最後の断罪者

広畝 K

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   すべての人間は

   生れながらにして罪のなかにあり

   それから脱出する自由を自分でもたない


                             ――創世記三章より



 【名も無き森】

 暗く、昏く、底の窺えぬ深淵を滾々と湛える黒き森は、生ける者たちを拒絶するかのようにしんと冷たい静寂と湿気を厚く重ねて纏っている。
 草も木も、その大いなる意識を森の闇へと溶かし込み、その内に潜伏む動物たちもまた、旧き記憶の水底に精神を潜らせ、揺らりと意識の残滓を遊ばせている。

 そんな闇夜の静寂に抱かれた森の中を、貴方は懸命にひた走る。

 人意の及ばぬほどに旧く、そして深い森だ。
 容易に歩ける道は無く、視界も利かず、頭上は枝葉の重なりにより厚く覆われ、星明かりの一粒すら届かない。

 闇によって満たされた狭い世界を、貴方は必死に駆けてゆく。

 知恵も経験も頼りなく、無力で哀れな子どもに過ぎない貴方だが、しかしゆえにこそ、遮二無二構わず道なき大地を駆け続けることができている。
 木の根に足を取られようが、躓いて転ぼうが、木の幹にその身を激しくぶつけて打撲の傷を負おうが、構うことなく逃げ続けている。

 後ろを振り返る余裕もなく走り続ける貴方は、自身を追ってくる者の気配と視線がぴたりと背中に吸い付くように定まっていることを、確りと感じ取っていた。
 そしてその事実を、心の底から恐怖していた。

 ――捕まれば、殺される……!

 確信にも似たその思いが貴方の心身を限界の端まで追い込み、身体の能力を極限にまで高め、視力の及ばぬ闇の中での逃避行を可能としていた。

 しかしそれも場当たり的な一時凌ぎに過ぎず、それほど長くは持ちそうにない。
 既にその身は満身創痍。
 打ち傷に切り傷、擦り傷などによって血が滲み、息が上がって疲労が重い。
 おまけにずっと全力で走り続けてきたものだから、体力も底をついている。

 そして遂に、運も尽きたのだろう。

 あっと言う間すらもなく、貴方は何も無い箇所で躓いて転び、その身を前方へと放り出してしまった。
 幾度も転がり腐葉土と泥とに塗れ、立とうとしても足が震えて身動きが取れず、呼吸は激しく乱れている。
 息を吸っているのか、それとも吐いているのか、それすら貴方には分からない。
 痛痒の感覚すらなく、全身がまるで熱した鉄塊のようだ。

 そう。貴方の肉体は完全に活動限界に達していた。

 耳には自身の掠れ乱れた呼吸音ばかりが入り込み、周囲の一切が入ってこない。
 そんなぎりぎりの状態でも、否、そんなぎりぎりの状態であるからこそ、自身に迫っている脅威が分かる。

 ゆっくり近づいてきていると、貴方は明確に知覚しているのだ。

 限界にまで研ぎ澄まされた嗅覚は辺りに漂い始めた腐敗臭を噎せ返すほどに吸い込み、喉を引っ張り上げるような嘔吐きの感覚を強く引き起こす。
 喉と鼻の粘膜に執拗に絡みつく酸の刺激が、否が応にも現実を、幼い貴方を追い回してきた存在を、はっきりと認識させる。
 追手は、貴方の呼吸が整ってきた頃合いを敢えて見計ったのだろう。

 強烈極まる衝撃が脇腹に突き刺さってくる感覚を、貴方はその身に得た。

 軽々と吹き飛ぶ自身の身体に、脇腹に鈍く重たい熱源が発生したことをきっかけとして、腹の奥から湧き出してきた大量の熱の塊が喉の奥から手前へと押し寄せ、口から勢いよく吐き出される。

 温かく錆び臭いその液体は、紛うことなき貴方の血だ。

 全身がぬるま湯に浸かっているのではないかと錯覚するほどに血の溜まりは暖かであったが、しかし急激に、急速に、貴方の肉体は冷え込んできている。

 身体の震えが収まらぬ中にありながら、貴方の精神は不思議と落ち着いていた。
 腹を押さえて蹲り、苦しげに転がる自身を客観視しながら、しかし、貴方の視界には薄く白い光の帯が微かに、ゆっくりと森に差し込みゆくのが視えている。
 頭上に枝葉の重なりはなく、黒い雲が風に流され、晴れていくに連れ、隠されていたのだろう大きな月が、その姿を現していた。

 歪みの無い丸い月は白く、淡く、そして仄かな光の線により、貴方の周囲を切り出すように、静かに照らし出してゆく。
 闇に満たされていた森の領域が、朧気ながらも次第に、明瞭に開かれてゆく。
 すぐ傍らに立っている大きな輪郭と、その影が、奇妙に浮き上がってゆく。

 その影は貴方以上に呼吸を激しく荒げていた。
 口端から粘性の唾液をどろりと垂らして地を溶かし、白濁の眼球をギラつかせ、片方の手には大振りの刃物を握っている。
 とてもではないが、その存在には理性も知性もあるように見えない。
 少なくとも、幼き貴方にとっては、得体の知れない怪物に他ならなかった。 

 幼き貴方は理解の及ばぬ怪物を視界に入れていながら、しかし恐怖に類する感情を持ち得てはいなかった。
 全身は泥のように重く、感覚の鈍みで指の一本すら動かない。肉体の状態に影響を受け、精神も思考も摩耗している。何をも思う余裕など、すっかり失われていたためだ。

 理も知も無き怪物は横たわった貴方にゆっくりと近づき、その白く澱んだ眼球に何の光も映すことなく、刃物を握った手を振り上げ、そして貴方の頭部に向かって勢いよく振り下ろした。

 その瞬間――、


   ***


 ――貴方は振るわれた怪物の腕に対し、右手の得物で迎撃した。

 その武器は大きな鉈のような大振りの刃物だが、峰の部分はさながら鋸の如くであり、鋭く尖った小さな刃が幾十枚も生えている。
 その武器は怪物の右腕を一瞬で啄み、毛肌に食い込み、貴方が勢いよく腕を払うと同時に、怪物の腕を荒々しく喰い散らかしてゆく。

 腕の毛皮と肉が無残に毟られたことにより、怪物は聞くも悍ましい獣性の悲鳴を上げた。突如の反撃に驚いたがゆえであろう、激痛に耐えかねたがゆえであろう、怪物は大きな怯みを見せて、その場から跳び退くように後退る。
 見ればその腕からは骨の幹が露わとなり、手酷く裂かれた肉からは白色に濁った大量の血液が逃げ場を求め湧いて噴き出し、腕の剛毛を濡らして伝い、垂れ落ち、ぬるりどろりと大地を穢して染めてゆく。

 痛みに呻く怪物の、その僅かに見せた硬直を、貴方は決して逃しはしない。

 両の足先に力を入れて一歩で瞬時に間合いを詰め切り、その一歩に掛かった速度と体重移動を攻撃力へと変え、再び右手の得物を振るう。
 豪速で振るわれた重撃は武器の重さも相まって、咄嗟に防御として差し込まれた怪物の左腕を一振りにて断ち切るに至った。

 舞い上がる左腕部は白血を振り撒きながら宙を回る。

 それに見向きもせず、怪物は腕の断面から噴き出す白血を抑え込む。
 されど指の間から白血は止まらずに漏れ出し続け、慌てふためく怪物に、貴方は微かな躊躇も見せずに追撃を行う。

 振り切った腕の勢いをそのまま活かし、振り子のように元の軌道をなぞって振り上げる。隙の少ないその連撃を、怪物は避ける手段を持たない。
 貴方の得物は怪物の首根にがっちりと刃身を噛ませ、同時に強く、引き戻されることによって、その首根を骨ごと削り落とした。

 怪物の頭部はそのまま無造作に地へと落ち、首を失った胴体は白血を噴水のように勢いよく噴出しながらも力を失い、そのまま大地に揺らめきながら倒れ込む。

 しばし残心をとっていた貴方だったが、怪物の肉体が完全にその生命力を失って霧散したことを目視で確認すると、愛用している右手の武器に布を当て、白の返り血を拭ってゆく。

 ――断罪完了《HUNTED》――

 貴方の頭上には、いつかの日にも浮かんでいた白く丸い大きな月があった。
 それは仄かな白い光を、闇夜に佇む貴方に向かって、静かに注ぎ続けている。
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