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第四話 ダンピール
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目が覚めたとき、寝室には静寂をつんざく電話の音が響いていた。
陽は朝が苦手だ。しかし今日は、三月の自宅に初めて泊まった翌朝だったので、普段どんなに爆音の目覚まし時計でも起床できないほど目覚めが悪くても、今日だけはハッと目を開けられた。
深い黒一色のベッドの中で肘をついて少し体を起こすと、隣で、三月がこちらに背を向けてまだ寝ているのが見えた。背中の傷が痛々しい。しかも今朝は、腰周りや肩のあたりに引っ掻いたような痕もあり、陽は少し恥ずかしくなった。昨夜、あれからシャワールームや寝室で散々乱れた形跡だった。
電話はずっと鳴り続けていた。シーツに放り出されていた三月の電話から鳴るものだったが、彼が起きないのでどうしようかと思う。
迷った末、陽はそろりと画面に指を滑らせた。端末を耳に当てる。
「……はい」
「あっ、三月先輩! 何してるんですか、あなたが遅刻なんてあり得ませんよ」
聞こえてきたその声には、聞き覚えがあった。陽の脳の上のほうに、ポンと、三月が働くカフェの店員のうちの一人が浮かぶ。きっとあの、テキパキした爽やかな青年だ。
青年は、電話を取ったのが三月ではない人物だとは気付かないまま、喋り続けた。
「今日のシフトはランチから僕と先輩の二人なんですから、それまでには絶対に来てくださいね。また朝帰りなのか知らないですけど……」
「朝帰り?」
「えっ?」
そこで、彼はやっと電話口が三月ではないと気が付いた。
「だ、誰ですか?」
動揺を隠せない声色が言う。
誰なのかと聞かれると、返答に困った。三月先輩の知り合いです? それとも、三月先輩の恋人です?
どう答えるべきか迷っていると、携帯端末が手からふわりと奪われて顔を上げた。目を覚ました三月が、寝転んだまま電話を耳に持っていった。
「あー、理人、ごめんね? すぐ行くよ、ごめんって。はいはい」
すぐに話を済ませて、三月は腕を電話ごとパタンと落とした。
「悪い子だな、陽。勝手に俺の電話取ったの?」
「ごめんなさい。ずっと止まらなかったから、つい」
「うん」
三月は、寝惚け顔のままふにゃふにゃ笑った。そして起き上がってベッドから下り、軽く伸びをした。
陽がベッドの中からぼんやり見ているうちに、三月はその細い脚に下着を通してスラックスを履き、ベルトを締めながら全身鏡の前で体を反回転させて、自分の体をチェックした。そして、もがれた翼の痕を隠すようにシャツを羽織る。
ボタンをとめている三月と鏡越しに目が合って、陽は、顔を半分シーツに埋めながら「今日もかっこいいですね」と呟いた。
「でも先輩、朝帰りってなんのこと?」
もしかして僕には聞く権利がないかもしれない。と思いながら聞いてみると、三月はボタンをとめる手を止めずにニヤリとした。
「なんのことだと思う?」
「もし僕以外にも関係を持ってる相手がいるなら……」
「お前んちで寝た日のことだよ」
「……本当に?」
「んー?」
着替えを終えた三月はまたベッドのほうへ戻ってきて、陽に顔を近付けた。
が、キスしようとして首を伸ばした陽を、ふっと避ける。陽はむっとした。
「意地悪しないでください」
「意地悪じゃない。もう行かなきゃならないから」
陽をからかった三月は愉快そうだった。
「お前も大学あるだろ」
手探り、陽は携帯電話を明るくして画面を見た。
「ほんとだ、もう行かないと。なんで月曜日に一限入れたんだろ」
やっと布団を剥いでシーツから抜け出て、陽も立ち上がった。
三月は服を着始めた陽を置いて寝室を後にして、洗面所へ向かった。通常であればシャワーを浴びたいタイミングだったが、理人にああも怒られてしまっては敵わないので、それは諦めて洗顔だけして髪をセットした。
それから下の階へ向かい、ロビーを突っ切ってダイニングルームの冷蔵庫を開ける。陽がトイレを流す音が聞こえたのを確認してから、扉側に整列している小瓶のうち一つを手に取った。しかしそれには「瑛次用」とご丁寧にも記名があったので、隣の物を選び直した。
二十六歳、女性、手首。
記載の採取日から数日経っているとはいえ、比較的上等なものだった。ヒスンから買ったものだろうか。とにかく、陽に変に迫ったりしないようにするためにも、血を腹に入れておきたかった。三月は開封するなりそれをくっと喉に通し、胃に流し込んだ。
その途端、液体が苦い塊になって食道をのぼってきた。三月は慌てて口を押さえてシンクへ駆け寄り、鮮やかに赤い液体を胃液と共に吐き出した。
明確な拒絶だった。体が喜ぶはずのものが、気持ちの悪さと一緒になって嘔吐になる。
「先輩?」
吐いている様子を聞いて心配して、陽が早足でやって来るのが聞こえた。
三月は急いで水道水を勢いよく出し、シンクと口元を汚す赤色を流し落とした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
ひらひら手を振ってみせる。
大丈夫ではないのは自分が最もよくわかっていた。これを飲まないとみるみるうちに体力が落ちて、やがて歩くことすら困難になることを、吸血鬼ならみな知っている。
三月は一度陽に、
「心配ないから準備してな」
と言ったものの、気にかけた表情のまま去ろうとした彼の手首を、ぐっと掴んで引き止めた。
腕の中に収めて、きつく抱きしめる。
「陽、お前だけは俺を裏切っちゃだめだよ」
「え……?」
「わかった?」
促されて、陽は「はあ」とぼんやり返事をした。背中に手が触れて、気遣わしげに優しくさすられる。少し気持ちが落ち着いた。
大学へ向かった陽と別れたあと、三月は車を取りに行った足で昨晩のクラブへ顔を出したが、そこにヒスンの姿はなかった。愛車に戻ってカフェへと移動しながら、瑛次に電話をかけてみたが、彼も応答はなかった。まだ寝ているか、彼も陽と同じように講義中か。
信号待ちの時間で連絡先を見ていく途中、一瞬、「壱依兄さん」の名前で目が止まったが、まだ彼に縋るのはやめておいた。
ハンドルを指先で神経質に叩きながら、脳内で日付を遡る。
いつからきちんと飲めていないっけ。
「朝電話出た人、もしかしてここにたまに来る大学生ですか?」
カフェに到着した三月の姿を見るなりそう聞いた理人に、三月は何の気なしに「うん」と答えた。
彼の様子はなんだかおかしいように見えて、理人はなんとなく心配した。顔が白いようにも思えるし、心なしか、頬がほっそりし過ぎている。
「付き合ってるんですか?」
名前も知らない一人の客を思い浮かべながら、理人は聞く。
三月は上の空で、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。彼の名前は楠木陽というらしかった。そこまで聞いてふと見ると、三月がかき混ぜているカフェミストは泡が潰れ、無残な姿になっていた。
理人は、素早くそれを奪い取った。
「大丈夫ですか? 先輩」
「うん」
「体調が悪いなら休んだほうが……」
「平気だって」
ランチの時間になると、アルバイトの学生のシフトが終わって帰っていったので、理人と三月の二人で店を回す流れになった。平日の昼間から夕方にかけては、日頃からそこまで混雑しない。だから、このように少人数で対応することは、よくあった。
日が落ちてきた頃、店内には、ノートパソコンを広げたサラリーマン風の男性と、上品な雰囲気の高齢女性三人組しかいなかった。夜になればその二組も帰っていき、誰もいなくなった。
すると、三月の携帯電話が鳴ったので、彼は電話を耳に当てながら理人に一言告げ、スタッフルームへと下がった。
ちょうどそのタイミングで、店の扉が開いた。
いらっしゃいませと声を上げながら顔を向けると、数時間前にここで噂話に挙がった男性、陽が、ひとりで入って来たところだった――そういえば彼はいつもひとりだ。単独行動が好きなのだろうか? 理人は思った――陽は、毎回座る窓際の席に落ち着いた。
彼は三月を探しているのか、しばらく店内をきょろきょろしていたが、今は店員が理人しかいないようだとわかると、ゆったり座り直した。
来たことを三月に教えたほうがいいのだろうか、と裏で電話をしている彼のことを思いながら、水とふきんを配膳に向かう。
「ご注文が決まったらお声かけください」
理人がそう言って下がろうとすると、陽が前髪の間からこちらを見上げて何かを聞きたそうにしているのがわかったので、理人は少し話しておくことにした。
「あの、三月先輩のことなんですけど」
陽が目を丸くする。
「今ちょっと、裏で他の仕事してます。すぐ出てくると思います」
「あ、それは……ありがとうございます」
と、陽はにっこり笑った。
「今日、少し体調が悪そうです。早めに上がってもらうようにしますね」
そう付け加えると、陽は笑顔を一段階暗くしてもう一度礼を告げた。
「今朝からそうだったけど、どうしたんだろう」
他の客がちょうどいないのをいいことに、理人は陽のいる隣のテーブルに軽く腰を寄りかけて、言った。
「あの……陽さん。三月先輩と付き合ってるって聞いたんですけど」
「えっ?」
陽は話題に驚いた様子だった。
「付き合っては……うーん、わかんないけど」
と、もごもごする。
「それがなにか?」
「いえ、大丈夫なのかなと思って」
陽はきょとんと理人を見た。
「三月先輩に血をあげてるんですか?」
しん、と、沈黙が流れた。
陽は聞かれている内容がわからず、「はっ?」と呟いて首を傾げた。
理人は、何かまずいことを言ったかなと焦った。
「え? いや、だって陽さんは人間ですよね?」
「そりゃそうだけど、何のことですか?」
「あの人たちと親しい人間なんて今までそういなかったから、聞いてみたくて」
「はあ……? 君はさっきから何の話をしてるの?」
「三月先輩の話ですよ。さっきからずっと、三月先輩の話をしてます。あの人に血液を飲ませてるんですかって聞いたんです。もしそうだったら危険な場合もあるから、僕が貧血に効く飲み物とかを教えたいなと思って――」
「理人」
低めに呼ばれた声に振り向くと、三月と、もう一人の姿がいつの間にか店内にあった。
スタッフルームの扉に寄りかかって携帯電話をスラックスのポケットにしまい、三月は後頭部を扉につけて下目に理人たちを見ていた。長いため息が伸びる。
カウンターを乗り越えてテーブルの並ぶほうへ出てきたのは瑛次で、彼は大股で歩きながら店のブラインドを全て下ろした。店内が薄暗くなる。彼は扉も施錠した。
「三月先輩。瑛次さん」
理人は腰を浮かせた。
「かわいいかわいい理人ちゃん。お口が滑っちゃった?」
三月はそう言い、カフェエプロンを引きちぎるように脱いで床に放り出した。
瑛次は理人達のほうへ歩み寄り、近くに置いてあった椅子の背もたれに尻をかけて軽く腰掛けた。
理人は息を飲んだ。
「え……? え、まさか、知らなかったんですか?」
と、陽をバッと振り向く。
「知らないで付き合ってたの?!」
「待って。何の話ですか?」
ただ事ではない雰囲気に動揺して、陽も立ち上がった。
理人は話し続けた。
「じゃあなんで陽さんを生かして……? まさか、先輩たちは陽さんを吸血鬼にするんですか? じゃあ僕は? 僕のほうが先に先輩たちのことを見つけて、ずーっと約束守って言うこと聞いてきたじゃないですか! 秘密だって漏らさなかった。なのに」
理人は瑛次に詰め寄った。
「早く僕を仲間にしてください!」
「人間は吸血鬼になれるけど、吸血鬼は人間になれない。一度俺たちのようになったら、二度と戻れない。そう急いでなるものではないよ」
瑛次が言った。
理人はすぐに反論する。
「わかってます。でも僕は普通の人間じゃない」
「うん。瑛次、俺も理人のことは早く完全な吸血鬼にしたほうがいいと思う」
と、三月。
「この子はダンピールだ。ヴァンパイアハンターなんかになられる前に仲間にしたほうがいい」
「とにかく成人はさせないと。壱依兄さんもそう言ってるだろ」
「僕、来月ではたちです!」
言い張る理人の横を通り越し、三月が陽の傍へ寄ってきた。彼は口元を緩めると、わけがわからないといった顔をした陽の隣に来て、肩に手を置いた。
「理人。俺たちは陽のことは仲間にはしないよ。人間としてうまくやれる。食事のときに隣でちょっと赤っぽい液体を飲むかもしれないけど」
そう言い、三月は陽に向かってにっこりした。
「な、陽。俺、ちゃーんと人間のふりできてたよな?」
混乱。
陽は取り乱し、首を振った。
「は……? 僕、あなたたちが何の話をしてるのか全然わかんないんですけど」
「陽」
瑛次が努めて落ち着いて声をかけた。
「騙してて悪かった。信じてもらいたいんだけど、俺たちはいわゆる……ヴァンパイアなんだ」
「はぁ?」
「人間の血を飲んで生きてる」
大の大人が揃いも揃って何を喋っているんだ。突拍子もない展開に言葉を失っていると、瑛次が観念したようにため息し、羽織っていたジャケットの胸ポケットから小瓶を取り出して中身を呷りながら、陽の目の前に移動してきた。
そして、自分の上唇を持ち上げ、陽の目をじっと直視した。
今や瑛次の虹彩は、水銀を濁りのない湧き水に限りなく薄く溶かしたような冷たい色をしていて、そこに縦長の瞳孔が埋まっていた。上の歯茎から生える犬歯はよく見る人間のものより長く、先が鋭く尖っている。
陽は一瞬、後ろによろけた。
三月がそれを支える。
「言わなきゃとは思ってたんだ。お前を怖がらせたくなかったけど」
そう言った三月を、陽は穴が開くほど強く見つめた。
「冗談ですよね?」
「瑛次は冗談で人間に牙を見せるようなことはしないよ」
「本気で言ってるんですか? まさか」
錯乱して半分笑い出している陽を、理人は気遣わしげに見ていた。
するとその時、スタッフルームの扉がガチャリと開いた。全員がその方向を見た。
新しい顔が登場した。
スラリとした長身、そこに小さな頭が乗っていて、上品で落ち着き払った雰囲気の男性だった。艶のあるしっとりとした黒髪に、涼しげな切れ長の目、充血したように滲む赤色の唇、見とれるほどの美貌。陽は、一度だけこの人を遠目に見かけたことがあった。三月たちとクラブへ遊びに行った夜のことだ。
「壱依兄さん」
陽の隣で三月が呟く。肩を抱いていた腕がさっと退けられたのがわかった。
壱依がゆっくり歩いてくると、彼は値の張りそうな素材の黒いジャケットの中に深紅のシャツを着て、そのシャツと同じような色合いに、目尻が染まっているのが見えた。蝋でできたような肌だ。ほんの少し開いた唇からは、白い牙の先端が覗いていて、夜のカフェのぼんやりとしたライトに照らされて鈍く輝いていた。
彼は瑛次を素通りし、一直線に陽と理人の元へ向かって来ていた。
近付くにつれ、陽は、壱依が想像上の「ヴァンパイア」の姿とあまりにも合致することに気付かずにはいられなかった。
生唾を飲み込んだ。
この人は確かに吸血鬼だと思った。
人間らしい空気感が全くない。まとうオーラに温度がない。瑛次や三月にはまだ感じる新緑の息吹のような生臭さ、が、壱依には一切なかった。身震いが走る。
「三月、あとでゆっくり話そうね。二人きりで」
壱依は穏やかにそう言い、三月の肩を二度叩いた。まるでその反動でそうさせられたかのように、三月はどさっと椅子に腰を落とした。さあっと、顔が青くなる。
「情報は命より重い。って言葉、知ってる?」
壱依は吸血鬼の仲間たちに向かって話しかけた。
「お前たちは自分の都合だけで人間とお喋りしたり、遊んだり、性的なことをしたりしてるんだろうけど、」
三月が目を逸らす。
壱依は構わず続けた。
「ちょっとの情報漏洩が一族の破滅に繋がること、忘れたわけじゃないでしょ? 知られたからには野放しにしておけないよね。理人はともかく、そっちの人はどうするつもりなの? 殺すわけにはいかないでしょ」
「兄さん」
ビッ、と、壱依が人差し指を突き立て、弁解しようと口を開いた瑛次を一瞬にして黙らせた。
「彼、動転してるようだから、落ち着けてからしっかり家に帰してあげて」
壱依が陽を見た。目が合う。
静かに落ち着いた壱依の切れ長の目は、鷹を思わせる黄金の瞳をしていた。途方もなく膨大な惨劇と、莫大な情報量をそこに湛えているかのように深く、哀しく、優しい目だった。
現実離れした美しさを纏う彼の存在そのものが、この世の理を揺るがすようだった。全身が震え、冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と目を逸らすことができない。
「わかったね。三月。瑛次」
呼びかけられ、三月は項垂れたまま頷いた。
瑛次はまだ何かを言いたそうにしていたが、結局口は挟まずにいた。
雰囲気がすっかり変わったカフェの店内を、壱依は何の未練もなく滑るように歩き、そのまま静かに出て行ってしまった。
扉が閉まると、部屋の温度が数度上がったように思えた。
三月が、はあと大きく息をつき、だらりと上半身を伸ばした。
「さいっ……あくだ」
「兄さんを出し抜けると思うなって言っただろ」
「やばいな。謹慎じゃ済まないかも」
三月はもう一度重いため息をついた。
「僕のせいですよね。ごめんなさい」
理人がしゅんと小動物の耳を垂らした。
「てっきり陽さんは知ってるのかと思って……」
「いや、お前のせいじゃないよ」
と、三月。
瑛次も「そうだよ、理人のせいじゃない」と続けた。
それから瑛次は突っ立っていた陽の腕を引き、自分と三月の間に座らせた。
目が回りそうなスピードでとても信じがたい展開になったため、陽は疲れていた。膝に触れてきた三月の手が、ぽんぽんと慰める。そこにちゃんと体温があって、安心した。
瑛次の向かい側に、理人も腰掛けた。
「……本当なんですね」
陽が静かに言う。
瑛次が、うん、と認めた。
「騙したくてそうしてたわけじゃないんだ。俺はただ、大学で勉強がしたいから人間の生活をしてるし、三月だってなにも君を殺そうとしてるわけじゃない」
「……まだ信じられません。先輩たちの仲間はたくさんいるんですか?」
「いや、そういないよ。特にアジアは少ない。東京で言ったら、さっきまでここにいた顔と、あと十数人しかいないはずだ。あ、こないだクラブで会ったヒスンとかもそうなんだけど」
「さっきの壱依兄さんという方は……」
「俺たちは人間よりずっと文化的で長い歴史があるけど、同時に人間より動物的でもある。壱依兄さんは、この辺りでは最年長の吸血鬼で、ずっと仲間の長として俺たちの存在を人間に隠しながら長生きしてるんだ。俺なんて八十年いかないくらいしか生きてないし、三月だって百年ちょっとだけど、あの兄さんは……あー、何歳だっけ。忘れちゃったな。とにかくそういう人なんだ」
「情報漏洩が一族の破滅に繋がるっていう話は、吸血鬼の存在が人間に広まったら怖がられて殺されるからとか、そういうことですか」
「大体そうだね。それに、これも人間は知らないだろうけど、吸血鬼を殺す専門家もいるんだ。そいつらからも身を隠してる」
「専門家?」
「ヴァンパイアハンターのことです」
理人が答えた。
「日頃から吸血鬼を殺すために動いている人間のことです。その中には、ダンピールもいます。ダンピールっていうのは、人間と吸血鬼の間に生まれた子のことで、吸血衝動はほとんどないけど、人間のふりをして生活している吸血鬼の正体を見破ることができるんです。実は、僕がそれなんですけど」
「え、じゃあ君は先輩たちの敵なの?」
「いや」
瑛次が緩く頬をほころばせた。
「理人はダンピールだけど、ハンターにはなってないんだ。ハンターの奴らからもよく自分たちに協力するよう声はかかってるけど、断り続けてる」
「僕は完全な吸血鬼になりたいんです」
ふん、と鼻をならす。
理人は胸を張った。
「事情をよくわかってなかった頃、ハンターから説得されそうになってたところで瑛次さんに出会って、絶対にこの人の仲間になろうと決めたんです。僕、瑛次さんとの出会いで人生が変わったっていうか……」
「オーケー、オーケー」
熱烈な尊敬の眼差しを受け、瑛次は照れたように笑ってぶんぶん手を振った。
「俺は、子どもの頃にどこかの吸血鬼に噛まれて以来、半ヴァンパイアになっちゃってね。ダンピールと違って、吸血衝動があるほうの半分吸血鬼なんだけど。生き方がわからなくて絶望してたところを、壱依兄さんに助けられたんだ。完全な吸血鬼にしてもらった」
瑛次の昔話を聞き、陽はぎょっとした。
「人をきゅ……吸血鬼にする?」
「うん」
「それってどうやるんですか?」
「血を吸うんじゃなくて、血を入れるんです」
と、理人が答える。
そこに瑛次が補足した。
「厳密に言うと、毒だ。俺たちが人間に噛みつくときに牙から分泌する毒を、痛みとか快感を与える程度じゃなく、全身に染み渡るように大量に注入する。それか、俺たちの血液にもその毒は混入されてるから輸血することでもできるんだけど、こっちは効果が薄いし、中途半端になる可能性が高い。どちらにしろ、吸入する分と同じ量の血を飲むことになるから、相当な自制心がないとできない……俺たちは、ヒトの血を飲むとき興奮状態になるんだ。これまでも、ヒトを吸血鬼にしようとして殺してしまった例をたくさん見たよ。だからそんなことをやりたがる吸血鬼なんてそういない」
陽は隣を見た。
じっと黙っている三月の様子を窺うと、彼はどこかテーブルの脚らへん一点をぼうっと見つめて、考え事をしているようだった。
先輩、と呼ぶと、はっとして顔を上げる。
「そういえば、電話の要件はなんだったんだ? 相談があるって。そのためにここへ来たのに」
瑛次が三月に言った。
相談? と、陽は首を傾げた。
が、三月は手首を左右に振った。
「いや。なんでもない。大丈夫」
そしてゆっくり立ち上がり、ブラインドカーテンの一本を下げて外の様子を観察した。店の外には人ひとりの姿もなかった。
陽は朝が苦手だ。しかし今日は、三月の自宅に初めて泊まった翌朝だったので、普段どんなに爆音の目覚まし時計でも起床できないほど目覚めが悪くても、今日だけはハッと目を開けられた。
深い黒一色のベッドの中で肘をついて少し体を起こすと、隣で、三月がこちらに背を向けてまだ寝ているのが見えた。背中の傷が痛々しい。しかも今朝は、腰周りや肩のあたりに引っ掻いたような痕もあり、陽は少し恥ずかしくなった。昨夜、あれからシャワールームや寝室で散々乱れた形跡だった。
電話はずっと鳴り続けていた。シーツに放り出されていた三月の電話から鳴るものだったが、彼が起きないのでどうしようかと思う。
迷った末、陽はそろりと画面に指を滑らせた。端末を耳に当てる。
「……はい」
「あっ、三月先輩! 何してるんですか、あなたが遅刻なんてあり得ませんよ」
聞こえてきたその声には、聞き覚えがあった。陽の脳の上のほうに、ポンと、三月が働くカフェの店員のうちの一人が浮かぶ。きっとあの、テキパキした爽やかな青年だ。
青年は、電話を取ったのが三月ではない人物だとは気付かないまま、喋り続けた。
「今日のシフトはランチから僕と先輩の二人なんですから、それまでには絶対に来てくださいね。また朝帰りなのか知らないですけど……」
「朝帰り?」
「えっ?」
そこで、彼はやっと電話口が三月ではないと気が付いた。
「だ、誰ですか?」
動揺を隠せない声色が言う。
誰なのかと聞かれると、返答に困った。三月先輩の知り合いです? それとも、三月先輩の恋人です?
どう答えるべきか迷っていると、携帯端末が手からふわりと奪われて顔を上げた。目を覚ました三月が、寝転んだまま電話を耳に持っていった。
「あー、理人、ごめんね? すぐ行くよ、ごめんって。はいはい」
すぐに話を済ませて、三月は腕を電話ごとパタンと落とした。
「悪い子だな、陽。勝手に俺の電話取ったの?」
「ごめんなさい。ずっと止まらなかったから、つい」
「うん」
三月は、寝惚け顔のままふにゃふにゃ笑った。そして起き上がってベッドから下り、軽く伸びをした。
陽がベッドの中からぼんやり見ているうちに、三月はその細い脚に下着を通してスラックスを履き、ベルトを締めながら全身鏡の前で体を反回転させて、自分の体をチェックした。そして、もがれた翼の痕を隠すようにシャツを羽織る。
ボタンをとめている三月と鏡越しに目が合って、陽は、顔を半分シーツに埋めながら「今日もかっこいいですね」と呟いた。
「でも先輩、朝帰りってなんのこと?」
もしかして僕には聞く権利がないかもしれない。と思いながら聞いてみると、三月はボタンをとめる手を止めずにニヤリとした。
「なんのことだと思う?」
「もし僕以外にも関係を持ってる相手がいるなら……」
「お前んちで寝た日のことだよ」
「……本当に?」
「んー?」
着替えを終えた三月はまたベッドのほうへ戻ってきて、陽に顔を近付けた。
が、キスしようとして首を伸ばした陽を、ふっと避ける。陽はむっとした。
「意地悪しないでください」
「意地悪じゃない。もう行かなきゃならないから」
陽をからかった三月は愉快そうだった。
「お前も大学あるだろ」
手探り、陽は携帯電話を明るくして画面を見た。
「ほんとだ、もう行かないと。なんで月曜日に一限入れたんだろ」
やっと布団を剥いでシーツから抜け出て、陽も立ち上がった。
三月は服を着始めた陽を置いて寝室を後にして、洗面所へ向かった。通常であればシャワーを浴びたいタイミングだったが、理人にああも怒られてしまっては敵わないので、それは諦めて洗顔だけして髪をセットした。
それから下の階へ向かい、ロビーを突っ切ってダイニングルームの冷蔵庫を開ける。陽がトイレを流す音が聞こえたのを確認してから、扉側に整列している小瓶のうち一つを手に取った。しかしそれには「瑛次用」とご丁寧にも記名があったので、隣の物を選び直した。
二十六歳、女性、手首。
記載の採取日から数日経っているとはいえ、比較的上等なものだった。ヒスンから買ったものだろうか。とにかく、陽に変に迫ったりしないようにするためにも、血を腹に入れておきたかった。三月は開封するなりそれをくっと喉に通し、胃に流し込んだ。
その途端、液体が苦い塊になって食道をのぼってきた。三月は慌てて口を押さえてシンクへ駆け寄り、鮮やかに赤い液体を胃液と共に吐き出した。
明確な拒絶だった。体が喜ぶはずのものが、気持ちの悪さと一緒になって嘔吐になる。
「先輩?」
吐いている様子を聞いて心配して、陽が早足でやって来るのが聞こえた。
三月は急いで水道水を勢いよく出し、シンクと口元を汚す赤色を流し落とした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
ひらひら手を振ってみせる。
大丈夫ではないのは自分が最もよくわかっていた。これを飲まないとみるみるうちに体力が落ちて、やがて歩くことすら困難になることを、吸血鬼ならみな知っている。
三月は一度陽に、
「心配ないから準備してな」
と言ったものの、気にかけた表情のまま去ろうとした彼の手首を、ぐっと掴んで引き止めた。
腕の中に収めて、きつく抱きしめる。
「陽、お前だけは俺を裏切っちゃだめだよ」
「え……?」
「わかった?」
促されて、陽は「はあ」とぼんやり返事をした。背中に手が触れて、気遣わしげに優しくさすられる。少し気持ちが落ち着いた。
大学へ向かった陽と別れたあと、三月は車を取りに行った足で昨晩のクラブへ顔を出したが、そこにヒスンの姿はなかった。愛車に戻ってカフェへと移動しながら、瑛次に電話をかけてみたが、彼も応答はなかった。まだ寝ているか、彼も陽と同じように講義中か。
信号待ちの時間で連絡先を見ていく途中、一瞬、「壱依兄さん」の名前で目が止まったが、まだ彼に縋るのはやめておいた。
ハンドルを指先で神経質に叩きながら、脳内で日付を遡る。
いつからきちんと飲めていないっけ。
「朝電話出た人、もしかしてここにたまに来る大学生ですか?」
カフェに到着した三月の姿を見るなりそう聞いた理人に、三月は何の気なしに「うん」と答えた。
彼の様子はなんだかおかしいように見えて、理人はなんとなく心配した。顔が白いようにも思えるし、心なしか、頬がほっそりし過ぎている。
「付き合ってるんですか?」
名前も知らない一人の客を思い浮かべながら、理人は聞く。
三月は上の空で、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。彼の名前は楠木陽というらしかった。そこまで聞いてふと見ると、三月がかき混ぜているカフェミストは泡が潰れ、無残な姿になっていた。
理人は、素早くそれを奪い取った。
「大丈夫ですか? 先輩」
「うん」
「体調が悪いなら休んだほうが……」
「平気だって」
ランチの時間になると、アルバイトの学生のシフトが終わって帰っていったので、理人と三月の二人で店を回す流れになった。平日の昼間から夕方にかけては、日頃からそこまで混雑しない。だから、このように少人数で対応することは、よくあった。
日が落ちてきた頃、店内には、ノートパソコンを広げたサラリーマン風の男性と、上品な雰囲気の高齢女性三人組しかいなかった。夜になればその二組も帰っていき、誰もいなくなった。
すると、三月の携帯電話が鳴ったので、彼は電話を耳に当てながら理人に一言告げ、スタッフルームへと下がった。
ちょうどそのタイミングで、店の扉が開いた。
いらっしゃいませと声を上げながら顔を向けると、数時間前にここで噂話に挙がった男性、陽が、ひとりで入って来たところだった――そういえば彼はいつもひとりだ。単独行動が好きなのだろうか? 理人は思った――陽は、毎回座る窓際の席に落ち着いた。
彼は三月を探しているのか、しばらく店内をきょろきょろしていたが、今は店員が理人しかいないようだとわかると、ゆったり座り直した。
来たことを三月に教えたほうがいいのだろうか、と裏で電話をしている彼のことを思いながら、水とふきんを配膳に向かう。
「ご注文が決まったらお声かけください」
理人がそう言って下がろうとすると、陽が前髪の間からこちらを見上げて何かを聞きたそうにしているのがわかったので、理人は少し話しておくことにした。
「あの、三月先輩のことなんですけど」
陽が目を丸くする。
「今ちょっと、裏で他の仕事してます。すぐ出てくると思います」
「あ、それは……ありがとうございます」
と、陽はにっこり笑った。
「今日、少し体調が悪そうです。早めに上がってもらうようにしますね」
そう付け加えると、陽は笑顔を一段階暗くしてもう一度礼を告げた。
「今朝からそうだったけど、どうしたんだろう」
他の客がちょうどいないのをいいことに、理人は陽のいる隣のテーブルに軽く腰を寄りかけて、言った。
「あの……陽さん。三月先輩と付き合ってるって聞いたんですけど」
「えっ?」
陽は話題に驚いた様子だった。
「付き合っては……うーん、わかんないけど」
と、もごもごする。
「それがなにか?」
「いえ、大丈夫なのかなと思って」
陽はきょとんと理人を見た。
「三月先輩に血をあげてるんですか?」
しん、と、沈黙が流れた。
陽は聞かれている内容がわからず、「はっ?」と呟いて首を傾げた。
理人は、何かまずいことを言ったかなと焦った。
「え? いや、だって陽さんは人間ですよね?」
「そりゃそうだけど、何のことですか?」
「あの人たちと親しい人間なんて今までそういなかったから、聞いてみたくて」
「はあ……? 君はさっきから何の話をしてるの?」
「三月先輩の話ですよ。さっきからずっと、三月先輩の話をしてます。あの人に血液を飲ませてるんですかって聞いたんです。もしそうだったら危険な場合もあるから、僕が貧血に効く飲み物とかを教えたいなと思って――」
「理人」
低めに呼ばれた声に振り向くと、三月と、もう一人の姿がいつの間にか店内にあった。
スタッフルームの扉に寄りかかって携帯電話をスラックスのポケットにしまい、三月は後頭部を扉につけて下目に理人たちを見ていた。長いため息が伸びる。
カウンターを乗り越えてテーブルの並ぶほうへ出てきたのは瑛次で、彼は大股で歩きながら店のブラインドを全て下ろした。店内が薄暗くなる。彼は扉も施錠した。
「三月先輩。瑛次さん」
理人は腰を浮かせた。
「かわいいかわいい理人ちゃん。お口が滑っちゃった?」
三月はそう言い、カフェエプロンを引きちぎるように脱いで床に放り出した。
瑛次は理人達のほうへ歩み寄り、近くに置いてあった椅子の背もたれに尻をかけて軽く腰掛けた。
理人は息を飲んだ。
「え……? え、まさか、知らなかったんですか?」
と、陽をバッと振り向く。
「知らないで付き合ってたの?!」
「待って。何の話ですか?」
ただ事ではない雰囲気に動揺して、陽も立ち上がった。
理人は話し続けた。
「じゃあなんで陽さんを生かして……? まさか、先輩たちは陽さんを吸血鬼にするんですか? じゃあ僕は? 僕のほうが先に先輩たちのことを見つけて、ずーっと約束守って言うこと聞いてきたじゃないですか! 秘密だって漏らさなかった。なのに」
理人は瑛次に詰め寄った。
「早く僕を仲間にしてください!」
「人間は吸血鬼になれるけど、吸血鬼は人間になれない。一度俺たちのようになったら、二度と戻れない。そう急いでなるものではないよ」
瑛次が言った。
理人はすぐに反論する。
「わかってます。でも僕は普通の人間じゃない」
「うん。瑛次、俺も理人のことは早く完全な吸血鬼にしたほうがいいと思う」
と、三月。
「この子はダンピールだ。ヴァンパイアハンターなんかになられる前に仲間にしたほうがいい」
「とにかく成人はさせないと。壱依兄さんもそう言ってるだろ」
「僕、来月ではたちです!」
言い張る理人の横を通り越し、三月が陽の傍へ寄ってきた。彼は口元を緩めると、わけがわからないといった顔をした陽の隣に来て、肩に手を置いた。
「理人。俺たちは陽のことは仲間にはしないよ。人間としてうまくやれる。食事のときに隣でちょっと赤っぽい液体を飲むかもしれないけど」
そう言い、三月は陽に向かってにっこりした。
「な、陽。俺、ちゃーんと人間のふりできてたよな?」
混乱。
陽は取り乱し、首を振った。
「は……? 僕、あなたたちが何の話をしてるのか全然わかんないんですけど」
「陽」
瑛次が努めて落ち着いて声をかけた。
「騙してて悪かった。信じてもらいたいんだけど、俺たちはいわゆる……ヴァンパイアなんだ」
「はぁ?」
「人間の血を飲んで生きてる」
大の大人が揃いも揃って何を喋っているんだ。突拍子もない展開に言葉を失っていると、瑛次が観念したようにため息し、羽織っていたジャケットの胸ポケットから小瓶を取り出して中身を呷りながら、陽の目の前に移動してきた。
そして、自分の上唇を持ち上げ、陽の目をじっと直視した。
今や瑛次の虹彩は、水銀を濁りのない湧き水に限りなく薄く溶かしたような冷たい色をしていて、そこに縦長の瞳孔が埋まっていた。上の歯茎から生える犬歯はよく見る人間のものより長く、先が鋭く尖っている。
陽は一瞬、後ろによろけた。
三月がそれを支える。
「言わなきゃとは思ってたんだ。お前を怖がらせたくなかったけど」
そう言った三月を、陽は穴が開くほど強く見つめた。
「冗談ですよね?」
「瑛次は冗談で人間に牙を見せるようなことはしないよ」
「本気で言ってるんですか? まさか」
錯乱して半分笑い出している陽を、理人は気遣わしげに見ていた。
するとその時、スタッフルームの扉がガチャリと開いた。全員がその方向を見た。
新しい顔が登場した。
スラリとした長身、そこに小さな頭が乗っていて、上品で落ち着き払った雰囲気の男性だった。艶のあるしっとりとした黒髪に、涼しげな切れ長の目、充血したように滲む赤色の唇、見とれるほどの美貌。陽は、一度だけこの人を遠目に見かけたことがあった。三月たちとクラブへ遊びに行った夜のことだ。
「壱依兄さん」
陽の隣で三月が呟く。肩を抱いていた腕がさっと退けられたのがわかった。
壱依がゆっくり歩いてくると、彼は値の張りそうな素材の黒いジャケットの中に深紅のシャツを着て、そのシャツと同じような色合いに、目尻が染まっているのが見えた。蝋でできたような肌だ。ほんの少し開いた唇からは、白い牙の先端が覗いていて、夜のカフェのぼんやりとしたライトに照らされて鈍く輝いていた。
彼は瑛次を素通りし、一直線に陽と理人の元へ向かって来ていた。
近付くにつれ、陽は、壱依が想像上の「ヴァンパイア」の姿とあまりにも合致することに気付かずにはいられなかった。
生唾を飲み込んだ。
この人は確かに吸血鬼だと思った。
人間らしい空気感が全くない。まとうオーラに温度がない。瑛次や三月にはまだ感じる新緑の息吹のような生臭さ、が、壱依には一切なかった。身震いが走る。
「三月、あとでゆっくり話そうね。二人きりで」
壱依は穏やかにそう言い、三月の肩を二度叩いた。まるでその反動でそうさせられたかのように、三月はどさっと椅子に腰を落とした。さあっと、顔が青くなる。
「情報は命より重い。って言葉、知ってる?」
壱依は吸血鬼の仲間たちに向かって話しかけた。
「お前たちは自分の都合だけで人間とお喋りしたり、遊んだり、性的なことをしたりしてるんだろうけど、」
三月が目を逸らす。
壱依は構わず続けた。
「ちょっとの情報漏洩が一族の破滅に繋がること、忘れたわけじゃないでしょ? 知られたからには野放しにしておけないよね。理人はともかく、そっちの人はどうするつもりなの? 殺すわけにはいかないでしょ」
「兄さん」
ビッ、と、壱依が人差し指を突き立て、弁解しようと口を開いた瑛次を一瞬にして黙らせた。
「彼、動転してるようだから、落ち着けてからしっかり家に帰してあげて」
壱依が陽を見た。目が合う。
静かに落ち着いた壱依の切れ長の目は、鷹を思わせる黄金の瞳をしていた。途方もなく膨大な惨劇と、莫大な情報量をそこに湛えているかのように深く、哀しく、優しい目だった。
現実離れした美しさを纏う彼の存在そのものが、この世の理を揺るがすようだった。全身が震え、冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と目を逸らすことができない。
「わかったね。三月。瑛次」
呼びかけられ、三月は項垂れたまま頷いた。
瑛次はまだ何かを言いたそうにしていたが、結局口は挟まずにいた。
雰囲気がすっかり変わったカフェの店内を、壱依は何の未練もなく滑るように歩き、そのまま静かに出て行ってしまった。
扉が閉まると、部屋の温度が数度上がったように思えた。
三月が、はあと大きく息をつき、だらりと上半身を伸ばした。
「さいっ……あくだ」
「兄さんを出し抜けると思うなって言っただろ」
「やばいな。謹慎じゃ済まないかも」
三月はもう一度重いため息をついた。
「僕のせいですよね。ごめんなさい」
理人がしゅんと小動物の耳を垂らした。
「てっきり陽さんは知ってるのかと思って……」
「いや、お前のせいじゃないよ」
と、三月。
瑛次も「そうだよ、理人のせいじゃない」と続けた。
それから瑛次は突っ立っていた陽の腕を引き、自分と三月の間に座らせた。
目が回りそうなスピードでとても信じがたい展開になったため、陽は疲れていた。膝に触れてきた三月の手が、ぽんぽんと慰める。そこにちゃんと体温があって、安心した。
瑛次の向かい側に、理人も腰掛けた。
「……本当なんですね」
陽が静かに言う。
瑛次が、うん、と認めた。
「騙したくてそうしてたわけじゃないんだ。俺はただ、大学で勉強がしたいから人間の生活をしてるし、三月だってなにも君を殺そうとしてるわけじゃない」
「……まだ信じられません。先輩たちの仲間はたくさんいるんですか?」
「いや、そういないよ。特にアジアは少ない。東京で言ったら、さっきまでここにいた顔と、あと十数人しかいないはずだ。あ、こないだクラブで会ったヒスンとかもそうなんだけど」
「さっきの壱依兄さんという方は……」
「俺たちは人間よりずっと文化的で長い歴史があるけど、同時に人間より動物的でもある。壱依兄さんは、この辺りでは最年長の吸血鬼で、ずっと仲間の長として俺たちの存在を人間に隠しながら長生きしてるんだ。俺なんて八十年いかないくらいしか生きてないし、三月だって百年ちょっとだけど、あの兄さんは……あー、何歳だっけ。忘れちゃったな。とにかくそういう人なんだ」
「情報漏洩が一族の破滅に繋がるっていう話は、吸血鬼の存在が人間に広まったら怖がられて殺されるからとか、そういうことですか」
「大体そうだね。それに、これも人間は知らないだろうけど、吸血鬼を殺す専門家もいるんだ。そいつらからも身を隠してる」
「専門家?」
「ヴァンパイアハンターのことです」
理人が答えた。
「日頃から吸血鬼を殺すために動いている人間のことです。その中には、ダンピールもいます。ダンピールっていうのは、人間と吸血鬼の間に生まれた子のことで、吸血衝動はほとんどないけど、人間のふりをして生活している吸血鬼の正体を見破ることができるんです。実は、僕がそれなんですけど」
「え、じゃあ君は先輩たちの敵なの?」
「いや」
瑛次が緩く頬をほころばせた。
「理人はダンピールだけど、ハンターにはなってないんだ。ハンターの奴らからもよく自分たちに協力するよう声はかかってるけど、断り続けてる」
「僕は完全な吸血鬼になりたいんです」
ふん、と鼻をならす。
理人は胸を張った。
「事情をよくわかってなかった頃、ハンターから説得されそうになってたところで瑛次さんに出会って、絶対にこの人の仲間になろうと決めたんです。僕、瑛次さんとの出会いで人生が変わったっていうか……」
「オーケー、オーケー」
熱烈な尊敬の眼差しを受け、瑛次は照れたように笑ってぶんぶん手を振った。
「俺は、子どもの頃にどこかの吸血鬼に噛まれて以来、半ヴァンパイアになっちゃってね。ダンピールと違って、吸血衝動があるほうの半分吸血鬼なんだけど。生き方がわからなくて絶望してたところを、壱依兄さんに助けられたんだ。完全な吸血鬼にしてもらった」
瑛次の昔話を聞き、陽はぎょっとした。
「人をきゅ……吸血鬼にする?」
「うん」
「それってどうやるんですか?」
「血を吸うんじゃなくて、血を入れるんです」
と、理人が答える。
そこに瑛次が補足した。
「厳密に言うと、毒だ。俺たちが人間に噛みつくときに牙から分泌する毒を、痛みとか快感を与える程度じゃなく、全身に染み渡るように大量に注入する。それか、俺たちの血液にもその毒は混入されてるから輸血することでもできるんだけど、こっちは効果が薄いし、中途半端になる可能性が高い。どちらにしろ、吸入する分と同じ量の血を飲むことになるから、相当な自制心がないとできない……俺たちは、ヒトの血を飲むとき興奮状態になるんだ。これまでも、ヒトを吸血鬼にしようとして殺してしまった例をたくさん見たよ。だからそんなことをやりたがる吸血鬼なんてそういない」
陽は隣を見た。
じっと黙っている三月の様子を窺うと、彼はどこかテーブルの脚らへん一点をぼうっと見つめて、考え事をしているようだった。
先輩、と呼ぶと、はっとして顔を上げる。
「そういえば、電話の要件はなんだったんだ? 相談があるって。そのためにここへ来たのに」
瑛次が三月に言った。
相談? と、陽は首を傾げた。
が、三月は手首を左右に振った。
「いや。なんでもない。大丈夫」
そしてゆっくり立ち上がり、ブラインドカーテンの一本を下げて外の様子を観察した。店の外には人ひとりの姿もなかった。
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