秘書課のオキテ

石田累

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1巻

1-2

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「香恋、でも気をつけて」

 じゃあそろそろ――と香恋が言いかけた時、不意に電話の向こうの親友が言った。

「なんだろ、つまり、何もかもトントン拍子にいきすぎて、逆に少し怖いってこと。大学合格までは確かに香恋の努力だけど、就職って個人の努力だけじゃ無理なところがあるじゃない」
「まぁ、そうかもしれないけど」
「内定まではギリでありとしても、希望通り秘書課配属ってのが、どうもね。何か、見えない力が働いてるような気がして」
「……それって、五年前のこと?」

 ちょっと声のトーンを下げて香恋はいた。五年前――白の王子と、黒のじいに助けてもらったあの夜の出来事。香恋の人生を変えるきっかけとなった、あの夜のことである。

「見えない力って、もしかしてその時の社長さんが私を秘書課に推薦すいせんしてくれたとか? だったら逆に嬉しいけど、その線は薄いと思うよ。……だって」

 当時社長と呼ばれていた白の王子は、すでに、ライフガーディアンズにいないのだ。
 白の王子――冷泉総一朗れいぜんそういちろう、三十六歳。LGSの創業者の玄孫やしゃごで、ハーバード大学卒。三年前に代表取締役を辞し、現在は関連企業の最高顧問職に就いている。父親はLGSの元会長、母親は国内最大手自動車メーカー会長の娘で、どちらも他界しているようだ。正直言えば、そんな経歴なんて知らなきゃよかったと香恋は思った。
 まさに、雲の上の上の人。逆立ちどころかバク転したって無理である。何が――と問われれば、言葉をにごすしかない。まぁ、つまり恋的なものだ。あの夜、香恋は恋に落ちたつもりである。

「いや、その線もあるかもしれないけど、私が気になるのは白じゃなくて、黒の方だよ」

 藍の言葉に、香恋はドキッとして眉を上げた。黒の方――鷹司脩二。

「そいつ、香恋のこと、昔から知ってた感じだったんでしょ」
「それは――あれだよ、私が勝手にそうかなって思っただけで」

 言葉を切って、香恋は少しだけ憂鬱ゆううつなため息をいた。

(この世にはむくわれない努力もある。もっともお前には、それを口にする資格すらないんじゃないか)

 あの言葉は、五年経った今でも耳に残って離れない。認めたくないが図星であり、当時の香恋にとっては、心がえぐられるような一言だった。

「ただ、その鷹司さんだって、今は本社にいないからさ」
「あれ、そうなの?」
「言わなかったっけ。三年前に海外に異動になってる。今も向こうにいると思うよ」

 冷泉社長の辞任に合わせるように、彼もまた、三年前にロンドン支社に異動になっていたのだ。
 それには正直、かなりほっとした香恋なのだった。冷泉元社長には会いたくても、あの男にはあまり会いたくない。

「そっか……。じゃあ、私の思い過ごしかな。もしかしてその鷹司って奴が、意図して香恋を秘書課に呼んだんじゃないかって思ったから」
「は? 意図? なんの? あの人とはあれ以来会ってないのに?」
「ま、なんにしても気をつけて。ロマンス小説だって、上手くいきすぎた後には、落とし穴が待ってるものだからね。とにかく鷹司には要注意、これは親友としての忠告だよ」


 五月さつきれの空の下、本社ビルが見えてくる頃には、香恋はすっかり親友の忠告を忘れていた。
 株式会社ライフガーディアンズ――通称LGS。五年前には何をやっている会社かまるで関心のなかった香恋だが、もちろん今は知っている。東京赤坂に十一階建ての自社ビルを持ち、全国に三百近くの支社を持つ。資本金二百億円強の、国内最大手の総合警備会社である。
 個人、法人向けのセキュリティー商品の販売。警備輸送。警備員の派遣。そして建物の総合管理。業務内容は多岐にわたる。
 今も本社ビルの巨大看板では、LGSの警備員服に身を包んだ小杉絢が微笑ほほえんでいる。

〈あなたの人生をがっちり守る。総合警備保障ライフガーディアンズ〉

 テレビで何度も耳にした宣伝文句。本当に夢みたいだ、その会社に自分が入社できるなんて。
 高級ホテルのようなエントランスで警備員に社員証を見せて自動ドアをくぐると、そこには大理石のフロアが広がっていた。天井から吊り下げられているのは小杉絢の巨大看板である。
 エレベーターで秘書課のある十階に降り立った香恋は、「おうっ」と外国人みたいな感嘆の声をあげた。すごい、ふかふかの絨毯じゅうたんが廊下にまで敷き詰めてある。
 ここが選ばれた人間しか入れない特別な空間だと、改めて思い知らされた瞬間だった。そして自分は選ばれたのだ。それは――かなりすごいことではないだろうか。


 高級感あふれる木製の扉を開けると、そこもまた想像以上に華麗な空間だった。
 靴が埋まるほど毛足の長い絨毯。ずらっと並んだマホガニーのデスク。革張りのチェア。
 なにより驚いたのは、そのデスクに座る女性たちの美しさだ。全員が目を見張るほどの美女である。髪のセットも、メイクも完璧。花畑のような色とりどりのスーツ。

「あ、あの、はじめまして。わたくし、今日からこちらに配属されました、白鳥」

 さすがに緊張した香恋が、そこまで言った時だった。すっと顔を上げた数人が、その視線を再び下げた。まるで「あら、関係ない人が来たわ」と言わんばかりに。
 ――え、何、このアウェー感。今日から私、皆さんの同僚になる……んですよね。

「あ……、苗字は白い鳥と書きまして、名前は、いつも名前負けしてるって言われるんですけど」
「サクマさぁん」

 香恋の言葉をさえぎるように、一番手前のデスクに座っている巻髪の女性が声をあげた。ん、サクマ?

「あ、いえ、私はサクマではなく」

 香恋がそう言うと、女はふいっと左の方に顔を向ける。

「ちょっと、サクマさん、この子早く連れてってよ。何か勘違いしてるみたいだから」

 え、勘違いって? え?

「サクマ係長なら今、外だ」

 低い声が背後から割って入った。
 香恋のすぐ後ろ、今、入ってきたばかりの扉の側――そこに立っていたのは、香恋を見下ろすほど背の高い男である。
「た」と言ったきり、香恋は言葉が出てこなくなった。
 まさか、なんで……ロンドンに異動になったはずの人が、どうして、ここに。
 ワックスで軽く流しただけの硬そうな髪、周囲を威圧するような鋭い眼差し。五年前と変わったのは、チタンフレームのシャープな眼鏡をかけているということだけ。
 たったそれだけの変化が、鷹司脩二を五年前の何倍も知的に――そして冷淡に見せていた。

「課長、今、お戻りだったんですか」

 すかさず、先ほどの巻髪の女性が立ち上がった。首にかかった名札には、志田しだはるかと書かれている。声も態度もガラリと変わり、別人のように愛想がいい。
 しかし、別人になったのは志田遥だけではなかった。

「お帰りなさい。課長」「今、お茶でもおれします!」

 全員が、スイッチでも入ったかのように満面の笑顔になったのは、何故……?

「いい。加納かのう社長と一緒に、すぐ外に出ることになった。ヤナギ主任は?」
「あ、主任は今、第二の方に」
「じゃあすぐに呼んでくれ」

 鷹司はそれだけ言うと、突っ立っている香恋のかたわらをすり抜けた。
 鷹司の大きな肩、広い背中、スーツに包まれた長い手足。香恋はまだ、言葉が何も出てこない。

「突っ立ってないで、さっさと挨拶あいさつにでも行ったら?」

 志田遥が横目で香恋を見ながら、つっけんどんな声で言った。

「新任の課長の挨拶があるから十二時集合、って連絡あったでしょ。もう一時じゃない。初日から何、遅刻してんのよ」
「え、聞いて、ない……って、新任の課長って?」

 思わず聞き返した香恋に、遥はさも不機嫌そうな目を向けた。

「前の課長が昨日付で退職したの。てか、馴れ馴れしくタメ口なんてきかないでよ。第二のくせに」
「第二……?」
「あなた、――白鳥さん、こちらに来て。新任の課長を紹介します」

 不意に、奥の方からりんとした美声が響いた。はじかれたように顔を上げた香恋の視界に、声の印象以上に綺麗な女性が現れた。
 身長は百七十センチくらい。八頭身で顔が人形みたいに小さく、髪は後ろでひとつに束ねられている。
 一体どこから現れたのだろう。さっきまで、こんな人はいなかった。この人がいるだけで、言っては悪いが、他の女性たちが一気にかすんで見える。
 一瞬ぼうっとした香恋だが、その人の背後に鷹司の姿を見つけて、たちまち顔が引きつった。室内最奥に置かれたデスクについた鷹司は、両ひじをついて指を組み合わせ、刺すような眼差しで香恋を見つめている。

「私はここで主任をしているやなぎです。よろしく、白鳥さん」

 おずおずと歩み寄った香恋に、美しい人はそう言って微笑ほほえみかけた。彼女の名札には、柳沓子とうこと書かれている。すごい、声も顔も綺麗な上に、名前まで美しいなんて。

「こちらは鷹司脩二課長。数年前まで、本社の秘書課、企画部で活躍されていました。その後、ロンドン支社の統括部長をなさっておいででしたが、急遽きゅうきょ、本日付で本社の秘書課長に就任なさいました。企画部の戦略担当室長と兼務なので不在のことも多いと思いますが、その分は私がフォローすることになります。鷹司課長、こちらは」
「お前、化粧は?」

 いきなり鷹司が香恋に向かって口を開いた。
 え、――化粧? 化粧って言った? 
 香恋は、戸惑いながら柳を見た。しかし柳は、どうぞ? と言わんばかりの笑みを浮かべて鷹司の背後に退しりぞく。まさかと思うけど、二人で会話しろってことだろうか。

「化粧って……メイクの、ことですか」

 質問の意味がわからなくて聞き返したのだが、鷹司はひどく冷淡に笑った。

「メイクか。おやじくさい言い方で悪かったな」

 言うなり、鷹司は無造作に机を叩いた。その音は、静かな室内に思いの外大きく響く。

「ここで仕事をする気なら、食事の後は口紅くらい塗り直せ。みっともないつらで、間違っても客の前に顔を出すな!」

 香恋は、驚きともいきどおりともつかない感情のまま、ただ唖然あぜんと口を開けた。
 何、それ。なんなの、それ。確かに浮かれて、メイク直しを忘れたことは認めるけど、それを男性が――上司が、皆の前で大声で言う?

「それから、遅刻だ」

 たたみかけるように、鷹司は続けた。

「時間厳守はな、社会人として最低限のルールだ。いいか、連絡事項には必ず目を通せ。意識を常に周囲の状況に向けておけ」

 それだけ言って席を立った鷹司は、突っ立っている香恋を無視して歩き出す。
 香恋はとっさに、鷹司の背を追った。

「ちょっと待ってください。あのですね。――私、本当に聞いてないし、知らなかったんです」

 新任の課長が来ることも、そのために十二時集合になったことも。

「知っていれば、遅刻なんて絶対にしません。それで叱られるのは、納得できません」
「なるほどな」

 振り返った鷹司は、眼鏡越しの冷たい目で香恋を見下ろした。

「今の最低な受け答えだけで十分だ。もう用はない、とっとと自分の部署に戻れ」

 は――?

「五年前、お前は社長秘書になりたいと言ったな? あの時にも言ったが、今改めて言ってやる。お前には無理だ」

 それは、香恋を侮蔑ぶべつするような冷ややかな口調だった。

「大恥をかく前に、さっさと荷物をまとめて田舎に帰るんだな。――挨拶あいさつは以上」

 鷹司は柳主任をうながすようにして、外に出て行った。
 取り残された香恋の背後では、ひそひそと不穏なささやきが聞こえる。

「何、あの子、鷹司課長と知り合い?」
「社長秘書になりたいって……馬鹿なの?」

 ――最低だ。……何、余計なことを暴露してくれたんだろう。
 あいつは悪魔だ。五年前はモヤモヤとした疑念だけだったけど、今ならはっきり言える。どんな理由からかは知らないけど、あの男は私を、心の底から嫌っているのだ。

「やぁやぁ、すみません、すみません、遅くなりまして」

 その時、間の抜けた声が、その場に響いた。
 振り返った香恋の前に、ひどく猫背の初老の男が立っていた。目も眉も細く、髪は白髪しらがじりの短髪。よれよれのシャツにねじれたネクタイ。言っては悪いが、見るからに貧相な男である。
 首にぶら下がった名札には、くましん、と書かれている。――わかった。この人がサクマさんだ。

「新人さん、来ましたか。挨拶はもう? そうですか。はいはい、じゃ、行こうか白鳥さん」

 せぎすで丸まった背中が、すたすたと左の壁に向かって歩き出す。いや、よく見ればそれは壁ではなく、壁と同色のパーティションだ。――そこに、小さな扉がある。
 佐隈の枯れ枝みたいな指が、ノブをつかんで扉を開けた。

「はい、ここが君の職場ね。秘書課第二係、通称第二」


 目の前に広がっているのは、先ほどまでいた部屋の七分の一程度の広さの空間だった。床は灰色のリノリウム。どうやら絨毯じゅうたんは、きっちり扉のところで途切れているようだ。
 室内には、なんの変哲へんてつもない事務用デスクが三つ。そのひとつに目を向けた香恋は、ぎょっとして足を止めた。長い黒髪がデスク一面に広がっている。まるで、昔見たホラー映画のようだ。テレビの中から髪を垂らした女の人がいずり出てくる、あの感じ――
 その黒髪デスクの背後を、佐隈はスタスタと通り過ぎた。

「彼女、フジコさんね。不二子ちゃんじゃないよ。漫画家の方。苗字だからね。ベテランなんで、経理のことは彼女に教えてもらってください――藤子ふじこさん、昼休憩とっくに終わってるよ」

 爆睡しているらしい藤子さんは、それでも目を覚まさない。仕方なく香恋は頭だけを下げ、そして慌てて、佐隈を追った。

「ちょ、どういうことなんですか」
「どういうこととは?」

 ようやく佐隈が足を止めて振り返る。真面目なんだか笑っているんだかわからない佐隈の顔に、香恋は一瞬、どうリアクションしていいかわからなくなる。

「だって――おかしいじゃないですか。同じ秘書課なのに、違いすぎるっていうか。差がありすぎるっていうか。つまり向こうはセレブで、こっちは貧乏ですか?」
「普通だよ」

 佐隈はちょっと目を丸くして香恋を見た。

「ここが、ごく普通の職場で、あちらさんが豪勢なだけ。第一が表で第二が裏ってだけの話」
「裏……?」

 うんうんとうなずいて、佐隈は係長席にちょこんと座った。

「第一さんが、重役連中のおりを表立ってする立場なら、第二はそのサポート役。会場や車を手配したり、経費のチェックをしたり、給与や手当てなんかの庶務的な作業をしたり……」

 少しの間天井を見上げた佐隈は、これ以上考えるのを放棄するみたいにパソコンを開いた。

「まぁ、つまるところ、同じ秘書課でも、第一と第二はやることがまるで違うってこと。あと基本、第二は第一の部屋に入れないから、そこんとこ間違えないようにね」
「は? 入れない?」
「第一には、役員や来客が頻繁に出入りするんだよ。第一の奥に役員専用のフロアがあって、来客なんかは、必ず第一を通過するようになってるからね」

 香恋はポカンと口を開けた。

「つまり、……第二の私がいては、来客応対の邪魔になると……」
「邪魔っていうか、ズバリ、目障めざわり。秘書課の品格の問題ね。もう知ってると思うけど、うちの会社に取締役は七人いて、その半分くらいが創業一族の親族なの。つまり、超セレブ。で、セレブの客もまたセレブ。もっとはっきり言えば、貧乏人は第一にお呼びじゃないって話」

 香恋は開いた口を閉じることも忘れていた。嘘でしょ。同じ職場で、そんな格差、アリ?
 ちょっと……この待遇といい、先ほどの新任課長鷹司の、人を人とも思わない態度といい……
 親友である藍の予感は、見事に当たりだ。ここは最悪の職場だった。

「それにしても、さっきは残念だったね」

 鼻歌まじりに、佐隈はパソコンのキーボードを叩き始めた。

「さっき、と言いますと」
「ん? 鷹司君、あ、クンじゃないか、鷹司課長」

 なぐさめてくれるのかと思った香恋は、つい身を乗り出していた。

「そうですよね。ひどすぎですよね。私、本当に時間変更のことなんか聞いてないんですよ」
「そりゃそうだ、僕が伝え忘れたんだから」

 へ……? あの……、なんですと?

「ああいう時にどう切り返すかで、君の印象も随分ずいぶん違ったんだけどねぇ。上司の言葉を別の言葉で言い直したり、頭から反論したりするのはまずいよ。せっかく柳主任にアピールするいいチャンスだったのに」

 思わぬ言葉に、香恋は眉を寄せた。

「……どういう意味ですか」
「どうもこうも、君、秘書希望なんでしょ? もちろん第二も秘書課には違いないんだけど、いわゆる秘書的業務は第一の仕事で、第二に秘書はいないからね。で、第二から第一に上がるには、柳主任の推薦すいせんがないと絶対に無理なんだよ。これは昔からの秘書課の伝統っていうかおきてみたいなものなんだけど、現場秘書のトップは主任で、主任の采配さいはいには、課長も口を出せないからね」

 そうだったんだ――あの美しくて優しそうな人が……鷹司よりもある意味、上?

「で、その柳主任は君の目指す社長秘書で、超多忙だからね。君が主任にアピールする機会ってそんなにはないわけだ。これからは少しのチャンスにも目を光らせてないと、君、永久に第二だよ」

 それだけ言うと、佐隈は、再び鼻歌まじりにパソコンのキーボードを叩き始めた。


     ◆


「で? 結局最初の挨拶あいさつは、鷹司って奴があえて香恋にくれたチャンスだったってこと?」
「まぁ、そうだったのかもしれないけど――」

 二週間ぶりに郷里の親友、前田藍とスカイプで会話をしていた香恋は、ふぅーっと大きなため息をいた。
 会社からほど近い1Kの独身寮。築三十年以上のオンボロで、やたら門限に厳しいこの独身寮を利用しているのは、同期の女子の中でも香恋一人らしい。

「いや、やっぱり違うと思う!」

 その後の仕打ち――秘書課第二係に配属されてから今日までの二週間を振り返り、香恋はきっぱりと言って拳を握りしめた。
 佐隈があんなことを言ったから、「チャンスをくれたの?」と少しだけ思ったのもつかの間、鷹司はやっぱり最悪だった。柳主任がいるいないにかかわらず、些細ささいな事で香恋を呼び止めては、説教、厭味いやみ、説教、厭味。そして怒涛どとうの雑用投下。重箱の隅をつつくようなミスの指摘……
 説教の最後は、必ず「辞表ならいつでも受け取るぞ」とか「いつ実家に帰るんだ? 繁忙期は特急料金が二百円増しだから、早く決断したほうがいいんじゃないか?」といった強烈な皮肉で締めくくる。

「やっぱりこれって、イジメ? 復讐? 私、知らないうちにあいつの恨みを買っちゃってる?」
「まぁ、話聞く限り、イジメとは少し意味合いが違う気もするけどなぁ」

 案外冷静な藍はそう言って、ちょっとだけ考えるように間をあけた。

「なんだったら、そっちに行こうか。私」
「それはいい」

 香恋は即答で断った。藍が出てくると、色んな意味で大変なことになる。

「まぁ、いいや。私が乗りこむのは最後の手段として。それで同じ係の人たちはどうなわけ? ちゃんと香恋の味方になってくれてるの?」
「うん……まぁ、二人ともいい人っちゃあ、いい人なんだけど」

 第二係は香恋を入れて三人しかいない。係長の佐隈と、先輩社員の藤子さんこと藤子はなだ。
 佐隈は第二係長歴十年。超マイペースの変わり者で、味方でもなければ敵でもない。
 香恋がちょっと引っかかっているのは、初日に髪を広げて爆睡していた藤子さんだ。三十五歳。独身。ほわんとして案外可愛らしい人だが、どうも微妙に避けられているのかな、という気がする。無視されているわけではない。挨拶あいさつ程度の会話もする。ただ仕事に関しては――無関心、というより思いっきり見て見ぬふりをされているようなのだ。

「まぁ、佐隈係長と藤子さんは経理担当で、私とはやってることが違うから。その点ではあまり頼りにはならないんだよね。だから味方っていうのも、ちょっと」
「ん? じゃあ、香恋は一体何やってんの?」
「私の仕事は、その他全般。雑用係ってとこなのかな」

 香恋は、再び天井に向かって嘆息たんそくした。

「お茶出し、会議室の手配、片付け、コピー……まぁ、なんでも屋みたいな感じだね。第一係のお手伝いみたいな。少しでも手が空いたら、鷹司からすぐに仕事が降ってくるし」
「どんな仕事が降ってくるの?」
「もう思いつく限りなんでもって感じ? 荷物のお届け、手紙の代筆、出てもない会議の報告書の作成、英文レターの翻訳――できるわけないよね? とにかく、それを超早口で一気に言われるの。ちょっとでもメモを取り忘れたらたちまち雷。鬼よ、鬼、あの男は鬼なのよ!」

 しまった。また感情的になってしまった。香恋はごほん、と咳払せきばらいをした。

「まぁ、色々言ったけど、とりあえず私は大丈夫。とにかくそいつ――鷹司のことを思い出すとね。なんだろ。もう、腹の底からフツフツと? やる気が湧いてくるのよ」

 どんな厭味いやみにも、ひどい扱いにも、絶対にを上げたくない。
 とりあえず社長秘書の夢は置いておくとして、あの男――鷹司脩二に、たった一言でいい、「よくやった」と言わせたい。

「そうだ、それにすっごい素敵な人がいるんだよね。柳主任っていって、社長秘書。女の人なんだけど、もう超素敵、超かっこいいの!」
「……ああ、香恋は基本、すぐ誰かに憧れるからね……」

 今度は藍がため息をいた。

「まぁ、仕事のことは心配してないよ。なにしろ香恋は、うちの父ちゃんお墨付きの働き者だから。高校の時だって、うちの店で売り子やったり、原チャの免許取って出前行ってくれたり」
「そりゃ藍のおっちゃんにはお世話になったからさ。子供の頃からご飯食べさせてもらったし」

 それに、あの事件ではすごい迷惑をかけてしまった――蒸し返すと藍が怒るから言わないけど。

「問題は、目先のことに夢中になるあまり、すぐに本質を見失うってことだよ。柔道だって最初は小杉絢のおっかけだったのが、頭数合わせで試合に出されて、あれよあれよと代表選手に」
「そりゃ、絢ちゃんみたいになりたいと思ったからだよ!」

 女子柔道界に燦然さんぜんと輝くひとつ星、小杉絢。香恋は子供みたいに目を輝かせた。
 女子高生が金メダルをゲットしたことで、日本国中がにわか柔道ブームにいたあの頃――香恋はまだ小学校に上がる前だった。以来、小杉絢はずっと香恋の憧れの人だったのである。

「握手してもらった時のことは、今でもはっきり覚えてるよ。その頃、私は中学生で――絢ちゃん、色々バッシングとかあったけど、翌年のオリンピックで三度目の金メダルを取ったんだよね」

 当時の小杉絢はオリンピック出場が危ぶまれるほど成績が悪く、その上恋人との手つなぎデートが写真誌に掲載されたため、マスコミから手のひらを返されたように叩かれていたのだ。

「いや、だから今はそういう話をしてるんじゃ……あ、ごめん香恋、ちょっと待っててくれる?」

 多分店の手伝いだろう。藍が画面から消えたので、香恋は所在なく仰向けになった。
 藍と香恋は幼稚園の時からの幼馴染おさななじみで、小中高と全て同じクラス。共に父子家庭で父親同士の仲も良かったため、幼い頃から姉妹同然に暮らしてきた。
 柔道一筋、町の猛犬と呼ばれた香恋と、ロマンス小説の熱心な愛読者で、誰もが振り返るほどの美少女の藍。対照的な外見を持つ二人は、力関係でいえば香恋の方が下だった。
 藍はとにかく、外見に反して勇ましいのだ。小さい頃から彼女の父親が営む肉体労働者向けの定食屋を手伝っていたせいか、いざという時の男らしさは半端ない。もしかして中身はおっさん? と思うことさえある。おせっかい度も半端なく、恋愛事と見れば目の色を変えて介入してくる。ちなみに、藍が介入してきた恋愛は上手くいった試しがない。

「香恋、お待たせ。あれ、香恋?」

 親友を待つ間に、香恋はいつしか眠りに落ちていた。
 ああ、明日も頑張らなくちゃ。早くあの鬼上司を見返して、よくやったって言わせるんだもん。それまで、絶対、辞めたりなんかしない……


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