼はフィオーレを抱えたまま、薔薇の海の中に片膝をついた。
皇帝が、一人の少年の前に、臣下のように跪く。
その姿は、どんな王冠よりも気高く、愛に満ちていた。
「フィオーレ。俺は、お前が薔薇を持ってくる必要などないと言ったはずだ。……お前自身が、俺にとって唯一無二の花なのだから」
ヴォルフラムは、フィオーレの額に何度もくちづけを落とした。
彼の金の瞳には、一粒の、水晶のような涙が浮かんでいた。
「……ヴォルフラム様、泣いているんですか?」
「……うるさい。雪が目に入っただけだ」
不器用な嘘をつきながら、ヴォルフラムはフィオーレの唇を、深く、熱く塞いだ。
青い薔薇の香りが、二人の吐息に混ざり合う。
翌朝、婚約の儀の会場を訪れた臣民たちは、驚愕の声を上げることになる。
冬の城を埋め尽くした、何万輪もの青い薔薇。
そして、その薔薇の王座に座る、世界で一番幸せな「真実の番」の姿を。
フィオーレの物語は、不憫な追放から、国境を越えた「奇跡」へと、その輝きを増していくのだった。
皇帝ヴォルフラム・ディートリヒと、ラングリス王国から迎えたフィオーレ・ヴァインの「婚約の儀」。
街中の広場には特設の祭壇が築かれ、人々は見たこともないほど上質な羊毛のケープを纏って、その日を今か今かと待ちわびていた。
けれど、城内の温室には、少しだけ困り果てたような空気が漂っていた。
「……やはり、この寒さでは無理か」
ヴォルフラムが、温室の中央にある大きな植木鉢を見下ろして、低く呟いた。
そこには、帝国の象徴であり、婚約の儀には欠かせないとされる「氷晶の青薔薇」の株が並んでいる。本来、この薔薇は真冬には固い蕾のまま眠り続け、春の訪れと共にようやくその重い花弁を開くものだった。
「陛下、申し訳ございません。魔法具で温度を上げても、この薔薇だけは『本物の春』を感じない限り、決して咲かないのです」
老庭師のグンターが、深く頭を下げる。
ヴォルフラムは、薔薇の鋭い棘を避けるようにして、まだ青白い蕾に指先を触れた。
「……フィオーレに、本物の青薔薇を見せてやりたかったのだがな。あいつは、この国の伝説を本で読んで、ずっと楽しみにしていたんだ」
ヴォルフラムの金の瞳に、微かな陰りが差す。
彼は、フィオーレが喜びそうなことなら、天の星を落としてでも叶えたいと考えていた。けれど、自然の摂理だけは、いかに皇帝の権力をもってしても動かすことはできない。
その様子を、物陰からそっと見つめている影があった。
フィオーレだ。彼は、自分のために心を砕くヴォルフラムの背中を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(ヴォルフラム様……。私のために、あんなに悲しそうな顔をしてくださるなんて)
フィオーレは、自分の右肩に手を置いた。
服の下にある「聖種の証」が、主の感情に呼応するように、ドクンドクンと脈打っている。
ヴォルフラムが戦地から戻って以来、この紋様はより鮮明に、より強く、フィオーレの全身に熱を巡らせるようになっていた。
その夜。
城全体が深い眠りに落ちた頃、フィオーレは一人、月明かりを頼りに温室へと足を運んだ。
「……お部屋にいてくださいって、言われたけれど」
ヴォルフラムは、婚約の儀の前日は「新郎新婦が顔を合わせてはいけない」という古い言い伝えを律儀に守り、フィオーレを離宮の寝室に閉じ込めていた。けれど、今のフィオーレを突き動かしているのは、自分を愛してくれた男への、溢れんばかりの感謝だった。
温室の中は、昼間よりもずっと静かで、植物たちの寝息が聞こえてくるようだった。
フィオーレは、氷晶の青薔薇の前に膝をつく。
「……ねぇ、起きて。お願い」
フィオーレは、そっと蕾を両手で包み込んだ。
冷たい。けれど、その奥には、命の灯火が確かに宿っている。
フィオーレは目を閉じ、自分の内の熱を、指先へと集中させた。
不意に、右肩の紋様がカッと熱くなった。
視界の裏側が黄金色に染まり、フィオーレの指先から、絹糸のような細い光が溢れ出す。
その光は、青薔薇の茎を伝い、根へと潜り込み、土の中に眠るすべての命に語りかけ始めた。
「……っ、あ、つい……」
額に汗が滲む。呼吸が荒くなり、視界がチカチカと火花を散らす。
聖種の力を使うことは、自らの生命力を削ることに等しい。けれど、フィオーレは手を離さなかった。
ヴォルフラムが、自分に「愛」という名の春をくれた。
ならば、自分も彼に、この国に、最高の春を届けたい。
「……咲いて。あの方の、喜ぶ顔が見たいの」
フィオーレの祈りが、頂点に達した瞬間。
パキ、パキ、と、氷が砕けるような澄んだ音が響いた。
固く閉ざされていた蕾が、ゆっくりと、けれど力強く、その花弁を解いていく。
それは、月の光を浴びて透き通る、見たこともないほど鮮やかなサファイア・ブルー。
一輪、また一輪と、連鎖するように薔薇たちが目覚めていく。
温室の中が、青い炎のような光で満たされていった。
「――フィオーレ! 何をしている!」
背後で、扉が乱暴に開く音がした。
駆け込んできたのは、夜着の上にマントを羽織っただけのヴォルフラムだった。彼はフィオーレが部屋を抜け出したことを察知し、血相を変えて追いかけてきたのだ。
「ヴォ、ヴォルフラム様……」
フィオーレは、力の使いすぎで膝がガクガクと震え、その場に崩れ落ちそうになった。
ヴォルフラムは飛ぶように駆け寄り、地面に落ちる直前のフィオーレを、その広い胸の中に受け止めた。
「馬鹿者が……! 禁を破ってまで、こんなところで何を……っ」
ヴォルフラムの言葉が、途切れた。
彼の視界に入ったのは、冬の暗闇の中で燦然と輝く、満開の「氷晶の青薔薇」の群生だった。
本来、あり得ないはずの光景。
そして、その中心で、息を切らしながら自分を見上げて微笑む、愛おしい番の姿。
「……見て、ください。咲き、ました……。貴方に、見せたかったんです」
フィオーレは、弱々しく笑いながら、ヴォルフラムの頬に手を添えた。
ヴォルフラムの表情が、驚愕から、言葉にできないほどの深い情熱へと変わっていく。
彼は、震える手でフィオーレを抱きしめた。
「……お前という奴は。俺を喜ばせるために、命まで削るつもりか」
ヴォルフラムの声が、わずかに震えている。
彼はフィオーレを抱えたまま、薔薇の海の中に片膝をついた。
皇帝が、一人の少年の前に、臣下のように跪く。
その姿は、どんな王冠よりも気高く、愛に満ちていた。
「フィオーレ。俺は、お前が薔薇を持ってくる必要などないと言ったはずだ。……お前自身が、俺にとって唯一無二の花なのだから」
ヴォルフラムは、フィオーレの額に何度もくちづけを落とした。
彼の金の瞳には、一粒の、水晶のような涙が浮かんでいた。
「……ヴォルフラム様、泣いているんですか?」
「……うるさい。雪が目に入っただけだ」
不器用な嘘をつきながら、ヴォルフラムはフィオーレの唇を、深く、熱く塞いだ。
青い薔薇の香りが、二人の吐息に混ざり合う。
翌朝、婚約の儀の会場を訪れた臣民たちは、驚愕の声を上げることになる。
冬の城を埋め尽くした、何万輪もの青い薔薇。
そして、その薔薇の王座に座る、世界で一番幸せな「真実の番」の姿を。
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