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十八話
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アイゼン帝国の歴史に、これほど鮮やかな一日はなかっただろう。
凍てつく冬の空を、無数の「氷晶の青薔薇」の香りが満たしている。フィオーレが一晩で咲かせたその奇跡は、瞬く間に城下へと伝わり、国民たちは「聖妃の降臨だ」と歓喜に沸いていた。
婚約の儀の会場となる大聖堂へ向かう回廊で、フィオーレは鏡の前に立っていた。
今日の装束は、昨日までのものとは一線を画している。深い青色のベルベットに、銀色の刺繍でアイゼンの紋章が刻まれ、その上から透けるような純白の薄衣が重ねられている。
「……手が、震えて止まらない」
フィオーレは、自分の両手をぎゅっと握りしめた。
指先の感覚が、どこか遠い。心臓の鼓動は早鐘を打ち、薄衣越しに右肩の「証」が熱を持っているのがわかる。
「フィオーレ様。大丈夫ですよ、私がついておりますわ」
テレーゼが、フィオーレの肩を優しく叩いた。彼女の手の温もりが、わずかにフィオーレの緊張を解く。
そこへ、背後から重厚な足音が近づいてきた。
ヴォルフラムだ。
今日の彼は、帝国の正礼装である軍服を纏い、マントを翻して歩いてくる。その姿は、神話から抜け出した英雄のように凛々しく、そして恐ろしいほどに美しい。
「フィオーレ。準備はいいか」
「ヴォルフラム様……。はい、なんとか」
「顔色が悪いな。やはり、昨夜無茶をさせたせいか」
ヴォルフラムは眉を寄せ、フィオーレの頬に手を添えた。
彼の指先は、外気で冷えているはずなのに、触れられた場所から熱が広がっていく。ヴォルフラムはそのままフィオーレを抱き寄せ、その銀髪に唇を寄せた。
「安心しろ。お前の隣には俺がいる。この世の何者も、お前を傷つけることは許さん」
その言葉が、どんな魔法よりもフィオーレの心を強くした。
二人は並んで、大聖堂の巨大な扉の前に立った。
扉が開かれると、パイプオルガンの荘厳な音色と共に、参列した貴族たちの感嘆の声が押し寄せる。フィオーレは、ヴォルフラムの手を強く握り返し、一歩を踏み出した。
だが、祭壇の前で二人が誓いの言葉を交わそうとした、その瞬間だった。
「――待て! その儀式を、認めるわけにはいかない!」
聖堂の入り口から、静寂を切り裂く不遜な叫びが響いた。
振り返ると、そこには豪華だがどこか下品な装束に身を包んだ男が立っていた。
フィオーレの義兄、ラングリス王国の第一王子・ラウルだ。
彼は護衛も連れず、顔を赤く上気させ、狂気に満ちた瞳でフィオーレを指さしていた。
「フィオーレは我が国の人間だ! 勝手に隣国の皇帝と婚約するなど、国際法に違反している!」
「ラウル……兄様……?」
フィオーレの指先が、一瞬で凍りついたように冷たくなる。
脳裏に、ラングリスで受けた数々の罵倒がフラッシュバックしかける。呼吸が浅くなり、視界が歪む。
けれど、それを遮るように、ヴォルフラムがフィオーレの前に立ちふさがった。
「ラウル・ラングリス。宣戦布告を受け取った後だというのに、よくもまあ一人でこの城に乗り込めたものだな。それとも、よほど死に場所を選びたかったのか?」
ヴォルフラムの声は、地を這うような低音で響いた。
彼の周囲の空気が、パキパキと音を立てて凍りついていく。
「黙れ! 聖種の力を持つフィオーレは、我が国の宝だ! 返せ、今すぐ返せ! その証があれば、我が国は大陸一の強国になれるのだ!」
「宝、か。お前がフィオーレをゴミのように扱っていた映像を、今この場で見せてやってもいいのだぞ」
ヴォルフラムが一歩前へ出ると、ラウルは怯えたように肩を震わせた。
けれど、彼は最後の「毒」を吐き出すように笑った。
「無駄だ! 私は彼の『呪縛』を持っている。フィオーレ、お前が愛した母親が、死ぬ間際に何と言ったか知っているか? 『こんな子が生まれなければよかった』と泣きながら息を引き取ったのだぞ!」
聖堂内に、衝撃が走った。
フィオーレの瞳から、光が消えかかる。
母親の言葉。それは、彼が人生で最も恐れていた「嘘」だった。
「……違う」
フィオーレの唇が、小さく動いた。
彼はヴォルフラムの背中から離れ、一歩、ラウルの前へ出た。
肩の紋様が、今までにないほど眩しく輝き始める。
「母様は……そんなこと言わない。最後の日、母様は私の手を握って、『貴方は私の光よ』って言ってくれた。……貴方がどんなに嘘をついても、私の記憶は消せない!」
フィオーレが叫んだ瞬間、聖堂内に飾られていた氷晶の青薔薇が一斉に発光した。
青い光の粒子がフィオーレを包み込み、彼の背後で大きな翼のように広がっていく。
それは、聖種が真に覚醒した者だけが見せる、圧倒的な力の奔流だった。
「な、なんだ、その光は……!?」
「ラウル。お前がフィオーレに与えたのは、絶望だけだった。だが、俺が与えるのは、あいつが願うすべての世界だ」
ヴォルフラムが手をかざすと、不可視の重圧がラウルを襲った。
ラウルは悲鳴を上げることもできず、その場に平伏し、床に顔を押し付けられる。
「衛兵、この鼠を地下牢へ連れて行け。……ラングリス王国への『対話』は、明日の夜明けと共に開始する。この男を人質にする価値もないが、フィオーレの心を汚した罪は、一生をかけて償わせる」
騎士たちに引きずられていくラウルの姿を、フィオーレは冷めた目で見つめていた。
かつての恐怖は、もうどこにもなかった。
ただ、自分を信じてくれるヴォルフラムへの想いだけが、胸の中で熱く燃えている。
静寂が戻った聖堂。
ヴォルフラムはフィオーレに向き直り、その両手を取った。
「……フィオーレ。怖かったか」
「いいえ。……ヴォルフラム様が、そばにいてくれましたから」
フィオーレは、初めて自分からヴォルフラムの唇に、そっと触れた。
驚いたように目を見開いたヴォルフラムだったが、すぐに愛おしげに目を細め、フィオーレの腰を引き寄せた。
「……誓いの言葉を、やり直しだな」
「はい。一生かけても、足りないくらいの誓いを」
二人の影が、祭壇の上で重なる。
青い薔薇の花びらが、祝福の雪のように舞い落ちる中、捨てられた王子は、ついに真実の愛を手に入れた。
外では、民衆の歓声が地響きのように響いている。
アイゼン帝国の新しい時代の幕開けを、誰もが祝福していた。
凍てつく冬の空を、無数の「氷晶の青薔薇」の香りが満たしている。フィオーレが一晩で咲かせたその奇跡は、瞬く間に城下へと伝わり、国民たちは「聖妃の降臨だ」と歓喜に沸いていた。
婚約の儀の会場となる大聖堂へ向かう回廊で、フィオーレは鏡の前に立っていた。
今日の装束は、昨日までのものとは一線を画している。深い青色のベルベットに、銀色の刺繍でアイゼンの紋章が刻まれ、その上から透けるような純白の薄衣が重ねられている。
「……手が、震えて止まらない」
フィオーレは、自分の両手をぎゅっと握りしめた。
指先の感覚が、どこか遠い。心臓の鼓動は早鐘を打ち、薄衣越しに右肩の「証」が熱を持っているのがわかる。
「フィオーレ様。大丈夫ですよ、私がついておりますわ」
テレーゼが、フィオーレの肩を優しく叩いた。彼女の手の温もりが、わずかにフィオーレの緊張を解く。
そこへ、背後から重厚な足音が近づいてきた。
ヴォルフラムだ。
今日の彼は、帝国の正礼装である軍服を纏い、マントを翻して歩いてくる。その姿は、神話から抜け出した英雄のように凛々しく、そして恐ろしいほどに美しい。
「フィオーレ。準備はいいか」
「ヴォルフラム様……。はい、なんとか」
「顔色が悪いな。やはり、昨夜無茶をさせたせいか」
ヴォルフラムは眉を寄せ、フィオーレの頬に手を添えた。
彼の指先は、外気で冷えているはずなのに、触れられた場所から熱が広がっていく。ヴォルフラムはそのままフィオーレを抱き寄せ、その銀髪に唇を寄せた。
「安心しろ。お前の隣には俺がいる。この世の何者も、お前を傷つけることは許さん」
その言葉が、どんな魔法よりもフィオーレの心を強くした。
二人は並んで、大聖堂の巨大な扉の前に立った。
扉が開かれると、パイプオルガンの荘厳な音色と共に、参列した貴族たちの感嘆の声が押し寄せる。フィオーレは、ヴォルフラムの手を強く握り返し、一歩を踏み出した。
だが、祭壇の前で二人が誓いの言葉を交わそうとした、その瞬間だった。
「――待て! その儀式を、認めるわけにはいかない!」
聖堂の入り口から、静寂を切り裂く不遜な叫びが響いた。
振り返ると、そこには豪華だがどこか下品な装束に身を包んだ男が立っていた。
フィオーレの義兄、ラングリス王国の第一王子・ラウルだ。
彼は護衛も連れず、顔を赤く上気させ、狂気に満ちた瞳でフィオーレを指さしていた。
「フィオーレは我が国の人間だ! 勝手に隣国の皇帝と婚約するなど、国際法に違反している!」
「ラウル……兄様……?」
フィオーレの指先が、一瞬で凍りついたように冷たくなる。
脳裏に、ラングリスで受けた数々の罵倒がフラッシュバックしかける。呼吸が浅くなり、視界が歪む。
けれど、それを遮るように、ヴォルフラムがフィオーレの前に立ちふさがった。
「ラウル・ラングリス。宣戦布告を受け取った後だというのに、よくもまあ一人でこの城に乗り込めたものだな。それとも、よほど死に場所を選びたかったのか?」
ヴォルフラムの声は、地を這うような低音で響いた。
彼の周囲の空気が、パキパキと音を立てて凍りついていく。
「黙れ! 聖種の力を持つフィオーレは、我が国の宝だ! 返せ、今すぐ返せ! その証があれば、我が国は大陸一の強国になれるのだ!」
「宝、か。お前がフィオーレをゴミのように扱っていた映像を、今この場で見せてやってもいいのだぞ」
ヴォルフラムが一歩前へ出ると、ラウルは怯えたように肩を震わせた。
けれど、彼は最後の「毒」を吐き出すように笑った。
「無駄だ! 私は彼の『呪縛』を持っている。フィオーレ、お前が愛した母親が、死ぬ間際に何と言ったか知っているか? 『こんな子が生まれなければよかった』と泣きながら息を引き取ったのだぞ!」
聖堂内に、衝撃が走った。
フィオーレの瞳から、光が消えかかる。
母親の言葉。それは、彼が人生で最も恐れていた「嘘」だった。
「……違う」
フィオーレの唇が、小さく動いた。
彼はヴォルフラムの背中から離れ、一歩、ラウルの前へ出た。
肩の紋様が、今までにないほど眩しく輝き始める。
「母様は……そんなこと言わない。最後の日、母様は私の手を握って、『貴方は私の光よ』って言ってくれた。……貴方がどんなに嘘をついても、私の記憶は消せない!」
フィオーレが叫んだ瞬間、聖堂内に飾られていた氷晶の青薔薇が一斉に発光した。
青い光の粒子がフィオーレを包み込み、彼の背後で大きな翼のように広がっていく。
それは、聖種が真に覚醒した者だけが見せる、圧倒的な力の奔流だった。
「な、なんだ、その光は……!?」
「ラウル。お前がフィオーレに与えたのは、絶望だけだった。だが、俺が与えるのは、あいつが願うすべての世界だ」
ヴォルフラムが手をかざすと、不可視の重圧がラウルを襲った。
ラウルは悲鳴を上げることもできず、その場に平伏し、床に顔を押し付けられる。
「衛兵、この鼠を地下牢へ連れて行け。……ラングリス王国への『対話』は、明日の夜明けと共に開始する。この男を人質にする価値もないが、フィオーレの心を汚した罪は、一生をかけて償わせる」
騎士たちに引きずられていくラウルの姿を、フィオーレは冷めた目で見つめていた。
かつての恐怖は、もうどこにもなかった。
ただ、自分を信じてくれるヴォルフラムへの想いだけが、胸の中で熱く燃えている。
静寂が戻った聖堂。
ヴォルフラムはフィオーレに向き直り、その両手を取った。
「……フィオーレ。怖かったか」
「いいえ。……ヴォルフラム様が、そばにいてくれましたから」
フィオーレは、初めて自分からヴォルフラムの唇に、そっと触れた。
驚いたように目を見開いたヴォルフラムだったが、すぐに愛おしげに目を細め、フィオーレの腰を引き寄せた。
「……誓いの言葉を、やり直しだな」
「はい。一生かけても、足りないくらいの誓いを」
二人の影が、祭壇の上で重なる。
青い薔薇の花びらが、祝福の雪のように舞い落ちる中、捨てられた王子は、ついに真実の愛を手に入れた。
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