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27.祖父
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鮮やかな赤髪を持つ人物をカレンは一人しか知らない。
そして開かれた扉から徐に現れたのはとてもよく見知った男だった。
第二騎士団の深緑に身を包んだカッツェは入室したものの入り口傍から動こうとはせず、難しい表情でミラベルトに告げた。
「動きません」
「多少強引でも構わないよ」
その言葉に素早く頭を下げたカッツェは再び扉の向こうへと消えてしまった。
扉が閉じる音に重なるように「困ったものだね」と小さく呟く声が聞こえる。しかしその声にはどこか喜色が混じっているように感じられた。
(カッツェ団長ではないのね)
夜会の終わり際に含みを持たせたカッツェであればあの言葉が今に繋がるかと思ったのだが、ミラベルトが指すのは彼ではないらしい。
行儀よく座ったまま、落ち着かない時間を過ごす。ややあって、重たいノック音が響いた。
「入りなさい」
主のよく通る声に呼応するように使用人が再度取手に手を掛ける。
戸口に現れたのはやはりカッツェだったが、今度は一人ではない。その後方、同じような高さにチョコレート色の頭髪が覗いて見える。
(……レグデンバー副団長?)
彼こそがミラベルトの指す人物なのだろうか。
そう思いかけたとき、先を歩いてきたカッツェが足を止めて真横に一歩身体をずらした。瞬間、カレンは無作法も忘れて声を上げてしまっていた。
「ソフィア?」
大柄な騎士団長と副団長の間にすっぽりと収まっていたらしい小柄な女性が露わになる。そこには見慣れた親友の姿があった。
しかしソフィアはカレンの呼び掛けに応じることなく、視線を床に落としたまま表情を曇らせている。身の置き場がないとでも言いたげに身体を縮こませて。
「話は座ってからにしよう。さぁ、お嬢さんの隣に掛けなさい」
ミラベルトの一声に反応を示したソフィアだが動きはぎこちなく、カレンの顔も見ずに長椅子に腰を落ち着けた。彼女の後を追うように動いたカッツェとレグデンバーはカレンたちが座る長椅子の背後に立ち、退室する様子はない。
当たり前のように進んでいく事態にカレンだけが予定調和の世界から外れているような気分だった。
「一度お茶を淹れ直させよう」
ミラベルトが使用人に指示を出している隙に隣をそっと盗み見る。膝元のスカートを強く握り締めているソフィアはやはり俯きがちで、その顔は青ざめているようにも見える。何かに怯えている、そんな印象すら感じた。
「そうだ、お嬢さんにはお礼を言わなければと思っていたんだ」
一方、この場を支配しているであろうミラベルトは変わらず朗らかな様子で上着の内ポケットを弄り始める。かと思えば、抜き取った手をカレンに向けて差し出してきた。
手首を返してよく見えるようにと示された、白いそれ。
「素敵な出来栄えだ。とても気に入ったよ」
窓から差し込む陽光に照り輝く赤紫色の糸が純白のハンカチに薔薇模様を描いている。カレン自身も手に取って検めたことがある、紛うことなきソフィアの作品だ。
二枚あったうちの片割れの純白。そしてもう一枚の薄灰色は昨晩別の場所で見掛けたばかりだ。
「孫のために手ほどきをありがとう、レディ・カレン」
「はい、いえ……え、えっ?」
それとなく返答しかけたところで、たった今投げられた言葉に多くの意味が込められていると気付き、狼狽で語尾が乱れてしまう。
しかしミラベルトは笑顔で受け流して続けた。
「倅ときたら娘の刺した刺繍に感激してしまったようでね、早速夜会の席でポケットに忍ばせていたらしい。お嬢さんにも見覚えがあるんじゃないかな?」
今日はそのハンカチの在処について考えたいと思っていたくらいに覚えがある。
「つまり……ミラベルト様はソフィアのお祖父様で、財政部門のあの方はソフィアのお父様……ということでしょうか?」
内情に踏み込みすぎではないかと危惧しつつも、眼前の好々爺が導く先の答えを口にした。
満足のいく返答だと言わんばかりに笑みを深めた老人は慣れた手つきでハンカチを仕舞う。そして未だ無言を貫いているソフィアに優しい視線を送った。
「倅の名はグラットと言って、お嬢さんの言う男に違いない。そしてソフィアの父親でもある」
ならばあのハンカチは正真正銘ソフィアの刺繍したものに他ならないのだろう。
嬉しそうに披露された二枚のハンカチは肉親への贈り物だったらしい。
(でも、ソフィアは……)
カレンの隣で静かに座り続けるソフィアに目を向けると、彼女の顔色が益々悪くなっていることに気付く。
「ソフィア、大丈夫? 具合が悪いの?」
囁くような声音を意識したつもりだったが、ソフィアの肩が大きく揺れる。
「え、えぇ、大丈夫よ」
気丈にもそう答えるが、やはり表情は優れない。彼女らしからぬ様子が心配で強張らせた肩をゆっくりさすってやると、ほっと吐息を吐くのが掌越しにわかった。
「ソフィアはグラットの娘に違いないが、倅の妻である現侯爵夫人の娘ではない。グラットと夫人の間に生まれた息子はソフィアの異母弟に当たる」
頭の中でぼんやりとした相関図を思い浮かべてみる。
異母弟ということはソフィアの誕生が先であり、ソフィアの母は先妻となるのだろうか。
「ソフィア、君の母親はパトリシア・ルベンといったね?」
「……はい」
「パトリシアはポーリアム家に出入りしていたルベン商会の娘で、時折手伝いとして屋敷に訪れることがあった。そこでグラットと知り合ったのだろう」
(……そういうことだったのね)
そこまで明かされれば先の話は想像に難くない。
許されない恋がそこにあったのだと色恋に疎いカレンにだって察せられる。
「貴族とは家と家の繋がりを重要視する。グラットには然るべき縁談をと奔走している合間の出来事でね、私は気付けなかった」
カレンですら伯爵の後妻に入るようにと縁談を進められていたくらいなのだ。侯爵家の嫡男ともなれば一層相手の見極めに慎重になることも、市井の娘を迎え入れることが困難であることも理解出来る。
ミラベルトは湯気が引きつつある紅茶を勢いよく喉に流し込んで続ける。
「ルベン商会の者が訪れた折にグラットの婚約を伝えた。その場にいたパトリシアには私から直接、今後の出入りを控えて欲しいとお願いした」
『貴族による市民への強要はいかなる場合も認められておりません』
母に再会した日のレグデンバーの言葉が蘇る。
強要は出来ないが、貴族の発する『お願い』が額面通りのものとは限らない。
「これが私の犯した大きな過ちだよ。『お願い』の真意を察したルベン夫妻は得意先の子息の手付きとなったパトリシアに憤怒し、彼女を勘当してしまったんだ」
ゆっくりと首を振るミラベルトは眉を歪めて悲痛な表情を浮かべている。先程までの明るい印象と打って変わった雰囲気に、彼が過去の行いに深い後悔を抱いているのが伝わってくる。
「しばらくしてルベン商会は破産した。長年世話になっていた手前、再就職のツテを紹介しようとそれぞれの行き先を辿っていて、私はようやくそこでパトリシアが勘当されていることを知った」
痛ましい眼差しでソフィアを見るミラベルトに家族の愛情を感じ取る。自身の祖父母――会ったことがあるのは母方の祖父母だけだが――にはがっかりした目つきでしか見下ろされたことがないカレンには十分温かいものに見えた。
「使いの者をやった頃にはすでにパトリシアは出産した後だった。お嬢さんも世話になった、あの修道院でね。リース院長からパトリシアが身を寄せた日を訊き出せば、生まれた子がグラットの子であると確信した。そこで私は修道院の傍に一軒家を用意してパトリシア親子を住まわせることにしたんだ」
そう言えば、と思い出す。
カレンが修道院で過ごしていたあの頃、ソフィアは近くに住んでいてたまに手伝いに来ていると言っていた。一軒家に住んでいるとも聞かされていたが、働いて給金を稼ぐようになった今、ひとつの家を持って暮らしを続けるのは容易ではないと知っている。
彼女の生活の背景にポーリアム家の助力があっただろうことが窺えるが、しかしソフィアからそんな話を聞いたことはない。
ちらりと隣に目を向けると、ソフィアが不安げな瞳でカレンを見つめていた。
「安心なさい。私がちゃんと説明するから」
くすりと笑ってソフィアを励ますミラベルトは真に孫を想う顔をしていた。
そして開かれた扉から徐に現れたのはとてもよく見知った男だった。
第二騎士団の深緑に身を包んだカッツェは入室したものの入り口傍から動こうとはせず、難しい表情でミラベルトに告げた。
「動きません」
「多少強引でも構わないよ」
その言葉に素早く頭を下げたカッツェは再び扉の向こうへと消えてしまった。
扉が閉じる音に重なるように「困ったものだね」と小さく呟く声が聞こえる。しかしその声にはどこか喜色が混じっているように感じられた。
(カッツェ団長ではないのね)
夜会の終わり際に含みを持たせたカッツェであればあの言葉が今に繋がるかと思ったのだが、ミラベルトが指すのは彼ではないらしい。
行儀よく座ったまま、落ち着かない時間を過ごす。ややあって、重たいノック音が響いた。
「入りなさい」
主のよく通る声に呼応するように使用人が再度取手に手を掛ける。
戸口に現れたのはやはりカッツェだったが、今度は一人ではない。その後方、同じような高さにチョコレート色の頭髪が覗いて見える。
(……レグデンバー副団長?)
彼こそがミラベルトの指す人物なのだろうか。
そう思いかけたとき、先を歩いてきたカッツェが足を止めて真横に一歩身体をずらした。瞬間、カレンは無作法も忘れて声を上げてしまっていた。
「ソフィア?」
大柄な騎士団長と副団長の間にすっぽりと収まっていたらしい小柄な女性が露わになる。そこには見慣れた親友の姿があった。
しかしソフィアはカレンの呼び掛けに応じることなく、視線を床に落としたまま表情を曇らせている。身の置き場がないとでも言いたげに身体を縮こませて。
「話は座ってからにしよう。さぁ、お嬢さんの隣に掛けなさい」
ミラベルトの一声に反応を示したソフィアだが動きはぎこちなく、カレンの顔も見ずに長椅子に腰を落ち着けた。彼女の後を追うように動いたカッツェとレグデンバーはカレンたちが座る長椅子の背後に立ち、退室する様子はない。
当たり前のように進んでいく事態にカレンだけが予定調和の世界から外れているような気分だった。
「一度お茶を淹れ直させよう」
ミラベルトが使用人に指示を出している隙に隣をそっと盗み見る。膝元のスカートを強く握り締めているソフィアはやはり俯きがちで、その顔は青ざめているようにも見える。何かに怯えている、そんな印象すら感じた。
「そうだ、お嬢さんにはお礼を言わなければと思っていたんだ」
一方、この場を支配しているであろうミラベルトは変わらず朗らかな様子で上着の内ポケットを弄り始める。かと思えば、抜き取った手をカレンに向けて差し出してきた。
手首を返してよく見えるようにと示された、白いそれ。
「素敵な出来栄えだ。とても気に入ったよ」
窓から差し込む陽光に照り輝く赤紫色の糸が純白のハンカチに薔薇模様を描いている。カレン自身も手に取って検めたことがある、紛うことなきソフィアの作品だ。
二枚あったうちの片割れの純白。そしてもう一枚の薄灰色は昨晩別の場所で見掛けたばかりだ。
「孫のために手ほどきをありがとう、レディ・カレン」
「はい、いえ……え、えっ?」
それとなく返答しかけたところで、たった今投げられた言葉に多くの意味が込められていると気付き、狼狽で語尾が乱れてしまう。
しかしミラベルトは笑顔で受け流して続けた。
「倅ときたら娘の刺した刺繍に感激してしまったようでね、早速夜会の席でポケットに忍ばせていたらしい。お嬢さんにも見覚えがあるんじゃないかな?」
今日はそのハンカチの在処について考えたいと思っていたくらいに覚えがある。
「つまり……ミラベルト様はソフィアのお祖父様で、財政部門のあの方はソフィアのお父様……ということでしょうか?」
内情に踏み込みすぎではないかと危惧しつつも、眼前の好々爺が導く先の答えを口にした。
満足のいく返答だと言わんばかりに笑みを深めた老人は慣れた手つきでハンカチを仕舞う。そして未だ無言を貫いているソフィアに優しい視線を送った。
「倅の名はグラットと言って、お嬢さんの言う男に違いない。そしてソフィアの父親でもある」
ならばあのハンカチは正真正銘ソフィアの刺繍したものに他ならないのだろう。
嬉しそうに披露された二枚のハンカチは肉親への贈り物だったらしい。
(でも、ソフィアは……)
カレンの隣で静かに座り続けるソフィアに目を向けると、彼女の顔色が益々悪くなっていることに気付く。
「ソフィア、大丈夫? 具合が悪いの?」
囁くような声音を意識したつもりだったが、ソフィアの肩が大きく揺れる。
「え、えぇ、大丈夫よ」
気丈にもそう答えるが、やはり表情は優れない。彼女らしからぬ様子が心配で強張らせた肩をゆっくりさすってやると、ほっと吐息を吐くのが掌越しにわかった。
「ソフィアはグラットの娘に違いないが、倅の妻である現侯爵夫人の娘ではない。グラットと夫人の間に生まれた息子はソフィアの異母弟に当たる」
頭の中でぼんやりとした相関図を思い浮かべてみる。
異母弟ということはソフィアの誕生が先であり、ソフィアの母は先妻となるのだろうか。
「ソフィア、君の母親はパトリシア・ルベンといったね?」
「……はい」
「パトリシアはポーリアム家に出入りしていたルベン商会の娘で、時折手伝いとして屋敷に訪れることがあった。そこでグラットと知り合ったのだろう」
(……そういうことだったのね)
そこまで明かされれば先の話は想像に難くない。
許されない恋がそこにあったのだと色恋に疎いカレンにだって察せられる。
「貴族とは家と家の繋がりを重要視する。グラットには然るべき縁談をと奔走している合間の出来事でね、私は気付けなかった」
カレンですら伯爵の後妻に入るようにと縁談を進められていたくらいなのだ。侯爵家の嫡男ともなれば一層相手の見極めに慎重になることも、市井の娘を迎え入れることが困難であることも理解出来る。
ミラベルトは湯気が引きつつある紅茶を勢いよく喉に流し込んで続ける。
「ルベン商会の者が訪れた折にグラットの婚約を伝えた。その場にいたパトリシアには私から直接、今後の出入りを控えて欲しいとお願いした」
『貴族による市民への強要はいかなる場合も認められておりません』
母に再会した日のレグデンバーの言葉が蘇る。
強要は出来ないが、貴族の発する『お願い』が額面通りのものとは限らない。
「これが私の犯した大きな過ちだよ。『お願い』の真意を察したルベン夫妻は得意先の子息の手付きとなったパトリシアに憤怒し、彼女を勘当してしまったんだ」
ゆっくりと首を振るミラベルトは眉を歪めて悲痛な表情を浮かべている。先程までの明るい印象と打って変わった雰囲気に、彼が過去の行いに深い後悔を抱いているのが伝わってくる。
「しばらくしてルベン商会は破産した。長年世話になっていた手前、再就職のツテを紹介しようとそれぞれの行き先を辿っていて、私はようやくそこでパトリシアが勘当されていることを知った」
痛ましい眼差しでソフィアを見るミラベルトに家族の愛情を感じ取る。自身の祖父母――会ったことがあるのは母方の祖父母だけだが――にはがっかりした目つきでしか見下ろされたことがないカレンには十分温かいものに見えた。
「使いの者をやった頃にはすでにパトリシアは出産した後だった。お嬢さんも世話になった、あの修道院でね。リース院長からパトリシアが身を寄せた日を訊き出せば、生まれた子がグラットの子であると確信した。そこで私は修道院の傍に一軒家を用意してパトリシア親子を住まわせることにしたんだ」
そう言えば、と思い出す。
カレンが修道院で過ごしていたあの頃、ソフィアは近くに住んでいてたまに手伝いに来ていると言っていた。一軒家に住んでいるとも聞かされていたが、働いて給金を稼ぐようになった今、ひとつの家を持って暮らしを続けるのは容易ではないと知っている。
彼女の生活の背景にポーリアム家の助力があっただろうことが窺えるが、しかしソフィアからそんな話を聞いたことはない。
ちらりと隣に目を向けると、ソフィアが不安げな瞳でカレンを見つめていた。
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