日刊幼女みさきちゃん!

下城米雪

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第二章 仕事と子育て

SS:へっちゃらです!

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「おかえり!」

 午後八時。結衣が仕事から帰宅して玄関のドアを開けた直後、ゆいが彼女の胸に飛び込んだ。

「はい、ただいま帰りました。今日は何をしていましたか?」

 結衣は鞄を持っていない方の左手でゆいの頭を撫でる。ゆいは頬をすりすりしながら顔を上げて、とびきりの笑顔で言った。

「ピアノひいてました!」
「ピアノは楽しいですか?」
「たのしい!」
「そうですか。では、ママはこれから手洗いうがいをして晩御飯を準備するので、その間ゆいのピアノを聴かせてください」

 ゆいは使命感に満ちた目で頷くと、ぴょんと結衣から離れ、えっへんと腰に手を当てて胸を張った。

「まかせて!」
「はい、任せました」
「しふくのひとときをごていきょうします!」

 ゆいはタタタとピアノに向かって駆けだす。それを見送った後、結衣は開いたままのドアを閉めた。

 ……至福の時なら、玄関のドアを開けた時から始まっていますよ。

 結衣が洗面台の前に立ち、蛇口を捻った辺りで静かなピアノの音が聞こえてきた。彼女達が暮らしているのはマンションの一室だが、部屋を仕切る壁はピアノの音を防げる程度には分厚い。

 ゆいが演奏しているのは、ノクターンの第2番。夜を想う曲という名に相応しい静かで優しい曲だ。とても有名な曲で、普段クラシックを聴かない人でも一度は耳にしたことがあるはずだ。演奏の難度についても、子供が無理なく演奏できる程度の優しいものである。もちろん上手く弾けるかどうかは別問題だが、その観点から見るなら、結衣にとっては百点満点だと言う他ない。

「チャララララランっ、ッタ、タンタン~♪」

 耳を澄ませば、楽しそうな声が聞こえてくる。結衣は鞄の中にあるプレゼントに意識を向けつつ、エプロンを身に着けた。今晩は肉じゃがだ。

 果たして五曲目の演奏が終わった頃、食卓には肉じゃがと白米、それから千切りにしたキャベツにキュウリとトマトを添えた物が並んでいた。

「できた?」
「はい、素敵な演奏でした」

 ゆいはピアノにカバーをして、タタタっと駆け足で椅子までやって来た。

「……トマト」

 ゆいはトマトが好きじゃない。
 ドロドロでブチっとした感覚が気に入らない。

「ひとつは食べましょう。いいですね?」
「……がんばる」

 手を合わせましょう。
 あわせました!
 頂きます。
 いただきます!

 元気な声と共に食事が始まった。
 普段の様子とは違って、食事中のゆいは静かである。それは結衣の所作を模倣しているからで、それはもう穴が開くくらいに結衣の姿を見ている。もちろん視線に気が付いている結衣は、ゆいにテーブルマナーを教えるつもりで模範的な動きを見せるのだが……。

「むっ」

 と声を出して、ゆいは口に入らなかった大きなジャガイモと睨めっこを始めた。
 手元が疎かになっているせいで、時々こんな失敗する。

「ゆい、ちゃんと手元を見て食べましょう」
「はいっ、ていたいしっぱい!」

 目をバッテンにしてスプーンでジャガイモをザクザクして小さくするゆい。
 そんなゆいを優しい目で見守りながら、結衣はゆっくりと食事を続けた。

「むむむ……」

 ついにトマトに手を付けたゆい。子供用の小さなスプーンで持ち上げたトマトは小刻みに震えていて、それを見るゆいの口元はトマトの二倍くらいの速さで震えている。

 心の準備は出来た?
 行くよ……やっぱりダメっ!
 もういっかい……ああやっぱり無理っ!
 でも負けるわけには……

「うぇっ、ち! ちがでたよママ!」
「トマトの果汁です」
「トマトさんがかわいそうなのでたべられません!」
「残念ですが、フォークでブスっとした時点でトマトさんは意識を失っています。次に目を覚ましたら、きっと悲鳴をあげるほど痛いでしょう。そうならない為に、早く食べてあげましょう」
「いただきます!」

 ぱくりっ、
 むむむっ……むむっ、
 むぅぅ……むっ、
 ぐむむむむ……、
 …………、
 ごくり。

 飲み込んだゆいは、ちょっと人には見せられない顔をして両手でコップを持ち、ごくごく水を飲んだ。

「つらいたたかいでした」
「はい、よく頑張りました」

 ゆいは神妙な面持ちで頷く。

「ゆいはレベルアップしました」
「しましたか」
「はい。なので、つぎのトマトさんとのたたかいは、ふせんしょうとします」
「認めません」
「トマトさんはにげだした!」
「しかし周りを囲まれてしまいました。どうしますか?」
「むむむ……」

 いつも通りの食事風景。
 ゆいと結衣の楽しい時間はまだまだ続く。

 食事を終えた後、二人はお風呂に入った。

「おせなか、ながします!」
「はい、お願いします」

 タオルでよいしょよいしょするだけでなく、小さな手で肩を揉んだりもする。
 そうして互いの体を洗ったあと湯船に浸かって、仲良く会話する。

 それほど広い風呂ではないが、まだゆいが小さいおかげで二人で入っても窮屈という感じはしない。あと十年も経てば話が変わってくるだろうが、その時まで二人で入るということは無いだろう。だからこれは、今しかない大切な時間だ。

「……ママ?」
「すみません、少し考え事をしていました」
「むむむ?」

 なんだろう、とゆいは眉を寄せる。

 ゆいが何を考えているのか、ゆいを喜ばせる為には何をすれば良いか、それが結衣には分かっている。だけどそれをするのは難しい。

 何の話って、仕事の話だ。
 べつに昼間出会った男性との会話を気にしているわけではない。これは結衣が常に考えていることだ。精一杯考えて、自分が最善だと思う選択をしている。だけどそれは、最高の選択ではないのだ。だけど仕方ない。限界まで努力したって、理想に届かないことは有る。

「……ゆいは、次のお楽しみ会、ママと一緒に行きたいですか?」
「だいじょうぶ!」

 即答だった。
 一切の迷いを感じさせない真っ直ぐな言葉だった。
 しかし言葉と本音が一致していないことなんて、考えるまでもなく分かる。

 そんな結衣の迷いを打ち消すかのように、ゆいは言葉を続ける。

「おふろもプールもおなじ!」

 結衣の膝の上で、ゆいはとびきり元気に言う。

「みさきもいる!」

 必要以上に、声を張り上げて。

「だから、へっちゃらです! ママは、おしごとがんばって!」

 結衣は返事をする代わりに、ゆいを強く抱きしめた。

「ママ?」
「はい、ママです」

 返事になっていない返事をして、すりすりと頬を擦り付ける。
 ゆいはえへへと笑った。

「実は、ゆいにプレゼントがあります」
「なんと!」

 果たして、結衣はゆいに水着をプレゼントした。
 結衣は水着を着たゆいをケータイのカメラで撮影して、それからまた暫く話をした。

 特に意味の無い、だけど特別な親子の会話。

 たっぷり話をした後、風呂から出て、歯磨きをして、布団に入った。
 ゆいの寝息が聞こえた頃、結衣はコソっと布団から出て書類を机に並べる。

 今日決まった商談のまとめ、新たに得た取引先のまとめ。
 明日行う商談の確認、明日得られるであろう取引先のまとめ、その為の会話シミュレーション。
 それから――

 結衣は一度動きを止め、強く歯を食いしばった。
 そしてまた、仕事を再開する。

 世間が盆休みという長期休暇に浮かれる時期であっても、結衣は仕事を続けている。
 それは全て、ゆいの為だ。
 ゆいの為なら、結衣は何を犠牲にしても構わない。

 ただゆいが幸せで居られれば、それでいい。
 ゆいがずっと幸せで居られれば、それでいい。
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