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十九話
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騒がしい祝祭の喧騒が遠ざかり、皇城の奥深く、皇帝の私室は深い静寂に包まれていた。
暖炉の中で薪がはぜるパチッという音だけが、部屋の湿度を微かに上げている。空気には、フィオーレが愛用するハーブと、ヴォルフラムが好む沈香の香りが混ざり合い、逃げ場のない甘い空間を作り出していた。
フィオーレは、大きな天蓋付きのベッドの端に腰を下ろし、落ち着かない様子で自分の膝を見つめていた。
儀式用の重厚な装束は脱ぎ捨てられ、今は滑らかなシルクの寝衣一枚。肌に触れる生地の冷たさが、逆に自分の体の火照りを強調しているようで、フィオーレは何度も細い指を組み替えた。
(ヴォルフラム様、さっきからずっと、あそこに立っている……)
部屋の隅、影の落ちる場所に、ヴォルフラムが背を向けて立っていた。
彼は上着を脱ぎ捨て、薄いシャツから逞しい背中のラインを覗かせている。その肩は微かに硬直しているようにも見えた。
「フィオーレ」
呼ばれた名前に、フィオーレは肩を跳ねさせた。
ヴォルフラムがゆっくりと振り返る。金の瞳は、暗がりの中でも獣のような光を湛えてフィオーレを射抜いていた。彼は迷いのある足取りで歩み寄り、フィオーレの前に膝をついた。
「……疲れただろう。今日は激動の一日だった」
ヴォルフラムの手が伸び、フィオーレの銀髪を一房掬い上げる。
その指先は驚くほど慎重で、まるで壊れやすい薄氷に触れるかのようだった。
「いいえ。……私、すごく幸せです。あんなにたくさんの人に祝福されて、ヴォルフラム様とずっと一緒にいられるなんて、まだ夢みたいで」
フィオーレが視線を上げると、至近距離でヴォルフラムの瞳とぶつかった。
そこにあるのは、底知れない情熱。けれど同時に、何かを必死に押し殺しているような、痛々しいまでの自制心だった。
ヴォルフラムは、フィオーレの頬を包み込むように手を添えたが、それ以上の接触を拒むように指を止める。
「……フィオーレ。お前はまだ、覚醒したばかりだ。ヴァレリウスも言っていた。今の時期は魔力の変動が激しく、体が過敏になっていると」
「はい……。少し、熱いような気はしますけれど」
「だから、今夜はお前をゆっくり休ませる。俺は隣のソファで……」
ヴォルフラムが立ち上がろうとした。
その瞬間、フィオーレは自分でも驚くほどの速さで、彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「待ってください」
かすれた声。フィオーレは、自分の顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
ヴォルフラムが動きを止める。彼の喉仏が、大きく上下した。
「……どうした」
「ソファなんて、嫌です。……ヴォルフラム様が触れてくれないと、私、この熱をどうしたらいいか分からないんです」
フィオーレは勇気を振り絞り、ヴォルフラムの手を自分の胸元へ引き寄せた。
シルクの布越しに伝わる、ヴォルフラムの手の圧倒的な厚み。そして、そこから伝わる激しい鼓動。ヴォルフラムもまた、自分と同じように昂っているのだと知り、フィオーレの心臓はさらに速度を上げた。
「……フィオーレ、お前。自分が何を言っているか分かっているのか。俺は、お前が思っているほど高潔な男ではないぞ」
ヴォルフラムの声が、地を這うような低音へと変わる。
彼はフィオーレの手を振り払うことなく、逆にその細い手首を掴み、ベッドへと押し倒した。
「ひゃっ……」
背中に沈み込む、ふかふかの羽毛。
見上げれば、月光を背負ったヴォルフラムの影が、巨大な壁のように自分を覆っている。
ヴォルフラムは、フィオーレの首筋に顔を埋めた。そこから発せられる「番」特有の甘い芳香が、彼の理性を容赦なく削り取っていく。
「……あ、ヴォルフラム様。くすぐったい……」
「黙れ。……お前が悪いのだ。俺を誘うようなことを、二度と言うな」
ヴォルフラムの唇が、フィオーレの鎖骨のあたりに触れる。
熱い。吐息がかかるだけで、フィオーレの背筋には痺れるような感覚が走り、つま先までがピンと伸びた。
けれど、ヴォルフラムはそこから先へは進もうとしなかった。
彼はフィオーレの体に自分の体重をかけないよう、腕で支えながら、ただ何度も何度も彼の首筋をなぞる。
「……どうして、止めるんですか?」
「……お前を、大切にしたいからだ。傷つけたくない。お前の体が、俺の熱に耐えきれず、怯える姿を見たくない」
ヴォルフラムの指が、フィオーレの髪を乱暴に掻き乱した。
その言葉に含まれた深い慈しみに、フィオーレの胸の奥が熱く疼く。
この人は、これほどまでに自分を想ってくれている。捨てられ、蔑まれてきた自分に、これほどの「価値」を与えようとしてくれている。
フィオーレは、ヴォルフラムの首に腕を回した。
そして、自分から彼の耳元に唇を寄せる。
「……ヴォルフラム様。私、怖くなんてありません。貴方に触れられることなら、どんな痛みだって、きっと幸せに変わるから」
フィオーレがそう囁いた瞬間、ヴォルフラムの中で何かが切れる音がした。
彼は唸るような声を漏らし、フィオーレの唇を深く、奪い去るように塞いだ。
これまでのような、慈しむような口づけではない。
互いの呼吸を奪い合い、熱を分け合う、本能のままの接触。
フィオーレの視界は白く染まり、ただヴォルフラムが纏う冬の風の匂いと、彼自身の焦げるような熱に身を委ねた。
窓の外では、月が静かに夜空を渡っていく。
けれど、この部屋の中だけは、どんな真夏よりも灼熱の時間が流れていた。
「……フィオーレ。お前を、誰にも渡さない」
「……はい。ずっと、貴方のものです」
重なり合う心音。
二人は、夜が明けるまで、その熱が冷めるのを許さなかった。
暖炉の中で薪がはぜるパチッという音だけが、部屋の湿度を微かに上げている。空気には、フィオーレが愛用するハーブと、ヴォルフラムが好む沈香の香りが混ざり合い、逃げ場のない甘い空間を作り出していた。
フィオーレは、大きな天蓋付きのベッドの端に腰を下ろし、落ち着かない様子で自分の膝を見つめていた。
儀式用の重厚な装束は脱ぎ捨てられ、今は滑らかなシルクの寝衣一枚。肌に触れる生地の冷たさが、逆に自分の体の火照りを強調しているようで、フィオーレは何度も細い指を組み替えた。
(ヴォルフラム様、さっきからずっと、あそこに立っている……)
部屋の隅、影の落ちる場所に、ヴォルフラムが背を向けて立っていた。
彼は上着を脱ぎ捨て、薄いシャツから逞しい背中のラインを覗かせている。その肩は微かに硬直しているようにも見えた。
「フィオーレ」
呼ばれた名前に、フィオーレは肩を跳ねさせた。
ヴォルフラムがゆっくりと振り返る。金の瞳は、暗がりの中でも獣のような光を湛えてフィオーレを射抜いていた。彼は迷いのある足取りで歩み寄り、フィオーレの前に膝をついた。
「……疲れただろう。今日は激動の一日だった」
ヴォルフラムの手が伸び、フィオーレの銀髪を一房掬い上げる。
その指先は驚くほど慎重で、まるで壊れやすい薄氷に触れるかのようだった。
「いいえ。……私、すごく幸せです。あんなにたくさんの人に祝福されて、ヴォルフラム様とずっと一緒にいられるなんて、まだ夢みたいで」
フィオーレが視線を上げると、至近距離でヴォルフラムの瞳とぶつかった。
そこにあるのは、底知れない情熱。けれど同時に、何かを必死に押し殺しているような、痛々しいまでの自制心だった。
ヴォルフラムは、フィオーレの頬を包み込むように手を添えたが、それ以上の接触を拒むように指を止める。
「……フィオーレ。お前はまだ、覚醒したばかりだ。ヴァレリウスも言っていた。今の時期は魔力の変動が激しく、体が過敏になっていると」
「はい……。少し、熱いような気はしますけれど」
「だから、今夜はお前をゆっくり休ませる。俺は隣のソファで……」
ヴォルフラムが立ち上がろうとした。
その瞬間、フィオーレは自分でも驚くほどの速さで、彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「待ってください」
かすれた声。フィオーレは、自分の顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
ヴォルフラムが動きを止める。彼の喉仏が、大きく上下した。
「……どうした」
「ソファなんて、嫌です。……ヴォルフラム様が触れてくれないと、私、この熱をどうしたらいいか分からないんです」
フィオーレは勇気を振り絞り、ヴォルフラムの手を自分の胸元へ引き寄せた。
シルクの布越しに伝わる、ヴォルフラムの手の圧倒的な厚み。そして、そこから伝わる激しい鼓動。ヴォルフラムもまた、自分と同じように昂っているのだと知り、フィオーレの心臓はさらに速度を上げた。
「……フィオーレ、お前。自分が何を言っているか分かっているのか。俺は、お前が思っているほど高潔な男ではないぞ」
ヴォルフラムの声が、地を這うような低音へと変わる。
彼はフィオーレの手を振り払うことなく、逆にその細い手首を掴み、ベッドへと押し倒した。
「ひゃっ……」
背中に沈み込む、ふかふかの羽毛。
見上げれば、月光を背負ったヴォルフラムの影が、巨大な壁のように自分を覆っている。
ヴォルフラムは、フィオーレの首筋に顔を埋めた。そこから発せられる「番」特有の甘い芳香が、彼の理性を容赦なく削り取っていく。
「……あ、ヴォルフラム様。くすぐったい……」
「黙れ。……お前が悪いのだ。俺を誘うようなことを、二度と言うな」
ヴォルフラムの唇が、フィオーレの鎖骨のあたりに触れる。
熱い。吐息がかかるだけで、フィオーレの背筋には痺れるような感覚が走り、つま先までがピンと伸びた。
けれど、ヴォルフラムはそこから先へは進もうとしなかった。
彼はフィオーレの体に自分の体重をかけないよう、腕で支えながら、ただ何度も何度も彼の首筋をなぞる。
「……どうして、止めるんですか?」
「……お前を、大切にしたいからだ。傷つけたくない。お前の体が、俺の熱に耐えきれず、怯える姿を見たくない」
ヴォルフラムの指が、フィオーレの髪を乱暴に掻き乱した。
その言葉に含まれた深い慈しみに、フィオーレの胸の奥が熱く疼く。
この人は、これほどまでに自分を想ってくれている。捨てられ、蔑まれてきた自分に、これほどの「価値」を与えようとしてくれている。
フィオーレは、ヴォルフラムの首に腕を回した。
そして、自分から彼の耳元に唇を寄せる。
「……ヴォルフラム様。私、怖くなんてありません。貴方に触れられることなら、どんな痛みだって、きっと幸せに変わるから」
フィオーレがそう囁いた瞬間、ヴォルフラムの中で何かが切れる音がした。
彼は唸るような声を漏らし、フィオーレの唇を深く、奪い去るように塞いだ。
これまでのような、慈しむような口づけではない。
互いの呼吸を奪い合い、熱を分け合う、本能のままの接触。
フィオーレの視界は白く染まり、ただヴォルフラムが纏う冬の風の匂いと、彼自身の焦げるような熱に身を委ねた。
窓の外では、月が静かに夜空を渡っていく。
けれど、この部屋の中だけは、どんな真夏よりも灼熱の時間が流れていた。
「……フィオーレ。お前を、誰にも渡さない」
「……はい。ずっと、貴方のものです」
重なり合う心音。
二人は、夜が明けるまで、その熱が冷めるのを許さなかった。
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