秘書課のオキテ

石田累

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1巻

1-3

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     ◆


「――模様」

 新聞から顔も上げずに鷹司は言った。
 朝。秘書課第一係。課長席に湯呑みを置いて立ち去ろうとした香恋は、足を止めて首をかしげた。

「模様といったら湯呑みの模様。お前の耳は飾りか?」

 しまった。お茶の温度から出し方、手の添え方まで完璧だったのに、また、そこを忘れていた。

「う、……申し訳ありません」

 香恋は作法通り頭を下げ、湯呑みに手を添えて向きを変えた。模様がお客様の前になるように――相手はお客様ではなく、課長なのだけど。
 新聞をデスクに置いた鷹司がようやく顔を上げる。チタンフレームの下の冷たい目は、今朝は一段と不機嫌そうだ。

「不思議なもんだよな」

 湯呑みを長い指でつかみ、唇に軽くつけてから鷹司は言った。

「お茶なんて茶葉に湯をそそぐだけだろ。誰がれても同じ味のはずなのに、どうしてなんだろうな」
「どうして……と、おっしゃいますと」
「ただの煎茶せんちゃれ方によっては玉露ぎょくろのようになるし、最高の玉露も淹れ方によっては出がらしになる。これは本当にいい見本だよ」

 ――言いたいことがあるなら、はっきり言ってくださいよ!
 香恋は心の声をぐっと呑みこんだ。これも朝の恒例行事。どうせ何を出したって、鷹司が厭味いやみ以外の言葉を口にすることはないのだ。

「それからついでに言うけどな。昨日回ってきた今月の業務報告書。あれ、日本語じゃないよな」
「……は? どういう意味ですか、それ」

 思わず香恋の口から反論めいた言葉がれた。

「申し訳ございません。仰っておられる意味が、私の頭ではわかりかねるのですが。――はい」

 背中に隠した両拳を握りしめ、香恋は引きつった笑顔で鷹司の言葉を復唱した。くっそお……本当に覚えてろよ、この男。

「業務報告書のお前のレポート。日本人の俺に読めなかったから、てっきり日本語じゃないと思ったんだが? なぁ、あれは一体何語だったんだ?」

 課長席の前に立つ香恋の背後からは、秘書たちの抑えた笑い声が聞こえてくる。
 もう駄目。もう限界。毎度のことながら、このあたりが限界だ。香恋は顔を上げていた。

「鷹司課長。お言葉を返してよろしいのなら、私は日本語以外の言語を知りません」
「堂々と言うな。バーカ。ここにいる全員が、少なくとも英検一級は持ってんだよ」

 だん、と鷹司の手がデスクを叩いた。ひっと香恋は首をすくめる。

「お前、当然英会話くらい勉強してるんだろうな」
「き……基礎英語Ⅱくらいは」
「はぁ? 中学生か。それで社長秘書になりたいなんてよく言えたもんだ。いいか、時代は今」
「いっ、今は時間もお金もないんです。もうちょっと余裕ができたら、英語くらい習いにいきますよ」

 長い説教の前触れを予感し、香恋はとっさに反論した。鷹司がむっと眉を寄せる。

「給料、ちゃんともらってるよな。多少高く思えても、自己投資はビジネスマンの基本だぞ」

 わかってます。わかってますけど――色々、言いたくない事情もあるんですよ。
 だいたい英会話を習おうにも、毎日残業で帰宅は夜の十時すぎ。今は、仕事だけで一杯一杯だっていうのに。
 課長席のすぐ側には、憧れの人、柳主任のデスクがある。その席に座る柳は、こちらの会話を聞いているのか微笑ほほえんでいる。それが、一番恥ずかしい。
 その柳が、くすくすと笑いながら立ち上がった。

「話が盛り上がっているところ、ごめんなさい。課長、そろそろお時間です」

 あの……何が盛り上がっているって……
 唖然あぜんとする香恋には構わず、鷹司は立ち上がって上着を羽織り、腕時計に視線を落とした。

「車の用意は?」
「下にクラウンを。今日は私が運転します」

 かっこいい――!
 むろん、鷹司のことではない。柳主任のことである。
 柳主任は三十五歳、鷹司より三歳も年上だが、そんな年にはとても見えない。かつて鷹司が秘書課主任だった頃の同僚のようで、何をするにも二人の息はぴったりなのだ。
 こういう時、香恋は少しだけ嫉妬めいた感情にかられてしまう。柳にではない。鷹司に。なにしろ今の香恋の憧れの人は、柳主任なのだから。
「白鳥」と、足を止めた鷹司が言った。

「今日の仕事のリストは、社内メールで送っているからな。全部、残さずやりげるように」
「わ、か、り、ま、し、た」

 やるわよ。たとえ十時になろうと十一時になろうと、やりますとも。絶対完璧にやり遂げて、「よくやった」と言わせてやるんだから。
 憤慨ふんがいしつつ、盆を持って廊下に出たとたん、どんっと誰かと肩がぶつかった。

「あ、すみま……」

 顔を上げた香恋は、凍りついた。相手は志田遥である。香恋より少し上背うわぜいのある遥が、何故だかものすごく恐ろしい目でにらんでいる。

「課長に目をかけられてるからって、いい気にならないでよね。なんの資格もないブスのくせに!」

 そう言って通り過ぎた遥の背を、香恋はしばらく呆気にとられて見送った。


「まぁ、そう言われるのも無理はないね。志田ちゃんに限らず、第一の女子は、みぃんな鷹司君狙いみたいなところがあるから。第二のくせにベタベタして! みたいな感じじゃないの」

 ネット囲碁を打ちながら、佐隈は心底楽しそうに言った。
 いや、面白がってる場合じゃないんですよ、マジで。それに、どのあたりがベタベタなのか。
 昼休憩。第一の秘書たちに茶を配り終えた香恋は、ぐったりと机に突っ伏していた。上司のパワハラに次いで、同僚に嫌われていることも判明。この職場で、私、やっていけるのだろうか。

「てゆうか、鷹司課長ってそんなに人気なんですか」
「人気ですよ。だって三十二歳で本社課長って、そんなエリート滅多にいないもん」

 ひょい、と佐隈は肩をすくめた。

「しかも身長百八十五センチのイケメンだし。以前、秘書課で主任をしていた頃は、鷹司君のためにおきてがひとつ追加されたくらいだからね」
「……どんな掟ですか」

 掟というのは、秘書課の掟のことである。いわば秘書課に代々伝わる不文律ふぶんりつのようなもの。主任に人事権があることから始まり、服装やメイクのしきたりまで、様々な種類がある。文章化されていないから、ひとつひとつ経験しながら覚えていくしかないらしい。

「課内恋愛禁止。鷹司君自ら提案したっていうから、よほどウンザリしてたんだろうね。ははは、モテメンは余裕っていうか、やることが厭味いやみだよねぇ」

 最後の一言だけは共感できたが、そうか――鷹司め、そんなにモテまくっていたのか。

「みなさん、ドMなんですね」

 ややふてくされて香恋が言うと、ふはっと、意味深に佐隈は笑った。

「わかんないかなぁ。九は厳しくても残りの一が優しい。そういうのに、女子はみんなやられちゃうんだよ。彼って本当は優しい人……? そのギャップにときめいた時が、恋の始まりなんじゃないの」

 その一の優しさは、果たして私に向けられることがあるのだろうか。それにしても、そこまで分析する佐隈係長って意外と女子力が高いのでは……

「佐隈係長も、私が課長に目をかけられてるって思います?」
「いや、全然。だって君、明らかに秘書向きじゃないもん」

 即答されてしまい、さすがにガクっと肩が落ちる。

「まぁ、目をかけられてるってよりは、どうしようもなく駄目な生徒を、一生懸命引っ張る先生って感じだね。教え方は乱暴だけど、秘書の基本を伝授でんじゅしてるようにも見えるし」
「え、それ、どういう……」
「君が、どこから見てもうちの秘書向きでないだけに、不思議でならないよ。鷹司君はもっと割り切ったタイプの人間だと思ってたけど、ロンドンで性格変わっちゃったのかもしれないねぇ」

 香恋がその意味を尋ねようとした時、パーティションの扉が開いた。

「白鳥さん、ちょっといいかしら」

 朝から外に出ていた柳主任である。憧れの人の登場に、香恋は目を輝かせて立ち上がった。
 ちなみに、第二係の室内に扉はふたつある。ひとつは第一係との間を仕切っているパーティションの扉で、もうひとつは廊下に通じる扉である。パーティションの扉は原則一方通行で、その扉を開けて勝手に出入りできるのは、第一係の人たちだけだ。第二係から第一係に入るには、あちら側の呼び出しか許可が必須。それもまた、秘書課のおきてのひとつである。

「ごめんね、お昼休みに。ちょっと急な仕事を頼まれてくれる?」

 わー、なんだろ。柳主任に直接仕事を頼まれるのは初めてだ。
 ドキドキしながら駆け寄る香恋に、柳は優しく微笑ほほえんだ。そして、言った。

「今日の午後一時、社長室にテレビの取材クルーが入るから、控え室の手配と記者の誘導をして。それから、外部団体の方が二時に社長を訪ねて来られるので、会議室の確保と湯茶ゆちゃの手配。二十名分ね。会議資料は先ほどメールで送ったから人数分コピーしておいて。――メモは?」

 呆気に取られていた香恋は、はじかれたように近くのコピー機から白いコピー用紙をつかみ取り、上着の内ポケットに差しこんでいたボールペンを取り出した。
 ちょっと待って、もしかしてこれ、鷹司課長の三倍の量?
 その後も柳のオーダーは延々と続き、香恋はコピー用紙三枚分のメモを取った。

「以上。ちょっと多くなっちゃったけど、時間制限のないものは今日中にお願いね」

 最後に優雅に微笑んでそう言うと、柳は再び第一係の部屋に戻っていった。


     ◆


「ちょっとお、無線LANの調子がメチャ悪いんですけど、どうなってんの」
「は、はいはい」

 昼休憩。第一係から聞こえる志田遥の声に、香恋は第二係のコピー機の前に立ったまま返事だけをした。悪いけど今、それどころじゃないんですよ。
 昨日に次いで、その翌日である今日も、柳主任の無茶苦茶なオーダーは続いた。
 そのひどさは、もはや鷹司が天使に思えるほどだ。昨日はさすがに全てをこなすことができなかった。なのに、またしても今日、その倍の仕事が容赦ようしゃなく振られたのである。
 会議資料を五十名分、大至急。一時には届け物をしに外に出なければならないから、それまでに作っておかないと間に合わない。

「そっちで原因調べてなんとかしてよ。これじゃ大事なメールが打てないじゃない」
「やー、でも、こっちのパソコンは問題ないですよ」
「はぁ? あんたのパソコンなんてどうでもいいのよ。いいから早くこっちに来て直してよ!」

 ああ、なんかもう泣きそう。唯一の心のり所だった柳主任にまでこんな仕打ちを受けるなんて――マジで私、ここでやっていく自信がなくなってきた。
 香恋は助けを求めて、佐隈と藤子の顔を見たが、藤子は例によって逃げるように目をらし、佐隈は首をぶるぶると横に振る。まぁ、最初からこの反応は予想していたが。
 その時、第一係と第二係の間の扉が勢いよく開いた。

「あーっ、もうっ、だから、今は無理なんですって!」

 しかしそこにいたのは遥ではなかった。ちょっと驚いた顔で立っていたのは、鷹司だ。

「何が無理だって?」
「……いえ」
「最低の出迎えだな。これが来客か役員だったら、間違いなく、お前は、クビだ」

 くっ。指を差されて駄目出しするみたいに言われても、なんの言い訳もできない。

「おや、鷹司君……じゃない、課長、何か用かね」
「ちょっと時間が空いたので、よろしければ久しぶりに一局おつきあい願えないかと」
「おっ、いいねぇ。それじゃあぜひ、お相手願おうか」

 え、なんの話――? と思う間もなく、鷹司と佐隈の二人は、室内の端に置かれた長机に向き合って座り、パチリ、パチリ、と碁を打ち始めた。
 ――はぁ、囲碁ぉ? 部下がてんてこ舞いなのに、どういうこと? 
 香恋は呆れながら鷹司を見て、改めて不思議な人……と思っていた。
 三十二歳にして課長というのも驚きだが、その前職はロンドン支社の統括部長。実質、支社のナンバー2というポジションだ。確かに佐隈の言うように超エリートには違いない。
 ただ、その華やかな経歴の割にはガツガツした所がひとつもないのも、また謎だ。
 企画部戦略担当室長とかいう、何をしているかよくわからない部署との兼務のせいか、一日の半分は秘書課にいないし、いても自分は表に出ずに、柳主任のサポート役にてっしているように見える。
 そういえば、鷹司は冷泉元社長と今どうなっているんだろう。

「ちょっと、第二! いつまで私を待たせんのよッ」

 その時、遥の金切り声がして香恋は我に返った。
 仕方ない、こうもうるさくては仕事にならない。香恋は急いで戸棚から無線LANの設明書を取り出して、パーティションの扉に手をかけた。その時だった。

「優先順位が、違う」

 ――え?
 振り返ると、鷹司は香恋に背を向けた状態で腕組みをしている。その背中が言った。

「その局面で、それはないと思いますが」
「そうかい。僕はそうは思わ――あっ、しまった」

 囲碁の話かい。
 それでも、ちょっと迷った香恋は、LANの説明書を机に置いた。
 そうだった。勢いであっちに行こうとしたけど、重要度では柳主任の仕事がはるかに大きい。

「第二――っ、何やってんのよッ」
「ごめんなさい。あと十分で終わりますから、こっち先にやらせてください!」

 香恋は急いでコピー機に向き直ると、再び作業に専念した。


「白鳥さん、今度はこれ、頼んでもいいかしら」

 柳にそう言われたのは、そのさらに翌日――彼女の前に午後のコーヒーを出した時だった。
 一瞬、香恋の顔に動揺が浮かんだ。なにしろ、二日にわたってあれだけこき使われたのである。柳には変わらず憧憬どうけいを抱いているが、もしかすると、ややエス気味の人なのかもしれないと感じていた。

「昨日は、頑張ったわね」

 しかし柳は、香恋の内心を読んだように微笑ほほえんだ。

「かなり無茶なオーダーをしたのはわかっていたけど、それもあなたのタスク管理能力を確かめたかったからなの。五月からずっと鷹司課長に仕込まれたせいかしら。優先度をきちんと判断して的確に仕事をこなしていたわね。――合格よ。その意味では」

 え……え……

「週明け、うちに内部監査が入るの。それで過去五年の外勤手当の集計表を提出するんだけど、昨日確認したらデータの集計方法に誤りがあって――五年分だから、かなりの量になるんだけど」

 柳は微笑みを浮かべたまま、香恋を見上げた。

「明日の朝までに、直しておいてくれる? ちょっと時間はかかると思うんだけど」
「は、はい、わかりました」

 うわ、なんかすごいドキドキする。よくわからないけど、一ランク上の仕事を任された感がある。

「それから、……これなんだけど、見たことある?」

 きょとんとする香恋に、柳はコピー用紙をじたファイルを差し出した。
 細かい字でびっしり印字されているその内容は、様々な会社の役員たちの個人情報のようだ。住所や家族構成から個人的な嗜好しこうまで。香恋は少し驚いて柳に視線を戻した。

「いえ、今初めて見ました。これは……」
「現行役員と取引先相手の詳細な個人情報……これはコピーしたごく一部なんだけど。秘書課専用フォルダにパスワード付きのファイルがあるの。当然、部外秘ね」

 なんだかワンランク上どころか……ものすごく上?

「このファイル、毎年情報が変わるからその都度つど私がチェックして作り直しているんだけど、その修正、白鳥さんに頼んでいい? パスワードは今からメールで送るから」

 少し離れた場所から、小さな咳払せきばらいが聞こえた。顔を上げると、斜め奥の課長席で、鷹司が唇に拳をあてている。ひどく苦々しい目をしているが、風邪だろうか。

「……え、でも修正っていっても、何をどのようにしたらいいのか」
「六月の株主総会で役員に変更があったかどうか確認してくれればいいのよ。家族や趣味等の個人情報の部分は、確認が取れる度に私が修正しているから大丈夫。なるべく早めにお願いね」

 香恋がうなずくと、柳は満足そうに微笑ほほえんだ。そして両ひじをつき、香恋を見上げる。

「それから、明日なんだけど、夜、空いてる?」
「え、夜ですか?」
「加納社長が、一部の幹部を招いてカクテルパーティーを開かれるの。よかったら参加しないかと思って」

 その瞬間、香恋は秘書たちの鋭い視線を背中に感じた。そのような表の場には、たとえ私的なもよおしであっても、第二係は出てはならないというおきてがあるからだ。
 ドキドキが急速に高まった。もしかして私、柳主任に気に入られて、秘書への階段を着実に上がってる? このまま順調にいけば、秘書になれるの?

「行きます。絶対、行きます!」
「そ、じゃあ、七時にエスペリアホテルの二十二階にね」

 やった。やったよ。藍。秘書課に配属されて一ヶ月、ようやく奈落にも光が差しこんできた。

「おい」

 うきうきと給湯室に盆を置きに行ったところで、背後から声をかけられた。香恋は振り返り、固まった。げっ、なんで課長が給湯室に来るのよ。

「何、浮かれてんだ。馬鹿。――どけ、邪魔だ」
「ちょ、何する気ですか」
「お前のれた茶があまりに不味まずいから、自分で淹れ直すんだよ」

 ……何それ。そんな厭味いやみってアリですか。
 本当は、お礼を言おうかなって、少しだけ思ってたのに。だって今日、柳主任にめられたのは、なんだかんだ言ってこの人が厳しく教えてくれたおかげだから……
 それに、昨日だって――優先順位が違う、と言ったのは、あれは囲碁の話じゃなくて――
 そんな香恋の目の前で、鷹司は棚から煎茶せんちゃの缶を取り出し、自ら茶をれ始めた。
 ――う、上手い。
 茶葉を入れる。湯呑みを温める。抽出ちゅうしゅつ時間はきっかり六十秒。その手つきの鮮やかで美しいこと。香恋は思わず、我を忘れて見入っていた。
 そっか、鷹司は五年前は秘書課主任。つまり今の柳のポジションで社長秘書をやっていたのだ。今の秘書課には男性秘書は一人もいないが、当時は自らお茶淹れもしていたのだろうか。

「お前、明日は行かないほうがいいぞ」

 明日? 明日って、加納社長のパーティーのこと?
 眉を寄せる香恋の前で自分で淹れた茶を飲み干すと、鷹司は湯呑みをシンクに置いた。

「洗っとけ」
「ちょっと」
「――言っとくが、柳主任は、お前が思うほど優しい人じゃない」

 香恋の声をさえぎるようにそれだけ言うと、鷹司はさっさと給湯室を出て行った。


「で、その柳主任って人に頼まれた仕事は終わったわけ?」
「うん。外勤手当の集計の方ね。結局、十一時までかかったけど」

 深夜二時。スカイプの画面には、親友藍の眠そうな顔が映っている。

「ごめん……、マジで眠いんだけど、本当に今からメイクの練習なんてするの」
「するする。だって今まで地味な就活メイクで通してきたからさ。こら、寝ないで見ててよ」

 香恋はコンビニで買ってきたメイク雑誌をめくった。

「服はさ、藍に就職祝いにもらったツーピース。あれ着ていくことにしたから。冷泉さんとの再会用にとっといた勝負服だけど、明日もある意味勝負だからね!」

 すでに藍は、椅子に背を預けて爆睡しているようだった。
 ま、いいか。本当は、鷹司に言われたことも相談するつもりだったけど、藍に何を言われたところで、明日のパーティーを欠席する気はないし。

(柳主任は、お前が思うほど優しい人じゃない)

 ふんだ。気にしないもんね。そりゃ仕事だもん。優しいばかりの上司なんていないでしょ。
 厭味いやみを言わないだけ、柳主任の方がよほど香恋には信頼できる。
 そう。明日は入社式以来、初めて社長に会えるのだ。加納元佑げんすけ代表取締役社長。気難しいと言われているが、実際はどんな人だろう。おじいちゃんみたいな年だから、話せば案外優しいかも。
 ああ、ドキドキして眠れない。地下室のシンデレラが、明日は初めて表舞台に立てるんだから!


     ◆


「あれ、あれあれ?」

 翌朝。机についた香恋は頓狂とんきょうな声をあげた。パソコン内のどこを探しても、昨日のファイルが見つからない。
 昨日十一時までかかって作成した内部監査用の資料がない――ない。消えている!
 香恋は口を押さえて立ち上がった。どういうこと? 修正前のファイルは残ってるけど、肝心の最新ファイルが消えているなんて。保存したのは間違いないのに。

「白鳥さん、柳主任が――ぶぶぶっ」

 声をかけてきた佐隈が、顔を背けてき出した。佐隈のこの反応は、本日これで二度目になる。

「なんですか、失敬な」
「だって、見慣れないんだもん。つけ睫毛まつげ、今度は右がずれてるよ」

 慌てて香恋は手鏡を取り出した。くっ、やっぱり付け焼き刃では無理があったか。

「だいたいピンクって、白鳥さんには全く似合ってないと思うんだけど、どう、藤子さん」

 藤子は顔も上げずに首を横に振る。気のせいかもしれないが、今朝はいつも以上に素っ気ない。

「いいんです。これは郷里の親友がプレゼントしてくれた、大切な勝負服なんですから」

 香恋はちょっと唇を尖らせて、佐隈を振り返った。

「それより佐隈さん。昨日作ったファイルが消えてて――第二の専用フォルダに入れてたんですけど、ご存知ないですか」
「僕はそこへの入り方すらわからないよ」

 そうでした。いた私が馬鹿でした。香恋は向かい側に座る藤子を見た。

「あの、藤子さん」

 藤子は気の毒なほどわかりやすく、びくっと肩を震わせて立ち上がった。

「知りません。私は何も知りません!」

 ――え……もしかして、藤子さん、やっちゃった……?
 ばたばたと外に出て行く藤子を唖然あぜんと見送る。そんな香恋に、佐隈が気の毒そうに声をかけた。

「で、柳主任が呼んでるんだけど、早くあっちに行ったほうがいいんじゃない?」


「ふぅん、そう。データ、消えちゃったんだ」

 香恋の報告を聞いても、柳はさほど驚きもせずに顔を上げた。

「すっ、すみません。もうちょっとかかるとは思いますけど、必ず今日中に提出しますから」

 さすがに藤子のことは言えなかった。そもそも藤子がやったと決まったわけでもないし。
 秘書課第一係。その場にいる全員が、何故か香恋と柳の会話に聞き耳を立てているようだ。唯一の救いは、今日は朝から鷹司がいないことだ。
 多少提出は遅れても、柳主任なら許してくれるはず――。柳は、相変わらず優しい笑みを浮かべている。

「それはそれは……随分ずいぶん初歩的なミスなのね。もうちょっと出来る子だと思ってたけど」

 なんだろう。今の、ちょっと厭味いやみっぽかった。

「じゃ、今夜は無理ね。せっかく着飾って来てくれたみたいだけど、データの直しがあるんだものね」
「あの、七時までには必ず終わらせますから」
「んー……、やる気は買うけど、遠慮しといて」

 柳は微笑ほほえんだままで香恋を見上げると、視線を下げてくすりと笑った。

「加納社長は、女性の外見にそれはこだわる方なのよ。ごめんね。ちょっと無理みたい」

 そう言って席を立った。柳は、香恋に背を向けて秘書室を出て行った。
 それ、どういう……

「そりゃ無理よねー。マジでその安っぽいドピンク、受けるんですけど」

 背後で志田遥の声がした。それを合図に、室内に嘲笑ちょうしょうが満ちる。

「だいたい、白鳥さんみたいな低学歴の女が、なんだってここにいるわけ?」
「でも、これでようやく鈍いあんたにもわかったでしょ。第二がいくら張り切っても無駄なんだって」

 何も言えない香恋のそばに、遥がゆっくり歩み寄ってきた。

「柳主任の性格、うちらの中じゃ一番ひどいからね。持ち上げて突き落とすのはあの人の常套じょうとう手段。柳主任があんたを構い出した頃から、いつ落とすんだろうって、みんな楽しみに待ってたわけ」

 そんなの――そんなの、知らないし。

「ここまでされてまだわかんないの? あんた、はっきり言って柳主任に嫌われてんだよ」

 「じゃあ、鷹司君、悪いが今週一杯で頼むよ。忙しいところ申し訳ないが」
 そんな声が聞こえたのは、その日の正午まえ――二階の会議室の片付けを済ませた香恋が、コーヒーカップを載せたトレーを持って外に出ようとした時だった。
 扉を開けて外をのぞいた香恋は、足がすくむのを感じた。鷹司課長、そして柳主任。他は知らない人たちだが、今一番顔を見たくない二人が廊下に並んで立っている。

「わかりました。七月にはもう記者発表ですから、なるべく早く整理しておきます」

 鷹司の声。気のせいでなければ、少しだけ疲れて聞こえた。そういえば、朝から秘書課にいなかった。多分兼任してる方の仕事が忙しいのだろう。
 彼らが立っているのは、フロアの奥にある別の会議室の前。どうやら今、会議が終わったばかりのようだ。
 鷹司と柳は、折悪くこちらに歩いてくる。香恋は慌てて扉を閉めようとしたが、持っていたトレーがガチャガチャと音を立てるだけの結果となった。

「あら、白鳥さん」

 そんな香恋を目ざとく見つけた柳が、笑顔で歩み寄ってきた。かろうじて会釈えしゃくしたものの、香恋の目にはその笑顔は恐怖にしか映らない。

「会議の片付け? ああ、今日は臨時の役員会だったものね」

 にっこりと笑った柳は、背後の鷹司を一瞬だけちらっと見た。その鷹司といえば、苦虫をつぶしたような表情で香恋を見ている。香恋は、穴があったら入りたくなった。もしかしてこのメイクがおかしいのだろうか。いつもよりちょっと派手目にしただけなのに、はたから見れば、それほど滑稽こっけいに映るのだろうか。

「私、これから総務に顔を出さないといけないの。荷物、秘書課に持って帰ってもらえるかしら?」

 え、荷物って……私、トレーも持ってるんですが。


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